前にあるのは常に未知。
そして振り返れば、必ず道がある。
――花。
花、花、はな。
「――まるで花びらの絨毯だわ」
花、など。
「……愛憎は紙一重だってこと、あのひとは覚えてるかしら?」
花など、本来、ナマエにとっては少し気にかけるくらいの存在なもので、それが彼の大切にしているものだと知る以前の彼女にとっては、半ばどうでもいいものだった。
たとえ目の前で幾千億の花弁が散ったとしても。
綺麗だとしか、思わなかっただろう。
「ねえ、マールーシャ」
――そう、彼を知るまでは。
前にあるのは常に未知。そして振り返れば、必ず道がある
ノーバディ、――存在しない者、心亡き者、彼等はそう呼ばれている。
そう、彼等はその名の通り、感情という名の付く一切のものから隔離されていたものだった。心あるナマエと違い、心無い彼等の行動はいつだってナマエの予測の範疇を超える。上機嫌に微笑んでいたかと思えば、次の瞬間には恐ろしいまでに冷酷な表情を浮かべてナマエの”心”を抉る。それはまるで何も知らぬ無邪気な子供の飽くなき探究心に似ていて、そして同時にこの世の理を知り尽くしてしまった老賢者のごとき虚しさに満ちていた。
すでに生きることになんら希望も持てず絶望すら受け入れ、屑々とこの世の無情を受け入れるその哀しさすら感じることもなく。流れゆく時は良き日も悪き日もすべて包み込み受け入れ、ただあるがままなすがまま受け入れ流されるその身の無力を嘆く、いや、そうやって『嘆く』事すら許されぬ彼等は一体何をもってこの世を許されているのか。そんな大きな矛盾を抱えているのが、ナマエの知る彼等の実態であった。
――人間が『生き抜く』という一つの目標のために生きているならば、では一体彼らは何のために生きているのか。彼はそういう意味では、既に生きてすらいない過去の生き物なのだ。
ナマエには心無きものの存在理由は分らなかったが、けれど一つだけ彼等に関して云える事があるとすれば、それは”マールーシャ”という人物がこの世に存在していてくれていたことが何物にも変えがたく感謝しているし、また誰よりも彼を憎んでいたりもした。
相反する思い。けれどそれは、――矛盾ではない。それはナマエは誰より知っていた。彼を愛していて、そして同じくらい憎らしいもの。
分っていた。分っていた、つもりだった。
そう、心無くして生きる彼らの存在を。
ナマエがマールーシャに拾われてより、既に幾月か経っていた。
心ある者と心なき者、対極にある二つの存在が共存することは難しい。拾われた当初は諍いが絶えなかったものの、過ぎ行く日は二人の確執を薄めはしないが、だがまた別の形で関係は深まっていった。けれど、非常に不安定な関係ではあったが。
マールーシャは、ナマエを手元に置いて放さなかった。それは守るという意味合いのものではなかったが、しかし結果的にそれがこの虚無の空間から彼女を守る事になり、そしてナマエがそんな彼に心を寄せはじめるのはまもなくだった。ナマエは心を持たぬ美しいひと、マールーシャを愛した。たとえ一瞬たりとも報われぬ愛だと承知の上で。……いや、実際のところはナマエは夢見る少女のようでしかなかった。
城に、彼が管理する美しい空中庭園がある。ナマエが城の住人となってよりひと月を数えた頃、マールーシャが自らその庭園の世話をナマエに任せると伝えた時には彼女は非常に驚いた。心を許されたのかと一瞬思うも、しかしその可能性はすぐに打ち消した。彼にはこころがない。故にナマエはその美しい花々が咲く庭園を彼の神聖な領域と考え、そこを守り管理することに専念した。日がなナマエは庭園に赴き、無心に花の手入れをする。終いには彼女自身の生きがいともいえるほどに花の世話に熱を入れ始めたのは、一重にマールーシャのためだった。彼の大切な花々のために。愛という名の感情――マールーシャにしてみればそれは執着という名の欲――の元に、一心に花に情熱を注ぐ。
ナマエは、つまりマールーシャの神聖な領域の中でのみ生きられたのだ。
誰にも侵されぬはずの神聖な領域に、”彼女”は突然やってきた。
機関の唯一の女性である彼女の名はラクシーヌ、ナマエは彼女のことを余り良くは知らなかったが、マールーシャから聞く限りでは彼女は虚栄心が強く、人を傷つけることを好むという。接触は極力避けよ、と珍しくも彼がナマエに忠告した人物だ。
「あんたがマールーシャに拾われたって人間?」
「……ラクシーヌ、さん、ですか?」
突然音もなく現れた彼女の姿かたちに、すぐにナマエは彼女の名前を思い出すに至った。そして僅かに警戒を露にしたナマエに、ラクシーヌはふんと鼻を鳴らした。
「あら、よく知っているのねぇ。その様子じゃあ、マールーシャから私のことをなんて吹き込まれたんだか想像つくわ。でも、怖がらなくてもいいのよ」
あんたのことを別に傷つける気はないわ。そう言って優しげに微笑むラクシーヌに、ナマエは違和感を覚えた。心ない人には、こんなにも優しげに微笑む事が出来るのだろうか。
「ねえ、あんた、心があるんでしょ?」
ラクシーヌは身を硬くするナマエに聞かせるように、ゆっくりした口調で問い掛けた。警戒しながら頷いたナマエにラクシーヌは、ああやっぱりと得意げな表情を浮かべる。
「甲斐甲斐しいね。こんな下らない物の世話をするなんて」
云いながら、近くに咲いていた薔薇の花をピン、と指で乱雑に弾くと、ナマエはラクシーヌの思惑通り表情を硬くさせた。
「下らなくなんて、ありません。彼等だって生きているんです」
あはは、とラクシーヌは至極真面目に答えたナマエを笑い飛ばした。
「生きている、だって! 面白い事を言うのね、ナマエ!」
くつくつと笑い続けるラクシーヌの姿はどこか虚像じみていて、ナマエは思わず反論を飲み込んだ。言ってしまえば、彼女はきっと傷つくという予感がしたからだ。心がないという唯一の人間としての欠落は、即ち最大の弱点ともなりうるから。すでに愛する事も憎む事も出来ない彼らに、心あるナマエは憐みの目を向けずにいる事を出来ないでいる。それが、ナマエにとって最大の泣き所であり、また、この場合ラクシーヌにとっては逆鱗に触れる行為でもあった。
「なんて目で見るのよ」
ナマエに憐みの眼差しを向けられる事が、ラクシーヌをいたく苛立たせる。残虐な光を瞳に宿らせ、彼女は一歩ナマエの楽園に踏み入った。
「こんなくだらない処、今すぐ私が潰してやるわ。そうすればあんたの手間も一つ省けるでしょ」
「止めてください!」
ラクシーヌが無造作に花を踏み荒らし、ナマエが顔を青くして引き止める。けれど引き止められたラクシーヌはまるで無邪気な子供のように、己の遊びを邪魔するナマエを振り返った。
「何故止めるの? どうせマールーシャが世話を命じたんでしょ? あんたにとっては望んでもいない作業だ」
それは半分事実だった。ナマエが彼女を止めるのはこの庭園がマールーシャのもので彼から命じられたからで、また広い庭園の管理はナマエ自身には負担となる。
けれども。
「……止めてください」
ナマエが尚も首をふるも、ラクシーヌは重ねて何故と問う。少しの間の後、ナマエは暗い表情でラクシーヌを見返した。
「マールーシャが、悲しみます」
告げた瞬間、高笑いがはじけた。
「なるほど、そういう事ね」
ラクシーヌは、まるで新しい玩具を見つけた子供のように、目を輝かせてナマエに詰め寄った。
「そうやって甲斐甲斐しく世話をして、あいつの気を引こうとでもいうの?」
畳み掛けるように問うと、ナマエの顔色が面白いほど変わったのが、ラクシーヌにとって何よりの心地よい反応だった。
「無駄だわ、無駄無駄」
ナマエの怯えたような顔を見るのが、楽しくて堪らない。傷つけばいい、とラクシーヌは思った。純粋な心であればあるほど、傷つけるのが楽しくなる。
「マールーシャを愛している?」
ナマエは不意の問いかけに、言葉を詰まらせた。いや、それは正しくは問いかけではなかった。ラクシーヌは、ナマエの想いに確信を持って、そう訊ねたのだから。くつくつと、ラクシーヌは笑う。
「あんた、本当に莫迦ね。あいつはあんたの事なんとも思っちゃいない。この花と一緒でね」
「あっ」
ぐしゃ、と気がつかぬうちにラクシーヌの手の中で黄金色の薔薇が握りつぶされていて、ナマエは息を呑んだ。はらはらと、足元に花弁が散る。
「幻想なのよ、全部。あいつには心がないんだから」
わたしと同じで。言外にそう告げられ、ナマエは耐え切れず蒼白となった顔を伏せた。
「……やめて」
「玩具以下、なのよ。本当は分っているでしょう? そんな事をしても、あいつはこれっぽっちも振り向いちゃくれない。ねえ、全部、無駄なのよ?」
そんなの知っている――、ラクシーヌの言葉に、けれどもその愚を敢えて犯してしまっているナマエは反論する余地もなく、ぎゅ、と唇を噛締める。マールーシャに心を寄せることのいかに無駄なことは頭では分っているつもりだが、ナマエの心が納得しないのだ。頭ではどうにもならない部分で、どうしても惹かれてしまう、そんな己はやはり愚かなのだろう――、か。
「――ナマエ、可愛そうな、子」
そんなナマエの葛藤を知るラクシーヌは、詠うように囁きかける。
「アンタを縛っているこんな花園、壊してしまおうか」
「ラクシーヌ」
さっと、ナマエの顔が強張った。
「壊してあげるよ、私が……」
ふふ、とラクシーヌは笑う。視線を走らせればその指先に輝く稲妻の光が宿っていて、その光が、庭園の花々を焼き尽くすだろうという可能性に思考が至るまでは、すぐだった。
――壊される、このままでは。
反射的に、ナマエの足は動いて迷いなく彼女の前へと立った。思考は既に考える事を停止している。急に立ちはだかったナマエを前に、ラクシーヌは苛立たしげに顔をゆがめた。
「……どいて」
「いやです」
ナマエは頑として動かない。ち、とラクシーヌは舌打ちした。
「其処をどきなさい」
「いやです!」
強情なナマエの態度に、とうとうラクシーヌがかっとなった。
「――この、屑がっ!」
光がいっそう強まった瞬間、稲光がナマエ目がけて降ってくる。ナマエは驚いて、硬直した。
「きゃああっ!」
死んでしまう。
――マールーシャ!
心の中で彼の名を叫び、来るべき衝撃に備えて身を硬くする。だが、いくら待てども死の痛みは訪れない。
……ふいに、薔薇の香りが強まった様な気がした。
「ラクシーヌ」
誰かがラクシーヌの名を呼び、ナマエは思わず耳を疑った。だって、その声があまりにも、今一番ナマエの会いたかった人のものに似ていたから。けれど、その人は決してナマエの思い通りにはなってくれない人で、こんな時に都合よく現れるはずが、――ない。
「あまり、この者を虐めないでくれるか、ラクシーヌ」
「……あら、ごきげんいかが?」
マールーシャ、とラクシーヌが白々しく笑い、その名を聞いたナマエが恐る恐る顔をあげると、いつの間にか傍らに立っていた人物の黒いコートが視界に入った。徐々に視線を上げていくと、男の整った横顔が映る。
と、つとこちらを窺った彼と目が合う。蒼の美しい瞳は随分と不機嫌そうで、ナマエは急いで顔を背けて、そして飛び込んできた風景に急に青くなった。花々だったと思しきものが、ナマエを守るようにして囲み、無慙にも焼け焦げ炭と化している。花がナマエの代わりとなったは、明確だ。一体誰がナマエを守ったのかも、とどのつまり。
マールーシャは声もないナマエを尻目に、ラクシーヌを問いただした。
「此処への出入りは禁じていた筈だが」
「けちな事云わないでよ、その子に挨拶に来たの。あんたの人形、可愛いったらありゃしないわね、少し脅してやると直ぐに怯えて、虐め甲斐があるわぁ。ねえマールーシャ、その子、ちょっと貸してよ」
甘い猫撫で声で媚びるラクシーヌに、けれどマールーシャはにべもない。
「断わる。お前に貸すと、直ぐに壊しそうだからな」
事実、先ほども未遂だった。そう告げると、ラクシーヌの上機嫌な表情は突如一転する。
「なによ、なによ!」
ラクシーヌが癇癪を起こしたと思った瞬間、ナマエの視界にはまた稲妻のような光が明滅し、ごう、と激しい音がした。一体なにが起きているのか分らず恐ろしさに悲鳴をあげると、突然ぐいと誰かに腰を取られナマエの頭をますます混乱させる。その手を押しのけようと暴れるも厚い胸筋にぐっと体を押し付けれて叶わず、けれどふいに薫った薔薇の香りが混乱をきたしたナマエの思考をするりと落ち着かせてしまった。ナマエは、無意識に己を抱きとめている人に身を寄せ震えを抑えた。
と、ヒステリックに叫ばれた悲鳴が、ナマエの胸を刺す。
「どうせ、玩具のくせに!」
「――去れ」
マールーシャの低い声が耳元で響く。はっと我に返れば、丁度ラクシーヌが闇の回廊を開いて、こちらを強く見据えているところだった。
まるで嵐のように、ラクシーヌは去っていった。いまだマールーシャの腕の中で茫然としてたナマエは、彼の右肩の生地が破けているのに気付いて、そっと指先を伸ばした。
なんだか妙に、焼け焦げた匂いがする。まさか、――先ほどナマエを庇って彼に怪我を負わせてしまっただろうか。その考えに至り、急に顔を青くしたナマエが慌ててマールーシャから離れようとしたが、しかし急に彼がナマエの顔を掴んだので、彼女は間近に迫ったマールーシャの美しい瞳をまじまじと見ることになってしまった。
「ナマエ」
見詰め合うこと束の間、何かを探るようにナマエを見つめていたマールーシャは彼女の名を口にした後、嘆息して彼女を唐突に突き放した。そして不機嫌さを隠そうともせず、眉を顰める。
「莫迦な真似をしたものだ」
ナマエは思わず俯いた。マールーシャの言葉は確かに正しい。ナマエの無謀な行為がために、結果的にマールーシャの手を煩わせることになってしまったのだから。けれど一方で、ナマエは決して悪い事をしたのではないとも思った。だってもしナマエがラクシーヌを止めなければ、今頃この庭園は無慙な焼け野となっていただろうから。
決死の思いで守ろうとしたナマエの行動は、けれどマールーシャにとっては不愉快以外のなにものでもなかった事に、――ナマエは気付かない。
「なぜ、逆らった? 私がこなければ、今頃お前はラクシーヌに殺されているところだった」
マールーシャが苛立たしげに問いただす。その様子に、ナマエは初めて意外に思った。まさか、マールーシャは庭園よりもナマエの身を案じたとでも云うのだろうか? うろたえるナマエに、マールーシャの追求は容赦ない。
「ナマエ」
「だ、だって、花が……」
マールーシャがあたかも怒っているかのように見えたので、ナマエは慌てて弁明のために口を開いた。言いかけて、けれど口ごもる。
「花が、どうしたというのだ」
マールーシャが低い声で促がし、その気迫に押されたようにナマエはとうとうそれを口にした。
「マールーシャが大切にしているものだから!」
「……」
告げた瞬間、すっと周りを取り巻く空気の温度が下がった様な気がした。嫌な予感に、ナマエはマールーシャを顧みる事も出来ない。と、底冷えするようなマールーシャの声が、ナマエを震わせた。
「……お前は、私が、花を慈しんでいると?」
予想だにしない言葉に思わずナマエがマールーシャを見上げると、彼はひどく冷えた眼差しで彼女を捉えていた。ナマエが瞠目している様子を見て、マールーシャがふっと嗤う。
「愚かな」
くつくつと、喉の奥を震わせる。ふいにマールーシャの顔から、表情が一切消えた。
「こんなもの」
云って、マールーシャは美しく咲き乱れる花々を振り返って、荒々しく踏みしだいた。
「……マールーシャ?」
「支配して、楽しんでいるだけだ」
どこか苛立たしげに、けれどはっきりとそう言ったマールーシャは、ふいに掌を広げてその手に巨大な
驚愕するナマエに、マールーシャはちらと視線をやって、殊更見せ付けるように鎌をゆっくりと振り上げた。
「私はただ単に、この生き物を、己の手で支配して、楽しんでいるに過ぎない。それだけだ」
ナマエはうろたえた。彼は一体、何をしようとしているのだろう。
「でも、どうして――マールーシャ!?」
大鎌が、音もなく振り下ろされる。花びらが、まるで血飛沫のように散った。
「なにを……!」
ナマエが愕然として立ち尽くし、悲鳴を飲み込む。マールーシャは、まるで慈悲の欠片もないように、再度鎌を振り下ろし花を散らせた。
「良く見ろナマエ、これが、お前が守ろうとしたものだ」
――ざ、ざざっ。
花の香りに紛れて、青臭い緑の匂いが混じり始める。
「こんなものは、慈しむ価値すらない、下らないものだ」
――ざざ。
花びらが何百と空を舞い、地に埋め尽くされてゆく。愕然としているナマエに対し、ふいにマールーシャが鮮やかな挑発の笑みを浮かべ、彼女ははっと弾かれたように振り上げられる彼の腕に取り縋った。
「マールーシャ、止めてっ!」
「……邪魔だ」
「やめて! やめてやめて、お願いだからこんな――」
マールーシャは取り縋るナマエを一瞥し突き飛ばそうとしたが、しかし意外にもナマエは粘り続け、程なく彼は大鎌を下ろした。
「……ひどいわ、ひどい、こんなの」
彼の暴挙が止んでも尚、ナマエはマールーシャの腕から離れなかった。
体が訳もなく震えて、離れられない。恐ろしくて、顔があげられない。ふいにゆらりと視界が揺らいだ。
マールーシャが怪訝そうにナマエの様子を窺った瞬間、とうとうかっとなって彼に吠え掛かった。
「こんな!」
と、ナマエは絶句してしまった。喉の奥がなぜか熱く、声が一向に出てこない。声が出ない代わりに、ナマエは訴えるようにマールーシャのコートを強く握り締め彼を見据えると、視界に映る彼はゆらゆらとぼやけて見えた。相対するマールーシャが、なぜかナマエを見て僅かに戸惑ったようだったのが、彼女には不思議だった。
「ナマエ」
マールーシャがナマエの名を呼ぶ。ナマエはつと瞬いて、ぽたたと目の端から滴が零れ落ち、それで漸く己の状態に気付いた。涙が溢れて止まらない。
――マールーシャのことが、余りにも理解できなくて、かなしかった。
どうしてあんな事をしたのかナマエにはわからなかった。マールーシャは花を大切にしていたのではなかったか。そう思ったからナマエは必死で守ろうとしたのに。けれど、あれではあんまりにも……。
一度己の涙を認めてしまえば、あとは容易く理性は崩れる。ナマエは途端息を乱して、マールーシャにすがり付いた。
「ひどい、よ、マールーシャ」
震える声で詰っても、大して威力はないことをナマエは知っていた。だけど何かを云っていなければみっともなく泣き叫んでしまいそうだったから、嗚咽を堪えて彼女はありったけの力を込めて彼の胸を叩いてやった。マールーシャは胸に顔を埋めて涙を流すナマエの頭を、黙して眺めている。
「――哀しいのか」
と、突然マールーシャはナマエの顎をぐいと掴み、強制的に上を向けさせた。ナマエを覗き込んで、冷酷に問う。
「なんのための涙だ?」
”なんのため”? 愕然として、ナマエの瞳が見開かれる。
「なぜ哀しむ、なにが哀しいのだ? ――ナマエ」
「マールーシャ……」
「花のためか?」
苛立たしげに、マールーシャはナマエを問い詰めた。
なぜ、ナマエに責められるのか解らない。なぜ泣くのか解らない。ナマエが痛々しげな視線を寄越してくるのがひどく癪に障る――、マールーシャはナマエの心がわからなくて苛々した。ナマエが何か思い違い――マールーシャが花を愛しているという――をしていたので、その戒めのためにこそ刈り取った花々に、彼女は彼を責め立て終いには泣き出してしまった。ナマエが何を感じているのか、いくら考えどもマールーシャには解らない。遠い昔、似たような体験をした気もしたが、その時どんな感情があったかなんて、すでに心がないマールーシャにとっては当時の感覚を思い起こそうという方が虚しいのだ。解らない、自分には永遠にナマエの心がわからない。マールーシャの瞳に渇望の色が浮かぶ。
なぜ、――こんなに息苦しいの、か。
解らぬ、そう呟いて彼はナマエを押しやった。苦しげに胸を抑え、己が散らせた花々の残骸を見下ろすと、ますます不快感が募って彼は眉を顰めて顔を背ける。ナマエは、ふいに向けられた飢えたような蒼の瞳を見て息を呑んだ。引寄せられるようにナマエがマールーシャへと数歩近付く。見上げるようにして前に立った彼女を彼は見下げ、途端激しい動悸を覚えた。
なんだこれは、なんだこれは――。
この私が、この者に
「――解らぬ、不愉快だ」
「あっ」
マールーシャはゆるりと鎌首をもたげてナマエの首筋にぴたりと当てた。急に訪れた冷たい刃の感触にナマエの表情が凍りつく。いまや彼女は、彼の気分一つで他愛なく命を落とす事が出来る。それ程彼女は弱い存在のくせに、何故これほどマールーシャを苛立たせる事が出来るのか。解らない。
「不愉快だ」
マールーシャの目に、俄かに近付いた死の恐怖におののくナマエが不快に映った。一思いに刃を引いてやろうとも思ったが、手は頑なにそれを拒否している。忌々しい、こんな小娘一人、手にかけることが出来ないのか。
ちっ、と舌打ちの音がナマエの耳に聞こえた。ふいに、視界が影に覆われる。え、とナマエは瞬いた。
「マー、……」
ナマエの言葉は、突然の口封じによって飲み込まれる。
――心を持たぬ美しい人の唇は、想像以上にあたたかかった。
口を封じてやると、ナマエは急に大人しくなったようだった。彼女との口づけが想像以上に心地よく離れがたいと思ったのが自分でも意外に思えたが、その心地よさは性欲に似て非なるものだ。そのまま抱きしめたい衝動を抑えて唇を離すと、ナマエが茫然とマールーシャを見つめている。
何故、どうして、その瞳が言外に問い掛けてくる。なぜ、キスなんか――。
「……」
マールーシャはしかし、その問いに答える術を持っていなかった。なぜキスなどしたのか、彼自身が一番解らなかったからだ。
だから彼は、静かに踵を返して彼女の前から立ち去る事しか出来なかった。と、その背中を弱々しい声が引きとめる。
「マールーシャ……」
「……。片つけておけ」
ざ、と彼の背が現れた闇に呑まれて消える。
――ナマエは一人、無残に変わり果てた庭園に、いつまでも立ち尽くしてた。