おわらないものはない。
けれど、はじまりはいつも側に。




 ――あなたはまるで、しにがみ、だった。

 はじめて貴方に会ったのは、崩壊しゆく故郷でのことだった。侵食していく闇が世界を飲み込み、耳を劈くような人々の悲鳴ばかりが飛び交う中に唐突に現れた貴方は。
 その華奢そうな身に余るとも思えるほどの巨大な鎌を軽々と持ち。
 けれど容貌は対照的に、瑞々しい薔薇のような薄紅の髪、宝玉のように煌く蒼の瞳、端整な顔立ちに浮かべられた美しい微笑は、なぜか酷薄そうな印象を残す。
「――貴様、この星の生き残りか」
 ぞくりとするような冷やかな声は、まぎれもなく艶やかで。
「――あ……」
 そう、はじめて見た時、私は彼の事をとても美しい人だと思った。思わず、ぞっとするほどに。
「なんだ、貴様、口を利けぬのか?」
 彼は誰? ――彼は。
 この世ではないもの。
 しにがみ。
「っ、……」
 ああ、とうとう、私にも死神が迎えに来たのか――、極限の最中、私は彼の存在をそう理解した。そう、彼はあの瞬間、たしかに私にとって死神以外のなにものでもなかった。
 冷酷で美しい、しにがみ。
「た、……」
「……?」
「た、すけて」
 けれど。
 半ば本能のまま赦しを乞うた私は、きっとひどく惨めな生き物であったことだろう。死にたくない、その一心で零れた無意識の言葉は。
 ――助けて。
 聞き入れられる筈も無い、希望も可能性もこれっぽっちと言って良い程感じられない一言に、けれどその死神はふと意外そうに柳眉をひそめたのだった。
 そしておよそ、一拍のち。
「良かろう。――来い、助けてやる」
 彼は嗤って、そう告げたのだった。

 そして私は、あなたに救われた。
 私は死神に命を救われた。
 けれど。

 ――しにがみだと思った人には、心がなかったのです。





 そうして命永らえた私は、私を助けてくれた人によって迷宮のように巨大な城へと導かれた。ひどく閑散として寒々としたその城が、その日から私の住処となったのだ。
 故郷を失った私が得た居場所はけれど、安住の地とはならかった。
 私に、安寧は与えられなかったのだ。
 私を救ってくれた薄紅のひとは、己を指して”心がない”と告げた。心がない、私がその言葉の意味を理解するのに時間は掛からなかった。
 だって彼は私に告げたのだから。
 彼が。
 彼こそが。

 ――私の故郷を襲わせ、そして奪ったひとだ、と。

「……う、そ」
「嘘ではない。あれは機関の計画の一部なのだから。多くの心をキングダムハーツに帰せるための、大いなる計画の一部にすぎん」
「”キングダム、ハーツ”?」
 冷やかな、微笑。心なく。
「そうだ、我等は世界の心を手に入れるために、存在する」
 ああ。
「――そんな」
 世界は緩やかに崩壊していく。
「……そんな、もののために!」
 目の前が暗転して、私は気が付けば彼の首を締めていた。
「許さない、絶対に、許せない!」
 けれど薄紅のひとは美しい微笑を浮かべながら、私を見下している。
「許さなければ、どうするというのだ」
 冷やかな美声が響き、私は思わずかっとなって、手に力をこめた。
「……殺してやる!」
 そして彼は。
 どこまでも、冷やかに。

「――うるさい女だ」

 世界は、暗闇に包まれた。
 気を失う瞬間目にした彼の空虚な眼が、残像となって瞼の裏に焼きついて。

 ――いつまでも、消えてくれない。


 心を持たない人々と一緒にいるためには、心を閉ざすしか生きる術はなかった。故郷を失った私には他に行く場所もなく、故に私は彼のそばを離れる事は出来なかった。
 なにより、あの城から逃れられる事が出来なかったのだ。城の外を一歩出れば、たちまち黒い怪物に殺されてしまうであろうから。
 かといって、城の中が安全というわけでもない。私は城の中で唯一心ある人として、彼や彼の同胞の餌食となることもしばしばだった。心を持つ人間に興味があるのか、私の感情を掻き乱し爆発させようとしてくる度、私は心を閉ざそうと務めた。

 薄紅のひとは、私のことを手元に置いて離さなかった。
 既に城に住むようになってから数日が経っていたが、未だ私は彼の名を知らないし、また彼も私の名を問う事もない。知りたいとも思わなかったし、私から彼に話し掛けることもなかったので、別にそれでもよかったのだ。
 あの日彼から真実を告げられ、感情のままに彼の首に手をかけた私の激情は既に胸の内からは消え去り、代わりに宿るのは虚しさと哀しみだけだった。いまだ彼を憎くは思えど、報復するだけの力も気力も私にはなかった。
 世界は既に閉ざされていた。あの時、崩壊とともに。
 ――私の世界は、終ったのだ。
 目の前に差し出される感情は色を失って、隣にあるぬくもりは温度を感ぜず。
 人形のように、ただ虚ろに。呼吸をする度に命を吐き出す。
 終ってしまえ、早く
 ――終ってしまえ、全部。


 けれど。
 無慈悲な死神が、それを許してくれない。
「笑え」
「……」
「笑え、と云っている」
 薄紅のひとは、たびたび私に感情の発露を強要させた。彼にとっては無感情な人形には興味が無いようで、私が心を閉ざそうとする度神経を逆撫でし、美しい微笑を浮かべながら心に爪を立てる行為を繰り返す。
「お前は笑えぬのか? 心ある人間のくせに」
 心を失ったひとというのは、どこまで残酷になれるのだろうか。悲しみに沈んでいる人間が、正反対の感情を表せと強いられる事にどれだけ労力を伴うのか、まるで解りもしない。彼らもかつて心をもった人間だったというが、私にはそれが俄かに嘘ではないかとさえ思えてしまうほどに。
 だって、かつて人だった頃の記憶があるのならば、傷ついたこの心で非情な人の前に立つというのがどれほど辛いのかくらい、解る筈なのに。私がどれほどこの現実から目を背け、優しい思い出にひたすらまどろんでいたがっているか、わかるはずなのに。
 けれど。
 ――けれど薄紅のしにがみは、容赦なく私を引き立て、この残酷な現実を受け入れろ、とばかりに目を背けさせてくれない。
「心ある者は、もっと血の通った笑みを浮かべるものだろう。見せてみろ」
 彼は冷然と微笑みながら、私を追い立てる。血の通った笑みなど、今の私には到底無理だと言うのに、彼はそんなことなど全く気付く素振りも見せない。
「……何のために」
「何のためだと?」
 私が虚ろな眼でそう問えば、彼は少し苛立たしげに(その姿は非常に人間らしい、けど)眉を顰め、私を引き立て覗き込んでくる。宝石のような美しい蒼の瞳には、何の感情も浮かんでいなく。
「私が望んでいるのだから、お前がそれをかなえるのは当然の義務だ」
「義務、……」
「そうだ。私は、お前を唯一の災厄から助けた。いわば、お前は私の所有物ということだ。主人である私の命を、訊くのは義務であろう」
「……」
 当然のようにそう主張する彼の言葉に、けれど私は薄らな微笑すら浮かべることも出来ない。
「けど、出来ない。――笑えないのよ」
 お願いわかって欲しいの、ひとかけらでもいいからこの気持ちを汲んで欲しい、どうか放っておいて私に構わないで、まだわたしは、まえを向けないの、向きたくないの、に。
 思わず俯いて、震える声で告げるも。
「……何故だ」
 薄紅のひとには。
 この気持ちが通じるはずもなく。
「何故、――笑えぬ」
 その瞬間、私はかっとなって彼の胸倉を掴み上げた。
「……何故、ですって!? 故郷を失って、哀しいから、笑えない。苦しいから、笑えない。そんなことも解らないの!? こんなわけの解らないところにつれてきて、人を人とも思わないような仕打ち……、ひどいよ! あなたのほうがよっぽど私にとって災厄だ!」
 息つくまもなく叫んで詰って、見上げた彼の瞳を覗き込めば、激情に駆られた私がそこに映し出されていて。
 ふいに、涙が零れ落ちた。
「あなたなんて、あんたなんか……!」
 言葉を失う。
 されるがままになっていた薄紅のひとは、憎らしい事に崩れ落ちる私の体を事もなく支えている。しっかりと、肩を支えて。
「……っ」
 苦しい。

 ――たとえば。
 たとえば、この目の前の人が本当に死神だったならば、きっと私は笑って彼に命を捧げていたかもしれない。
 たとえば、この人がほんの少しでも失った心の欠片を持っていたならば、私は泣いて彼の胸に抱きついていたかもしれない。
 けれど彼は違う。ただ、無機質に美しい笑みを浮かべて。
『ワタシニハ、ココロガナイ』
 ――人形はこのひとだ。哀しいのは、孤独なのは、この人の存在だ。
 わたしは――。
 このせかいで、ひとりぼっちに、なってしまった。
 だって、私の心を理解してくれる人は、ここには何処にもいない。
「……帰る場所が、ないの」
「……」
「もう、どこにもない」
 うめく様に云えば、彼は何を考えているのか、静かに私を見下ろしている。
「……あの時、死ねばよかった」
 私は瞼をゆっくりと伏せた。ただ、痛々しいような儚い温もりを傍らに感じ、世界が崩壊した時以来初めて流れた涙を拭いもせず。
「みんなと一緒に、死ねばよかった」
 傍らの、ぬくもり。思わず寄り添ってしまいたいと思うほど、暖かく。
「……」
 なぜ、私は、こんなひとに、無情とも思えるような希望の光を見出そうとしてしまうのだろう。いくら望んでも、ひととしての温もりなど得られはしないのに。

 けれど。
 ふいに頬を拭われる感触がして、私はおもむろに瞬いた。涙を拭ってくれたのだろうか、まさか。
「え……」
「哀しい、か」
 呆けた表情で彼を見上げると、彼は私の涙を拭った手袋に残った水分を不思議そうに――けれど少しだけ愛しそうに――眺めていた。と、つと目線が合い。
「どんな感じだ?」
 寄せられた真っ直ぐな視線には邪気など全くなく、私は少したじろいだ。
「ど、どんな感じって」
「哀しい、という感情だ」
 彼は云って、どんな物だったのか忘れてしまった、とふと微笑む。その笑みの中に苦いものがちらと見えたようで、私はその瞬間大いに動揺した。錯覚か、いやそれとも。
 かつて心をもっていた彼が、感情がある振りをすることができるのは、何ら不思議な事ではないのだ。それが非常に癪に障るのは、何故だろう。心と名の付くものならば何でもかんでも貪欲に知りたがり欲しがるくせに、体が記憶しているかつての心の名残は、見せ付けられる側にとっては彼を非常にあざとく見せるから、だろうか。でもその真実は、――空っぽ。
 事実、彼の内側は虚ろに満ちている。だから、感情を欲しがる。
 ――このひとは。
「そんなこと云われても……」
「いいから、云え」
 否やを許されないそれは命令。私は溜息をついて、渋々口を開いた。
「……すごく、胸が苦しくなる」
「あとは?」
「……息が出来なくなって、それから、涙が止まらなくて。……あとは、」
 彼が静かに促がすので、私はだんだん真剣に言葉を選び始めた。哀しいとは、一体どんなものだったのか。
「あとは……」

 唐突に、彼の指が涙の跡を辿るように触れ、そのまま首筋を支えるように手を置かれた。驚いて目の前の人を見上げた瞬間、私の視界は薄紅に遮られた。
「……え?」
 彼の薄紅の髪は想像以上に柔らかな髪質で、薔薇のような香りがした。押し付けられた胸筋は思った以上に逞しく、男の人だと思わせるような腕は私の背を支え。
 つまり、私は今、彼に、包まれている。
 ――なぜ、どうして。
「ちょ、」
 混乱した私は慌てて彼から離れようと、逞しい胸を押し返した。けれど抱擁は思ったよりも強く、中々解けない。
「ちょっと」
 思わず非難の声で彼の名を口にしようとして、その時私は初めて未だ彼の名を知らない事に腹立たしさを感じた。彼の名を呼んで、今すぐ離してほしいと云いたいのに。
「ちょっと、離して……っ」
 けれども。
「大人しくしていろ」
 ぐい、といっそう力強く胸に押し付けられ、今まで得られなかった温もりを得た私は唐突に言葉を失った。それは少し乱暴な唯の抱擁だった、慰めとか憐みとかいう部類の感傷は彼から一切感じなかった、けれど。
「あ……」
 涙腺が一気に緩んだ私にとっては、むしろどうだってよく。
「な、んでこんなこと、するのよ」
 涙声でそう非難すれば。
「何故? お前は慰めが欲しかったのだろう。言葉か、ぬくもりか、あるいは……」
 彼はただ、淡々と。
 そう、ただ体が記憶していたことを実行しただけ。心なんて、ないのだ。
 私ははっとして、緩んだ涙腺を引き締めて彼をにらみつけた。
「こ、こんなことで恩を売っているつもり? 忘れないでよね、あなたは私の世界を奪った――」
 憎い人なんだから、と告げると、なぜか彼は微かに嬉しそうに口角を緩めて。
「だが、私がお前を拾った」

 ――と、不意に抱擁が解かれる。
 反射的に彼を振り仰いだ瞬間、美しい蒼の瞳が私を絡め取った。
「マールーシャ」
「え?」
 唐突に告げれられた言葉に、私は数度瞬いた。
「私の名だ、マールーシャと」
 マールーシャ。
 この人の、名前。
 そう思って、なぜか胸が、痛んだ。どきりと。
 いや、これは痛み、ではなく。
「……マールーシャ?」
 おそるおそる、音にする。
 ――マールーシャ。
「――あ」
 瞬間、何かが唐突に私の中ではじけたような気がした。まるで、まどろみから柔らかく揺り起こされたような、心地よい目覚め。
 ……なんだろう、これは。ふわふわしていて、どこか覚束ない。不思議な、感覚。
 訳がわからぬうちに、目の前の人が急に実感をもって身近に感じられるのが解った。私は今一度彼の顔をまじまじと見つめた。すごく綺麗な顔、――初めて、この人を真っ直ぐに見たような気がする。
 すごく、不思議。こわく、ない? ……こわく、ない。
「お前の名は?」
「……ナマエ
 茫然と告げると、彼は、――マールーシャはふっと微笑んだ。
「そうか、ナマエか」

 その瞬間、ことり、と。
 それはきっと、はじまりの、再生の音――。

「――ではナマエ、今日からここがお前の”還る処い え”だ」






 おわらないものはない。けれど、はじまりはいつも側に