第十話
籠の鳥・後篇





(ああ……どうしよう、緊張してしまう……)
 たった三歩の距離にホメロスがいる。
 彼と二人きりのこの状況は随分と久しぶりだった。将軍になってからホメロスはますます遠い人になってしまった。彼があまりに輝いて見えるものだから、隣にいることに委縮してしまう程だ。以前の自分はホメロスにどう接していただろう。
 などと内心大いに尻込みしながらこっそりと隣を窺うと、ホメロスが無表情でこちらを見下ろしていることに気付いてぎくりとした。先ほどまで彼の頬に張り付いていた微笑は、きれいさっぱり削げ落ちている。
「なぜ見合いなど」
 どこか咎めるような声色でホメロスが切り出した。
「……わかりません、私も大臣に急に言われたもので」
「大臣?」
 怪訝そうにホメロスの眉根に皺が寄る。
 どうやら彼の機嫌はあまり良くないようだ。原因はきっと先程のジエーゴの発言だろう。将軍として忙しくしているのに、そこにナマエのお守りまで任されたのだ。いくら面倒見が良くても、流石にそこまでの義理はないのは良く分かっていた。
「……あの、ジエーゴ様が仰ったことは、気にしないでくださいね。これ以上、私のことでご迷惑をおかけする気は全くありませんから」
 無論そんなつもりもないナマエは遠慮気にそう切り出す。彼女にはひとつ考えがあった。
「ずっと考えていたのですが、私、シスターになろうと思うんです。陛下には反対されそうですが、頑張って掛け合ってみます。陛下はおそらく私がユグノア復興に祭り上げられることを憂慮されていらっしゃると思うのですが、私は到底そのような器量ではありませんし、利用できるだけの価値もありません」
 ホメロスは何も言わない。ナマエは内心に生まれた焦りを誤魔化すように、どこか落ち着きなく続けた。
「もし仮にそれが許されるのなら、出来ることなら故郷のそばで、亡くなった皆の冥福を祈りながら静かに暮らしていけたらと――」
ナマエ様」
 冷ややかな声がナマエの言葉を遮った。振り返って、言葉を失う。
「ここを出ていけると、本気で思っているのですか?」
 昏い感情を閉じ込めた琥珀色の瞳が、冴え冴えとした鋭さでナマエの胸を貫いた。




 ホメロスは足取り荒く、とある人物の部屋に向かっていた。ナマエに見合いを強要させた大臣の部屋だ。
 複数いる大臣の中で、どの男かは見当はついていた。この頃よくソルティコやダーハルーネなどの海洋諸国に部下を遣わしていたあの男だ。
 勝手に見合い話など勧めた大臣に腸が煮えくり返る思いだった。ホメロスの大事な獲物が目の前で危うく攫われそうになっていたのだ。到底許せるものではない。
 目的の部屋までたどり着くとホメロスはノックもせず乱暴に扉を開け放つ。執務机で書きものをしていた件の大臣は突然の闖入者に驚いて飛び上がった。
「ホメロス将軍!? な、なにか御用でしょうか」
 問いかけに答えずずかずかと部屋の奥まで踏み入ると、青くなっている大臣の胸倉を無遠慮に掴んだ。
「あの見合いは大臣の独断か」
「な、なにをする乱暴な!」
「質問に答えろ。ナマエ様の見合いは貴殿の独断か」
 一瞬抵抗した大臣の首を一層締め上げ凄んでみせると、ホメロスの怒りを肌で感じたのか急に大人しくなった。
「……そうです、私の独断で勧めました」
ナマエ様の身の上は今もデルカダール国の庇護下にある。つまりあくまで我が王が、彼女の保護者だ。王に話も通さず勝手にあの方の見合い話を勧めてもらっては困るし、ナマエ様の嫁ぎ先については貴殿がとやかく世話を焼かずとも、王自らが良い婿を見つけられるおつもりだ。此度の見合いが大臣の独断ならば、貴殿はその王の意向を無視したということになる。このような身勝手な振る舞い、到底許すことはできぬな」
「お、お待ちくださいホメロス将軍。確かに勝手をしたことは私の落ち度ですが、あれはデルカダールとソルティコとの縁を深める目的があって、身を結べば将来的に我が国に国益をもたらすものでもあります。王にはこの後話を通すつもりでした。それにナマエ様とてこの国で窮屈な思いをされるくらいならば、いっそ」
「黙れ!!」
 つらつらと言い訳を述べるその口で、あろうことかナマエの身の上を案じる言葉が零れる。我慢ならず、ホメロスは一喝した。
「どの口がナマエの幸せを語る! 国益のためとほざきながら、どうせ己の益のことしか考えていないのだろう。知っているぞ、貴殿が様々な貿易商に掛け合って外海の海洋権益に手を出そうとしていることを。どうせその富を独占するつもりだったのだろう」
「ご、誤解です! これはすべてデルカダールのためで……」
 図星だったのか、大臣は青い顔に脂汗を浮かべながらホメロスの言葉を否定した。
 誰もかれも、ナマエのことを腫れ物に触るかのように接する。表面上は彼女の境遇に憐れんでも、面倒に巻き込まれたくはないからと誰も深くは関わろうとしない。どんどん孤独になっていく彼女に手を差し伸べようとする者は、もはやこの城にはいなかった。そんな彼女を、あろうことか私欲のために利用しようとしたこの男は決して許してはならない。
 このよく回る忌々しい舌を、まずは切り落とさねば。
「今更忠臣ぶっても無駄だ。貴殿の個人資産を調べさせてもらったが、所有する領地は増えているのに、数年前から納税額が右肩下がりになっているな。これはいったいどういうことか」
「そ、それは、その、ここ数年天候に恵まれず、領地の収穫高も芳しくなく……」
「あくまで白を切るか。だが王は全てご存知だ」
 ホメロスの宣言に、大臣はひっと悲鳴をあげた。
「国の財産で懐を潤す盗人よ、観念するがいい。王は貴様の処分について、このホメロスに一任してくださった」
「ど、どうかお慈悲を。私には妻も娘もいるのです」
「私の知ったことではない。……さて、少しおしゃべりが過ぎたか」
 どうやら己が追い詰められた袋の鼠であることに気付いたようだ。今更のように慈悲を乞う大臣になどかける情けはひと欠片もない。ホメロスは胸倉をつかんでいた手を放すと、おもむろに腰に下げた剣を抜いた。
「ま、まて。まさか殺す気じゃないだろうな……。待て! いや待ってください! そんな、私はデルカダール王の忠実なる僕として長年仕えてきた身だぞ! こんな横暴を王が許すとでも――」
「黙れ」
 わあわあと良く喚く鼠だ。男の抗議の声を雑音のごとく聞き流しながら、抜き身の剣を無造作に突き出した。
 鋭い切っ先が大臣の喉奥に飲み込まれていく。喉の奥を貫通した剣先が、マホガニーの立派な執務椅子の背もたれに、ダン! と突き刺さった。
「王のしもべは私一人でいい」
 それに応える声はない。大臣は既に絶命していた。
 剣を抜こうとして、剣先が思ったよりも深く背もたれに突き刺さっていることに気付き、ちっと舌打ちした。ためらいなく遺体に足をかけ、ぐっと剣の柄を引っ張る。剣は抜けたが、その勢いで大臣の口元から弱い血しぶきがあがり、その体が椅子から転げ落ちてしまった。
 床に倒れ伏した大臣から徐々に血だまりが広がり、ホメロスの軍靴を汚す。
「ちっ。まったく、靴が汚れたではないか」
 忌々しそうに舌打ちする。うつぶせの遺体を足蹴にして、大臣の纏っているベルベットのローブで、ずり、と軍靴の汚れを拭った。
 男のうつろな瞳を見下ろし、ようやく腹の虫が収まるのを感じて長い溜息を吐いた。
 激高のまま殺してしまったが、この遺体をどうすべきかが問題だ。国の大臣がひとり死んだのだ。さすがに王に黙ったままでは済まされまい。まあ、それでも大臣が王の正体に気付いたから処理したと報告すれば事足りることだ。勇者以外の人間に関しては、あの魔王はさほど人間社会に関心がない。
 先程ホメロスは、王はこの男の造反行為を知っていると告げたが、あれはすべて嘘だ。
 ウルノーガは表向き一国の王を演じている。おそらく勇者が現れるその日まで、大人しく王の姿を演じきるつもりだろう。ウルノーガの配下となってよりホメロスには魔物の部下がつくようになり、魔王軍側の情報も耳に入ってくるようになった。どうやらウルノーガは勇者のことをあきらめていないらしく、各地に魔物を遣って探させているらしい。孤児院襲撃事件もその一端だ。魔王は勇者のみが持ちうる唯一の力を求めていた。その力を奪うことが出来れば世界を統べることも不可能ではないらしい。
 その一方で、勇者の血族であるナマエにはあまり興味がないようだった。殺すつもりもなく、ましてや利用するつもりもなく。今の状態はただの飼い殺しだ。とはいえ彼女は勇者の血族だ、まかり間違って新たな勇者が彼女の腹から誕生されては敵わない。以前起きた毒混入事件、あれは恐らくはウルノーガの仕業だとホメロスは推測していた。代わりに毒を呑んだ侍女が石女になったのは、はじめからそれが目的だったのだ。ナマエが毒を飲んで死ねば上々、死に至らなくとも新たな勇者誕生の可能性を潰すという目的は遂げられる。
 そう、死んでも死ななくてもどちらでもよかったのだ。その程度の関心だ。
 ホメロスにとって、ウルノーガがナマエに無関心なのはむしろ好都合だった。あれは自分の獲物だ。じわじわと追い込んで、最高のタイミングで狩ろうとしているところを横から掻っ攫われては堪らない。
 彼女を奪おうとする人間は殺せばいい。かわいそうなナマエは、グレイグがとっくの昔に彼女の手を離してしまっていることを知らない。ナマエの味方でいられるのは、もうホメロスだけだ。
 そんなホメロスも、被っていた偽善者の仮面はとうに捨ててしまっていたが。
 ――問題は、いつまでウルノーガがナマエに無関心でいられるか、だ。





 見合いの日から、数日経った。見合い話が流れ、件の大臣は呆れたのかもうナマエになにも言ってこない。そればかりか、城内で姿を見かけることすらなくなった。思えば誰かに何かを期待されるのは久しぶりだった。それなのに、期待を無碍にしてしまって今更ながら後悔が襲ってくる。もう必要とされることもないだろう。
『ここを出ていけると、本気で思っているのですか?』
 そう言い放ったあの時のホメロスの瞳を思い出す。突き放すような、心底冷たい瞳だった。彼はきっとナマエのことを、もう友人とも何とも思っていない。やっかいな立場の女を、半ば義務感で面倒を見てくれているのだろう。
「……っ」
 涙がにじんだ。
 怖くて、寂しくて。誰かにそばにいてほしくて。
 この塔の上の部屋は、がらんどうとしてひどく寒々しい。
 目の前のテーブルには埃を被ったチェス一式。その横には借りっぱなしの本。食器棚には銀のスプーンがしまわれている。
 すべてホメロスから手渡されたものだ。
 恋しかった。
 あのかけがえのないひとときが。あの時のやり取りすべてが。皮肉屋だけど優しい彼の笑顔が。
 いつだって、ホメロスはナマエの事を気遣ってくれていた。
 心の拠り所だった。
 戻りたい。あの時に、戻りたい。
 神に縋るように、乞い願う。
 叶えられることのない願いだと分かっていても、手を伸ばしてくる絶望から逃れるため、そう願わずにはいられない。

 絶望に沈みかけるナマエの思考を、ふとどこからか響いてきた鈴が鳴るような可愛らしい音が引き止めた。
 いったい何の音だろう。不思議に思い、耳を澄ますと再度その音が聞こえる。
 涙を拭ったナマエは、立ち上がって音の正体を探す。
 バルコニーへと続くガラス扉を開け放つと、一気に音は近くなった。一歩外に出て後ろを振り返ると、果たしてそこに。
「まあ、……なんてかわいらしい」
 バルコニーの三角屋根の一角に、親鳥が落ち葉やら小枝やらを集めて作った巣から三羽ほどの愛らしい雛が顔を見せていた。ピイピイと一生懸命に親を呼ぶその姿にナマエの顔は綻んだ。
 そこへ親鳥が餌を運んでくる。懸命に餌を求める健気な雛の様子に、一瞬全ての悩みを忘れた。
 驚かしてはいけない。けれどもう少しだけ、傍で雛を見てもいいだろうか。
 そう思い立って、ナマエはバルコニーに出ていたテーブルを巣の方にずりずりと引っ張り始めた。位置を調整し、靴を脱いで、ドレスをたくし上げながら慎重にその上に登る。バルコニーの手すりはテーブルと同じ高さのため、掴むところはなにもない。足を滑らせたら大変だ。そろそろと足場を確かめるように立ち上がって、まずは眼下に広がる景色を眺めた。
 見下ろすデルカダールの城下町が、いつもよりも少し遠くまで見渡せる。今日は風が穏やかでよかった。
 足元も安定しているようだし、そろそろ巣の方へと振り返ろうとした、その時。
「なにをしている!!」
「えっ」
 突然大声で叫ばれ、ナマエは驚いてバランスを崩した。ぐら、と体が傾げて、体が重力に従って落ちようとする。すなわち遥か下方の地面へと。
 が、バルコニーの外側へと吸い込まれる前に、力強い腕が後ろからナマエの体を掬い上げた。
「きゃあっ!?」
 バン、と体が床に叩きつけられる。恐怖で目を瞑ってしまっていたナマエには、いったい何が起こったのか分からない。だが体を襲った衝撃の程度から地面に落ちた訳ではないと気づいて、慌てて目を開ける。
 怒りに満ちたホメロスの顔が、眼前にあった。
「……何故だナマエッ! なぜ身を投げようとした!! ……それほどまでにこの世界を疎むか! ……はっ! だが残念だったな、そう簡単に逃してやるものか……!」
 爛々と輝く琥珀色の瞳に宿るは果たして狂気か、執念か。髪を結っていた紐が切れたのか、噛みつくように吠えるホメロスの髪は乱れ、はらはらとナマエの顔の横へ黄金の滝のように流れ落ちてくる。ホメロスの加減を知らない手によってバルコニーの冷たい大理石の床に縫い止められ、上から馬乗りされてしまえば、まるで彼自身に閉じ込められたかような錯覚を覚えた。
 一瞬状況も忘れて呼吸が止まりそうになるのを堪え、ナマエは慌てて頭を振った。
「み、身投げなんて誤解です! 私はただあの屋根の上の雛を見ようと……」
「雛ァ?」
 ホメロスの目元がひくりと痙攣した。その唇からどす黒い殺気に満ち溢れた声色が零れて、ナマエは思わず身を強張らせた。
 ホメロスはゆっくりと体を起こし、立ち上がると振り返って屋根のあたりを見上げた。視線の先には件の巣。雛はいつの間にか鳴くのをやめ、こちらの動向を窺うようにじっと身を潜めている。
「あんなところに。忌々しい……」
 ちっと舌打ちが響く。
 ホメロスが何事かを唱えた。次の瞬間、彼が掲げた右手に禍々しい闇の魔力が瞬時に発現し、濃い闇の炎が生まれた。
 はっとして、ホメロスを止めに入ろうとしたが遅かった。彼の手から闇の炎が放たれるのと、ナマエがホメロスの腕に縋りついたのはほぼ同時だった。
「やめて!!」
 雛は巣ごと闇の炎にジッと呑まれ、声もなく燃え尽きた。黒く焼け焦げた骸がぼとりと巣ごと落ちてホメロスの足元に転がってくる。彼はそれを無感情な瞳で見下ろし、綺麗に磨かれた軍靴で踏み潰した。ぶちゅ、と内臓だか血だか判別のつかぬ何かが床に零れる。
「あ、あ……ひどい! ひどいわホメロス様! なんてむごいことを!」
 一連の行動を言葉もなく見つめていたナマエは、とうとう耐えきれなくなり床に崩れ落ちた。無残な姿に変わり果てた束の間の同居人の姿を見るに耐えず、わあわあと顔を覆って泣き叫ぶ。
「この子たちがいったい何をしたっていうの! 私に腹を立てたのなら気が済むまで私を打てばよかったのに! どうしてっ!! ……どうして私が大切にしたいと思うものばかり、ひどい目にあうの? どうして、なんで……。この子たちがここを巣立っていくのが楽しみだったのに……この子たちの親だって、もうここにも巣を作りにきてくれなくなるわ……」
 ナマエは骸を踏みつけたままのホメロスの外套を震える手で強く握りしめ、力なく訴えた。凝った琥珀色の瞳が、無言で見下ろしてくる。
 涙でぐちゃぐちゃになった彼女の顔を見つめるホメロスの口元が、ふっと緩む。ナマエは目を疑った。
 ――まさか、今、彼は”笑った”のだろうか。
「……あの、大丈夫ですか? なんか、騒がしかったので」
 ふいに部屋の方から第三者の声がかかり、茫然としていたナマエは我に返った。
 声の方へと振り返ると、いつも部屋の前で暇そうに見張りをしている若い兵が恐る恐るといった体で、異様な雰囲気の二人に近づいてきた。兵はホメロスの踏みつけているものに気付いて、ぎょっとしたようだった。
「えっ、ホメロス将軍それ……」
「下がれ、下っ端がでしゃばるな」
 兵の非難混じりの視線に、ホメロスの声色に苛立ちが混ざる。
「ごめんなさい、私が紛らわしい真似をしてしまったからなんです。ぜんぶ私が悪いんです。だからあなたは仕事に戻ってちょうだい、早く」
 今度は彼に八つ当たりをされては堪らない。ナマエは兵が何か余計なことを言う前に、早口でそう命じる。
 兵は納得しきれない様子でこちらを窺い、それでも渋々部屋を出ていった。
「ホメロス様も、もういいでしょ。その子たちを解放してあげて」
 踏みつけられたままの哀れな雛たち。ナマエの促しに、ホメロスはようやく骸を解放する。その汚れた軍靴の裏を、彼は汚れていない大理石の床に、ずり、と擦り付けた。
 ナマエはその動作を声もなくぼんやりと眺めていた。雛の命を奪ったことを彼はなんとも思っていないのだ。きっと虫を潰すような感覚で、雛たちを殺したのだろう。
「すまなかった」
 力なくバルコニーの床に座り込むナマエの頭上に、心のこもらぬ謝罪がぶつかって床に落ちる。
「だがあそこに巣が出来る度、あなたは同じことをするだろう? だからこれはしかたのない処置だった」
 ――これは、あなたのためだ。
 狂気に満ちた言葉が刃となって胸を突き刺す。ナマエは目の前が絶望に黒く塗りつぶされ、深く沈み込んでいくような感覚にとうとう意識を手放した。



 夜半、その見張り兵はいつも塔の窓からぼんやりと夜空を眺めるのが日課だった。
 部屋の主はか弱い女性のため、本当は見張りなどいらないくらいだ。ここは城の奥まった場所にあり、曲者がそうそう襲撃してくるはずもなく、事件らしい事件と言えば鼠が寝室に出て退治したくらいか。部屋の主の複雑な状況を知るまでは、最初は楽な仕事にありつけてラッキー、くらいな感覚だった。そして彼女の事情を知って、面倒ごとに巻き込まれるのはごめんだと見張りの役を他の兵に押し付けようとしたが、部屋の主と少なからず言葉を交わしていくうち、図らずも情が沸いてしまった。だから彼は今日も辛い夜の見張りを続ける。彼女の安息を守らんがために。
 とはいえ流石に今日は、のんきに夜空を眺めている気分ではなかった。
 部屋の中には囚われのお姫様、もとい故ユグノア王国のお姫様がいる。昼間この部屋を訪れたホメロスが出ていった後、しばらくして悲鳴が上がり、それから押し殺したような泣き声がずっと響いていた。配膳に来たメイドも部屋の主から返答がないことに焦れ、食事を置いて帰ってしまった。今は静まっているから、きっと泣きつかれて眠ってしまったのだろう。
 昼間に起こった出来事が、今も兵の脳裏に焼き付いて離れない。ホメロスは変わった。以前は一見冷たそうに見えて、実は結構優しいところがあった。あんなに残酷なことをできる人ではなかったのに。
 はあ、と深い溜息をついた時、かつんかつんと誰かが静かに階段を上がってくる音が耳に届く。こんな時間に訪問者? まさか曲者だろうか。兵の表情に一瞬緊張が走る。
 だが次の瞬間、きりりとした顔が呆けたように緩んだ。
「ホメロス将軍? どうしたんですかこんな夜中に。……ってそれなんですか?」
 階下から現れたのは、私服に身を包んだホメロスその人だった。右手にカンテラ、そして左手に何やら布で覆われた大きな荷物が下がっていた。曲線型のそれは上部に取っ手がついており、布の奥でチイと小さな鳴き声が響く。小鳥だ、と兵はすぐに正体に感付いた。
 ホメロスはその荷物を、ずい、と無言で兵へと突き出した。
「グレイグからだ、と言って渡せ」
「ええええ? グレイグ様ですか」
 兵は思わずこけそうになるのを堪えたが、非難混じりの声が上がるのは抑えられなかった。ホメロスはばつが悪いのか、そっぽを向いている。
 兵はそれでも差し出されたそれを律儀に受け取りながら、恨めしげにじとりとホメロスをねめつけた。
「ずっと泣いてましたよ、お姫様」
「そうか」
 ホメロス将軍のせいで、という言葉はぐっと飲み込んだ。償いの代わりにこんな小鳥を押し付けるくらいなら、ちゃんと謝ればいいのに。傷ついて悲しむあの人に寄り添ってあげればいいのに。
 目の前の上司に対する不満が募りに募って、とうとう余計なことまで口を突いて出てしまう。
「お姫様に会っていかないんですか?」
「必要ない」
「へえ、じゃあオレが代わりに慰めちゃいますよ」
「勝手にするがいい」
「ほーん、ほんとにいいんですか? オレ、マジで女の子慰めるの得意すよ。もしかしたら惚れられちゃうかも」
「それはないな」
「なんでですか?」
「彼女が惚れているのはグレイグだ」
「……グレイグ様、このところ全然ここに来てくれてないですよ」
 その言葉が意外だったのか、ホメロスがぱっとこちらを向いた。
「ホメロス様くらいですよ、お姫様に会いに来るの」
 兵はホメロスの昏い色を映す目をじっと見つめ、静かに続けた。
 ホメロスは何も答えない。
 ジリ、とカンテラの炎が踊り、ふたりの足元から伸びる影が幻のように揺らめいていた。