第十三話
誰がオフィーリアを殺したか・後篇





 なにがあろうとも、それでも静かに夜は明けてゆく。
 ホメロスは城の地下、安置所にいた。簡易礼拝堂を兼ねたそこはじめじめとしていて足元には鼠が走り回るほどの不衛生さだ。ホメロスは昨夜から一睡もせずこの安置所に詰めていた。幸いなことに目はこれ以上なく冴えており、その視線は先程から僅なりとも目をそらすことなく目の前のものに注がれている。
 普段ならば獄中死した罪人や下級兵の遺体を検死するための粗末な木製の板張りの上に横たえられているのは、この場に場違いなほど綺麗なシルク製の布地に包まれたユグノア王女の躯だった。
 その隣に、遅れて運び込まれた件の見張り兵の遺体が横たえられている。どうやら損傷が激しかったらしく、遺体を包む布にあちこち血が滲んでいた。
 むっとするような死の匂いに包まれる中、ナマエはとても穏やかな表情で目を瞑り、死んだようにぴくりとも動かない。冷たい肌、色を失った頬、乾いた唇。どれもが彼女の死を匂わせている。だが色を奪われてもなお、ナマエはとても綺麗だった。いっそ、ぞっとするほどに美しい。
 先程、夜明けとともにデルカダール王がここを訪れた。王はナマエを一目見て、確かめるように首元の脈を探ってから満足げにホメロスを見て頷いた。よくやった、と。
 ……どうやら騙されてくれたようだ。
 安堵の感情を誤魔化すように頭を下げ一礼したホメロスに、王はナマエの葬式は取り行わないと告げた。どうせ世間から忘れ去られた王女だ。このまま神父の到着を待って、祈りを捧げて城の敷地内にある墓地に埋葬せよ、との指示だった。王は続いて並んで横たえられていた兵の遺体の方もちらと一瞥した。ホメロスがナマエの死因を説明したが王はあまり興味を示さず、兵を罪人として裁くようにとだけ告げて去っていった。
 再び室内に静寂が訪れる。
 神父はまだ来ない。別部屋では急ぎ、ナマエのための棺を用意させている。
 しばらくして、ホメロスの耳が音を拾った。
 ガチャガチャと武具同士がぶつかる喧しい音が地下の石壁に反響しているようだ。ややあって、バン! と扉を壊さんばかりに開き放って現れたのは。
「グレイグ」
 扉の前に立ち尽くす大きな体の男の、そのくっきりとした新緑色の瞳が零れんばかりに見開かれ、ホメロスの目の前に横たえられた人に視線が注がれている。グレイグはホメロスの呼びかけが聞こえていないかのように、ふらふらと覚束ない足取りでナマエに近寄った。
「――ナマエさま……。なんと、……っ」
 青白いナマエの顔を見下ろし、グレイグは喉を詰まらせる。新緑色の瞳から流れた涙がポタリとナマエの頬に落ちて肌を濡らした。
「なんとおいたわしや……!」
 グレイグはその大きな背を小さく丸め、枕元に突っ伏しておいおいと慟哭する。あまりの嘆きっぷりにホメロスは眉をひそめたが、きっと幼いマルティナ姫の死を思い出してでもいるのだろう。
 ホメロス、とふいに名を呼ばれる。声の方へと視線をやると、ゆらりと立ち上がったグレイグが真っ赤な目でこちらを睨みつけていた。なんだ、と応えた瞬間、急に胸倉を強く掴まれた。
「……何故守らなかったッ!!」
 吠えかかられる。
 ホメロスは瞠目し、そして目の前の赤い目をした男を強く睨み返した。
「もう手遅れだ、グレイグ。なにもかもな」
 グレイグの糾弾が理不尽なのは、二人とも承知していた。真夜中の兇行だ、ホメロスに止められるわけがないとグレイグは知っている。だがグレイグの中で生まれた後悔の念が、誰かを責めずにはいられなかったのだ。ホメロスもそれをよく理解していた。
 だからグレイグが拳を振り上げた時、ホメロスは胸倉を掴む友の手を払うことしなかった。威嚇するように振り上げられた拳をちらりと一瞥し、そして友のひどい顔を見てふんと不遜げに鼻を鳴らす。挑発にカッとなったグレイグはそのまま拳を振り下ろした。
 避けようと思えば避けられた。
 だが、ホメロスは避けなかった。
 ガツッと予想よりは弱い衝撃が頬を襲い、脳が揺れて足元がふらつく。それでも倒れるほどの衝撃ではない。口の中が切れたのか、錆鉄の味が口内に広まった。
 大人しく殴られてやった己の殊勝さにチッと舌打ちし、口内に溜まった血を床に吐き出し今一度グレイグを見る。
「うんざりだ……、こんな、こんな……ッ!!」
 グレイグは激情をぶつけるように思い切り壁を殴りつけ、手負いの獣のように吠えた。

 午後に遅れて神父がやって来て、祈りを捧げたあとナマエの躯は棺に納められ、封がされた。神父の到着が遅れたことにより、ひとつ問題が起きた。今から埋葬するとなると夜になってしまう。魔のものが蠢きだす時間帯の埋葬はあまり好ましくない。神父の指示により夜の埋葬は控え、次の日の朝を待ってナマエを埋葬することにした。
 ホメロスは当然のように寝ずの番を買って出た。二日連続の徹夜にグレイグはホメロスの体調を案じたが、その心配を跳ね除け安置所に篭った。グレイグは去り際、ホメロスを理不尽にも殴ってしまったことへの謝罪を述べ、腫れた頬に回復魔法を唱えていった。律儀な男だ、と思う。
 多少の無理を押して寝ずの番を買って出たのには、訳があった。それは誰にも気づかれることなく、棺の中の遺体を入れ替えること。今ここで、ナマエの躯をどこぞに隠してしまってもよかったが、埋葬するときに棺が妙に軽ければ墓守人に怪しまれる。だからナマエに似たような背格好の、“代理“が必要だった。
 ホメロスは人通りの少なくなる夜中を待って、変装をして城を抜け出し下層へと向かった。幸いなことに、下層に降りれば死体などそこいらにごろごろ転がっている。金に薄汚い連中がわんさかいるところだ、金を積めばなんだって買える。
 仲介人はすぐに見つかった。死体売買を生業としている男のようだった。男は下層に似つかわしくない小綺麗な格好のホメロスを見ても、ニヤニヤ笑うだけで根掘り葉掘りこちらの事情を尋ねてくることはなかった。男にとって金払いがよい客は歓迎だ。デルカダール城を出入りしているお上品なお貴族様の中には、変態趣味の金持ちも少なくはない。おそらく死体愛好家も珍しくないのだろう。男の妙に手慣れた様子を見て、漠然とそう思った。きっと自分も同類に見られているのかもしれない。そう思うと不愉快ではあったが、こんな掃き溜めの人間からどう見られようと彼にはどうでもよかった。
 ホメロスが買い求めたのは妙齢の女性の遺体だ。だが男が運び込んで来たのは二日ほど前に病で亡くなった娼婦だ。少し年嵩だが仕方がない。遺体を麻布の袋に詰め、人目につかないよう城に運びこみ、安置所に戻り棺の中身を入れ替える。ナマエの躯は粗末な麻布に包み直し、木を隠すなら森とばかりに検死が終わって焼却を待つ犯罪者たちの遺体の山に紛れこませた。……このことは、死ぬまで彼女には黙っておこう。
 そして朝を待って埋葬に立ち会い、昼まで溜まっていた執務を軽くこなし、昼時の人の気配が少なくなった時を狙って一気に出立の準備を進めた。ナマエの躯を遺体の山から救い出し、城に出入りしていた業者に金を握らせ、彼女を樽に隠して荷車で城から運び出させる。
 四半刻後、一般兵に扮したホメロスは手綱を握り、城下町の門の前に立っていた。傍の馬には、大きな麻袋が鞍に乗せられている。
 目の前にそびえ立つは、デルカダール城塞の門。頭部を覆う兜の隙間から見える立派な門を見上げ、跳ね橋の向こうに続く広い街道をしばし見つめる。
 この跳ね橋の向こう側を歩くことを、ナマエはいったいどれだけ渇望したのだろう。
「――さて、行きましょうか。ナマエ様」
 今日は彼女が待ちわびた出立の日だ。
 だが彼の呼びかけに応える声は、ない。
 街中の喧騒を背に、ホメロスは静かに一歩を踏み出した。



 二時間ほどかけてたどり着いたのは、ユグノアとデルカダールの国境にほど近い山間の村の、更にその奥を進んだところにある小さな屋敷だった。柵で囲まれた屋敷の敷地に小さな庭園があり、草がぼうぼうに生い茂っている。ホメロスがいつかナマエと暮らしたいと願い、その生活の場として思い描いていた屋敷の理想にそっくりなのがまた癪だ。鬱蒼とした山間部を抜け、開けた場所にあるその屋敷からはドゥーランダ山の青々とした稜線が見渡せるほど景色がよく、北の空にはくっきりと命の大樹が浮かんでいるのが見える。静かな良い場所だった。
 時は二時間前。デルカダールを出てしばらく進んでから、ホメロスは移動魔法を使ってこの山間の村の近くの寂れた教会へと一気に飛んだ。そこで教会の一室を借りて、麻袋からナマエを解放し、旅人用に用意された粗末なベッドの上に彼女を横たえた。
 ナマエの時を止め続ける時の砂をその手から取り上げ、再び彼女の時が流れるよう祈りを捧げる。その祈りに応えるように、ホメロスの手のひらに乗る砂時計がパキリと小さな音を立てガラスの器にヒビが入り、時の砂はその役目を終えたようだ。
 こほっ、と色を失ったナマエの唇が、小さく空気を吸い込んだのはその時だった。
 ナマエの時間が再び動き出したことを確認して、ホメロスは安堵から肺に溜まっていた空気を全て吐き出すようにため息を吐いた。ここに来て、ようやく肩の荷が降りて深く脱力する。だがあいにくゴールはまだ先だ。
 浅い呼吸が戻ったとはいえ、彼女はすぐには目覚めなかった。未だ土気色の残る小さな唇に貴重な世界樹のしずくを数滴垂らし、ホメロスはこんこんと眠るナマエを抱きかかえ、教会を出立した。
 そこから馬に乗って小一時間ほど、ようやくこの目の前の屋敷にたどり着いた。
 ここを訪れたのは、実は初めてではない。久しぶりに見た屋敷を前に、なんの感慨も湧かない自分にホメロスは苦笑を浮かべた。
 というのもここら一帯はかつて父が所有していた土地で、目の前の屋敷もまた父の所有する別荘邸だったからだ。残念ながらホメロスが幼少の時に家が没落し、所有していた土地も屋敷もすべて国に没収されてしまって以来、ここを訪れていない。ここを訪れたのもまだ小さかったからだろう、この屋敷についての記憶は曖昧だった。しかし記憶のどこかで覚えていて、それをずっと頭の隅で引きずっていたような気もする。
 なにぶん辺鄙な場所にあるせいで、この屋敷のことを知るものは村の人間と、そのほか一部の人間に限られている。ホメロスはナマエを匿う場として、代理の人間を立て、偽名を使いここを買い取った。
 王都の人間はこの山間部に村があることをほとんど知らない。だから大丈夫なはずだ。
 ウルノーガにさえ、見つからなければ。

 ホメロスは屋敷の格子門の前で馬を降りた。片手でナマエを抱え、もう片方の手で器用に手綱を適当な場所にくくりつけ、鍵の外れていた格子門をそっと押しひらく。キイ、と蝶番が軋んだ音を立てた。
 ホメロスはすぐには屋敷には入らず、ナマエを抱えて敷地内の荒れた庭園へと足を踏み入れた。花やら草やらが生い茂る中を、まるで彷徨うようにひたひたと練り歩く。腕の中にある、人ひとり分の重さを愛おしむようにしっかりと感じ取りながら。
 奥の菜園らしきスペースに、ひとりの老婦人がしゃがんでなにやら作業をしていた。土を整え、種を植えている段階なのか、まだその菜園には芽すらも出ていない。
 ホメロスはその少し丸まった背に向かって、ジーナ、と呼びかけた。
 驚いたように老婦人は振り返り、ホメロスを認めてにこりと上品に微笑んだ。ホメロスの記憶の中にある人の笑みと、目の前の白髪の婦人の笑顔とが重なった。
「まあ坊っちゃま、お久しぶりでございます」
「その呼び方、懐かしいな」
 はるか昔の愛称で呼ばれホメロスは苦笑した。
 この婦人こそがナマエの世話役として遠くダーハルーネから呼び寄せた人物だった。幼少期、まだ両親が健在だった頃、彼女はホメロスの乳母をしていた。暖かなダーハルーネで余生を過ごしていたジーナのもとに手紙を出して、とある訳ありの女性の世話を頼めないかとホメロスが懇願したのはつい数日前だ。事情を詳しく説明するわけにもいかず、ただのやっかいな頼みごとになってしまったが、昔からホメロスにはなにかと甘いジーナは何も尋ねず引き受けてくれた。
「すまないな、ジーナ。妙なことを頼んでしまって」
「構いませんよ、坊っちゃまの頼みとあらば。ちょうど私も、二年前に旦那をなくして寂しくしていたところです。さあ屋敷の中へどうぞ。大急ぎで中を整えましたが、まだ全然掃除が終わってないのです」
 誘導されるがまま、ホメロスは屋敷の中へと足を踏み入れた。
 薄暗い玄関を見上げる。高い天井につけられたシャンデリアには、蜘蛛の巣が張っていた。壁のあちこちに飾られた絵画にはいまだ白い布がかかっている。ずっと放置していた間中に降り積もった埃が我が物顔で宙を漂っており、ひどく陰気な空間に見えた。記憶の中にある煌びやかな屋敷の様相とは、似ても似つかない。
 幸いにもジーナに通された居間は明るく清掃が行き届いており、カーテンも洗濯をされた後なのか日差しを浴びて白く輝いて見えた。
 ようやくまともに生活出来そうな空間を目にして、ホメロスは安堵してソファにナマエをそろりと横たえる。名残惜しむように彼女の頬を撫でていると、ティーセットを運んできたジーナがナマエを一瞥し、やや不安そうに眉尻を下げた。
「その方が例のお嬢様で?」
「ああ」
「生きておられるのですか? こう言ってはなんですが、なんだか心配になるほどお顔が真っ白で」
 ジーナの不安はもっともだった。まだナマエの頬は、その輝くような薔薇色を取り戻していない。
「心配ない。じき、目覚める」
 先ほど、脈は確かめた。貴重な世界樹の滴も呑ませた。呼吸もしている。だからなにも心配はないはずだ。なにも……。
 焦燥によるものか、ナマエの額を撫でるホメロスの指先に、じり、と無意識のうちに力が入る。
「この方は、ぼっちゃまの恋人なんでしょうか?」
「……ああ、とても大切なひとだ」
 ホメロスはジーナの問いかけに、曖昧に答えることしか出来なかった。
 そろそろ城に戻らなければまずい。ホメロスは出された紅茶を辞退し、すぐにでも出立するべく立ち上がる。
 お嬢様のお目覚めを待たなくてよいのですか? とのジーナの言葉に、ホメロスは首を横に振った。一度でも彼女の目を見て、その声を聴いてしまえば、ここを離れがたくなるのは目に見えている。
「そうですか……。では、またここにお寄りになるのでしょう?」
「そうだな……、いや」
 頷きかけ、すぐに考えを改める。

「――全て片が付いたら、迎えに来ると。そう彼女に伝えてくれ」