Curiosity killed a cat!-2





 用意したサンドイッチは、あっという間に胃袋の中へと消えた。デザートのプリンを食べながら、私は丘の向こうに広がるルリの街を眺めた。
 心地よい風が吹いてきている。木々のざわめく音。小さな生き物たちの、ひそやかな息づき。何もかもが、生気に溢れていた。半年前まで見慣れていた、空中を漂う白い光の欠片も、今はほとんど見かけない。この地に根付き、大地を荒廃させていた星の種を宙に還したお陰なのだろう。その偉業を成し遂げてくれたユーリスたちには、感謝してもしきれない。
「あの白い欠片、この頃見なくなったね」
 私の何気ない呟きに、ユーリスが頷いた。
「そうだね。徐々に大地が回復してきてるんだろうね」
「……早く大地が豊かになって、争いがなくなるといいのにね」
 そう願いをこめて云うも、しかし返って来たのは現実的な反論。
「理想論だね。豊かになったらなったで、それもまた別の争いの火種になる」
「もう、そういうの屁理屈っていうのよ」
 せっかく平和をしみじみ実感しているところに、ご丁寧にも水をさしてくれたユーリスに、若干の非難を込めた視線を向けた。
「みんなで幸せになればいいって、そう思う人がいるだけでちょっとは違うと思うけど」
 少しいじけた気分で口を尖らせると、彼は少し驚いたように目を見開いた。ややして、「そうだね」と視線をルリの街に移した。その横顔には、まるで誰かを懐かしんでいるような微笑が浮かんでいた。

 どうやらプリンは、お気に召してくれたようだ。最後の一口を掬って、スプーンまで丁寧に舐め取っているユーリスの様子を、私は内心安堵して眺めた。
「ところで、今度は何の研究してるの?」
「炎魔術の新しい形態を研究してるんだ。術の組み立て方を変えて、より強い火力を出せないかと思って」
 ふうん、と適当に相槌を打つが、正直どんな研究なのか想像すらつかない。
「なんだか難しそう」
 ユーリスが、ふん、と小ばかにしたように鼻を鳴らした。
「まあ、ナマエの頭では理解は無理だろうね」
「なにそれ、ひどーい」
 軽く憤慨してみせるが、事実理解できそうもなかったので、私はそれ以上ユーリスの薄情な態度を責める事はできなかった。

 しかし、天気が良い。雲ひとつない青空は深く、日差しは夏の力強いそれをはらんでいるようだった。空を見上げると光が反射して、その眩しさに私は目がくらみそうになり、視界を手で覆った。先ほどまでは私達を日差しから守ってくれていた栗の木の木陰は、薄情にも東の方へと逃げてしまっていた。
 このままここに居ると、肌が焼けてしまう。やだな、私焼けるとすぐに肌黒くなるから。そう思いながら、散らかしたものをバスケットの中へと仕舞っていく。
 ふと、隣を見ると、ユーリスがのんびりとシートの上で寛いでいる。彼は出会ってこの方、ずっと抜ける様な白い肌を保っている。そのうらやましいほどの美白に、私は思わずぼやいた。
「ユーリスって色白だよね」
 ユーリスは、突然何を言い出すのか、とでも言いたげに片眉を上げた。
「まあね、焼けない性質だし」
「うらやましいなぁ。私なんてすぐに肌黒くなっちゃうし、そばかすも気になるし」
「それこそ無い物ねだりだよ。僕だって健康的に焼けた肌がうらやましい」
 そう面倒くさそうに告げたユーリスにとっては、肌の色など殊更興味のある話題でもなかったらしい。そのまま仰向けに倒れたユーリスは、シートの上にごろりと横になって、瞼を閉じた。どうやら食後の仮眠を取る気らしい。
「ユーリス、食べてすぐ寝ると豚になるよ」
「ならないよ、鍛えてるし」
 そう反論する声色は、既に眠気が混じっている。
 私は呆れ混じりのため息をついたものの、隣で幸せそうに惰眠をむさぼるユーリスの様子に、それ以上強く云えないでいた。
 しかし、鍛えているという話は嘘ではないらしい。ジャケットの下に着ている薄い生成りのシャツには、かすかに隆起した筋肉の陰影が落ちている。細いくせに、しっかりと腹筋は割れているのだ。
「ユーリスの腹筋って割れてるよね。魔導師のくせに」
 流石にムッとしたのか、片目を開けたユーリスが咎めるようにこちらを見た。
「くせに、ってなんだよ。僕は元々戦士の家系なんだけど」
「へえ、知らなかった」
 笑いながらそう告げ、私は興味津々で尋ねた。
「ねえ、触っていい?」
「は?」
 唐突な願いに、ユーリスが面を食らった。
「腹筋、触りたい」
 遠慮も慎みもない発言だとは分かっていた。けれどそれは、ただ自分にはないものに対しての純粋な好奇心からのもので、決して疚しい気持ちからではない。多分。
「……いいけど」
 ユーリスは少したじろいだ様子を見せたものの、結局許可してくれた。
「ほんと? やった」
 私はイソイソとユーリスの隣に移動し、横になる彼の腹筋にシャツ越しに触れてみた。
 おなかに力を入れているのか、結構固い。どれくらい鍛えたら腹筋は割れるんだろうか。私も少しおなか周りが気になるから、鍛えた方がいいかな……。仕事で本整理ばかりしているからか、無駄に二の腕の力こぶばかりが成長しちゃってるし。
 そんなことを考えながら、つんつんと指で彼のおなかをつつく。無意識に緊張するのか、つつくたび筋肉が微動するのが面白かった。次は割れた腹筋の凹凸を確かめるように、指を滑らせる。鳩尾から下に向かうと、途中でおへその窪みに指が引っ掛かった。

 と、ナマエ、と弱りきった声が、私の名を呼んだ。
 その声に、夢中になっていた私はハッと我に返る。声の方へと振り向くと、ユーリスが顔を赤くし、しかし何とかそれを隠そうと腕で顔を覆っていた。
「ごめん、もうやめて。やばい」
 恥ずかしげにユーリスが呻く。
 少し、刺激しすぎただろうか。彼の反応に心情を察した私は、少し反省――するどころか、あまりに純朴な反応に逆に悪戯心が芽生えてしまった。
「なんで? なにがやばいの?」
 あえて何も気づかない振りして、無邪気に尋ねる。するとユーリスが顔を覆っていた腕をずらし、忌々しそうに睨んできた。けど、その頬は赤いまま。
「もう、分かってるんでしょ。いいから、手離す」
 そう告げ、強制的に手を除けられてしまった。
「ケチ」
「あのねぇ……」
 少しむくれながら云うと、ユーリスは脱力したようにため息をついた。
 残念、ユーリスに触れられる貴重な体験だったのに。
 変態臭い言い方だったが、事実そうだった。付き合ってこのかた、キスなんて数えるくらいしかしてない。それもこれも、ユーリスが初心すぎるのがいけないのだ。だって暗に少しでもその先を促すと、頬を染めたまま困ったように固まってしまうのがしょっちゅうなのだから。
 別に急かしているわけでもないけど、欲を云えばもう少し甘えてくれたり、甘えたりしたいのに。

 ……が、そんなことを思っていた私は、やっぱり色々な意味でお子様だったのだ。好奇心は猫をも殺す。次の瞬間、それを身をもって体験する羽目になってしまったのだ。
 刹那彼の目に浮かんだ悪戯交じりの怪しげな光を、私はしっかりと見てしまった。
「――やっぱりやられっぱなしは、性に合わないな」
「へ?」
 いつもより艶のある低い声が響いた瞬間、視界がぐるりと回った。体全体に軽い衝撃が響き、目を瞬かせると視界に木の梢と青空、そしてユーリスのしたり顔が映った。ユーリスに腰を掴まれ、抱え上げられてそのまま彼の反対側に押し倒されたのだ、と漸く起きた出来事を理解した時には、もう全てが手遅れだった。
 上から見下ろしてくるユーリスの微笑が、どことなく怖い。
「ユ、ユーリス?」
 恐る恐る名を呼ぶと、伸びてきた手に頬を撫でられた。触り方が、いつもと違う。鼓動が跳ねた。ぞわぞわと、言い表せない感覚が肌を這う。
 動く事もままならず固まっていると、ユーリスは舐めるように私の全身を眺めた。そして嘲笑交じりの笑みを浮べた彼は目を眇め、耳元に唇を寄せてきた。吐息がすぐ近くで漏れる。
「その服、可愛いけど、裾がちょっと短すぎなんじゃない。太もも丸見えだよ」
 挑発するような科白と共に、むき出しの太ももにそっと手を置かれた。ざらりとした熱く乾いた彼の手のひらが肌に触れた瞬間、びくん、と体が反応してしまった。
「あっ」
 自分の反応にびっくりして、声が漏れる。いや、それは本当に私の声だったんだろうか。だってユーリスも私の反応に驚いたように息を呑んだのだから。
 思わず顔に熱が篭った。恥ずかしくなって恨めしげにユーリスを見上げると、彼の顔からは束の間表情が消えていた。そして次の瞬間。
ナマエ
 熱の篭った掠れた声が、耳元をくすぐった。綺麗な蒼の瞳が、近づく。私は、反射的に目を閉じた。

 ……どうやら私は、ユーリスをすっかりその気にさせてしまったようだった。正直思わぬ誤算だった。からかいが過ぎてしまったのだ、と今更気づいても既に遅い。
 優しげに触れてきた唇は、いつもみたいにすぐに離れてはいかなかった。じゃれつくように続いたキスは、やがて深いキスへと変わった。
 口の中に、他の人の舌が入り込んできたのはこれが初めての事だった。蛇みたいな動きで口の中を這い回るので思わず噛み付きたくなったが、かろうじてそれは我慢した。
 これが今までずっと憧れていた、大人のキスというものであることは理解していた。けれど気持ちいいのか、気持ち悪いのかは良く分からない。妙な感覚だった。やめて欲しい気もするし、ずっとしていたい気もする。
 それにしても、ずっと口を塞がれてて、一体いつ息をしたらいいんだろう。あ、鼻でしたらいいのかな。でも鼻息掛かっちゃったらやだな……。
 とりとめもない些細な事が、漠然と脳裏に過ぎっては消えた。まともな事が考えられない。ただ、今までで一番ユーリスを近くに感じて、私の思考は浮かれきっていた。

 初めての大人のキスは、ここが何処であるかを忘れさせる程度には私を夢中にさせた。けれど、不意にわき腹に訪れたくすぐったい感覚が、私を我に返らせた。
 感覚の正体は、ユーリスの手だった。恐る恐るといったように触れてきた指先が、徐々に徐々に上へと昇ってくる。そのたどり着く先に気がついて、一気に思考が夢見心地の気分から現実へと放り出された。
 ――やだちょっと待って、ここ外だし!
「わっ」
 指先が胸の輪郭へと触れた瞬間、青ざめた私は反射的に声を上げた。
 その声に、ユーリスがハッと我に返った。
 瞬きする間に唇は開放され、ユーリスとの間に微妙な距離ができた。彼は動揺を目元に浮べ、体の熱を吐き出すように深くため息をついた。
「ごめん、怖かった?」
 消沈したように眉尻を下げて尋ねるユーリスに、私は先ほどまでのギャップに戸惑って瞼を伏せた。なんだか恥ずかしい。今更ながらにそんな感情がわいてきて、逃げるように彼の肩口に頭を押し付けて顔を隠した。
「……ううん、大丈夫」
 今にも消え入りそうな声で答えると、ユーリスは苦笑を漏らしたようだった。そっとなぐさめられるように頭を撫でられる。
「ごめん。少しからかうだけだったのに、つい本気になっちゃった」
「私の方こそごめんなさい。ちょっと調子乗りすぎたみたい」
 嬉しくも複雑な言葉に、私はゆるゆると頭を振った。結果的に、ああなるように仕向けたのは私の方だ。男の人の性を良く知りもしないで、煽ってしまった。
「そうだね、そこは自覚してほしい」
 手厳しい言葉にうっと怯む。

 と、大きなため息をついたユーリスが、ごろりと仰向けに体勢を変え、顔の上に腕を乗せた。
「あーあ、もう少しスマートにできればいいのに。かっこわる」
 ぼそりと聞こえた呟きに、私は目を瞠った。彼はなにやら落ち込んでいるようだ。どうしてかは分からないけれども。
「そんなことない」
 ユーリスの腕に触れて、慌てて彼の言葉を否定する。
 ――それに、キス、嬉しかった。
 そう素直に胸のうちを伝えるには恥ずかしくて、声が小さくなってしまったけど、ユーリスの耳が赤く染まったから、十分伝わったようだった。
「バカ、そんな事言わないでよ。またキスしたくなる」
「してもいいのに」
 ユーリスの手に自分の手を絡めて、甘えるように額を彼の腕に押し付ける。
 けれど彼は拗ねるようにそっぽを向いて、私の言葉を一蹴した。
「また君に拒絶されたらへこむから嫌」
「拒絶なんてしてない」
 思わず語調が強くなる。けれど先ほどの自分の反応を思い出し、ばつが悪くなった私は、ただちょっと外では……、と、もごもごと口の中で続けた。恋人がはじめて見せた積極性は素直に嬉しかったけれど、できれば場所は選んで欲しい。
「分かってるよ。僕自身の問題なんだ」
 ユーリス自身の問題? 云いたい事が分からず顔を上げると、彼は困ったような微苦笑を浮べながら、こちらを向いていた。
「嫌がってもちゃんと止めてあげられる自信がない」
 含みのある言葉に思わず固まる。なんと返して云いか分からずもじもじしていると、伸びてきた手に頬を包まれた。そのまま頭の後ろに手が伸びて、彼の胸板へと引き寄せられる。心臓の音が聞こえてきそうなほど、近い。ほっと安堵する反面、ドキドキが酷い。
 あのさ、と不意にユーリスが切り出した。
「これは云うつもりなかったんだけど、でも君を待たせちゃってるみたいだから、やっぱり云っておく。そういうことは、せめて見習いを卒業するまでは、って思ってたんだ。君の事、大事にしたいし」
「ユーリス……」
 そんなことを考えてくれていたのか。ただ単に初心なだけじゃなかったのだと、今まで彼の真意を誤解していた事に申し訳なさが先立ち、それから遅れて、そこまで大事にされていることに胸が一杯になった。
「……ありがと」
 大好き。そう囁くと、頭を撫でる手にぎゅっと力が入った。
 と、はあ、と頭上でユーリスが大仰にため息をついて、愚痴をこぼす。
「まあ、もたもたしてる僕も悪いんだけど。お陰でジャッカルにも発破かけられるし」
「もしかして、あの本のこと?」
 ユーリスの部屋にあった、官能小説。問いに、「ん、まあ」とユーリスの返答は曖昧だ。
 そういえば、ユーリスはあの本を読んだのだろうか。聞いてみたい気がしたけど、また先ほどのような雰囲気になるといけないので、我慢した。


 何処からか、小鳥の可愛らしい鳴き声が聞こえてきた。そよそよと、風がそよぐ音が心地いい。好きな人と一緒にまどろむひと時は、幸せ以外の何物でもなかった。
「ユーリス」
「ん?」
「またピクニックしようね」
 そうだね、とユーリスがゆっくりと頷いた。
「でも次からはサンドイッチにピクルス混ぜるのやめてね」
「あ、ばれてた?」
「ばれてないと思ってたの?」
「好き嫌いはよくないと思うよ」
「仕方ないだろ、好みの問題だし。でも僕、今まで君が作ったもの、残した事あった?」
「そういえば、ないかも」
 でしょ? と得意げに鼻を鳴らすユーリスが可愛くて愛しい。思わず微笑むと、不意にユーリスの口元に悪戯げな笑みが浮かんだ。
「君が作ったものなら、何だって平らげてあげる」

「――だから、覚悟しておいてよね?」
 そう宣言するユーリスに、私はとうとう白旗を上げざるを得なかった。


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