幕 間
薄汚れた手記





『――長い夢から目覚めた時、まず一番初めに見たのがあなたではなかったことに少しがっかりしている私がいました。
 でもその代わり、あなたからの素敵な贈り物が私の目覚めを待っていてくれました。そう、ジーナさん。あなたの乳母だった素敵な方。穏やかで品があって、優しく親しみやすい彼女の事をすぐに大好きになってしまいました。
 ジーナさんとはよく気があって毎日楽しく暮らしています。これも全てあなたのおかげです。彼女と引き合わせてくれたことに、とても感謝しております。

 あなたが突然私の部屋を訪れたあの夜から、一体どれくらいの時が流れたのでしょうか。
 あなたの目の前で目を閉じて、眠りに落ちて。目が覚めると、そこは見知らぬ土地でした。見知らぬ部屋、見知らぬお屋敷、見知らぬ景色。ここは眠りに落ちる前とはなにもかもが大違い。
 あなたは一体どんなマジックを使って、私をあのお城から脱出させてくれたのでしょうか。まるでおとぎ話に出てくる魔法使いのように、鮮やかなお手並みで私を救い出してくださったのでしょうね。是非ともそのお手並みを拝見したかったのに、当の私は呑気に眠りこけていたので、あなたの勇姿を見ることが叶わずとても残念です。

 あなたが連れてきてくれたこの場所は、とても素敵なところです。緑に囲まれた小さなお屋敷は、静かで常に穏やかな時間が流れています。
 ここに来た当初、荒れていたお庭はもうすっかり綺麗になりましたよ。花壇には好きな花の種を植えたので、芽が出るのが今から楽しみです。ジーナさんと一緒にお庭を綺麗にして、野菜を育てて。もちろんお屋敷の中もすっかり綺麗になりました。慣れない力仕事だったけど、体を動かすのはとても楽しかったです。
 お洗濯だって自分でします。ここには何でもお世話をしてくれる使用人はいませんからね。ごしごしこすって汚れが落ちていくのは楽しいけれど、手の力がないせいで、ぎゅっと水気を絞るのが苦手で毎回ジーナさんに笑われてしまいます。握力ってどうやったら鍛えられるんでしょう?
 それとお料理も。ジーナさんに少しずつ教わって、今お勉強をしている最中です。あなたはフルーツサンドがお好きだったとジーナさんに伺いました。今度あなたがお見えになった時に、是非作って差し上げたいと思っています。でもお庭で採れたイチゴを使う予定なので、ちょっと酸っぱいかもしれません。
 なんにせよ、身の回りの事を自分ですることの大切さをここに来てから学びました。例えばお料理がおいしく出来たとか、小さなことでも自分で何かを成し遂げるというのは成長の糧になります。
 ここには私を拒絶する人はいない。なにより、自由です。私の行動に逐一目を光らせる人も、私の失態を笑う人もいません。ここにきて、今まで他人の目をどれだけ気にして委縮していたかを思い知らされました。

 あ、そうそう。少し前、お庭の一角に鶏小屋を作っていただいたんですよ。さすがに女手二人では大工仕事まではこなせなかったので、近くの(とは言っても歩けばかなり距離はありますが)村の方に来ていただいて、建ててもらったものです。卵を自給自足するためにと飼い始めた鶏さんたちでしたが、昨日なんとひよこが生まれたのです。それがとてもとても愛らしくて、こうやって机に向かっていても思い出しては顔が綻びます。産毛がふわふわな雛が……あ、余計なことまで思い出してしまったので、ひよこの話はこの辺で終わりにしましょう。

 ……ああ、どうもあちこち話題が飛んでしまいますね。とはいっても誰にも見られることはないだろうから、そんなことは気にしなくてもいいのでしょうが。
 あの冷たく孤独な部屋から抜け出して結構長い時間が過ぎたけれど、いまだに時間をうまく使うことができず持て余してしまいます。することがある時はいいのだけれど、いったん手持ち無沙汰になってしまえば、あの部屋のことを思い出してはぼんやりとしてしまいます。
 それを見かねたジーナさんが日記をつけることを勧めてくださいましたが、誰宛でもない文章を書くのは無味乾燥なものに思えてしまい、三日と持たずペンをおいてしまいました。
 なので今日はちょっと気分を変えて、あなたにお手紙を書いているつもりで久しぶりにペンを取りましたが、これって結構楽しいですね。これならまた書けるかもしれません。……分かっています、これは決して届くことのない手紙です。だから私の好きなように、好きなことを書きます。
 ここにきて、色々なことが変わりました。
 最初はなにもかもが新鮮で、灰色だった世界は色鮮やかで、とても優しくて。これは夢の続きではないかとも疑いました。長く自由を奪われた生活の中で、すっかり疑り深い性格になってしまったようです。
 ここはまさしく夢のような世界です。世間から取り残された空間のように、同じ時間の流れを幾度も繰り返している。王都の喧騒などまるで別世界のよう。
 最後にあなたの姿を目にしてから、もう長い時間が過ぎました。

 どうして。
 どうしてあなたは顔をお見せになってくれないのでしょう。せめて一言、お礼を言わせてほしいのに。
 片が付いたら迎えに来る、とあなたは仰ったと伺いました。それはどういう意味なのでしょう。なにか、しでかすつもりなんでしょうか。それは良くないことなのでしょうか?
 あなたに聞きたいことが沢山あります。伝えたいことも。
 ここに来てから、あなたのことを考える時間が増えました。
 ……本当はあの夜、あなたの言葉を心の底から信じた訳ではありませんでした。陛下に命を狙われている、というのもあなたの狂言ではないかとも疑いました。
 あなたの手が私の首に触れた時、このまま殺されるかもしれないと一瞬思いました。でも、こうも思いました。このままあなたの手にかかって死ぬのなら、それでもいい、と。きっと心のどこかで、諦めかけていたのでしょうね。
 けれどあなたは約束を守ってくださいました。夢にまで見た穏やかな生活をくれた。それで、ふいに思い出しました。いつだって私を守ってくれたのは、あなただったと。
 でも、だからこそ余計にあなたが分からない。優しくしてくれたと思ったら、急に手のひらを返されて、あなたはとても冷淡になった。それ以上にひどいことも、……。

 グレイグ様に命を救われて、デルカダール国に保護されて。初めてあなたに会った時、なんて華やかなひとなんだろうと思ったことを覚えています。
 こまやかな気配りは貴公子のようで、さぞ色々な方からお声を掛けられているのだろうと思いました。事実その通り、お城のあちこちであなたとグレイグ様のことを耳にしました。ええ、あなたたち二人は、あのお城の中で皆にとって特別な存在でした。
 だから私は立場上、本当はあなたたちと距離を置くべきだったのかもしれない。
 でもあなたたちが……あなたがとても優しくしてくださるものだから、私はその手を離したくなかった。離して欲しくなかった。私はあなたの特別になりたいと、密かに思ったこともあります。
 だって仕方がないでしょう。あなたはとても魅力的で、そのうえ私を見つめるあなたの瞳が、そう勘違いをさせるのだから。

 あなたにひとつ、謝罪することがあります。
 今更だけど、本当に今更だけど。
 あなたの求婚を、受ければよかったかもしれない、とこの頃になって思います。私はあの時自分の事で手一杯で、あなたの心情まで汲み取ることができませんでした。
 もしかしたら、……いえ、もしかしなくても、傷つけてしまいましたよね?
 もしそうだとしたら、本当にごめんなさい。
 今更薄情な女とお思いでしょう。でもあの時、本当にあなたのことが分からなかった。怖かった。あなたに投げかけられた鋭い針のような言葉も行為も。全てに臆病になっていて、結果あなたを拒絶した。
 けれど、もしかしたらひどい思い違いをしているのかもしれないと、ここに来てあり余る時間の中であなたの事を考えていて、ふとそう思いました。最初から全て、そもそもの前提からして間違っているのかもしれないと。
 あなたは何も話してくれなかったけど。もしかしたら独りで抱え込んだ何かがあったのかもしれない。ガルーダに攫われた時だって、結局助けに来てくれたのはあなただった。
 あの時されたことは、いまだに受け入れがたいけど、でもいつだってあなたは無駄なことはしない人だった。だからあれは、もしかして、必要なことだったのでしょうか……?
 ……だめ、想像がつきません。やっぱりあなたの考えていることは分からないわ。普通に求婚してくださるだけでは、ダメだったのでしょうか? そしたらきっと私、喜んで受け入れていたと思います。
 もしあの時あなたの求婚を受け入れていたら、今頃どんな生活を送っていたのでしょうか。あなたは毎日、私の隣にいてくれたのでしょうか。

 ええ、多分もう十分察していただけたと思うのですが、私、あなたがいなくて寂しくて仕方がないです。
 この夢のような素敵な場所に、あなただけがいない。あなただけが足りない。
 あなたが傍にいなくなって、ぽっかりと心に穴が空いたようです。
 とてもさみしい。あなたの声を聴きたい。ちょっと不器用なあなたの笑顔が、とても恋しい。
 あなたが恋しい。
 ……こうやって文字にしたためて、初めて私があなたのことをどれだけ想っていたのかを自覚できたような気がします。やっと吐き出せました。胸につっかえていた、辛いこの想いを。
 あなたがくれた沢山の贈り物に、まだ全然お礼を返しきれていません。私はあの孤独な部屋で、あなたという存在を支えに生きていました。あなたに依存していたし、あなたもそれを許してくれていた。あなたはきっと、私に心を許してくれていたんでしょう。大切に扱ってくれた。まるで特別な存在であるかのように。
 だからこそ、確認しなければいけないのです。
 あなたの本当の気持ちを。
 願わくば、あなたが私に向けてくださる感情が、全部私の思い違いでなければいいけれど。
 私、思いあがっているだけでしょうか? 分かりません。あなたは何も本当のことを語らないから。
 あなたに会いたい。会って、真実を確かめたい。そして、あなたに告げたい。

 ――ねえホメロス様、私、あなたのことを、』


 ポツッ、と書きつけていた紙に水滴が落ちた。文字のインクがじわりと滲んだのを見て、ペンを持つ手が止まる。書きながら途中でなんだか悲しくなってきて、それが涙となってこぼれ落ちてしまったようだ。
 ナマエはふと溜息をつき、紙面から顔をあげて指の腹で眦に溜まった涙を拭った。行き場のない感情を紙の上に吐き出したら少しはすっきりするかと思えば、次から次へと押し込めていた想いが溢れて止まらなく、感情を揺さぶられすぎて気が付けば頭が少し疲労を訴えていた。
 もう一度溜息をついて今日はもうここまでにしようと日記を閉じた時、自室の扉がノックの音を響かせ来客を告げる。
ナマエさん、今いいかしら?」
 扉の向こうから聞こえてきた声の主は、無論ジーナだ。どうぞ、と促せば、かちゃりと扉が開いて見慣れた白髪の老婦人が顔をのぞかせる。
「どうしたのですか? なんだか嬉しそう」
 ジーナはいつも以上に機嫌が良いようだった。
「うふふ、実はさっきね、村の方に蜂蜜を分けてもらったの。お昼にホットケーキなんていかが?」
 ジーナの提案にナマエは目を輝かせた。この辺境の地では、蜂蜜は中々手に入りにくい食材のひとつだ。
「わあ、素敵ですね。私、卵を取ってきます」
「ふふ、ついでにひよこも見にいくおつもりでしょう? 台所で準備をしているから、あまり遅くならないようにね」
 どうやらジーナには行動が読まれているようで、ナマエは悪戯が見つかった子供のように鼻先に皺をよせて笑い、「はぁい」と間延びした返事をして部屋を出た。
 日よけの帽子をかぶり、籠を持って外へと出かける。季節は春、庭園は鮮やかに色づきはじめていた。
 ジーナとの穏やかな日々が始まってから、季節は何度か巡った。
 最後に会ってから、ホメロスは一度もここに顔を見せに来なかった。最初は彼がいつ訪問してくるのかと落ち着かなかったが、この頃になるとナマエはすっかり諦めていた。ホメロスとのコンタクトはジーナであっても難しいらしい。村の人に頼めば王都にまで手紙を出すことはできたが、下手に連絡を取ろうとしてここの場所を城の誰かに知れるとまずい。となれば彼からの接触をひたすら待つしかない。だがそれすらもなく、ジーナがたまに聞かせてくれるホメロスの幼い頃の話がこのごろ唯一の慰めとなっていた。
 けれどふと朝起きると、時折彼の纏っていた香りを一瞬感じることがある。それもきっと寂しさが見せる幻だろう。
 レンガで舗装された小道をナマエは庭園を見渡しながら進む。北の空には、今日も命の大樹が青々と輝いている。のどかな午前のひと時だ。

 ――眠れぬ魂は独り 魔物に怯え闇にさ迷う
 お眠り あいつがおまえを見つける前に
 お眠り あいつがおまえを攫う前に
 夢の中に逃げ込んだら もうおまえだけの世界――

 無意識に口ずさんだそれは、いつかマルティナの墓標の前で歌った故郷の子守唄。魔物の恐ろしさを歌い、子供達にその恐怖を知らしめるのがこの子守唄の本質だ。と同時に、ひとりぼっちの迷える魂が、自分だけの世界に閉じこもりその孤独に魅入られる恐ろしさをも示唆している。この屋敷は自由に見せかけて、その実箱庭のようなところだ。デルカダール城の牢獄を抜け出して自由を手にしたかと思えば、実のところホメロスが用意したこの美しい箱庭へと閉じ込められただけだった。ナマエは結局自由を制限されたまま、どこへも行けないのだ。その己の状況を無意識下で理解して、この子守唄を口ずさんだのかもしれない。

 ――おとぎの世界はおまえを抱いて 醒めぬ夢に踊り続ける――

 だが少なくとも、ここは以前の白い牢獄よりは随分ましだ。
 鶏小屋へと到着すると、ナマエは柵を開けて中へと入った。小屋の中では鶏たちが我が物顔で地面に散らばる餌をついばんでいる。奥の隔離されたスペースに黄色くふわふわの雛たちがちらりと見え、ナマエの頬は緩んだ。
 鶏達の食事の邪魔をしないようにそろりと歩きながら、地面に産み落とされた卵を拾い上げ、籠に入れていく。
 二つ、三つ。拾っては、割れないように籠の中にそっと置いて。
 もうひとついるかしら、と四つ目の卵を拾い上げたとき、ふいに足元がぐらりと揺れた。
「あっ!」
 驚いて、思わず手のひらから貴重な卵が滑り落ちていくのを許してしまった。ぐしゃりと地面に衝突した卵はあっけなく割れ、白い殻と透明な白身と鮮やかな黄身が、土の上で絵の具のように混ざりあった。
 ここら辺にしては珍しい揺れは、最初地震かと思ったがそうではなかった。
 ゴゴゴ、と凄まじい地響きが空気を震わせる。
 直感的に、なにか良くないことが起きたのだと悟った。慌ててナマエは籠を地面に置いて鶏小屋をまろび出、そして空を見上げたその目が信じられない光景を捉えた。
 ――大樹が。
 ロトゼタシアのすべての生命の源である、命の大樹が。
「――うそ」
 すっかり夜色に染まった空に、闇を孕んだ赤い閃光がカッと走った。命の大樹の上に禍々しい力に満ちた光が降臨し、大樹に宿る生命をすべて吸い取るように妖しく輝く。
 蒼緑の葉が無残に散っていく。たくさんの命の灯火が、力尽きようとしていた。
「ああっ、そんな、大樹が……!」
 生命を全て吸い尽くされた後のすっかり朽ち果てた大樹が、無残な枯れ木のような姿で地上に向かって堕ちていく。
 ロトゼタシアの悠久の空に浮かぶ大樹が、今、その役割を終えようとしていた。
ナマエさん!? この揺れはいったい何が……っ」
 屋敷から飛び出してきたジーナがナマエを見つけ、こちらに駆け寄ってくる。
「ダメッ!!」
 いけない。咄嗟にナマエは叫んだ。ここは大樹に近い。墜落の余波がここまで到達することは容易に想像できた。
 ジーナの元に駆け寄ろうとして、しかし揺れがひどくて立っていられず、ナマエはまろぶように地面に手をついてしゃがみ込んだ。
「ジーナさん、中へ戻って! 早く!!」
 叫んだ瞬間、ゴウッ!! と凄まじい爆風が、ナマエの体を襲った。