決着をつけるのはあなたしかいない。




『――解らぬ、不愉快だ』
 あの時、そう言って苦悶の表情を浮かべたあの人の去り行く後ろ姿が、ナマエの脳裏に今も焼きついて離れない――。

 ――あれから、ナマエがラクシーヌと初めて対面した日から、数えて1週間が経っていた。
 実に唐突で予想外な対面は、最悪の結果に終った。生来頑固なナマエの性格が仇となり、気が短いラクシーヌの勘気を買ってしまい、あやうくナマエは彼女に殺されかかった。だが、それというのもラクシーヌがナマエの心を傷つけんがために、"彼"の大事な庭園に手出しをしようとしたからであって、そうでなければきっとナマエは大人しく彼女の言いなりになっていた事だろう。
 そのナマエの窮地を救ったのは、彼――マールーシャ。彼こそがナマエの救い主であり、また故郷を滅ぼした仇であり、そして現在ナマエの心の大半を占めている人物なのだが、当のマールーシャは心を持たないノーバディという特異な存在で、無感情の彼が何を思ってナマエを手元においているのかは計り知れない。ナマエは本来、マールーシャにとっては捨て置くに足らない存在だ。そう思っていたはずだった。
 けれど実際、先日見せたマールーシャの様子は、ナマエの考えを根底から覆すには十分なほど乱れていて、それがナマエをひどく困惑させる。ナマエの感情を不愉快だと云い、苛立ったように凶器を向けてきたマールーシャ。かと思えば唐突に口封じをし、何も云わぬまま立ち去った彼の後姿は、今も尚鮮烈にナマエの記憶に刻み付けられている。
 ――あの日以来、ナマエは彼の姿を一度たりとも見ていない。

 ナマエは今、あの庭園へと来ていた。
 一度はラクシーヌによって焼かれ、さらに追い討ちをかけるように園の主であるマールーシャ自身に刈られとられ悲惨な態をさらしていた庭園は、けれど不思議な事に翌日にはまた元通りの美しく咲き誇る花々の姿しかない、乱れ一つない完璧な美しき園として存在していた。ナマエは一瞬目を疑ったが、幾ら見ても焼かれ打ち果てた昨日の庭園の姿なぞ何処にも無く、それはつまりマールーシャが力を送って甦らせたのだろうという憶測にたどり着く。彼が植物を根源とした力を使い、自由に花を咲かす事が出来るのは、先日ナマエも目にしている。
『こんなものは、慈しむ価値すらない、下らないものだ』
 花など、マールーシャにとっては、散ればまたすぐに咲かせられる他愛ないもの――、彼はそのからくりを分っていたからこそ、ナマエの馬鹿な妄執を糾弾したのだろうか。ナマエの、マールーシャが花を愛している、という妄執を。
 実のところ、植物を主とする力を持つ彼にとっては、花など自由自在に操れる道具かなにかの一つでしかないのかもしれない。もしかしたら、あの庭園の存在意義は単純に、余った力の一部をただ単に放出して循環させるためだけに造られたものでしかないかもしれないのだ。無論、花を愛でるのではなく――。そうであるならば、哀しい事だがナマエを糾弾したマールーシャは正しい。
 けれど、とナマエは考える。けれど、たとえそれが事実であったとしても、それが全てとはナマエは信じなかった。だって彼の力は花を咲かせることは出来ようが、人の手を入れてやらなければ、あれほど見事で美しい庭園は創ることが出来ない筈だ。ならばなぜ、マールーシャはわざわざ花の手入れを行うだろうか。
『愛情など幻想にすぎない。それは、"執着"という欲を聞こえよく言い換えたものだ』
 彼は、自分のことを指して心がないという。限り無く人間に見える外見をもってして、人間ではないと言う。けれど、いったい何処が彼をして人間ではないというのか、ナマエには解らない。彼はなにかを愛せない生物とは思えない。少なくともナマエと同じ、生きることに悩みを抱えているひとにしか見えない。
 だって、ナマエは知っている。彼の手は白くて綺麗で、でも骨ばっていてまさしく男の人の手だけれども、その実、花を愛し世話する人の証しのように、その指の先が荒れていることに。そのかさついた指先こそが、何よりも愛しい物を慈しんでいる証拠ではないか。彼は愛を執着と呼ぶけれど、そのように、たとえ指先といえど己の体を傷つけてまで、花を――彼に言わせれば『たかが花ごとき』――を世話するのはどうしてだか、考えた事があるのだろうか。
 それは一重に、花に対する並ならぬ入れ込みが、彼の中にも存在するからではないのか。……それが愛情であるか、執着であるかまではナマエには判別できぬが。
 たとえ『愛など幻想』という彼の言葉が事実だとしても。――否。愛など幻想、などと言い切った人が、ナマエを前にあのように動揺するだろうか。自惚れだと思われるかもしれない、けれどあの時彼女の目にははっきりと彼の渇望が映っていた筈だ。
「……そうじゃなきゃ、あんなキスなんかするはずない」
 そっと指先で唇に触れると、あの時の柔らかな感触が生々しいほどに甦ってくる。触れるだけに留められた口づけは殆んど押し付けられただけで、技巧などなにも感じられない拙いものだったが、けれどあの時彼は微かに震えていなかったか――?
 なぜ、どうして。あの時のマールーシャの行動の意味は今でも良く分らない。きっと考えても無駄なのだろうと思いつつも、ナマエは何度も思い返す。そうすることで、あの儚い口づけの後に訪れた、刹那の幸福感を忘れないようにするためだ。想う人からの口づけ、恐れおののいた反面、あの瞬間だけはナマエの心は確かに、――幸福にざわめいた。
 けれど。
 物思いに耽りながら、ナマエは美しい園の中を逍遥する。彼の力に守られた園はひっそりと沈黙していて、常に宵空を飾るいびつな"月"から投げかけられる淡い光に薄らぼんやりと輝いている。
 ふと奥から強い香りがして、ナマエは導かれるように足を進めた。小振りの薔薇が飾る青銅のアーチをくぐった奥のほうに、大輪の赤い薔薇が咲き乱れている。薔薇は一つ一つが完璧な七分咲きで、強い芳香を放っている。人を誘うような香りは甘酸っぱく、ナマエの背丈ほどもあるその垣根に彼女は近寄った。
 手を伸ばす。――触れようとして。
「痛……っ」
 だが、触れる前に敢えなく薔薇の鋭い刺が彼女の指を拒絶した。
 思わず怯んで手を離したが、ナマエはなんだかむきになって再度手を伸ばした。再び皮膚に刺が刺さる感触を覚える。痛い。そのまましばし格闘するも、刺の痛みに勝つ事が出来なかったナマエは、漸く諦めて手を離した。気がつけば、皮膚は刺に破かれ、指先からは血が滲んでいる。口に含むと血の味がした。ナマエは、自嘲した。
 自分は、たった一本の薔薇を手折ることすら許されないのか――。




「ちょっとマールーシャ」
 ――その会話を聞いてしまったのは、偶然であった。庭園からの帰る道すがら、大階段へと抜ける扉の前を通り過ぎようとしたナマエの耳に飛び込んできたのは、聞き間違える筈もない、あのラクシーヌの声だった。はっとしたナマエは反射的に警戒を露にしたが、無論彼女の稲妻が突然背後から襲ってくるなどということは起こらない。幾分気を緩ませ周りを改めると、どうやら声はすぐ近くにある薄く開かれた扉の向こうから聞こえてきたようだった。扉の向こうにはラクシーヌと、どうやらマールーシャもいるらしいと分って、ナマエは知らず動揺する。
 マールーシャには暫らく会っていない。会いたい、でも顔はあわせられない、……けれど声は聞きたい。束の間逡巡したナマエが、決意してそっと近寄った時。
「……お前か。何の用だ」
 冷やかな声が、耳に届いた。ラクシーヌへ向けて放たれたその台詞は、その冷たさゆえに、ナマエはまるで自分に向けて云われたかのような錯覚に陥ってびくりとした。だが、続いて彼の言葉に応えた声は、ひとつの傷すらついた素振りもない。
「あの子、いつまで手元においておく気よ」
 途端、ナマエはその場に凍りついた。ラクシーヌの云っている"あの子"が、自分のことを示しているのだと気づいたからだ。ナマエはぐっと身を硬くして、息を押し殺した。彼女は一体、なにを云うつもりなのか。ただ単にナマエに対する苦情であればいいが、彼女であれば追い出せとでも云いかねない。
 ……ただ一つ分っているのは、対する相手の人物がラクシーヌであるという時点で、少なくともナマエにとっては明るい話題にはなりそうもないということだけだった。
 この場からは陰になって見えないマールーシャが、うんざりしたように溜息をついたのが聞こえた。
「お前には関係ない。それよりも、もう二度とあれに近寄るな」
「あらあ、酷い言い草ね。どうせ、まだ扱いを決めかねて迷っているくせに」
 思わず、息を呑む。意外な事実を聞かされて、ナマエは言葉を失った。あのマールーシャが、迷っている?
「……」
 沈黙が落ちる。剣呑な雰囲気が、ナマエのいるところまで伝わった。この扉の向こうで、おそらく彼はあの凄みのある冷やかな瞳で、ラクシーヌと対峙しているのだろうか、と思った時、ラクシーヌがいとも可笑しげにくすくすと笑い出した。
「うふ、図星? じゃ、良いこと教えてあげようか。手っ取り早くあの子を手なずける方法よ。――あの子の心を抜き取って、あたしたちの仲間に入れるの」
(――仲間? 私を?)
 瞬間、ぞっとして全身が総毛だった。
 ナマエはラクシーヌが放った言葉の恐ろしさに戦慄を覚え、無意識に半歩下がる。かつんと長靴(ちょうか)の響く音を微かに立ててしまったが、今のナマエにはそんな事を気遣う余裕はない。だが幸いと云うべきか、扉の向こうの彼らにナマエの存在は気付かれずに済んだようだったが。
 ナマエはさらに息を押し殺して、耳を澄ました。ラクシーヌの言葉に、マールーシャがどう答えるのかがひどく気になる。
「……、ノーバディにか? あれが我々のように特異な存在になりえるとは思えない。せいぜいが、ダスク程度だろう」
「そうかしら」
 マールーシャの言葉が納得できないのか、ラクシーヌの声はどこか不満そうだった。
 だが、続くマールーシャの冷然たる声が、彼女の追及を許さない。
「そうだ、だから余計な口出しは無用だ。あれの処遇は私が決める」
 かつんと長靴の鳴る高い音がした。続いて、かつ、かつ、と断続的な音。どちらかが動いたのだ、とわかった時。
「マールーシャ! いつまでもゼムナス(ボス)が黙っているとは思わないことね」
 ラクシーヌの案外するどい声に、長靴の音がぴたりと止む。
「なに?」
 呼び止められた主は、実に不機嫌そうな声で応える。
 そして、次にラクシーヌの口から飛び出た言葉は、ナマエにとっては突きつけられるには恐ろしすぎる真実だった。
「心をもたないノーバディの集団の中に、たった一人の心を持つ人間。少し考えりゃ、あの子がどれほど恰好の実験材料であることくらいは分るわよねえ。この上ない獲物だと思わない? 少なくとも、きっとどこかの実験狂あたりには、確実に目をつけられているわよ」
 ラクシーヌの言葉に、ナマエは俯いた。彼の同胞が、ナマエに何らかの科学的興味を示している事は薄々感じていたことだった。そして、それに伴う危機感も無論のこと。けれどマールーシャはそういう視点ではナマエを見なく、それが故にナマエはマールーシャの元を離れられず、彼に負担をかけているのではと時折不安になっているのだが。鬱々とした思いが、ナマエの思考を支配する。
 と、マールーシャの力強い声が、ふいにナマエの物思いを断ち切った。
「あれは私のもの。手出しはさせぬ」
 その言葉は、ナマエを一瞬浮かれさせはしたが、すぐに冷静になって思い直した。あのプライドの高いマールーシャが容易に独占欲を露にするとは思いがたく、ならば先ほどの台詞の意味は言葉通りナマエを単なる"物"として考えている故のものに違いない。彼の中でナマエという存在は、限り無く価値が低いとしか思えないのだから。ナマエは、無意識のうちに溜息をつく。
「へえ、あんたの"もの"、ねえ」
 ラクシーヌの言葉には、どこか揶揄が含まれている。
「……何が云いたい」
 彼女の態度が気に食わなかったのか、マールーシャの声に何処となく剣呑な色が漂った。束の間、突き刺すような沈黙が落ちる。
 けれど、くすり、と小さく落ちた声が、そのしじまを遠慮なく破る。
「別にぃ。ただ、あの子も変なのに目をつけられちゃって、大変そうだと思って」
 変なのとは一体誰のことだ、と脅すような一層低い彼の声がすぐに続くも、ラクシーヌはくすくす笑って取り合わない。
 と、ふいに笑い声が途絶えたと思ったら、幾分真面目になった声がマールーシャの名を呼ぶ。
「ねえマールーシャ、私たちは所詮人間じゃないのよ。仲良く手を取り合って共存しようだなんて、甘い夢だわ。どちらかに必ず負担が掛かる。現にあんた、あの子を守るために無理してんじゃないの?」
 はっと、ナマエはその言葉に息を呑んだ。反射的に、思わずドアノブに手を伸ばした時。
「その内、――消滅するわよ?」
「……っ!」
 びくん、と体が震える。愕然としたナマエは、途端その場から一歩も動けなくなってしまった。
 消滅、――しょうめつ? 
 頭の中でラクシーヌの言葉が、意味もなく何度も反芻される。その単語の意味が漸く脳内に浸透した時、今度は逆に頭が真っ白になった。
 消滅する、一体だれが?
 彼だ、彼。
 ――マールーシャ。
(いや……!)
 途端、ナマエの中で激しい感情が噴出し渦を巻いた。激しく頭を振る。喩え仮定の話だとしても認めたくなくて、ナマエは逃げ出すように一歩後退った。
 こつ、こつん、こつ、……とん。
 いつの間にか、背中に冷たい圧迫感があった。それが壁であることに気付いたナマエは、まるで縋るように全身を壁に凭れかける。今にも脱力してしまいそうだ。
 向かい側には、薄く開かれた扉がある。その隙間からちらちらと見える彼らの黒いコートを、ナマエはひたすら凝視した。目が、離せない。
 と、その耳に、幾分遠くなった彼らの声が、不明瞭な形で届く。
「ではお前はなにか、私があれを手放した方がいいとでも云うつもりか?」
 そうよ、とラクシーヌは同意を示す。
「その方があんたのためよ」
「……、くだらない。云いたいことはそれだけか」
 斬って捨てるような言い方に、ナマエは思わずぎゅっと掌を握り締めた。手が、震えている。
「あんたがらしくなく、あの人間の扱いにいつまでも迷っているようだったから、親切にも忠告してやろうという人の気持ちを無碍にするつもり?」
 不満そうなラクシーヌの言い分に、マールーシャの返答は、なかった。彼にしてみれば、余計なお世話だ、とでも云いたいところだろうか。
「もう行かせてもらう。私はお前と違って忙しいのでな」
「なによ、あの辺境の城の管理者程度を任されたくらいで、急にえらぶらないでよ。むかつく奴ねえ」
 ふん、とマールーシャのせせら笑い。そして、話は終ったとでもいうように、かつ、と長靴が鳴る。
 扉の隙間から、彼の薄紅の髪が過ぎったのが見えた。ぴたり、と止まった彼の頭が、ちらとこちらを振り返る。ナマエの目に、マールーシャの瞳が映る。
 ――彼は、ナマエを見ていた。
「……手出しはするなよ」
「分っているわ」
 意味深長な彼の言葉に、ラクシーヌがいっそ不快そうに応える。
 凍り付いて動けないナマエの耳に、ぶうん、とどこか馴染みのある重低音が響いた。闇の回廊が開かれたのだ。
 その中に、マールーシャは体を滑り込ませる。全てを飲み込んだ闇は、するりと解けて消えた。
 ――マールーシャ!
 心の中で叫んで、たまらず、ナマエはずるずるとしゃがみこんだ。顔を覆う。
 本当ならば、待って、と叫んで彼を引き止めたかった。引き止めて、さっきの話は本当かと問い詰めたかった。けれど、あまりの事実を突きつけられて、ナマエはひどく打ちのめされていて、それは叶わなかった。なにより、彼に訊ねて、それが真実であると彼の口から云われた時の衝撃のほうがよほど恐ろしい。
 ガタン、と目の前の扉が、突然音を立てて大きく開かれた。反射的に振り仰ぐと、ラクシーヌがこちらを冷やかに見下ろしている。
「あんた、何のためにここに留まるの?」
 ラクシーヌが無情に問い掛ける。その答えを持たないナマエは、凝然とラクシーヌを見つめていた。
 まるで稚児のようなナマエの反応に彼女は柳眉を潜め、ゆっくりとしゃがみ込んでナマエを覗き込んだ。無感情の瞳が、ナマエの心を無遠慮に覗き込む。
 不意に、ラクシーヌはナマエの頬に指先を伸ばしてきた。ナマエは怯えて近付く指先を凝視したが、体は竦んで動けない。けれど指先が完全に触れる前に、パン、と音をたててラクシーヌの指先は宙から現れた薔薇と茨に阻まれる。放電に触れた薔薇は弾け散った。ひそやかにナマエを害そうとしたラクシーヌの指には茨が数本絡み付き、ナマエの肩や腕にはたった今彼女を守って散った薔薇の花びらがひらりひらりと降り積もっている。
 ラクシーヌは、その様子を見て暗く嗤った。

「――あたしから見れば、あんたの方がよっぽど残酷だわ」


***




 ――マールーシャのいない日が、続いた。
 その間、ナマエは一人庭園にこもりきりだった。私室と庭園との往来がほぼで、あとは時折マールーシャの部屋に行くだけの日々。部屋の主は数日来不在で、それでナマエも気兼ねなく彼の部屋に行く事が出来た。
 ナマエはいつも庭園の帰りに、選定から弾かれた薔薇を持ち帰っては部屋に飾った。美しい花に囲まれていると幾分心が休まる。
 今日も薔薇を活けた花瓶を持ち、彼の部屋に行くと、部屋の主はやはり不在だった。先日任務に赴いてから、彼はずっと帰ってきていない。だから時たまこうやって、埃がたまらないよう掃除をしにくるのだ。花瓶の花も数日ごとに交換する。白で統一された色彩に乏しい部屋に彩りを添えるため、花を絶やす事はない。
 ナマエは部屋に入ると、カフェテーブルの花瓶をもってきたものと置き替えた。続いて、使用された形跡のない寝台のベッドメイキングを終らせる。薄らと埃をかぶった書棚やテーブルを拭いた後、風通しを良くするため窓辺に近寄って薄く窓を開いた時、ふと机のうえに先日訪れた時にはなかったものを見つけてナマエは怪訝そうに眉を顰めて近寄った。
 机の上に、書きかけのレポートの束があった。美しい筆跡は確かにナマエの知る彼のもので、けれどそれが逆に不安をあおる。以前来たときは、確かにこのレポートはなかったはずだ。無論、忽然とこの机の上に現れたなんてことはなく、明らかに誰かが来て置いていったのだろう。そしてその誰かというのも、必然的に解るはずだった。
(まさか、帰ってきているの?)
 ナマエは思わず背後を振り返った。けれど部屋の風景は先ほどと変わらず、しんと静まり返っている。暫し後、意を決したふうに、おそるおそるレポートへと手を伸ばした。題名に、"第三惑星区内でのハートレス放逐の成果について"と記されている。はっと息を呑んだナマエは、銀細工の重石を除き、レポートを数枚取り上げて食い入るように読んだ。
 レポートには、ナマエには解らない何かを意味する単語と、それに関する詳しい数値と変動値を示すグラフが記されている。闇の値、侵食、心、ハートレスの増殖。明確にはそのレポートに書かれている内容は理解出来なかったが、読んでいくにつれナマエはだんだん胸が悪くなってきた。かつて、ナマエの故郷がハートレスによって消滅した時のことを思い出したのだ。あの時もたしか、緩やかに侵食していた闇が、何かを切っ掛けに突然増大し世界を覆った。
 あれはすべて機関による工作だと、後にナマエは知って激昂したのだ。
 もしかして、その工作はまだ続けられているのだろうか。――この世界の夜を彩る"月"を完成させるために、今も尚、幾つもの星が彼らの犠牲となっているのだろうか。
 ナマエの故郷だけでは飽きたらず――、愕然としたナマエの胸に、混沌とした強い感情が宿る。今はいない部屋の主を思って、体が震えた。
(マールーシャ)
「あっ」
 その時突然、強い風が吹きつけて、ばさばさと数枚レポートが舞い上がって床に落ちた。
 はっと我に返ったナマエは、慌てて床に散らばったレポートを拾い上げる。その内の一枚を拾い上げた時、何かに気付いてじっと見詰めた。彼の名が流暢な文字で標されている。
「マールーシャ……」
 そっと、口にしたとき。
「何をしている?」
「!」
 突然、背後から声を掛けられ、ナマエの心臓は跳ね上がった。
 ばっと振り返ると、いつの間にか部屋の主が立っている。ナマエはさっと一気に血が引くのを感じた。
 マールーシャはその端正な顔を随分と険しくしてナマエの手元を見詰めている。その視線を感じ、ナマエは慌てて持っていたレポートを後手に隠した。無論、それが既に意味のない行為だとは頭ではわかっていたが。
「あ、お帰りなさ……」
 咄嗟に挨拶でこの場の緊張を和ませようとして、喉の奥が引き攣れて失敗に終った。
 マールーシャは相変わらず鋭い目線でナマエを見据え、彼女は緊張のあまり唾を飲み下そうとしたが、うまくいかなかった。
 と、かつ、とマールーシャが一歩踏み出した。ナマエはそれに大いに反応し、一歩後退さろうとして机にぶつかる。
「何を見ていた」
「な、なにも」
 咄嗟に返すと、さらに気配が剣呑になる。ナマエは青ざめて、近付くマールーシャを凝視した。
 無遠慮に伸ばされた手からは、ナマエは逃れられなかった。
「寄こせ」
「あっ」
 呆気なく、マールーシャにレポートを取り上げられる。
「……」
 レポートに目を落とした彼の柳眉が、不快そうに顰められた。図らずも取り上げられる際に捻り上げられ、じんじんと痛む腕を抑えながら、ナマエはマールーシャの反応に内心怯える。勝手に大事なものを盗み見て、彼は『怒って』いるんだろう。きっと、ひどく。
「……。読んだのか」
 レポートから顔をあげたマールーシャがまっすぐに問うてくる。ナマエはその視線から逃れるように、俯いた。
 しばし、痛いほどの沈黙がのしかかる。
「何とか云ったらどうだ。それとも言葉を忘れたか?」
「……」
 ナマエ、と焦れた彼が苛立たしげに名を口にする。
 もはや言い逃れは出来ないと悟ったナマエは、決意してぐっと顔をあげた。
「……まだ、あんなことをつづけているの?」
 唐突な一言が意外だったのか、マールーシャは不意を突かれたように瞠目した。
 暫しの間、マールーシャには返す言葉が見つからないようだった。だが彼がその隙を見せた瞬間、ナマエの中で何かが弾けた。強い感情が甦り、恐怖も忘れてマールーシャをぐっと見上げると、震える声で彼に言い募った。
「私の故郷を破滅させたように、あんなことを、まだ――」
「それが任務だ」
 マールーシャの強い口調が、ぴしゃりとナマエの言葉を遮る。断固とした口調だった。非難する事は許さぬ、と言いたげな、冷たい声。
 だが、強張った表情が、裏腹に彼の動揺を映し出している。
「強いては、我らが救われる道へと続いている」
 マールーシャは、厳しい瞳でナマエを睨みつけた。だがナマエは怯むことなく、半目を伏せて緩く頭を振る。
 ――そんなことはもうやめて、とナマエはあらん限りの声で叫びたかった。そんなことをしてまで救いを求めても、結局は虚しいだけだとナマエは知っていた。彼らは心を欲して、多くの心を集める。その様はいっそ盲目的なほど。そして、ナマエの故郷はその願いがために犠牲となった。
 確かに、故郷を奪った彼らが今でも時折憎い。けれど、それ以上に心を求めて哀しい行動を繰り返す彼らの姿は、いっそ。
 ――憐れだ。
「そんなにまでして、心がほしいの?」
 ナマエは、きっと彼を睨み返し、震える声で問う。恐ろしくて震えているのではない、強い感情のせいで吹き荒れる胸中がためだ。ナマエは彼に、もうそんなことを繰り返してほしくない、と切に願っていた。そんなことをするくらいなら――。
 ナマエの問いにぴくりと眉を顰めたマールーシャは、険しい表情のまま黙した。その沈黙を肯定と取ったナマエは、だったら、と震える声で続ける。
「あんなに多くの人を犠牲にしてまで、心が欲しいんだったら、私があげる」
「お前の?」
 刹那、マールーシャが言葉を失った。彼には珍しく、茫然とした表情を取り繕う事もなくナマエを見詰めている。
 そうよ、とナマエは頷いて、どこか青ざめた顔のマールーシャの腕を強く掴んだ。
「私がここにいるの、貴方の負担になっているんでしょう? だったら、いっそ……」
 ぱし、と鋭くナマエの手が弾かれた。
「え……」
「――愚か者が」
 呆けていたナマエを、鋭く痛みを伴った低い声が打ちのめした。さらに、冷酷な瞳が追い討ちをかけるように圧し掛かる。ナマエは突然、冷水を浴びさせられたように熱気から醒めた。
 気がつけば、冷笑を浮かべたマールーシャが、ぬっと手を伸ばしてきていて、ひどい圧迫感を覚えた。
「自惚れるな。お前の心など、物の数にも入らぬ」
 はっと、ナマエは唐突に自分がひどく怯えていることを知った。火傷しそうなほどの激しい気が、ナマエの体を硬直させる。
 伸びて来るマールーシャの手から無意識に逃れようとするも敢え無く腕を捕まれ、捻り上げられる。痛みに悲鳴が漏れた。
 ふいに、強い力に押されナマエの体が跳ねた。視界がぶれてぐるりと回る。一瞬ののち、どさりと背中を床か何かに強く打ちつけた。思わず痛みにむせ返って、それでようやく何が起こったのか解った。ナマエは寝台の上に投げ飛ばされ、壁に強かに体を打ちつけたのだ。
(なんで……)
 茫然となりながら、げほ、と胸の痛みに咽る。こつん、と鳴った長靴(ちょうか)の音にはっと顔を上げると、烈火のごとき激しさを押し隠そうともしないマールーシャが、こちらに近付いてきていた。床に散らばったレポートは、無慙にも踏みつけられてしまっている。
「こないで」
 ほぼ反射的に、拒絶の言葉が唇から零れた。怯えて震えつづけるナマエは、近寄るマールーシャから逃れようと、寝台の端へ体を寄せた。彼はそれが可笑しいとでも云いたげに、くつりと喉を鳴らす。
「こないで」
「煩い」
 ぴしゃりと言葉に打たれる。ナマエはびくりとして、硬直した。
 寝台の側に立ったマールーシャは、圧倒的な存在感をもって、ナマエを見下ろした。
「良く聞くがいい。私は、お前の心を、欲しいなどとは一切思わぬ」
 傲慢に告げて、……しかし、ふと、その瞳が翳る。
 いや、あるいは――。
 独り言のような呟きが聞こえた、と思ったら、ナマエは彼に腕を強く引かれていた。
 ぐい、と。

「――え」
 一瞬、何が起きたのかわからなかった。
 ただ、ひどい息苦しさと圧迫感を覚えて、顔を背けようとしても、頑として体が動かなかったので、ナマエは焦った。
(息が……)
 苦しくて全身をばたつかせた時。
「そのまま死ぬ気か?」
 ぷは、と唇を塞いでいたものが唐突に離れ、ナマエの肺は新鮮な空気を求めて大きく息を吸い込んだ。
 と、くつり、と朦朧とするナマエの耳に、押し殺したような笑声が届く。はっとした時には、彼の端正な顔が目の前にまで迫っていた。
「ん……っ」
 反射的に目を閉じたナマエの口が、また封じられた。激しく貪られる。さらに奥まで熱が入り込んできて、ナマエは眩暈を覚えた。心臓がどくどく脈打っているのが解る。溢れた唾液が顎を伝い、そこでナマエは愕然となった。
 ――キスをされている。しかも、この前のとは比較にならないほど、激しいキスを。
 無意識に目の前の体を押し返そうとすると、逆に押し倒された。ぎしり、とスプリングが鳴ってナマエの体を僅かに押し返す。だが、すぐにまた沈み込んだ。押しつぶされてしまいそうなほどの圧迫感が襲う。
 唇を塞ぐひとの、舌がナマエのそれを絡めとる。吸われて、舌先でなぞられて、反射的に脊髄に震えが走った。唾液を流し込まれて、しきりに唇の端から零れ落ちる。
 だが、僅かに飲み込んだ彼の体液は、まるで媚薬のようにナマエの体を浮つかせる。硬直していた体から徐々に力が抜けていくのを感じながら、ナマエは半目を開けて上に覆い被さる人を薄らと見遣った。途端。
 目が、合った。
 思わず震えが走る。彼はいつも通りの冷然とした瞳でナマエを見下ろしていて、なんら乱れひとつない。ただ己の掌に落ちつつある女を、醒めた目で眺めているだけだ。ナマエはひどく侮辱された気分に陥った。
 かっとなった瞬間、ナマエはマールーシャの唇を噛んでいた。
「……っ」
 思わぬ反撃にあったマールーシャは、流石に身を離してかまれた唇を手で抑えた。やっとの事で自由を得たナマエは、その隙に何とかこの場から逃げ出そうと力の入らぬ体に鞭打って寝台の上を這う。
 が、あるいはそれも無駄な抵抗だと、ナマエは頭の端で理解していたのだ。
「っぐ」
 首根っこを捕まれ、先ほど以上に乱暴に寝台に押し付けられる。上から、男がのしかかってきた。逃げられない。
 ジャッ、とファスナーが下げられる音がした。薄い下着姿を晒されたナマエは、蒼白となって馬乗りになっている男の名を呼んだ。
「マールーシャ!」
 呼ばれた男はぴくりと反応したが、薄く笑うだけだ。黒い手袋をはめた手を伸ばして、ナマエを愛撫した。
「やっ」
 素肌で触れられるのとは違う、奇妙な感覚がナマエを混乱させる。
「やだ、いや、なにするのよ!」
「黙れ」
 耳に熱い吐息を感じた。薔薇のにおい。さらさらとした柔らかな髪の毛が、ナマエの敏感なところをくすぐっていく。思わず、自由なほうの手で彼の髪の毛を掴んで引っ張ると、すぐにやんわりと外されてしまった。
 ふいに、下腹に熱を感じた。見遣ればマールーシャが口づけを落としているところだった。徐々に降下していく。
 思わずかっとなった。
「やめて!」
 だが、静止を求める声はいとも呆気なく無視され、彼の指先はナマエの太股に触れた。急性に、上へと登ってくる。その指先の終着点に気付いて、ナマエははっと息を飲み込んだ。
「いや、っ、マールーシャっ!」
 ナマエはがむしゃらに腕を振り上げた。手に触れたクッションも手当たり次第に投げつけた。
「……ちっ」
 すぐにマールーシャが暴れるナマエを抑えようとしたが、容易ではない。
 だが、ふいに思い切り良く振り上げた己のつめ先が、がつりと何かを抉ったような感覚にこそナマエは我に帰って、そしてはっと息を呑んだ。
 マールーシャの頬に、一線の赤い傷。その端からすうと血が流れて、ナマエは怯んだ。
「――あ」
「雌猫め」
 己の頬を流れる血を拭い、マールーシャは悪態をついた。苛烈な瞳がナマエを見下ろしている。
 唐突に、すう、とナマエの顔から血が引いた。あれほど力の限り暴れても、己の上に乗っかっている男はびくともしない。それどころか、無駄に抵抗してさらに酷い事態を呼んでしまったような気がする。
 ナマエの怯えが伝わったのか、マールーシャはくつくつと喉を鳴らした。
「怖いのか、くっ、どうせ初めてではあるまい」
「……!」
 心ない一言は、ナマエの心を深く抉った。涙が溢れて、両頬へと流れ落ちる。
「な、んで、……こんな、こと」
 声は、震えて割れていた。ナマエの涙の軌跡をなぞっていたマールーシャは、残酷そうに微笑んだ。
「何で、だと? 理由が必要か」
 ナマエの唇が歪んだ。顔を覆いたかったが、生憎と両手は束縛されている。
 マールーシャはさらに微笑み、愕然とするナマエの耳元に毒を吹き込んできた。
「理由などない。ただ、お前は女で、私は男だからだ」
「そんな」
 苦痛を覚え、ナマエは目を背けたくなった。だが、おとがいを捉まれ、侭ならない。
「名など不要だ。意味も不要だ」
 乱暴に口づけられる。先ほどナマエが彼の唇を噛んだ時に切ってしまったのか、仄かに錆びた鉄の味がした。
「マール、っ……」
「呼ぶな。名など不要、と云ったであろう」
 唇を離されると、至近距離で、マールーシャのあの奇麗な瞳が。
 ――冷酷に告げた。
「お前は唯、女に徹すれば良い」
「いやあっ」
 瞬間、熱が入り込んできて、ナマエの身を一瞬にして焦がし上げた。
「痛い痛いっ! マールーシャ! マールーシャぁあ!!」
 熱い。熱い。
 熱が、彼の熱がナマエを途方もなく苦しめる。ナマエは泣き叫んで、男の名前をひたすら呼んだ。
 意識は痛みと熱に、翻弄される。濁流に流されるかのように、ナマエの体はすでに理性の元を離れ手の施しようがない。気がつけば、快楽がすぐ目の前に迫っていた。
 無意識に救いを求めて、目の前にあるあたかなものに縋りつく。すると、途端にそのあたたなものは、ナマエの全身を包み込んだ。
 ……急に安心感を覚えて、ナマエはふっと意識を手放した。
『――ナマエナマエ、……』
 幻聴が、何度もナマエを名を呼び鼓膜を震わせる。
 なんだか、彼の声に似ている。
「マールーシャ……」
 ――馬鹿だわ、彼の訳ない。名前なんて要らない、といったのよ。




 ふ、と目を覚ますと、ナマエは寝台の上にたった一人で横たわっていた。
 体を起こそうとすると、体の一部が痛んだ。思わず顔を顰める。上に掛けられていた夜具を除けると、己が服を着ていたことにまず驚いた。ご丁寧にも、彼が着させてくれたらしい。
 寝具の汚れは、取り除かれてシーツも新しいものに替えられていた。見渡すと、部屋の様子は訪れた時と変わらぬ静寂を保っている。一切が変わらない。まるで先ほどのことなど、なかったように穏かだ。
 ――だが、ナマエのこの痛みだけは、どうあっても取り除けない。
 体が痛んで、心が痛んだ。彼はナマエを放って、どこへ行ってしまったんだろう。彼が薄情な質であるとは解っていたが、これは流石に堪えた。彼はナマエを、置いていったのだ。
「マールーシャ……」
 目が醒めて、この場に彼が居なかったことが一番堪えたことに、ナマエは己で気付いていた。
 だが、仮に目が醒めて一番に彼を見つけたら、ナマエの理性が保てたかと問われれば、どうかは解らない。
「……」
 結局、これが一番良かったのかもしれない。彼は気まぐれに抱いただけで、ただ欲望のはけ口を欲しただけだ。ナマエが彼を非難しても、彼はきっと詫びる気配も見せないのだろうから。
 だったら、むしろいないほうが良かった。これ以上、胸を痛めずに済むから。胸を痛めずに……、否。
 だったら、この引き裂かれそうな痛みは、なんだ。
 ナマエは唇を噛締め、嗚咽を堪えた。苦しい。
「……心なんて、なかったら良かったのに」
 ぽつりと、思わず本音が漏れた。ナマエはこの瞬間だけは、そう本気で願った。
 心なんてなかったらいい。こんなに苦しいのなら――。
 と、ふわりと、芳しい香りが鼻腔をくすぐったような気がした。
「皮肉な台詞だな」
「……!」
 突然背後から声を掛けられ、ナマエは驚いて竦み上がった。恐る恐る振り向くと、片手に茶器がのった盆を持ったマールーシャが扉のところに立っていて、ナマエは硬直して声を失った。
「あ……」
 ナマエの顔が引き攣る。だがマールーシャは頓着せず、中に入ってきて盆をサイドテーブルの上に置いた。すぐ近くにマールーシャが来ても、ナマエは喉が凍りついたように、声が出ない。
 彼は、ティーカップを湯で温めてから捨て、茶葉を蒸らしてあるポットから紅茶を注ぎ始めた。白い湯気がくゆる。
「お前は心がある事を厭うていて、私は心を取り戻したいと願っている」
 淹れながら、マールーシャは独り言のように呟いた。ナマエはその言葉に、身を硬くした。
 ポットから、二人分の紅茶が淹れられた。黄金色の最後の一滴が、ぽつりと紅茶の海に沈む。
「些細な事にもいちいち傷つかねばならんのであれば、心があるのも一概に良いとも云えぬな。……いっそのこと、お前も私たちの仲間になるか?」
 問いかけに、ナマエは青白い顔のまま、辛うじて首を振った。
 マールーシャは、ふっと意味深な笑みを薄く浮かべる。
「飲め。幾分か気が休まるはずだ」
 カップを差し出され、恐る恐るそれを手に取る。一口啜ると、一層芳しい香りがナマエの緊張を一気に解した。ほっと、無意識に息をつく。
「体は平気か」
 出し抜けに問われ、思わず目を伏せた。
 ナマエの心はまだその質問に答えられるほど癒されてはいない。マールーシャはそれを承知で話題に触れたらしく、何も答えないナマエに機嫌を損ねた様子はなかった。
 だが、よもや彼の口から次の言葉を聞けるとは思いもしなかったナマエは、ひどく瞠目する事となる。
「先ほどは悪かった。お前を、傷つけてしまった」
 びく、とナマエが震えた。
「……。……どうして?」
 暫し凝然とマールーシャを見詰めていたナマエが、ふと疲れたように視線を落とし問う。どうしてあんな事を。
 どうして――。
「私こそ問おう。なぜ、あんなことを云った」
 だが、案外厳しい口調で逆に問い返され、ナマエは暫し何のことか解らず黙した。
「……あんなこと?」
「解らぬ、か。お前は愚かだな」
 くつり、と苦笑に似た微笑を彼が浮かべる。愚かと言いながら、なぜかナマエを見詰める視線は柔らかい。
 ナマエが凝然とマールーシャを見詰めていると、ふいに彼が指先を伸ばしてきたので、反射的に怯えて身を引いた。
 マールーシャの伸ばした手は、行き場を失って落ちる。今度こそ、彼ははっきりとした苦笑を浮かべた。
「愚かで、単純だ」
 唐突に、ずきりと胸が痛んだ。そうであるはずがないのに、ナマエは手酷く彼を拒絶したかのような錯覚に陥ったのだ。
 ナマエはマールーシャの横顔を眺め、何かを云いかけたが、開いて思い直したように口を閉じた。

ナマエ
 静かな声で呼ばれ、ナマエはゆるりと顔をあげた。
 マールーシャは、じっとこちらを見詰めている。
「トラヴァースタウンというところがある」
「トラヴァース……?」
 聞きなれない言葉に、ナマエは首を傾げた。
「お前のように、故郷を失った者が集まる街だ」
 云って、彼はゆっくりとナマエから目を逸らす。まるで疚しい事があるかのように――。
「……ゆくか?」
「え?」
 短く告げられた一言が、一瞬、何を意味しているのかナマエには解らなかった。
 ただ、彼からいつもの自信にみちた覇気が消えうせているのが、気になっただけだ。
「ここにお前の休まる場所はない。私も、お前を傷つける」
 ナマエはゆっくりと目を見開いた。
 彼が何を云わんとしているのかを漸く理解して、ナマエは愕然とした。彼は、まさかナマエを手放そうとしているのだろうか。
 まさか、――まさか、そんな。
 瞬間、頭が真っ白になった。
ナマエ?」
 マールーシャの戸惑った声がする。気がつけば、ナマエは必死になって彼にすがり付いていた。体が意志を無視して彼を求めている、温もりを求めて震えている。
 ナマエは、嗚咽を殺して囁いた。
「守ってくれているんでしょう……? 無理してまで」
「それは」
 マールーシャが言葉に詰まった。ナマエは益々彼にしがみ付く。振り払われまいとして。
「なのになんで、そんなに簡単に手放そうとするの?」
 ぎゅ、と革の擦れる音がした。彼の胸に顔を埋めるナマエを、薔薇のにおいが包み込んだ。安堵する。
 既にナマエにとってこの香りは、身近にあるべきものとなっている。
 ナマエ、と彼の声が戸惑うようにナマエの鼓膜を震わせる。反射的に、ナマエの心は躍った。彼に名を呼んでもらうことの、なんと幸せなことだろう。
 どんなに乱暴に扱われようが、冷たく接されようが、それでもナマエは彼を受け入れてしまう。
 もう、私はこのひとの側を離れらない。本能で、ナマエはその事実に気付いていた。
「側に、」
 続けようとして、声が震えた。たった一言言葉を紡ぐのが、こんなに困難なこととはナマエは知らない。
 "それ"を彼に告げることの、なんて滑稽なことは分っているつもりだったが、だがナマエは告げずには居られなかった。迸るこの想いに蓋をしめることは何者にも出来はしない。
 真摯にマールーシャを見詰めるナマエの瞳は涙に濡れている。彼は、何か脆いものに触れる仕草で、そっとナマエの頬を包んだ。頬に温もりを感じ、ナマエは目を伏せる。
「マールーシャの、側にいさせて。私は……」
 私は。
 私は、どうしようもなく、彼を、愛している――。
 この時、ナマエはその事実を思い知った。
 もう、自分はどうしようもない深みまで足を踏み入れてしまっている。

「私は、あなたの事が――」



決着をつけるのはあなたしかいない