きみと歩む、365日間・後編




 
「寝袋に入ったか? よし、ランプを消すぞ」
 支度を終えて、狭いテントの中に用意された寝袋に潜りこんで蓑虫のように包まる。低い天井に吊るされたランプに手を伸ばしたグレイグさんの声に、はーい、と応えると、ふっと視界が闇に包まれた。
 ゴソゴソと音がして、大きな影が隣に横たわる。ランプの灯りを消しても、うっすらと漏れ差してくる月の光。
「外、結局明るいですね」
「そうだな」
 と、耳に心地よい低音が返ってくる。薄暗がりの中でじっと目を凝らすと、宝石のように輝く翠の瞳がぼんやりと浮かびあがってきた。
「グレイグさんの目の色が見えます」
「んん、そ、そうか」
 ごそ、と目の前の影が身動きしたと思ったら、翠の光がすうと消えた。照れ屋さんが目を閉じてしまったのだろう。グレイグさんに倣って私も瞼を閉じてみる。
 眠気はまだやってこない。夜はまだ始まったばかりだ。
「……ねえ、おばけキノコって食べられるんですか?」
 なんとなく目を閉じてじっとしているのがもったいなく思えて、とりとめもなく脳裏に浮かんだ疑問を口にする。隣の影が、うーむ、と思案するように唸った。
「食えないこともない。生で食うと腹を壊すが、日干しして煮出せばよい出汁が出るぞ」
「あっ、その口調は経験ありですね。美味しかったですか?」
「うむ、なかなかだ。今度試してみるか?」
 うっと返答に詰まる。自分から切り出しておいてなんだが、おばけキノコは食材としては絶対ゲテモノの部類だろう。
「ええと、まあ、……き、機会があれば、かな?」
「ほう、言ったな? ならばこのグレイグ、いつか必ず君に美味しいおばけキノコ鍋を食べさせることを約束しよう。なに、騎士に二言はない。楽しみにしていてくれ」
「うう、騎士道精神の大安売りはやめてくださいぃ……」
 くつくつと弾む低音はたいそう楽しそうで、私は軽はずみな発言を少しばかり後悔した。完全にからかわれている。

 ゴオォ、と海の方から届く地響きのような音に耳を澄ませる。海鳴りの音はまるで心臓の鼓動音のようだ。
 なんとなく、グレイグさんの鼓動を思い出す。厚い胸筋に頭を預け、好きな人の匂いを嗅ぎながら、全身を安らぎに包まれているような幸福感。
 寝袋から片手を出して、隣の人のぬくもりをそろそろと探す。暗闇をさ迷う私の手が、こつんと骨ばった暖かな人肌にぶつかり、すぐにグレイグさんの手を見つけた。
「……どうした?」
 いえ、と何気ない風を装って、そのままグレイグさんの手を握ると、ふ、と微苦笑の吐息が聞こえた。
 暗闇の中で遭遇した温もりは互いの存在を確かめるように指先が絡み、そして緩く握られる。大きな手。この手は私を、そして幾千の民を守ってくれる力強く優しい手だ。
 海鳴りの音と漏れ聞こえる微かな呼吸音に耳を澄ませていると、そのうち眠気がひたひたと満ちてきて、――そうして意識は夜の星空へと飛んでいった。



「うみだー!」
 透明に光り輝く青い海を前に、私は昂ぶる気持ちを抑えきれずにジャンプした。晴天の空、白い浜辺に美しい海。まさに理想の観光地。内陸にあるデルカダール王都の景観と比べてしまえば、言っちゃ悪いがテンションの上がり方が違う。
 テントで一夜を過ごした翌朝、晴れ渡る空を見上げて思いついたのだ。せっかく、その美しさで有名な海辺のすぐ近くまで来ておいて、寄らない理由はない、と。
 ということで朝食を終えた私たちは急きょ、ソルティアナ海岸へと赴いた。
 白く輝く砂浜を前にわくわくを抑えきれず、革のブーツを脱ぎ捨て海へ向かって駆け出す。秋の海はもちろん冷たい。が、そんなものに怯む私ではなく、ロングスカートをたくし上げてバシャバシャと波を蹴り、歓声をあげた。
「つめたーい! ……あ、サンゴだ」
「転ばないように気をつけろ」
 リタの手綱を引きながらゆったりとした足取りで歩いてくるグレイグさんを振り返り、誘うように笑いかけた。
「ねえ、グレイグさんもこっちにきませんか? 冷たくて気持ちいいですよ!」
 はしゃぐ私の様子を微笑ましく思っているのだろう、デルカダール国屈指の将軍様は、そんな心境を窺わせるような穏やかな笑みを浮かべている。
「いや、俺はいい。魔物が来ないか、見張らねば」
「あははっ、そんなの平気ですよ! ほらこっちこっち」
「お、おい。ちょっと待ってくれないか。靴が……」
 私に引き摺られるままグレイグさんが慌てて靴を脱ごうとしていると、不意にバシャンッ! と一際大きな水音が隣から響いた。驚いて音の方を見ると、黒々とした目を輝かせた立派な軍馬の姿が。
「――り、リタ?」
 ぶるる、と呼び声に応えるような嘶き。蹄で波間をかき分け、黒馬がこちらに近づいてくる。不穏な空気を感じ取り、グレイグさんの顔がこわばった。
 きっとリタは、楽しそうに水遊びをしている人間たちを見て自分も混ざりたかったのだろう……と、後になって思う。
「おい、やめろ、リタリフォン。落ち着け、……待て、早まるな!」
 制止の声も虚しく、嘶きとともに棒立ちになったリタが、そのまま勢いよく前足を波に振り落とす。派手な水音とともに上がる水飛沫。
「ひゃあっ! つ、冷たい……」
 哀れ人間達は濡れ鼠。私はグレイグさんが壁になってくれたからそこまで被害はない、けど……。
 崩れた前髪からぽたぽたと滴り落ちる水を拭い、グレイグさんは無言のまま海水を大量に吸ったマントとチュニックを脱ぎ捨てる。
 落ちてきた前髪をぐっと掻き上げれば、水も滴る色男の出来上がりだ。ニヤ、と大胆不敵な笑みを浮かべたグレイグさんにドキっとした。
「ぐ、グレイグさん?」
「……こうなったら徹底的に遊ぶぞ! 覚悟はよいか、ナマエ!」
 腕をまくってそう宣言したグレイグさんの目が完全に童心に返っている。大きな手で掬われた海水が私に襲いかかり、陽の光を反射した飛沫がキラキラと舞う。
 きゃー、と歓声混じりの悲鳴が浜辺に響いた。


 結局二人と一頭揃ってびしょ濡れとなり、服が乾くのを待ってからの出発となった。
 西に向かってしばらくリタを走らせると、ふいに鼻先が華やかな香りを捉えた。緑一色だった絨毯が、次第に鮮やかな色に染まっていく。花咲く丘を越えた先の小島、海辺の都市ソルティコ。石灰の白壁と青色の屋根で統一された美しい景観は一見の価値ありだ。
 堅牢な砦に挟まれた石橋を渡り、懐かしの街並みが見えてきてほっと息が漏れた。リゾート地らしくどの家の軒先も色とりどりの花で飾られ、華やかで濃厚な香りに癒される。
「やっと着いたな……」
 少し疲れたよう顔でグレイグさんが呟く。まあここまで結構盛りだくさんだったから、心労もそれなりだろう。
「リタ、ごめんね。後でね」
 街の入り口手前で鞍に乗せた荷物を下ろし、リタを馬小屋の馬丁さんに預ける。リタにはまた置いてきぼりで申し訳ないが、流石にホテルまでは連れていけない。
 今日のお宿は奮発してリゾートホテルの方だ。うきうきと広場の方に足を進めると、ふいに「おーい!」と、聞き覚えのある声が響いた。
 なんだろう、ときょろきょろあたりを見渡す。すると広場の一角に集まった集団の一人がこちらに手を振っているのを発見し、その人たちの顔を見て私は思わずぎょっと二度見した。
「え!? みなさん、どうして……?」
 なんと、一年前旅を共にしたかつての仲間たちがそこに大集合していたのだ。勇者さまにカミュさん、ラムダの姉妹、シルビアさん、ロウさまに、なんと姫さままで。たまたま集まったにしては不自然だし、……もしかして初めからその予定だった? いやでも私は何も聞いてないし。
「グレイグさんから手紙が来て、僕も久しぶりにみんなの顔を見たくなったから、急だったけど声を掛けてみたんだ。今日は邪神を倒してからちょうど一年だし、思い出話に花を咲かせないかって」
 摩訶不思議な現象に私が首をひねっていると、勇者さまがそう種明かしした。そういえば私たちの旅が終わったのも、グレイグさんとお付き合いが始まったのも同じ日だった。
「そうだったんですね。でも勇者さま、昨日なにも仰らなかったじゃないですか。どうせなら一緒にソルティコまで来ればよかったのに」
「いやいや、それどう考えても僕、お邪魔虫じゃない?」
「そ、そんなことは、ないと、思いますけど……」

 旅の仲間たちとの再会に目を白黒させているうち、ふとあることに気づいた。隣に立つ同行者はこのサプライズにあまり驚いていないようだ。……もしかして、私だけ知らされてなかった? 言うのを忘れていたとか。――十分ありうる。
 私は隣で黙り込んでいる人を見上げ、そっと呼びかけた。
「グレイグさん?」
 すう、と緑の瞳が気まずそうに逸らされる。
「……すまん、言い忘れていた」
 やはり。
「もうっ」
「お、俺は師匠のところに顔を出してくる。ナマエは皆でゆっくり過ごしているといい」
「あ、ちょっと」
 そそくさと去っていく背を眺めていると、逃げたわね、と姫さまが生ぬるい笑みを浮かべてそう呟いた。うーん、これは後でお説教コースか?


 ソルティコにはメダル女学園直営の高級ホテルがある。お値段はちょっと値が張るが、部屋も広くてキレイで、セレブ御用達のホテルだ。今回予約されていたのはなんと憧れのラグジュアリースイート。天蓋付きのベッドにプール、ウェルカムシャンパンまで用意されている。テンションは上がる一方だ。
 広いバスタブ……はもったいなくて使えなかったので、バスルームに併設されたシャワールームで軽く汗を流し、服を新調して集合場所へと向かった。シルビアさんの友人が経営するレストラン。ソルティコの美味しいシーフードを出してくれる有名なお店らしい。
 ジエーゴさんへの挨拶を終えたグレイグさんも無事合流し、私たちはテーブルに着いた。美しいサンセットを眺めながらまず勇者さまがグラスを片手に乾杯の音頭を取る。
「それではみんなの再会を祝して、グレイグさんから一言」
 ……と思ったら、さっそくの無茶ぶり。いきなりの指名に混乱したグレイグさんは、あたふたとしつつもそれでも律儀に席から立ち上がった。
「お、俺か!? な、なぜ俺なのだ? いや、確かに若年者が年長者に挨拶を譲るのは立派な心掛けだと思うがそれを言うならロウさまの方が……。む、『料理が冷めるから早くしろ』? いやわかった急かすな。今何か考えるから……オホン! えー本日は皆さまにお集まりいただき、まことに――」
「長い、以下略。はいかんぱーい!」
「おい!」
 どうやらここまでがフリだったらしい。他の皆も慣れたもので、勇者さまの音頭に合わせてグラスを傾ける。我らが勇者さまはたまにお茶目になるのだ。真面目なグレイグさんは格好の標的だ。
 席に着いたグレイグさんが不服そうな表情でこちらを振り向き、わざとらしく肩を竦める。それに耐えきれず吹き出すと、グレイグさんもまたつられたように相貌を崩した。
「……まったく、イレブンは相変わらずだな」
「ええ、皆さんもお変わりないようでちょっと安心しました」

 評判通り、出てくる料理はどれもこれも素晴らしいものだった。
 美味しい料理をいただきながら、互いの近況を語り合う。皆とともに乗り越えた邪神との死闘は昔話というほど懐かしむものではなかったが、それでもあの日々は既に過去のものだ。
 あの頃に味わった痛みも悲しみも苦労も、今日という日があるからこそ思い出として輝くのだ。



 陽が沈み、すっかり辺りが夜の帳に覆われる頃。
 ラムダの姉妹は既にデザートに切り替え、勇者さまとカミュさんはいつの間にか追加オーダーされていた骨付き肉を頬張っており、大人たちはワインやエールを片手にまったりとくつろいでいる。久々に仲間たちと過ごす穏やかな夜だった。
 ……が。
 その言葉が聞こえてきたのは、私が少し席を外して戻ってきた時の事だった。
「ところでアナタたちはいつゴールインするのよぉ。待ってるんだからね、結婚式の招待状!」
「ご、ゴリアテ!」
 シルビアさんのからかい混じりの言葉の後、グレイグさんの慌てふためいた大声に私は思わず足を止めた。丁度よくそこにあった衝立に身を隠し、息をひそめる。少し席をはずしているうちに、なんだかえらい話題になっているではないか。
「あ、思い出した! そういえば私がアイディアを出してあげたプロポーズ、結局どうだったのよ。うまくいったの?」
「ひ、姫さま! 今ここでそのことは……!」
「いいじゃない。ちょうどナマエもいないんだし」
「え、なんの話? マルティナちゃん、それ詳しく」
「そうそう聞いてよシルビア。この旅に出る前に、グレイグがお父様と私にナマエとの結婚の許しをもらいに来たのだけどね。その後にグレイグったら、一生の思い出に残るようなプロポーズにしたいけど、まったくアイディアが浮かばないのです~って私に泣きついてきたのよ。大の男が情けないと思わない? それで私、面倒くさくなって言ってやったのよ。人は高いところで告白すると成功率が上がるって、以前女性用雑誌かなにかで読んだことがあってね。なんだったら神の岩の頂上でプロポーズでもしたら? って。そしたらグレイグが『さすが姫さま、なんと素晴らしいアイディア!』って妙に感銘受けちゃって。冗談のつもりだったんだけど、もう思い込んだらダメね。グレイグってばさっそくイレブンに連絡取っちゃうんだから、考え直したら? なんて言う暇もなくて」
「じょ、冗談だったのですか……」
「へええ、なにそれ面白いじゃない。で、結局どうだったのよグレイグ」
「……残念ながら、まだプロポーズの申し込みには至っておりませぬ」

「――ナマエ? ここで何しているの?」
「ひゃあっ!」
 ふいに背後からポンと肩を叩かれ、話に集中していた私は驚いて飛び上がった。後ろを振り向くと同じくびっくり顔の勇者さまがいて胸をなでおろしたけど、安心するのはまだ早い。先ほどまでテーブルの方から聞こえてきていた賑やかな声が、しーんと静まり返っていることに、不幸にも気付いてしまった。
「……え、と、ナマエちゃん? も、もしかして、そこにいるのかしら?」
 逃げ場はない。シルビアさんの呼びかけに私は腹を括り、そっと衝立から顔を覗かせ、ぎこちなく笑ってひらひらと手を振った。
「た、ただいま」
「……全部、聞いてた?」
「は、はい。すみません」
 あちゃー、とシルビアさんが頭を抱え、隣の姫さまが真っ青になる。皆が百面相を浮かべる中、グレイグさんは完全に固まっていた。
「ご、ごめんなさいグレイグ! 本当にごめんなさい!!」
「い、いえ! 全て私が不甲斐ないせいです。姫さまがお謝りになる必要などございません!」
 うっかり全てを暴露した姫さまが泣きそうになりながらグレイグさんへと頭を下げる。姫さまに悪気はないのは百も承知だ。そう理解して大人な対応を取れるグレイグさんは流石だが、けれどこの居た堪れなさはどうすることもできない。
 微妙な空気の中、私はどうしていいか分からず再びそっと衝立に隠れた。皆と顔を合わせにくいことこの上ない。
 と、足音がこちらに近づいてきて、こほん、と衝立越しに咳払いが聞こえた。振り返ると、すぐ後ろに大きな影。
 困ったような、照れくさそうな表情のグレイグさんがそこにいた。
ナマエ。その、少し、散歩に出ないか」
「は、はい」
 神妙な顔で申し出られ、思わず頷いてしまった。うむ、とホッとしたように顔を綻ばせたグレイグさんが私の手を取ってすぐにでも歩き出そうとし、ふと思い出したようにテーブルの方を振り返って一言。
「皆、少し席を外す。すまないが、後を頼む」
「ばっちり決めてこいよおっさん!」
 まったく他人事のカミュさんがそう冷やかしを飛ばす。それをぎろりとひと睨みし、グレイグさんは大股で歩き出した。余裕がないのか、小走りでついていく私に気付いてくれる様子はなかった。




 連れ出されたのは、月夜に照らされる花咲く丘だ。馬小屋に預けていたリタを連れ、橋を渡って少し走らせた後、花畑の真ん中で私たちは地面に降りた。
 風が吹く丘で、黄色い花びらが穏やかな夜の中に舞い散っている。崖沿いに海を隔て、見下ろす小島に先ほどまで私たちはいた。夜の海にぽっかりと浮かび上がる島の夜景は幻想的で美しい。
 夜のソルティコに魅入っていると、隣で咳払いが聞こえた。
 振り向くと、緊張の面持ちのグレイグさんと目が合った。先程の皆の会話を聞いてから、心臓は痛いほどドキドキしている。夜景に魅入っているなんて嘘だ。どんな美しい景色も、実際はちっとも目に入ってこない。私の意識は全て、グレイグさんに向いていた。
 新緑色の真摯な瞳がじっと私に注がれている。……これは夢ではないだろうか。浮足立つ気持ちを抑え、次の言葉を待つ。
ナマエ
 神妙に名を呼ばれ、「はい」と私も真剣に頷いた。
「あ、あーその……」
 まごついたグレイグさんが、照れて頭を掻く。
「ダメだな、いざとなるとまったく言葉が出てこない。色々考えていたんだが、はは」
 なんとも彼らしい言葉に思わず笑みを誘われた。
「恰好なんかつけないで。いつものグレイグさんがいいです」
 緊張に震える声で、勇気を出してそう告げると、そうだな、とグレイグさんが苦笑した。と、ポケットに手を忍ばせたグレイグさんが、決意をしたように再び私を見る。
ナマエ、その、手を出してくれないか?」
 無言で頷き、それに従う。迷った末両手をぱっと突き出すと、グレイグさんは一瞬笑みをこらえるように頬を緩め、おもむろに私の左手を取った。
 ポケットから出されたグレイグさんの指先には、あるものが握られている。小さな円環状のもの。それが、左の薬指に吸い込まれるようにして近づいてくる。思わずひゅうと息を呑んだ。すると大げさな反応にぴたりと動きが止まり、羞恥を堪えるような赤い顔のグレイグさんが、じとりと威嚇するように私を睨んだ。
「い、いやならとめてくれ。今すぐに」
 嫌なわけがない。だけど胸が溢れて言葉が出てこず、私はかろうじてふるふると首を横に振った。
「いいんだな?」
「は、はい……!」
 今度はぶんぶんと首を縦に振る、グレイグさんがほっとしたように溜息をついた。
 するり、と薬指に収まった指輪をまじまじと眺める。すごい、どういうわけかサイズがぴったりだ。私の指のサイズを知るわけがないのに……と首を傾げ、ふいに勇者さまの家で寝起きした時、左手に絡まっていた糸の存在を思い出す。……もしかして、あの時?
 それに、と再び指輪に目線を戻す。婚約指輪にしては、変わったデザインの指輪だ。材料は恐らく青銅、トップの部分が家紋のような模様の描かれた円形で、まるで鍵の握り部分のようだ。……というか、鍵だこれ。
「これ、鍵……? 鍵を、指輪に加工したの?」
「あ、ああ! よく気付いたな。これは、俺が生まれ育った家の鍵。唯一、故郷バンデルフォンから持ってこられたものだ。魔物の襲撃から着の身着のままで逃げた時も、いつもこいつを首からぶら下げていたから、故郷のものはこれしか手元に残ってない。プロポーズするからには婚約指輪を用意せねばと王室御用達の宝石屋で見繕ってはみたものの、どれもいまいちピンとこなくてな。ならば俺にとって家族との思い出が詰まったこの鍵を加工して、婚約指輪にしようと思いついたのだ。鍛冶は趣味でたまにやるとはいえ、こんな小さいものの加工は初めてだったからイレブンに無理を言って手伝ってもらったんだが、まあなんとか見られるレベルにはなっていると思う」
 ひえ、と思わず青ざめる。成程イシの村で夜に聞いた鍛冶の音はやはり夢ではなかったのか、などとのんびり納得する余裕もなく。あまりに思い出の詰まった貴重なものを託され、急に左手がずっしり重くなったように感じた。
「こ、こんな大事なもの、私がもらってもいいんですか?」
「むしろ君にこそ持っていてもらいたい」
 これはグレイグさんが持っているべきでは。と慌てて指輪を外そうとしたところを、ぐっと腕を掴まれて押しとどめられる。
「本当は、神の岩の上で申し込むつもりだった。少し予定が狂ったが、その点はどうか目を瞑ってほしい。この一年、きっと君には俺の不甲斐ないところばかりを見せてしまったと思う。だが、この旅を経て確信した。俺は君とともにある時間が一番の安らぎとなっているのだということを」
 浮ついたような新緑色の瞳が、まっすぐに私を見据えている。いつだって誠実で、優しくて、誰よりも強く、弱きを助けるためなら自らを犠牲にするのもいとわない人。そんな人だから惹かれた。繊細で傷付きやすい一面すらも好きだし、その心を守りたいと思う。
 グレイグさんがぐっと顎を引いた。隣で花を啄んでいるリタの手綱を取って、私とグレイグさんの間に丁度リタが来るように引っ張る。食事の邪魔をされたリタは少々不満そうに鼻を鳴らしたが、どうやら大人しくそこにいてくれるようだった。
 さっと見事な足さばきでグレイグさんが跪く。その様子は王子様が見せる優雅な仕草とは程遠く、歴戦の戦士が主君を前に膝をついて頭を垂れるような勢いだ。でも、私が好きになったのは王子様じゃないから優雅じゃなくたって全く構わない。
 伏せられたすみれ色の頭が勢いよく上がった。左手を取られ、じっと見つめる新緑色の瞳に私は何度だって心を奪われる。歓喜の涙に視界がぼやけ、目の前の男前がよく見えないのが少し惜しく思った。
「わが友リタリフォンを証人とし、今ここに君に申し込みたい。君に、俺の還る場所になってもらいたい。これからの道を、ナマエ、君と共に歩みたいのだ。……俺と、家族になってくれるか?」
 私の返事は最初から決まっている。
「――はい!」
 感極まって勢いよく頷いた瞬間、私はグレイグさんに抱きしめられていた。
「ありがとう。これまでも、これからも、ずっとともに歩んでいこう」
 耳元に響くグレイグさんの低く甘い声は、少し興奮しているようだ。彼の言葉にこくこく頷くと、腕の力がますますぎゅうと込められて、私は大好きな人の香りに包まれて幸福感に酔いしれるのだった。


 そうして花びらが散る美しい夜に私たちの旅のひとつが終わり、また新たな旅が始まった。
 人生とは旅である。昔の偉い人が残した言葉だ。
 そう、これは終わりではなく、ただの通過点にすぎない。

 きみと歩んだこれまでの日々を。
 きみと歩むこれからの日々が。
 これからもずっとずっと、きみの隣にあれる幸せがいつまでも続きますように。

 ――きみと歩む、365日間。