第十話
籠の鳥・前篇
年が明け、新年を迎えると同時にデルカダール王国に新たな将軍が立った。
その豊かな智識で深謀を巡らし、千の軍略を持って冷静な判断で的確に敵を討ち亡ぼす知略縦横の将。デルカダールの鋭き双剣。後に双頭の鷲の片割れとも謳われる、知将ホメロスである。
デルカダール城、玉座の間。高い天井に備え付けられたシャンデリアから降り注ぐ光の雨粒が、王の前に跪いて忠誠を誓う美丈夫の、その背に流れる黄金色の豊かな後ろ髪に当たって弾ける。王から直接勲章を授かるという栄誉に浴するその男――ホメロスは、立ち上がり玉座の間に集まった人々に向かって優雅に一礼した。わっと沸き立つ声援を受け、その口元は誇らしげに釣り上がり、切れ長の目元には人々を見下すような威圧感が漂っている。もともと冷ややかな美貌を持つ男だったが、近頃ますますその鋭さは剣の切っ先のように磨きがかかり、どこか人を突き放すような雰囲気を漂わせていた。
叙勲式を無事終えたホメロスの隣に、グレイグが並んだ。王がおわす玉座へと続く階段の手前に二人が左右に並び立つと、まるで国を護る双頭の守護神のように神々しい。
揃いで誂えたのだろう両者の鎧が双璧をなすデルカダールの守護者としての威厳を強調していた。ホメロスは白銀、グレイグは漆黒色を基調とした鎧のデザインは機能性と美しさを兼ね備え、胸元には双頭の鷲の意匠が煌めき彼らの魅力を引き立てている。
叙勲式に参加していたナマエは、式典の終わりとともに人々に囲まれ祝福を受ける二人の様子を窺うようにして、そっとその人だかりに近づいた。声をかけるタイミングを窺うものの、なかなかその機会がやってこない。これはもう諦めて別の機会に改めた方がいいかもしれない。すでに諦め気分で人垣の中央にいる二人を眺めていると、ふと視線をあげたホメロスが途方にくれるナマエに気がついたようで、目元を緩めて微笑みを寄越してきた。
新調した揃いの鎧に熱狂する部下をなだめるグレイグの肩をぽんと叩いて注意を促したホメロスが、人だかりをかき分けグレイグとともにこちらへやってくる。裏地がマゼンタ色の白い外套がひらりと優雅に翻った。右目にかかった長い前髪を振り払うその仕草は嫌味も感じさせず、その口元には泰然とした笑みが刷かれている。白銀の鎧がホメロスの存在感と魅力をいや増し、その威圧感にナマエは内心尻込みした。
なんだか、とても遠い人になってしまった。
彼と対面するのは実に数ヶ月ぶりだ。ナマエはこちらに向かって来る彼の姿に無意識に緊張を覚えていた。ホメロスとは結局、あの舞踏会で気まずい別れ方をしてから一度も顔をあわせていない。
ホメロスはナマエに対面すると、優雅に膝を折ってみせた。斜め後ろでグレイグがそれに追随する。騎士二人の礼儀に応えるため、ナマエもドレスの裾を摘み流れるような仕草で膝を曲げた。
「ナマエ様、ご無沙汰をしておりまして申し訳ありません。今日は私めの新たな門出の日を祝いにきてくださったのでしょうか」
そう微笑みを浮かべるホメロスからは今まで時折垣間見えていた不安定感はきれいさっぱり消え、大きな余裕が感じられる。将軍に就任したことで、彼の中にあった焦りやわだかまりが消えたせいだろうか。
最後に彼と別れた時とはまったく正反対の穏やかな様子に、こわばっていたナマエの肩から少し力が抜けた。
「はい、もちろんです。ホメロス様、私からも直接お祝いのお言葉を。将軍へのご就任、まことにおめでとうございます」
「ありがとう存じます」
ホメロスが胸に手を当て、恭しく頭を下げる。ナマエは隣のグレイグを振り仰いだ。
「グレイグ様もさぞお喜びでしょう。これからはおふたりで力を合わせ、この国の未来を守っていかれるのですね」
「は、ありがとうございます。これより先は友とともに、この国がより良き国となるよう一層尽力する次第です」
いつも通りの堅苦しい口調に、ナマエは微苦笑を浮かべた。このグレイグともホメロスと変わらず疎遠だが、城内で顔を合わせると必ず一言二言声をかけてくれるのはこの男の方だった。
さて、形式通りの挨拶は終わったが、ナマエはもうひとつ目的があった。今日こそホメロスに先の舞踏会での無礼を詫びなければ。もう数ヶ月も前の事なので当人は忘れてしまっているかもしれないが、ナマエは心の中でずっとそれを引きずっていた。
あの時垣間見たホメロスの怒り。傷ついた横顔。よもや取り返しのつかないことをしてしまったとのでは、と後悔ばかりが脳裏を過ぎる日々。許してもらえなくてもいい、だがせめて謝らせてほしい。それだけが心残りのまま、今日まで重い後ろめたさを抱えてきた。
だから、今日こそ謝らなければ。グレイグは既に他の人間に呼ばれていってしまい、目の前にいるのはホメロスだけ。今が絶好のチャンスだ。
しかし謝罪というのは、なぜこうも引き延ばせば引き延ばすほど言葉にし難くなるものか。震える唇を誤魔化すように引き結び、萎えそうになる己を奮い立たせ、ナマエはホメロスへと今一度向き合う。
ホメロスは意気込むナマエに気づいてか、不思議そうな顔をした。
「どうされました?」
「……ホメロス様、あの、お詫びをするのがとても遅くなってしまったのですが、先の舞踏会では私の不用意な言動であなたを傷つけてしまって、ほんとうに申し訳ありませんでした」
ホメロスが不可解そうに眉をひそめる。
「舞踏会? いつの」
「え? あの、建国記念日の……」
まさか本当に忘れられてしまっているとは。ナマエは流石に戸惑いを隠せなく、続く言葉は尻すぼみになった。
一拍あって、ホメロスが「ああ」と納得したように頷いた。
「……そういえばそんなこともあったか。私の方こそあの時は大人げないところを見せてしまって、申し訳なかった。まさかナマエ様がそこまで気に病まれているとはつゆ知らず、こちらこそ面目ない」
ホメロスにとって、ナマエの憂慮などとうに取るに足らぬことのひとつであったようだ。よかった、彼は全く気にしてないようだ。と安堵すべきところであるはずなのに、こちらを慮る彼の様子に拭いきれない違和感を覚え、胸中に得体の知れぬ不安が過ぎる。
「あ、いいえ、単に私が気にしていただけですので、お忘れになってしまう程度の些細なものなら、それで一向に構わなかったのです」
いや、とホメロスが静かに瞼を伏せる。長い睫毛の陰が、憂い顔に落ちた。
「今思えば、あれは八つ当たりのようなもの。ナマエ様はなにも悪くない。むしろ謝るべきは私の方だ」
思いがけない謝罪の言葉に、慌てて「そんなことは」とかぶりを振る。ホメロスに気を遣わせてしまったことに、申し訳なさが先に立ってナマエは俯いた。
「そういえば、もうひとつナマエ様に謝らねばならぬことが」
「なんでしょうか?」
「……頂いた外套のことです。実は先日討伐に出た際、魔物の攻撃を受けてしまいまして。敵の火炎ブレスを避けようとはしたのですが、運悪く外套に火が燃え移ってしまい、火を消そうにもどうにも間に合わずそのまま全て燃えてしまいました。せっかくナマエ様が私のために作ってくださったのに、守りきることができず大変申し訳なく思います」
燃えた。ナマエがホメロスのために仕立てた外套が。
予想外の告白に束の間思考が止まる。つまり、彼は外套が燃え尽きるほどの死線をかいくぐってきたというわけだ。ナマエの知らぬ間に、そんな危ない目に。
次に脳裏をよぎったのは、ホメロスが無事でよかったという安堵の気持ちだけだった。彼を守ってくれるのであれば、外套など燃えてしまっても一向に構わない。
「そうでしたか……、けれどそれでしたら謝罪の必要はございません。あれはもともと身を守るためのものです。いつかは役目を終える運命にあったもので、その時が訪れてしまっただけのこと。ホメロス様に大事がなくて良かったです」
しかし唯一心残りなのは。
「……でも、全部、燃え尽きてしまったのですか?」
「はい」
「ほんとうに何も残らなかった? たとえば、アクセサリー……金の破片のような」
「いえ、特には気づきませんでしたが。なにか、心当たりがおありで?」
「そう……ならいいの。別に、気にしないで」
不安そうにこちらを窺うホメロスに、ナマエは胸中を占める複雑な感情を微笑みで誤魔化した。
ナマエがホメロスの無事を祈って、縫い込んだ故郷のよすが。結局ナマエの真心は気づかれずに、無残に燃え尽きてひっそりと死んだのだ。
きっとこれは報いだ。
気づかれずともいい、などとうそぶき、謙虚な聖人の振りをして、自分の気持ちを誤魔化して。
自分の気持ちを偽った、罰なのだ。
薄々気づいていた。
あれは真心などではない。
紛れもなく、ナマエの純然たる恋心の欠片だった。
デルカダールに再び夏が訪れた。この国の夏は、故郷ユグノアと比べて気温も湿度も高い。風通しの良いサマードレスに着替えても、汗はじんわりと滲んでくる。デルカダールに来て数度目の夏だが、未だにこの暑さに慣れる気がしない。故郷の夏が恋しい。ユグノアの夏は湿度が低くカラッとした暑さで夜は涼しく、デルカダールに比べて随分と過ごしやすかった。まあそれでも砂漠地帯のサマディーや湿地帯に囲まれたダーハルーネに比べれば随分ましな方ではあるが。
テラスに面したガラス扉から入ってくる風が、アイボリー色のレースカーテンをゆるやかに揺らしている。その風の動きに合わせて、夏特有の力強い日差しがちらちらとテーブル上に差し込み、先程から目に眩しい。テーブルの上にはティーセットが置かれており、メレンゲの焼き菓子が添えられている。冷気魔法を改良して作られた、溶けにくい氷をふんだんに使って淹れられたアイスティーの、薄いグラスの表面に浮かぶ汗がまたひとつテーブルへとぽとりと落ちた。
ナマエは目の前に座る、渋い顔をした男をちらと窺った。立派な口ひげを蓄えたその男は壮年にかかった頃の歳だが、肩幅はガッチリと厚く身体は引き締まっており、グレイグほどではないにせよ身長も手も足も何もかもがナマエより大きい。小麦色の肌に高い鼻、若干白髪は混じっているものの軽くウェーブした艶のある黒髪。ともすれば厳しく見えがちなその相貌はよく見ればきりりと整っていて、若い頃はさぞハンサムだったであろうことが窺えた。
男はその大きな手で繊細なサマディー細工のグラス足を無造作にひっ掴み、おもむろにグラスを煽った。アイスティーを氷ごと咥内に滑り落とし、味わうでもなくごりごりと氷を噛み砕いている。どうやら涼を取りたかったらしい。
ナマエは現在、テラスに面したティールームの一角で、なぜかこの壮年の男とテーブルごしに対面している。いわゆるお見合いというやつだったが、この男と見合いをすることになった経緯についてはさっぱり分からない。
今日は午前の家庭教師による授業が終われば、あとは午後いっぱいは自由だった。それが授業も終わり頃に急に部屋を訪ねてきた大臣が、「我が国と友好国との縁を深めるため、ナマエ様には是非ともある人物とお見合いをしていただきたい」と告げてきたのだ。形式上はお願いという形だったが、大臣からの直々の申し出にナマエに拒否権はない。言われるがまま支度をし、この部屋に放り込まれ、続いて大臣に連れられたこの男が入室してきて、現在に至る。男の方も事情がよくわかってないのか、部屋の中で所在なく佇むナマエを見つけて、難しげな顔をして唸っていた。
肝心の大臣はというと、状況も事情も分からぬ二人を放って、本日はお日柄もよく、とお決まりの口上を述べた後、あとは二人でと言い放ってそそくさと退室してしまった。まったく訳がわからない。流石に無責任すぎやしないか。
ナマエが急に見合いを命じられ、この部屋に通されるまでの短い時間で大臣から与えられた情報といえば、壮年の男の名はジエーゴであるということ。ソルティコの領主にして世界一の騎士と讃えられた男であること。若い頃に妻を亡くし、それからずっとやもめの身を通している、という情報だけだ。
ロトゼタシアいちの騎士の噂については、以前義兄アーウィンから聞いたことがあった。とても勇猛果敢な騎士がいると。疑問なのは、そんな立派な騎士様となぜこうしてお見合いをする羽目になったのかということだ。
そんなナマエの困惑を読んだかのように、貪っていた氷をごくりと飲み込んだジエーゴがおもむろに口を開いた。
「……なあお嬢さん。おかしいと思わねえか、この状況」
「と、申しますと」
「なんでこんな年若いお嬢さんがこんなおっさんの俺と見合いなんぞしてるんだ? ってことだ」
世界一の騎士と讃えられた男は、随分とフランクな口調で尋ねた。
ジエーゴの疑問はもっともだ。だが大臣の立場を考えると、迂闊に同調をして良いものか。
「それは、……申し訳ありません。いやでした、よね? こんな私と見合いなんて」
「そうじゃねぇ、お嬢さんが嫌なんてちいとも思ってねえ」
問いかけに明確な意思表示をせず自嘲気味に笑うナマエに対し、ジエーゴはやや語気を強くして弱気な発言を否定した。
「お嬢さんのことについては、俺をここに放り込んだ大臣からだいたいの事情は聞いた。まぁあんたの立場には同情はするが、俺が聞きたいのはあんた自身が望んでこの見合いの場にいるのかどうかだ。俺はこの国の騎士見習いどもに剣の師範をしに来ただけなんだがよ、それがなにをどうして、いきなり見合いをしてくれだなんて言われちまって、状況がよく把握できてねえんだ。見たところ、お嬢さんもいきなり連れてこられたんだろ?」
「それは、その……私もあなたと同じく、進んでここに来たわけではありませんが」
ジエーゴはふうんと鼻をならし、「ならよ」と続けた。
「見合いを断るって訳にはいかなかったのか?」
もちろん、出来るならば断りたかった。だがそれを選べないナマエは、困ったように微笑んで俯いた。
「残念ながら、私は選べる立場にはありませんので」
「お嬢さんの立場なんか、それこそ俺にはなんも関係ねえよ。ともかく俺もあんたもこの見合い話は最初から望んでねえ。そこをはっきりさせときたいんだが、実際のところどうなんだ?」
ずすいと目の前に迫ってくる強引さに、ナマエは目を丸くした。ともかくジエーゴは、この見合いを両者が望んでいるものかどうかをはっきりさせたいらしい。この勢いでは白か黒かの決着をつけるまで見逃してくれないようだ。
「……ごめんなさい、あなたの言う通りです。私もこのお見合いは望んでおりません」
観念して、本心を告げる。するとジエーゴは目元に皺を寄せ、くしゃりと笑った。
「おう、それが聞けて安心した。なら断っても何の支障もないわけだな。実はこうみえても俺は、亡くなったかみさんに操を立てているからよ」
「奥様を愛していらっしゃるのですね。素敵ですわ」
照れたように笑いながら、亡き妻への愛を語る男の姿に胸が温かくなる。つられるようにナマエも微笑んだ。
「ああ、まあな。……あんた今顔に似合わねえとか思ったろ?」
と、しんみりした空気になったと思った途端、ジエーゴがじろりと睨みつけてくる。ナマエはたじたじになった。
「お、思ってません」
「ほんとかァ? ……おいおい、なにも脅しているわけじゃないのにそんな怯えた顔しなくたっていいじゃねえか。流石の俺も傷つくぜ? ……まあつまり俺が照れくさかったってだけだよ。悪かったな。ったく、それに年甲斐もなくこんな若くて美人の奥さん貰っちまったら、流石に息子にどやされちまう」
息子さんが、とナマエの呟きを拾って、ジエーゴが深く頷いた。
「ああ、それもあんたより年上だ。それはさすがにまずいだろ? あんたも年上の野郎を息子なんて呼びたくねえだろうし」
「ふふっ、それは確かに気まずいですね」
ジエーゴの発言を想像し、ナマエは思わず破顔した。ジエーゴの息子はいったいどんな青年なのだろう。きっとジエーゴに似て魅力的に違いない。
「……? あの、どうしましたか?」
ジエーゴが不意におし黙り、こちらの顔をじっと見つめてきたので、ナマエはにわかに不安になって尋ねた。もしかして笑ってしまったのが不快だったのだろうか。
するとジエーゴが何かに納得したように大きく頷き、にかりと太陽のように笑った。
「ようやく笑ったな。うん、あんたはやっぱり笑っていた方が断然可愛いぜ。そうやって笑顔でいれば、いつかきっとあんたの前にいい男が現れるからよ。だからその笑顔、大事にしな。自分のためにもよ」
ぐっとサムズアップし、ジエーゴは茶目っ気に満ちた笑みを寄越す。
なんと力強く暖かさに満ちた励ましだろう。この人に言われると、不思議と心の底から自信が湧いてくるような気がする。
だがその言葉を素直に受け入れるには、ナマエを取り巻く環境があまりに複雑すぎた。生来、ナマエはどちらかといえば明るく素直で楽観的な性格だった。以前の彼女ならジエーゴの励ましを素直に受け入れただろう。だがこの国に来てからというもの、なぜか彼女の言動は全て無残な結果に直結してしまう。それでも前を向こうとする彼女の勇気は目に見えない巨大な悪意の手にねじ伏せられ、繰り返されるそれにすっかり臆病になってしまった。自分からなにか行動を起こすということが、ひどく億劫になってしまっている。どうせ失敗に終わる、と。
「……そうであれば、いいのですが」
「おいおい、そこは素直に受け入れときゃいいもんだ、あれこれ考えずにな。年寄りみてえな陰気くせぇ顔しやがって。若いもんが、はなから諦めてるんじゃねぇ。てめぇの可能性ってもんを試してみろよ」
「……はい」
すっかり弱気になってしまったナマエを叱るジエーゴの声色はどこまでも暖かい。その優しさに触れ、ぐっと涙腺が緩むのを感じた。もうずっと無味乾燥な毎日を送っているナマエにとって、こみあげてくるこの感情は久々の感覚だった。
「――ところでよ、お嬢さんは好きなやつはいねぇのか?」
「はい?」
熱くなった目元を抑えながらジエーゴの優しさに浸っていると急にそんな話題を振られ、ナマエはきょとんとした。男の訳知り顔のにやついた笑みに、すっかり涙はひっこんだ。
「好きな方、ですか」
「いるんだろ? で、どっちだ?」
「どっちとは……」
「惚けなくたっていいぜ。色々と噂は聞いている。グレイグか? それともそこで聞き耳立てている奴の方か?」
「え?」
「出てこいよ、いるのはわかっている」
ジエーゴが視線でテラスの方を促す。緩やかに揺れるカーテンの陰に隠れるように、男が一人、テラス側の壁に背もたれるようにしてこちらに背を向けて立ってた。
首のあたりで一つにまとめた長く豪奢な金髪が、夏の太陽の日差しを浴びて輝いている。なぜここに彼が。思いがけない人の登場に、ナマエの鼓動がどくりと跳ねた。
「ホメロス様……」
ナマエの呟きに応えるように、かしゃりと鎧の音が鳴る。テラスからティールームへの敷居をまたいだホメロスは、ジエーゴとナマエを涼やかな目線で一瞥し、その場で優雅に一礼した。
「お初お目にかかります、ソルティコのご領主どの。さすがにこちらの気配に気づいていらっしゃったか」
「当たり前だろ、俺を誰だと思ってやがる。……で、てめえ、グレイグの親友ってやつだろ。話はあいつから色々と聞いている。てめえのことさんざん褒めていたぜ、親友はすごいやつだってな」
「左様で」
「ま、聞いていた話とは、ちいとばかし印象が違ったがな」
ジエーゴは苦虫を噛み潰したような顔になり、首のあたりを掻いた。ホメロスは涼やかな表情を崩さない。その完璧なポーカーフェイスが気に食わないのか、ジエーゴは椅子の背もたれにふんぞり返ってじろりとホメロスを見上げた。
「で、てめえはお嬢さんのことが気になって覗いてたんだろ?」
「申し訳ありません。無粋な真似をするつもりはなかったのですが、扉越しにお二人の声が聞こえてきたものですから、つい」
「おうおう、あれだけ敵意むき出しの視線寄越しといてよく言うぜ。知らねえ男が大事なお嬢さんに近づいて、取られやしねえかと焦ったんだろ?」
「心外ですね。選ぶのはナマエ様だ。私はいつでもナマエ様の意思を尊重しているつもりです」
「そうかいそうかい。……ちぃと面倒そうな野郎だな……。ま、とは言え、てめえみたいな頭の回りそうなやつがお嬢さんにはちょうど合っていると思うがな。あんたちょっとぽやっとしてるし。俺が言うのもなんだが、グレイグの奴ぁどうもデリカシーってやつにかけるからよ……」
いい奴なんだがな、とジエーゴはぼやいて、思考を切り替えるようにパンと膝を叩いた。
「ま、とにかくお嬢さんのこと任せてもいいんだな? 色男さんよ」
「ジ、ジエーゴ様! ホメロス様とはそのような関係では……」
ジエーゴの口ぶりでは、まるでホメロスがナマエの事を大事に想っているようではないか。まさかホメロスとの仲を勘ぐられるとは思わず、ナマエは恥ずかしさのあまり顔を真っ赤にさせた。残念ながら彼とはまったくもってそのような関係ではない。このままではホメロスに迷惑が掛かってしまう、と慌ててジエーゴの誤解を解こうとした。
だがそんな彼女の焦りもどこ吹く風か、ホメロスは動じることなくジエーゴの勘ぐりを受け流す。
「承知しております。ナマエ様のことは、これからも良き友人として傍でお支えする所存です」
「友人ねぇ。ふん、てめぇも大概食えねえ奴だな」
ジエーゴは不満げに鼻を鳴らすと、おもむろにナマエを振り返った。
「とにかく、この見合い話は俺から断っておくからな。本来ならお嬢さんから断ってくれた方があんたの世間体を傷つけずに済むんだがな。色々と訳ありなんだろ?」
「はい、ご迷惑をおかけします」
「俺の息子がここにいればなぁ。ゴリアテのやつ、いったいどこをふらついているんだか……」
ぼやくようにジエーゴが呟き首の後ろを掻いた。どうやら息子の名はゴリアテというらしい。
うんうん唸りながら椅子の背もたれに伸びていたジエーゴだったが、変わり身早くぱっと起き上がり、テーブルの上に用意されていた菓子を二、三個引っ掴んで口に放り込む。それをかみ砕いて無造作にごくりと呑み下し、甘え、と顔をしかめながら、そのまま立ち上がってナマエに暇を告げた。
「ごちそーさん! じゃあ後はよろしくやれよ。お嬢さん、困ったことがあったらいつでも相談に乗ってやるからよ」
「あ、ありがとうございます」
世界一の騎士は嵐のように去っていき、部屋にはナマエとホメロスが残された。