Would you date me?・おまけ




 浮いた足先が地面に着地すると同時に、彼女の腰に回していた片手をそっと離した。ナマエはシャツに額を押し付け、飛ぶ前と同様の態勢で私に身を任せるようにしてじっと目を瞑っている。シャツ越しに伝わってくるのは極度の緊張感だ。この分では目的地に到着したことすら気づいていないのだろう。
「着いたぞ」
「ひぇっ……」
 驚かせないように小声で耳打ちし、手の甲で紅潮した頬を撫でてやると薄い肩が大袈裟に跳ねる。同時に、ちょうど見下ろす位置にある彼女の白いうなじが粟立ったのが見えた。
 林檎のように赤く染まった頬に緊張を押し殺した吐息。伏せられた繊細なまつげが動揺に震えている。
 ――少しやり過ぎたか。
 そう思うものの特に反省する気もなく、ナマエから一歩分の距離を置く。目線の先にあるつむじを見下ろしながら数秒待ってはみたものの、彼女の硬直は解ける気配がない。
 ……まあいい、そのうち正気に戻るだろう。
 男女の駆け引きのような複雑なものでもない。ちょっとした悪戯心で、慌てるナマエの姿が見たくて彼女のパーソナルスペースを乱した。彼女は私のいつもとは違う態度に度々困惑していたようだが、無論あれは完全に作為的なものだ。ナマエが私の行動に動揺して顔を赤らめるたび優越感に浸っていたのだから、我ながら良い性格をしているとも思う。そんな男に標的にされたナマエを哀れに思うべきか、曲がりなりにも保護者のような立場の大人として自省すべきか。
 どちらにしろこれ以上関係を深めるつもりもなく、自尊心を満たしたいがために初心な彼女を翻弄する私は世間で言うところの悪い男に分類されるのだろう。
 フッと自嘲が漏れる。緊張に萎縮するナマエに掛けてやれる言葉はない。彼女を一人その場に残し、私は宿の方へと足を向けた。


「あらホメロスさん、お帰りなさい」
 素朴な彫り模様が刻まれた宿の入り口をくぐると、振り返る間もなく横合いから声が掛かった。広大なバンデルフォン地方の丘に唯一あるこのネルセンの宿はアットホーム……といえば聞こえはいいが、有り体にいえば我々のような大人数で泊まるにはやや手狭な宿だ。扉を開けると真正面に受付があり、そのすぐ横にダイニングスペースがある。土埃が立つのもお構いなしな配置には、衛生観念など期待できそうにない。
 ダイニングテーブルにはイレブンとその祖父以外の勇者一行が一堂に会している。テーブルには紅茶のセットとやや不恰好な形の手作りクッキー。どうやら彼らも彼らで少し遅いティータイムを開いていたらしい。
 私は見慣れた顔ぶれを振り返り、一番奥に座っていたマルティナ姫を認めて彼女に向かって「ただいま戻りました」と軽く会釈をした。一応は我が国の未来の女王だ。丁重に接しておいて損はない。
「ちょっとぉ、私がお帰りなさいって言ったのに、マルティナさん以外には挨拶なし? 失礼なやつねホント! ……って、その箱は?」
 私のぞんざいな態度に気づいてか、テーブルの手前に座っていた子供が癇癪を露わにする。子供特有の柔らかな頬を風船のように膨らませる赤いとんがり帽子の幼女は、聖地ラムダの双賢の姉ベロニカだ。訳あって子供の姿をしているが中身は一応成人女性らしい。彼女は自身が持つ魔法の性質のように激しやすい性格で、納得出来ないものにはなんでも口喧しく首を突っ込んでくる。たまに鬱陶しくなり邪険に扱いたくなる時もあるが、なぜか私を含め皆一様にこの子供には頭が上がらない。
「……土産だ」
 相変わらず目ざとい彼女にケーキの詰まった箱を軽く持ち上げてみせるも、それにいち早く反応したのは双子の妹の方だった。
「お土産! まあ素敵ですわ! お預かりしますね」
「ああ」
 それまでのんびりとティーカップを傾けていたセーニャはいそいそと立ち上がり、瞳を輝かせながら近づいてくる。まったく現金なものだ。思いつつ差し出された両手に白い箱を預けた。女性陣が興味深そうに箱の中身を覗く傍ら、私は脱いだコートを空いていた椅子の背もたれに掛け、その席に腰掛けた。厨房で夕食の仕込みをしていた店主の妻にティーカップをもう二組分持ってくるよう言づけると、足を組んでくつろげる体勢になる。
「また随分たくさん買ってきたわねぇ。これ全部甘いもの? ……あら、ミートパイもあるのね! 珍しい」
「ダーハルーネに新しく出来たパティスリーのものだ。中々繁盛していたぞ。味はどうだか知らんが」
「また新しいお店が出来ていたの? 相変わらずあの街はスイーツ激戦区ね。そのお店が潰れないうちに私たちもダーハルーネに行かなきゃね、セーニャ。……セーニャ?」
「ふわぁ~大きなシュークリームにつやつやのイチゴにマスカット、ブルーベリー、イチジク……まるで宝石箱のようですねぇ。全部美味しそうでどれを頂こうか迷ってしまいますわ」
 マルティナ姫の問いかけも耳に入らないのか、夢中になって箱の中身を覗いている双賢の妹が子供のように目を輝かせ、頬を押さえて感嘆のため息をついている。大げさな反応に苦笑すると、不意にセーニャが不満げな顔でこちらを向いた。
「でも、おふたりだけでお出かけなんてズルイですわ。わたくしもご一緒したかったです」
 どうやら皆に黙って出かけたことを咎められているらしい。肩を竦め、それは悪かった、と心にもない謝罪を述べようとした時、お目付役の姉が妹を諌めるように身を乗り出してきた。
「アンタそう言う割に随分なお寝坊だったじゃない。まだシーツの跡がほっぺたについてるわよ」
「あ、あらいやですわ、うふふ」
 天然な姉妹のやり取りを見守っていた者たちの間に微笑ましい空気が漂う。口元を抑えてひとしきりクスクスと笑っていたマルティナ姫が、思い出したように私の方に振り返った。
「でもどうしたの? お土産なんて、今日は随分と気が利くじゃないの」
「あいにくですがそちらはナマエからの手土産です、マルティナ姫」
ナマエから? ……それで本人は?」
 土産の主を探して姫が辺りを見回した時、背後で宿の扉が開かれる音がした。

「た、ただいま~……」
 恐る恐るというように扉から顔を覗かせたのは渦中の人物たるナマエだ。タイミング悪く一斉に皆の注目を浴びることになった彼女は私たちと目が合うと、気まずそうに笑って手を振ってきた。
「あらおかえり! ――って、ちょっとナマエ、アンタ顔少し赤くない? ホメロスさんに何されたのよ」
「何もしておらん。人聞きの悪いことを言うな、双賢の姉よ」
「ふーん、ほんとかしらぁ?」
 胡乱げな賢しい目が私をねめつける。まったく目ざといものだ。そして相変わらずの過保護ぶり。実年齢はナマエの方が上だが、ベロニカは彼女に対してもなぜか保護者風を吹かせたがる。まあ、妹とは違った意味で暢気な性格のナマエが悪い人間に騙されないか心配なのだろう。そしてこの場合、ベロニカの警戒対象は間違いなく私だ。
 否定してもなお疑いの眼差しを止めないベロニカに、私もまた彼女の視線を真っ向から受け止める。無言の牽制。だが、そもそもこの私が心理戦に負けるわけがない。

「あっあのベロニカ違うの! これは、えーっと、その、風邪……かな? えへ、へ」
 静かな睨み合いに割って入ったのは当のナマエだ。彼女はしどろもどろに苦しい言い訳をしつつ、あとは笑いで誤魔化そうとしたようだ。風邪……咄嗟の言い訳としては及第点には及ばない。だがまあちょうどいい。ベロニカがナマエの無理のある言い訳を指摘する前に、私はそれに乗ることにした。
「風邪? まさか潮風に当たって体調を崩してしまったか? それはすまないことをしたな」
 言いながら立ち上がり、未だ入り口付近に突っ立ったままのナマエの元へと歩み寄る。ナマエが私の接近に驚いて後ずさる気配を察したが、その隙を与えず彼女の肩を押さえつけるようにして手を置き、そして前髪をかき上げて現れた額に問答無用で手のひらを押し当てた。
「あ、ちょっ……なに」
「こら、少しの間良い子にしていろ」
 私の行動が予想外だったのか、ナマエが慌てはじめる。だが逃げる隙は与えない。彼女にだけ聞こえるように耳元で囁くと、予想通りナマエの体が固まった。
 それを良いことにじっくりと額の熱を測る。赤面の原因が風邪ではないと分かっていてあえてのこの行為は、半分当てつけのようなものでもあり、ナマエの反応が見たいという欲求からだ。我ながらろくでもない動機であるとは思う。
「ふむ、熱はないようだが」
 ナマエの額に押し当てた手の平は当然熱を拾わず、しばらくして臆面もなくそう告げる。さりげなさを装って額にあてていた手を頬に持っていくと、驚いたのかナマエが肩を大げさに震わせた。大きく見開いた目には動揺が写っており、滑らかな頬は燃えるように熱い。
「……頬は熱いな。汗もかいている。やはり風邪か?」
「ひぃぃ……」
 つつ、と顎のラインを触れるか触れないか程度の加減でなぞると、と半開きになった彼女の口から蚊が鳴くようなか細い悲鳴が漏れる。流石に笑いが込み上げてくるのを噛み殺していると、「ホメロスさん……」と今にも泣き出しそうな情けない声が私を呼んだ。
「なんだ」
 彼女の顔を覗き込む。返ってきたのは潤んだ瞳と八の字に下がった眉。
「あ、あの、も、もう大丈夫ですから……治りました、風邪」
 だからもう勘弁してください、と今にも彼女の心の声が聞こえてくるようだった。まったく嗜虐欲を煽ってくれるものだ。だが私にも一応分別はある。これでも引き際は弁えているつもりだ。
「本当か?」
「はい! もうすっかり!」
 必死な表情で頷く彼女に危うく吹き出すところだった。この状況を私が楽しんでいることをナマエに悟られる前に解放してやると、彼女は慌てて私から数歩距離を取り、心底安堵したように胸を撫で下ろした。まるで厄介者から離れられて安心したかのような反応。……自業自得だが、あまり面白くはない。

 決して表には出せない不満に若干胸焼けを起こしていると、腕を組んで壁際に立っていたカミュが不愉快なニヤケ面を私とナマエに向けてきた。
「なーんかやけに仲良くねえか? お二人さんよ。あんたらいつからそんな仲になったんだ?」
「そんな仲って何!?」
 まさしく下衆の勘繰りというやつだ。反応してやる価値もない見え透いた煽りだったが、耐性のないナマエは必死になってカミュの言葉を否定する。焦りすぎて声が裏返ってしまっているのがどうにも笑いを誘ったが、顔に出すのはなんとか堪えた。
「おいおいそこまでやってとぼけるのかよ。誰がどう見たってベッタベタじゃねえか。お熱いこって」
「ちょっとカミュ、変なこと言うのやめてよ! ホメロスさんに迷惑でしょ! そ、それにホメロスさんは心配してくれただけだし」
 焦るナマエに対し余裕のカミュは彼女の言い分に肩を竦めてみせるのみだ。
「ふーん、心配ねえ。それにしちゃ距離感がおかしかったがな」
「そ、そんな、ことは……ないと、思うけど」
 カミュの冷静な追及に己の劣勢を悟ったか、言葉に詰まったナマエが助けを求めるようにちらりとこちらを窺う。私が否定もしないことに違和感を覚えているのか、その眼差しには困惑の色が見え隠れしている。
「まあせいぜいそこのおっさんに遊ばれないように気をつけろよ」
 ふん、と鼻を鳴らして吐かれた捨て台詞に引っかかりを覚え、私はここでようやく反論する気になった。
「聞き捨てならんな。今の発言は訂正してもらおうか」
「そりゃ失礼。だがアンタ、どう足掻いてもグレイグのおっさんと同い年だろうよ」
「別に呼称などどうでも良い。私の風評を損ねるような発言は止してもらいたいと言っているのだ」
 確かにおっさん呼ばわりは気に食わないが、私とグレイグが同年代であることは事実なのであえてそこには反論しない。それよりも外野の無責任な発言のせいで、女性陣から――特にナマエから警戒されて距離を置かれるようなことにでもなればそれこそ一大事だ。経験上、女性はなるべく敵に回すものではないことは知っている。それは単に保身のためと……そして個人的な感情も大いに含んでいる。
 幸いにも勘のいい元盗賊はすぐに私の真意を汲み取ったようだ。驚きに目を剥き、信じられないものを眺めるように青い瞳が私とナマエを行き来する。
「マジか……。まさか本気ってわけじゃねえよな」
 まるでこちらの胎を探るような眼差しだった。だが生憎、私はこの男が納得できるようなはっきりとした答えを持っていない。ゆえに心の内の迷いを誤魔化すため、わざと挑発的な態度でひと回り以上も年下の聡い男を見下ろす。
「本気? フン、お前の言う本気とはどのようなものだ? コソ泥よ」
「ああっ? なんで無駄に上から目線なんだよ? ……ったく気に食わねえぜ。おいナマエ、お前こんな性格のひねくれたおっさんのどこがいいんだ? 顔か? 声か? それとも大人の余裕ってやつか?」
「だから違うってば~っ! あとホメロスさんをおっさんって言うのやめて!」
 我ながら拙い誤魔化し方ではあったが、未熟な元盗賊は無事引っかかってくれたようだ。腹立ちまぎれにナマエに当たるのだけは感心しないが、彼女が私の事でムキになって言い返す様は見ていてどことなくくすぐったさを覚える。……嬉しい、と素直に認めてしまえれば楽だが、生憎そうするには私は色々なしがらみに囚われているのだ。
 そこへ今まで傍観者に徹していた第三者が突然口を挟んできた。
「駄目よカミュちゃんこれ以上二人をイジっちゃ。ナマエちゃんウブなんだから、へそを曲げちゃったらホメロスちゃんに恨まれるわよ」
 ティーカップを優雅に傾けて上機嫌に微笑むその男は旅芸人シルビアの異名を持つソルティコの騎士ゴリアテだ。
「別に私には関係ないな」
「あーら、へそを曲げたナマエちゃんも可愛いって? まっ、おのろけねえ、ご馳走様!」
「人の発言を曲解するのは止めたまえ」
 威嚇を込めて垂れ目の男を鋭くねめつけると、シルビアは「あら怖ぁい」とわざとらしく首を竦める。声が弾んでいる辺り完全に愉快犯だろう。この男には用心しなければ。見た目こそふざけた格好をしているものの、おそらくパーティ内で一番油断がならない男かもしれない。

 そこに今まで妙に静かだった大男がすっと奥の席から立ち上がり、無言で私の方へと近づいてくる。
「ホメロス……」
「どうしたグレイグ」
 面倒に思いながらも呼びかけに返してやると、これでもかという程カッと見開かれた碧の瞳が私に向けられた。まるで大型獣にでも威嚇されている気分だ。
「俺は、う、うら、嬉しいぞ! まさかお前が積極的に仲間たちと関わってくれるようになる日がくるとは思わなかった……!」
 こいつ今羨ましいと言いかけたか。
 胡乱な眼差しを向けつつ友の次の言葉を待っていると、我が国が誇る常勝将軍はなぜか悔しそうに歯噛みして私から視線を逸らした。
「それにしてもダーハルーネでデートとは……くっ、青春だな!」
 やはりそこか。羨望がダダ漏れている友に心の中で冷静に突っ込みを入れる。そういえばこの男は極度の恋愛音痴だったか。
「……まあ、仲間と交流を深めるのは大事なことだからな」
 余計なことは言わずに端的に返す。グレイグは相変わらずの渋い顔で「うむ」と重々しく頷くのみだった。


 そろそろ寝坊助の勇者さまを起こしてくるかな、とカミュが言い出したのをきっかけに、流れでティーブレイクは終了となった。ベロニカとシルビアはカミュを追いかけて二階に上がっていき、グレイグは夕食までの時間を外で鍛錬に費やすようだ。何かと口うるさい連中が全て去り、残ったのは双賢の妹とマルティナ姫、そして私とナマエだけになった。
 私は椅子に腰を下ろし、頼んでいたことをすっかり忘れていたティーカップに手を伸ばすと、ポットに残っていた紅茶を注いだ。庶民が嗜む類の安ものだろうか、紅茶はやや渋く、そして香りも乏しい。流石にダーハルーネのティーサロンで出されたものと比べてしまうのは酷か。やがて隣にナマエがそろそろと足音を忍ばせて座ってきたので、もう一組のカップを取り上げて紅茶を注いでやる。「ありがとうございます」とカップを受け取りながら小さく礼を言う彼女に「ミルクを入れた方がいい」と言い足すと、なぜかまた顔を赤くしていた。別に深い意味などないのに、……おかしな娘だ。そういう隙を見せるから、からかいたくなるのだということを分かっていないのだろう。

「あ、そういえばナマエ、お土産ありがとう」
「う、うん! ご飯の後にみんなで食べようと思って買ってきたの」
「ダーハルーネはいかがでした?」
「楽しかったよ~! お高そうなところでアフタヌーンティーしてきたの」
「まあ! さすがホメロスさまのエスコートは優雅ですわね。わたくしにもいつかイレブンさまやカミュさまやホメロスさまのようなステキな恋人ができるでしょうか……」
「ごほっ」
 しばし和やかな会話が続いていたところに投げ入れられた爆弾発言。双賢の妹の言葉に不意を突かれ、危うく紅茶が気管に入るところだった。だが可哀想なナマエは回避しきれなかったか、涙目で苦しそうに咽込んでいる。
「あらナマエさん大丈夫ですか? 背中を摩ってさしあげますね」
「あ、ありがと……じゃなくてセーニャ! 勘違いしてるみたいだけどホメロスさんは恋人っていう訳じゃなくて!」
「まあ! うふふ、照れなくても良いんですよ。あ、でも、もしかして皆様には内緒の関係……だったのでしょうか? そういうのもドキドキしてステキですよね」
「ねえ人の話聞いて? あの、もしもしセーニャ……セーニャさん? だ、ダメだ妄想の世界に旅立っている……マルティナさん何とか言ってあげて」
「うーん、私も実はそこ気になっていたのよね」
「えええ~?」
 どうやらセーニャの妄想が暴走し、それに姫が悪乗りしているようだ。ナマエが微塵も悪意のない言葉に追い詰められている。赤い顔で反論も叶わず、まごつく彼女を眺めているのは愉快だが、流石にそろそろ助け舟を出してやらねば可哀想か。
「双賢の妹よ」
「はい! なんでしょうか、ホメロスさま」
 呼びかけに弾んだ声を上げ、双賢の妹が瞳を輝かせながら振り向く。その純粋な眼差しに僅かな気後れを覚えた。純粋過ぎるというのも時にやっかいなものだ。
「楽しそうに想像を膨らませているところ悪いが、私とナマエはそういった関係ではない」
「あら? そうなのですか? 私ったら勘違いをしてしまったようで……申し訳ありませんわ、お二人とも」
「ううん……私こそ言葉が足りなくてごめんね」
 ようやくセーニャの理解を得られ、ナマエが安心したような笑顔を浮かべる。ふとその瞬間、私の心につい魔が差してしまった。
「――まあ、今のところは、だがな」
「ほ、ホメロスさんん!?」
「今のところは……? では、いずれはそうなるご予定が?」
「さてな」
 慌てるナマエを無視し、さらにセーニャの問いにもシラを知る。まったく我ながら性質が悪い。だが必死の形相で食ってかかるナマエの反応がすっかり癖になってしまっている。
「どっち!? そういう思わせぶりなのやめてください!」
「ふっ、くくっ。悪いな。だがあくまで可能性の話だ。僅かな可能性と言えども切り捨てるには早計だろう?」
「……じゃあ、何か間違いが起きて私とホメロスさんが恋人同士になることもあり得るってことですか? ホメロスさんはそんなこと考えられます? 私が、その……あなたの恋人になるなんて」
「可能性の観点から言えば、無論ないとは言いきれないな」
 慎ましいのは美徳だが、自信がなさ過ぎるというのも問題だ。確かにこのパーティーには出自が華やかな人間が多い。そんな必要は全くないのに、事あるごとに彼女は立場の差に引目を感じているようだ。どこかおどおどとした眼差しを遣すナマエにはっきりと告げてやると、彼女は途端に言葉に詰まって顔を真っ赤にして俯いてしまった。
 瞬間、心臓のあたりに引き攣れるような痛みが走る。だが嫌な気分ではない。昔から、恋に落ちる感覚を『甘酸っぱい気持ち』などと表現するのが常套句となっているが、果たして感情に味覚なぞ感じるものだろうか――。そんな長年の疑問はついぞ晴れる事はないだろうと思ってはいたが、もしかしたらこの痛みこそがその甘酸っぱいと言われるものの正体なのかもしれない。
 ……我ながら、どうでもいいことを考えている自覚はある。
「とはいえ、可能性は限りなくゼロに近いだろうがな」
 ――そうだろうか?
 言いながら脳裏の片隅で自問の声が囁く。
 悪の魔道士の手下、裏切り者の元将軍、世界を裏切った咎人。己の両肩にかかる肩書きは碌でもないものばかりだ。こんな退廃的な男が未来ある若い女性の人生に関わって良い訳がない。そうは思うものの……。
「そうですよね」と少し残念そうな笑顔を見せるナマエに再び心臓が痛んだ。私の不誠実な発言に一喜一憂する様は憐れで愛おしい。
 女性を誘惑するのは容易いことだが、ナマエに限ってはそういったことに誘うのは大いに引け目を感じている。何故だろうか? それはきっと恐らく、彼女が私にとって眩しい存在だからかもしれない。彼女は駆け引きなどまるで知らぬような無垢な顔で、いつも私を慕うような眼差しで見上げてくる。
 正直理想とする異性像とは程遠い。だがナマエを見ていると、まるで青臭いローティーンの頃の自分を思い出す。初恋の相手の顔などもう覚えていないが、今とは違い、未熟だった私はその人をデートに誘うこともできなかった。そんな未熟さが懐かしくも恋しくも感じる。肩書きもなにも持たない、唯の自分自身。彼女といると、気取らぬ自分でいられることの心地よさに気付くのだ。
 ……今更恋だ愛だなどと青春ごっこを楽しむような歳でもない、そういった面倒事はもう十分だ。だから美味しいところを軽く味わうだけ――。
 そう思いながら……これ以上は踏み込むべきではないだろうと思いながらも、私はナマエから目を離せずにいる。


「ねえホメロス」
「なんでしょうか、マルティナ姫」
 空になったティーカップを片付け、部屋へと撤収する際に不意に背後から呼び止められた。声の主は我が国の次期女王。当然無視できる相手ではなく、止む無く足を止めて振り返る。
 麗しの戦姫は私に並んだと思えばすぐさま不躾な視線を顔のあたりに寄越し、やがて小首をかしげて感心したように頷いた。
「あなた、いつの間にかそんなに良い顔をするようになったのね」
「良い顔、とは」
「リラックスしていてとても自然な笑顔、って意味よ。今のあなた、すごく優しい顔をしているの。自分では分からない?」
「さて」
 姫が言わんとしていることは理解できた。が、あえて惚けてみせる。だがマルティナ姫に誤魔化しは効かない。姫は敬愛する我が王にそっくりな目元を細め、柔らかく微笑んだ。
「ねえ、それって誰のおかげかしら?」
「さあ……ここにはお節介でお人よしな人間が多いですからね」
 肩を竦める。見え透いた誘導尋問に乗ってやる義理はない。
「あら、そっちに持ってくの? つまらない答えね」
「おや失礼、私の回答はお気に召しませんでしたか。では、ご想像にお任せします、とだけ言っておきますよ」
 のらりくらりとした私の態度に流石に姫の機嫌を損ねてしまったようだが、お陰で彼女の関心もまた削がれたようだ。私はこれ幸いとばかりに慇懃に一礼し、足早にその場を後にするのだった。

 ――さて、臆病者はいったい誰か。