第二話
邂逅
目的地まであとわずかといったところで、王の帰国を知らせるためデルカダール城へと伝書鳩を飛ばす。航海中、あまり体力が回復しなかったナマエのため馬車を回すようにと指示を添えて。
デルカコスタ地方の船着場に到着すると、王の出迎えのための一部隊が待機していた。これからこの部隊に護衛されて、一路デルカダール城を目指すのだ。
デルカコスタ地方の丘はちょうど緑が美しい時期で、さわさわと風にゆれる草原が太陽の光を受け輝いている。
ナマエの馬車を護衛するよう隊列を組んでいたグレイグは、ちょうど彼女が馬車の窓からその景色を眺めているのに気づいて、声をかけるために馬を横付けした。
「いかがですか? 我が国もなかなか美しいものでしょう」
「ええ、ほんとうに。緑が美しいですね。風も心地よいです」
ナマエの言葉に、そうでしょう、とグレイグは胸を張る。
「私の自慢の、第二の故郷です」
第二の? と、ナマエが首をかしげる。
「実は私は、バンデルフォン王国出身なのです」
「バンデルフォン……。まあ、それでは」
ナマエが息を呑む。
バンデルフォンはユグノアと同じく、魔物の侵攻によって十数年前に滅亡した王国の名だ。かつては花の都と呼ばれていた美しい王国だったが、今では無残な王国跡が残るだけだ。
「はい。あなたと同じく、祖国を失い孤児となった私もまた王に拾っていただいたのです」
つまりは同じ……いや、似たような境遇なのだと彼女に伝えたかった。気丈にふるまってはいるものの、内心では心細くて仕方がないだろうナマエの支えになりたかった。なにも自分でなくともよい。だが少なくとも彼女がデルカダールに慣れるまでの当面の間は、彼女を支える誰かが必要だ。
「あなたの心情はよく理解できます。だが決して一人ではない。そのことを忘れないでいただきたい」
グレイグは自分が不器用だと自覚している。言葉足らずだと親友に指摘されたこともある。だが彼なりの言葉で、ナマエを案じているのだという気持ちを精いっぱい込めて伝えた。
「不肖グレイグ、いつでも姫君の力になります。ゆえに、その……、あまり無理はなさいませぬように」
そのグレイグの精いっぱいはどうやら伝わったらしい。ナマエは感極まったようにうっすらと涙を浮かべ、唇を引き結んで俯いたまま小さく頷いた。
少し空気がしんみりしてしまった。その空気に話題を振った当の本人が気まずくなって、慌てて別の話題へと切り替える。
「そうだ、王都についたら紹介したいやつがいるんです。俺の幼馴染で、格好つけだけど頭が良くて、努力家で気のいい男です。機転が利くやつだがら、ナマエ様のこともいろいろと手助けできるかと」
「……それはもしかして、グレイグ様に頭突きをされてしまったかわいそうな親友の方ですか?」
「お察しの通りです」
あえてしかつめらしく頷いて見せると、ナマエは楽しそうに表情を綻ばせた。
「お会いできるのを楽しみにしております」
名を尋ねられ、喜々として親友の名を伝えた。
グレイグはこの時、ナマエに励ましの言葉をかけるという密かな目的を果たすことができて、おそらく浮かれていたのだろう。加えて、もうすぐこの辛い旅路を終え無事デルカダールへと帰れるのだという望郷の念が、彼の目を曇らせていた。そうでなければ、ナマエの顔色がこの上なく真っ青になっていることにいち早く気付いたはずだ。
澄んだ青空に、優美なデルカダール城の尖塔が光を受け反射している。
王一行の隊列がようやく城塞前に姿を現したとき、出迎えの隊列が王の帰還を歓迎するように一糸乱れぬ動きで門への道を作り、剣を空へと掲げた。歓迎の楽隊はない。おそらくマルティナ姫の訃報が既に国中に知れ渡っているせいだろう。
下ろされた跳ね橋を通り、騎乗した王が粛々と王城を目指す。城下町には市民たちが王を出迎えるため集まっていたが、誰一人歓喜の声を上げるものはいなかった。
王城前では大臣達が王を出迎えた。大臣達がお決まりの口上を述べるのを待って、ナマエに一言も声をかけるでもなく、王は彼らを連れ立って城の中へと姿を消してしまった。
それで、彼女はどうすればいいのだろう。王を護衛していた他の隊列は各々隊長の指示のもと、解散作業に取り掛かっている。その中でぽつんと取り残されたグレイグの隊列は、馬車を王城前に止めたまま立ち往生していた。
不意に、かちゃり、と内側から馬車の扉が開いた。隊列に動きがないことに焦れて、ナマエが自ら開けたようだ。
タラップもまだ用意していないのに。ナマエが馬車から転がり落ちてはたまらないとグレイグは慌てて下馬し、馬車を降りようとする彼女へと手を差し出した。
掴んだ手は妙に震えていた。そう気付いた瞬間、ナマエの体がくずおれるようにグレイグの懐へと飛び込んでくる。ぐにゃり、と力が入らない華奢な体をグレイグは慌てて支えた。
「っ、ナマエ様? 大丈夫ですか?」
腕の中の彼女を覗き込むと、意識を保ってはいるものの顔色は悪く、その呼吸は乱れ、額には冷や汗をかいている。辛い船旅の末、ようやく目的地に到着したことで、彼女の緊張の糸が途切れてしまったのだろうか。
「グレイグ殿、城の中までお連れしては?」
ここまで同じ隊列を組んでいた兵の一人が、心配そうに声をかけてくる。
しかし気丈なナマエはそれに首を縦に振らない。グレイグの腕に震える手を添え、自らの足で自立しようと試みている。
「大丈夫……です。一人で、歩けますので」
「ナマエ様……」
とはいえ、足元はふらついており見ていて非常に心もとない。
はらはらしながらその様子を見守っていると、王城の門から執事長が出てきてナマエを一瞥し、形式通り慇懃に頭を下げた。
「お待ちしておりました、ユグノアの姫君。私は執事長のアルフレッドと申します。さっそくお部屋へとご案内したいところですが、国王陛下のご帰国に城中の使用人がてんてこ舞いでしてな。大変恐れながら、姫君付きの侍女の用意が間に合いませんでした。グレイグ殿、申し訳ありませんが姫君をそのままの左翼棟貴賓室にお連れ願えますか。部屋の前にシスターを待機させております」
「間に合わなかった? ナマエ様は王の賓客も同然だぞ。そのような方に不自由をさせるつもりか?」
当然、ナマエが何者であるかは使用人たちの間に知れてしまっているだろう。そのうえで侍女の選出に支障が出ているとすれば、使用人達がそれを嫌がったのかもしれない。いやな予感を覚えてグレイグが執事に問いかけるも、男の鉄面皮はピクリとも動かない。
「もちろんそのようなつもりはございません。侍女については明日にでもご用意できればと思います。それまでの身の回りのお世話はシスターが勤めさせていただきます」
「私はいつでも構いません。グレイグ様、案内をお願いできますか」
それでも納得がいかない様子のグレイグの腕をそっと押しとどめたのはナマエだ。青白い顔には精いっぱいの虚勢が張り付いている。
今、優先すべきなのは彼女の体調だ。はっとしたグレイグはナマエの前に片膝をついて、手を差し伸べた。
「ナマエ様、お辛いのならこのグレイグが中までお運びいたします。どうかお手を私の肩にお回しください」
しかし、彼女は首を横に振るばかり。
「おやめください。私は、せめて皆さんの前では、一人で歩きたいのです……」
差し出された手を押し返し、乱れた呼吸を抑えながらも、しゃんと背筋を伸ばして先を見据え一歩を踏み出す。今、この場で彼女の様子を窺っているのはグレイグだけではない。あちこちから、ナマエに向かって視線が突き刺さる。好奇の色を含んだもの、心配そうなまなざし、品定めをしようとするまなざし、悪意あるもの。全部混ぜこぜになりながら、彼女の背に映るユグノアというものを観察しているのだ。
今にも折れそうな彼女を支えているのは、王族としてのプライドだ。グレイグはナマエの境地を悟り、今度は大人しく腕を差し出した。今自分ができる唯一の事、エスコートのために。
「承知しました。ならば、せめてこの手におつかまりください」
遅いな……。
大広間を抜け、中庭に抜ける扉の手前で親友が姿を現すのを待ち構えていたホメロスは、そう独りごちた。城塞前の出迎えの隊列に参加していた彼は、馬車を護衛するグレイグの無事な姿を認めて安堵したものの、先に城に帰っているはずの親友がいくら待てども姿を現さないことに大層焦れていた。出迎えの隊列自体はそのまま兵舎棟へと直行したため、門を通過した後のグレイグの様子は知らない。
ユグノアの悲劇と幼いマルティナ姫の一件でさぞかし落ち込んでいるだろう友を慰めるべく、いの一番に声をかけようと思っていたのに。全くどこでちんたらやっているんだか。ふうと溜息をつくと、はらりと長い前髪が落ちてきて鬱陶しげにそれを振り払う。ホメロスのような美丈夫が物憂げに溜息をつく様はまったく絵になる光景だが、彼自身は他人の視線を集めることに頓着しない。
やがて、エントランスホールから待ち人が現れた。
「ようやくのお出ましか! 遅いぞグレイグ、どこで道草食って……」
待ち人――グレイグの腕に掴まる少女の存在に気付いて、早足に歩み寄ろうとしたホメロスの足がそこで止まる。疲れ切ったような酷い顔をしてはいるが、しかし毅然と顔を上げている少女。まさかこれが件の少女なのだろうか。
「グレイグ、その方は?」
「ああ、こちらは――」
ホメロスを認めてグレイグがホッとしたような顔になり、口を開いたその時。
あっ、と悲痛そうな声が傍らから上がった。何事かと目を丸くしたときにはもう、少女は床にうずくまっていた。
白い顔をますます青白くさせ、少女は泣きそうな顔で茫然としゃがみ込んでいる。いったい何が。眉を顰めるホメロスの鼻腔に、鉄錆の匂いが触れた。
血の匂い。ホメロスが匂いの正体に気付いた時、グレイグがはっとした様子で声を荒げた。
「ナマエ様、おみ足に血が!」
指摘の個所を見ると、確かにうずくまる少女の足首に鮮血が流れていた。他にもワンピースの裾が血で汚れているようだ。
これはまさか。もしかして。ホメロスの中で疑問が確信になる前に、予想通りグレイグがやらかした。
「どこかにお怪我を!? ま、まさか脚の怪我が治ってなかったのか!? まずいぞ、すぐに止血を――」
「ひっ、や、やめてくださいグレイグ様! 本当に大丈夫ですので!」
あろうことかグレイグは少女のワンピースをその場でめくり上げ、出血の出所を探そうとしたのだった。この親友の仰天の行動にさすがのホメロスも焦った。少女はほとんど泣きながら本気で拒絶を示している。
大広間を忙しく行き来していた人々が何事かと立ち止り、こちらを注視している。ひとまずこの衆人環視から少女と、それと一応親友の名誉も守らねば。
「馬鹿かおまえは! いったん離れろ!」
スカートの裾をつまんでいるグレイグの手を叩き落とし、男の首根っこを掴んでぐいと引っ張る。ぐえ、と苦しそうな声が聞こえたが構っている余裕はない。首元を覆っている軍支給の紅の外套を外して、恐怖やら羞恥心やらで打ち震えている少女の身をそれで包んだ。外套は血で汚れるだろうが、この際仕方がない。
固まっている少女をためらいなく抱き上げる。人々の目から少女を守るように顔をホメロスの胸元に伏せさせれば、華奢な体はますます硬直したようだった。
「どこに連れていけばいい?」
手短に尋ねれば、ぽかんとした表情で床に座り込んでいたグレイグははっと我に返った。
「さ、左翼棟の貴賓室だ! シスターが部屋の前で待機している!」
足早に階段を駆け上り、目的地を目指す。腕の中の少女は終始無言だった。
伏せられた顔は羞恥で真っ赤になっており、何かを耐え忍ぶように瞼を伏せている。女の一番脆い部分を異性に晒し、こうしてなすすべもなく見知らぬ男に縋っている状況はさぞかし苦痛だろう。だが、恥じらいを我慢しながらも大人しく身を預けてくれる少女はたいそう無防備な様子で、ホメロスは己の中で嗜虐心と保護欲を同時にくすぐられるのを感じた。
なるほど、親友はこのいたいけな少女にまんまと惑わされたようだ。
先程のグレイグの間抜け面を思い出す。王の帰還に先立って届いた報告には、一応ホメロスも目を通してある。ユグノア王家の第二王女ナマエを保護したと。おそらくこの少女がそうなのだろう。
顔に似合わず人情深いグレイグは彼女の立場に同情を示したはずだ。口数も少なく強面のグレイグはどちらかというと女性から敬遠されるほうだ。にも関わらずグレイグの態度は妙に親しげだった。
(まさか惚れたか……?)
だとしたら、相手はかなり厄介だ。
まずはユグノアで何があったのかを問い詰めるべきか。そんなことを考えながら指示通り左翼棟貴賓室エリアに足を踏み入れると、回廊の角にシスターが立っていた。
「お待ちしておりました。こちらの部屋になります。そのまま姫君をベッドまでお運びください」
「出血している。恐らくは、ご婦人特有の」
「わかりました。どうぞ中へ」
ナマエの状態をやんわりと伝えると、扉の空いていた角の部屋を指し示され、誘導されるまま中へと足を踏み入れる。
少女をベッドの端へと座らせると、シスターが手早くホメロスの外套を剥ぎ取り、代わりに毛布で彼女を包みなおした。そしてヘッドボードにクッションを山と積み重ね、そこに背を持たせかけるようナマエに手を貸す。巾着に包まれた湯たんぽを手渡し、湯に浸して絞った布で少女の額の汗を優しくふき取ると、今度はサイドテーブルに用意していたポットから、薬湯と思しき匂いの液体をカップに注いで手渡していた。
ちなみに剥ぎ取られた外套はゴミかなにかのように床に捨てられてしまった。あまりの扱いにぴくりとホメロスの米神に筋が浮く。人の親切心を無碍にされ、文句のひとつでも言ってやりたいところだが、かといって甲斐甲斐しく世話をするシスターの邪魔をするのは後が怖そうだ。
ホメロスは無言で己の外套を拾い上げ、くるりと丸めて小脇に抱えた。
どうやらひと通りの世話が終わったらしい。お着替えと湯の用意をして参ります、と言い残し、シスターはせかせかと部屋を出ていった。
少女は薬湯を飲んで温まり、ようやく症状が落ち着いたようだった。はあ、と気が抜けたような溜息が彼女の唇から漏れた。だがすぐに傍らに立ち尽くすホメロスの存在に気が付いて、はっと慌てて表情を取り繕う。
その様子に思わずホメロスが「くっ」と肩を揺らす。ナマエはホメロスの気安い反応に目を見張り、そしてホッとしたようにはにかんだ。
「騎士様、外套をどうもありがとうございました。……汚れてしまいました、よね?」
「いえ、大丈夫ですよ」
やはり気になるものらしい。ちらちらとホメロスの手元を見るナマエの視界から隠すように、小脇に抱えたものを後ろ手に持つ。どうせ戦に出れば返り血やら泥やらで汚れるものだし、洗えば済む話だ。
「新しいものをご用意できればいいのですが、あいにく私の立場ではすぐには難しくて……。せめて綺麗に洗ってから返させていただけませんか」
縋るようにホメロスを見上げる目が心なしか潤んでいる。やはり妙齢の少女にとって、デリケートな部分の血が異性の目に触れることは、よほど恥ずかしいことなのだろう。
「気にされることはありません。むしろ乙女の危機を救えたとあれば騎士冥利につきますよ」
「あ、ありがとうございます」
多少芝居がかった台詞とともにお辞儀をする。騎士道の婦人奉仕の精神を持ち出せば、さすがの少女もそれ以上は追及できない様子だった。
「それよりも、グレイグの奴が大変失礼をいたしました。なにぶん女心の欠片も理解できぬ唐変木なもので。あいつに悪気はないのです、出来れば許してやってくださると有難い。……まあ、無理にとは言いませんが」
そう口添えしたのは、あくまで親友としての老婆心だ。親友を許してやれとはいったが、むしろ引かれて当然のことをしたのだ。紳士にあるまじき粗暴な振舞いが、そう簡単に許されるとは思えない。
が、その心配は杞憂だったようだ。
「いいえ、純粋に心配してくださっての行いであることは承知しております。グレイグ様にお礼をお伝えください」
「はい」
よかったなグレイグ、まだ嫌われてないらしいぞ。ナマエの人のよさそうな笑みを眺めながら、内心でひそかに笑う。
「それと、あなた様にも感謝を。よろしければ騎士様のお名前をお伺いしても? 私はナマエと申します」
「ホメロスと申します。以後お見知り置きを、ナマエ様」
名を尋ねられ、ホメロスは胸元に手をあて恭しく頭を下げる。
「ホメロス様……、ではあなたがグレイグ様ご自慢の幼馴染の方ですね。お会いできて光栄です。このような形になってしまい、大変残念ではありますが」
「奴があなたに何を吹き込んだのかは知りませんが、私もユグノアの姫君にお会いでき光栄の至りです」
グレイグのやつめ、余計なことを言っていないといいが。ぴくりと引きつりそうになる頬を抑え、表面上はにこやかな笑みを浮かべながら形ばかりの挨拶を口にする。
ユグノアの姫君、と呼ばれたナマエの表情がわずかに哀しげに曇ったが、ホメロスはそれに気づかない。
「困ったことがあれば何でもお申し付けください」
ホメロスにとっては、これも社交辞令のひとつだ。おそらく、もうこの少女に関わることはないだろう。
戻ってきたシスターと入れ替わるように退出すると、グレイグが警戒中の熊よろしく部屋の手前でうろついている姿が視界に入った。完全に不審者である。廊下の向こうからやってきたメイドが不審な動きを見せるグレイグにぎょっとしそそくさと踵を返していったが、それにすら気づいていないようだ。
まったく何をやっているのやら。ホメロスが溜息をついた時、こちらに気付いたグレイグが詰め寄ってきた。
「ホメロス! ナマエ様の容態はどうだ!? 怪我はひどいのか!?」
「落ち着けグレイグ、あれは怪我ではない。あと顔が近い!」
顔の前までぐいぐい迫られて、ホメロスは辟易しながらグレイグの顔を押し返した。非常に暑苦しいことこの上ない。
「す、すまん。しかし怪我ではないのなら、あの血はなんだ?」
「お前本当にわかってないのか? ムフフ本ばかり読んでないで、少しは生身の女のことを学んだらどうだ」
女の事となるととことん鈍くなるグレイグに若干苛立たしく思いながら、落ちてきた前髪を払う。もはや奴の中で、女という生き物は空想上のものになってしまっているんじゃないだろうか。……いやそれは流石にないか。
「あれは多分月経による出血だ。そこまで心配するほどのものではないだろう」
「月け……、えっ」
グレイグの目が分かりやすく点になった。本当に気付いてなかったらしい。親友の顔が温度計よろしく次第に茹だっていくのを眺めながら、ホメロスは続けた。
「おそらくストレスからくる体調不良だろう。まあ男ばかりの船旅で言いだしにくかったのは容易に想像できる」
「お、おおお、俺はなんということを……! あろうことか乙女の素足を覗き込もうと……っ、あああっ!!」
グレイグは今更自分がやらかしたことに愕然として、顔を覆ってブルブルと身悶えている。これはしばらく引きずりそうだな、とのんびり他人事のように思いながら、ホメロスは小脇に抱えているものの存在を思い出した。
「さて、オレはこいつを洗ってくる。お前も来るだろ。色々と話を聞かせてもらうぞ」
「あっ、ああ、そうだな。荷物を取ってくるから先に行っててくれ」
ぽんと肩を叩かれ我に返ったグレイグが、先に歩みを進めていたホメロスに追いつくようにして共に並ぶ。グレイグの荷物は
ホメロスが向かう先は、城の地下にある洗濯場だ。ホメロスは己の外套を、グレイグは遠征中にたまった衣類を洗うため。もちろん城には洗濯係がいるが、汚れ物は自分で洗う兵士も多く、グレイグもその例外ではない。ホメロスは基本洗濯は係りに任せることが多かったが、こんなわずかな血痕ごときでいちいち洗濯に出していたら、洗濯係の元締めの恐ろしい老婦にどやされるのは間違いない。
共に階段を下りて踊り場まで来たところで、ふいにグレイグはひらめいたように声を上げた。
「あっ、そうか。つまりホメロスはその外套でナマエ様を周囲の目から守ったのか」
「なんだ今更」
とても今更である。ぎょっとして振り返ると、親友が尊敬のまなざしでこちらを見ていた。
「さすがホメロス、そんなことさらっと出来るなんてかっこいいぞ」
ホメロスはそんな親友に頭痛を覚え、深くため息をついた。