きみと歩む、365日間・中篇
着いたぞ、と耳元で囁かれ、慌てて目を開けた。周りを見渡せば、そこに牧歌的な村落が広がっている。いつの間にか夕刻を迎えた空は茜色に染まり、居眠りをしていた私はまるで短いタイムスリップをしてきたかのような感覚に襲われた。
うわあ、どうやら相当ぐっすり眠ってしまったらしい。後ろでグレイグさんが「よく眠れたか?」とニコニコとしている。
「お、おかげさまで。大変お手間をおかけしました」
流石に小さくなって礼と謝罪を述べると、グレイグさんが破顔した。
「いや、どうということはない。ナマエは覚えていないだろうが、寝言を言っていたから会話ができるか試みたら、中々興味深い返答が返ってきてな。道中楽しかったぞ」
「ええ!? 寝言で会話してたんですか!? やだもう、一体なにを言ったんだろう私ったら」
衝撃の告白に頭を抱え身悶える。グレイグさんはそんな私の頬をからかうようにつんと突いた。
「知りたいか?」
「う、うう、知りたいような、知りたくないような」
恐る恐るそう告げると、私の及び腰っぷりが可笑しかったのか、グレイグさんが吹き出した。
「いや、すまん。まあ興味深いとはいっても、ほとんどは君の仕事に関わるような学術的な内容だったから、安心してくれ」
「そ、そうなんですか? 他に変なこと、口走ってませんでした……?」
さあどうだったかなぁ? と、とぼけたようにはぐらかすグレイグさんはお茶目だが可愛くない。むうと片頬を膨らましつつ、先にリタから降りていたグレイグさんが差し出した手を掴んで、私もまた地面に降り立った。
リタの手綱を引きつつイシの村の門をくぐると、集落へと続く坂道をひとりの少年が駆け上がってきた。風になびくさらさらヘアーの持ち主。
「いらっしゃい、二人とも」
「勇者さま、しばらくぶりです」
一緒に旅をしていた頃とは違い、すっかり村に馴染んだ格好の勇者さまに、私はぺこりと頭を下げた。邪神を倒した後、イシの村の復興のため何度かここを尋ねていたが、復興が終わってからここ最近はすっかり足が遠のいていた。勇者さまと顔を合わせるのも、恐らく半年ぶりだろう。
「イレブン、突然すまんな。一日厄介になる」
「連絡を受けてからお二人が来るのを楽しみに待っていましたよ。今、母さんが夕食の準備をしてます。今日は僕の家に泊まっていってください。あ、リタリフォンはごめんね、厩で我慢してくれるかい? その代わり美味しいご飯を用意するからさ」
と、ひとり仲間外れのリタを慰めるように勇者さまが首筋を撫でると、まんざらでもなさそうに鼻を鳴らしていた。
「さあこっちです」
勇者さまの先導に従い、見事に復興を遂げたイシの村の中を横断する。もう夕方だからか、外に出ている村人たちはあまりいない。小川を渡って少し急な坂道を登ると、一段小高いところに建っている素朴な石造りの家が勇者さまの実家だ。出迎えてくれた勇者さまのお母さん――ペルラさんにご挨拶して手土産を渡し、荷物を下ろして家の中にお邪魔した。リタとは暫しのお別れだ。夕食にはペルラさんが作ってくれたシチューに舌鼓をうち、勇者さまとの久々の再会に乾杯した。
勇者さまとペルラさんは、どうやら今日は村長さんのところで夜を過ごすらしい。明らかに寝床が足りないことは気になってはいたが、まさか彼らの寝床を奪う羽目になっているとは露知らず、提供されたベッドを慌てて辞退しようとするも、「気にしないで」と押し切られてしまい結局ご厚意に甘えることにした。
マグマの石で暖められたお湯を先に頂いて、心身ともにほかほかになってベッドでグレイグさんを待つ。木製の簡素なベッドは麻のシーツの下に藁が敷いてあるようだ。それと暖を取るための羊毛のパッチワークキルト。こういう素朴な感じ、懐かしいな……。でも、私には丁度良いサイズのベッドだけど、長身のグレイグさんにはきっと少し窮屈だろう。
念のための蚤除けにとベッドの下で香を焚いて燻していると、タオルを首に掛けたグレイグさんが戻ってきた。すみれ色の髪はまだ濡れている。私は遠慮するグレイグさんの手を引いて竃の前の椅子に導き、新しいタオルを手に取った。髪の水分を適度に吸い取って、持ってきた櫛を通していく。グレイグさんの髪質は硬くてクセがない。丈夫で健康的、まるで本人みたいだ。
グレイグさんの髪の手入れを楽しんでいると、ふいにすみれ色の後頭部がこちらに振り向いた。
「ナマエ、明日の朝なんだが……」
「はい?」
呼びかけに手を止めると、新緑色の瞳になぜか一瞬ためらいの色が走った。
「その、明日の早朝、よかったらこの村の奥にある神の岩に登ってみないか? 頂上から朝日を拝んでみたいと、実は前々から思っていてな」
グレイグさんの提案に、思わず黙り込んだ。
早朝。朝日。神の岩、……岩というかあれはほぼ山だ。ロッククライミングだ。
「……ええと、朝早くから登山ですか?」
これは朝から重労働だぞ、とさっそく明日の苦労を思って返答に詰まる。別に神の岩に登るのはいい、けど前々から思っていたんならもうちょっと早く言ってほしい、というのが本音だ。
「い、いやか? できれば、ナマエと一緒に朝日を見たいと思ったんだが、嫌ならば仕方ない。俺ひとりで……」
「待って待って、嫌とは言ってないですよ! 朝早いのは苦手なんですけど、グレイグさんが起こしてくれるなら頑張ります。……だから、その、一緒に神の岩、登りましょう!」
早合点しかけたグレイグさんを慌てて止め力強く宣言すると、緊張の面持ちだった彼がようやくほっとしたように頬を緩ませた。
「ああ、任せてくれ!」
ということで急な提案のもと、明日は早朝の起床となったため、おしゃべりする間もなく私たちは床に就いた。用意されたベッドは二つだが、一緒に寝た方が暖かいという私の主張のもと、渋るグレイグさんを押し切って一人用の狭いベッドに二人でもぐって冷えた素足を絡めた。「ひえっ」と上がる裏声に笑い声を押し殺す。
案の定、ベッドに収まりきらなかったグレイグさんの足先が少し飛び出している。大きな足だ。短く揃えられた分厚い爪先、骨太の踝、浮き上がった太い血管。でこぼこに四つ並んだ足は見れば見るほどなにもかも私と違う。
広い胸に頬を寄せると、厚い筋肉の下からどくどくと力強く脈打つ音が聞こえてくる。人肌が暖かい。ふわりと意識が眠気に包まれて、誘われるがまま目を閉じた。
「おやすみなさい、グレイグさん……」
「ああ、おやすみナマエ」
夢の中で、鉄を打つ音を聞いた。
かん、かん、と遠くから規則正しく響く音。きっと、勇者さまがまた何かを鍛造しているんだろう、と寝ぼけた頭で考える。旅の間、夜中にしょっちゅう聞こえてきたこの音がなぜ今鳴っているのかという疑問は、一切浮かばなかった。
でも、なにもこんな真夜中に打たなくたって……。流石に近所迷惑なんじゃないだろうか。そんなことを思いながら、私は再び深い眠りについた。
すぐ隣にあった温もりがなくなっていることなど、まったく気づきもせずに。
翌朝、まだ暗い内にグレイグさんに揺り起こされた。
「おはようございます……」
「ああ、おはよう」
寝起きでぼーっとしているところに温めたミルクが差し出される。
「……あれ、なにこれ?」
礼を言ってカップを受取ろうと手を伸ばした時、ぴろりと左手の指に絡まる麻糸の存在に気付いて声をあげた。
「ごっ、ゴミかなにかだろう! どれ、取ってやる」
私がぼんやりとそれを眺めている隙に、なぜかぎょっと目を剥いたグレイグさんが慌てて糸を取り除いてしまう。……一体なんだったんだろう? 模様の入った飾り糸のようにも見えたけど、薄明りで良く分からなかった。まあいいか、と寝起きの回らない頭で納得し、ぬくぬくのベッドから抜け出すべく気合を入れた。
私がもたもたと服を着替えている間、グレイグさんはせっせと朝食の準備に勤しんでいる。顔を洗って食卓につくと、竈で温めた黒パンに、溶かしたヤギのチーズをとろりと乗せたものが皿に乗って出てきた。持ち上げたパンにかぶり付く。溶けたチーズがスライムのようにびよーんと伸びた。
「ん~~~至福」
濃厚なチーズはどうやら自家製で、少し癖のある匂いが酸味のある黒パンにまた合う。質素だが王都では味わえない贅沢な朝食を堪能していると、ペルラさんのエプロンを拝借したグレイグさんがポットを差し出してきた。
「紅茶を淹れたが、飲むか?」
「いただきます」
意外と様になっている恋人のエプロン姿に、私は笑いながら樫でできたカップを差し出した。
支度を整えて外へと出る。空はまだ薄暗い。
白い息を吐きながら、私たちは村はずれの神の岩のもとへと向かった。神の岩は本来村人たち以外の立ち入りは制限されている。とはいえそこまで厳しいものではなく、神の岩の頂上でご来光を拝みたいのだと村長さんに掛け合うと、許可はあっさりと下りた。
登山道手前の祭壇で祈りをささげ、神の岩内部へと進む。神の岩の下方は空洞となっており、冷たい雪解け水が流れ込んでいた。洞穴内は広く、静謐な空気に満ちている。静かに流れる清らかな水の音を聞きながら、私たちは緩い坂道をぐんぐん登った。
「すまんな、付き合わせて」
「いいえ。王都にいるとなかなかこんな体験できませんから、なんかちょっと楽しくなってきました」
松明を持ち、先を行くグレイグさんは慎重に足元を確認しながら進んでいる。私はその広い背についていきながら、次第に冒険をしている気分になってわくわくとしながら足を進めた。
目の前にふいに現れた大きな段差。グレイグさんなら難なく乗り越えていけるが、私はそうはいかない。段差の出っ張りに掴まって上半身を持ち上げようとしたけど、腕の力だけでは如何ともし難い。顔を真っ赤にして踏ん張っていると、ふいに目の前にグローブを纏った大きな手がぬっと差し出された。
「ほら、掴まれ」
見上げると、そこにグレイグさんの姿。ためらいなくその手に掴まると、ぐい、と力強い手で私の体はいとも簡単に引っ張り上げられた。なんて頼もしい……けど猫の子のように首元を掴もうとするのはやめてください、グレイグさん。
登り始めてから一時間弱。ようやくたどり着いた頂上から見下ろす光景に、私は言葉を失った。眼下に広がるロトゼタシアの大陸を包む神秘的な雲海が、朝焼けの光を吸い込んで七色に輝いている。雄大な山々の山頂がところどころ雲海から顔を出しており、遠くには白く輝く紺碧の海。
「うわあ、うわあ、すごくきれい……!」
それ以上の言葉が出てこない。目の前の自然の織りなす美しさに胸を震わせていると、隣に立ったグレイグさんもまた感激したように目を細め、深い溜息をもらした。
「――この景色にずっと、焦がれていた。この神の岩を登ったことなど一度もないというのに、ここからの光景を何故か懐かしいとすら思うのだ。この気持ちは、一体なんなんだろうな。これが郷愁というものだろうか……」
自問するように呟いて、ふと優しい光の色を灯した新緑色の目が私を捉える。
「この景色を君と一緒に眺めたかった」
「私もグレイグさんと一緒にここに来られて嬉しい」
他の誰でもない、グレイグさんと一緒にこの感動を分かちあえる奇跡を大樹さまに感謝したい。緩んだ涙腺を誤魔化すようにグレイグさんに微笑みかければ、急に彼の表情に緊張の色が走った。
居住まいを正すように体の向きをこちらに直し、強張った顔でじっと私を見つめるグレイグさん。
「どうしました?」
「いや、その……」
促すと、たじろいだように口ごもる。一体なんだろう。もしかして後ろに虫でもいるのだろうか……? しかしさっと振り返って確認するも、それらしい気配はなく。
「ナマエ、あーその……だな」
「はい」
グレイグさんの瞳をまっすぐに見返せば、照れなのか戸惑いなのか、困ったように目線を伏せられた。もしかして、何か言いにくい話題だろうか。例えば、……浮気の懺悔とか? ――いやまさか、グレイグさんに限ってそんな。などと、あり得ない妄想に内心首を振っていると、
「ナマエ!」
「は、はいっ!」
急に気迫のこもった声で名を呼ばれ、思わず飛び上がってしまう。
「お、俺は……! その、俺は……!」
がっしりと手を掴まれた。ぐわ、と目の前に迫ったグレイグさんの眉間に、強敵を前にした時のような深い皺が刻まれている。その迫力に呑まれて目を白黒させながら次の言葉を待っていると、急に風船がしぼんでいくようにしおしおとグレイグさんの勢いが失せていって、終いには聞き取れないほどの小声でこう告げた。
「……そ、そろそろ降りないか」
「え? あ、はい」
――結局グレイグさんが何を言いたかったのかよくわからないまま、神の岩を下山した。
登山道入り口まで戻ると、辺りはすっかり朝の光に包まれていた。勇者さまの家に戻って支度を整えていると、帰ってきた勇者さまとペルラさんに世話になった礼を告げる。道中で食べなさいと渡されたランチボックスをお土産に、私たちはリタを連れてイシの村の人たちに別れを告げた。
次に目指すはソルティアナ海岸地方である。
ところで陸路で行くといったが、その道のりはあまりメジャーではない。デルカダールがイシの村の存在を知るまで知られてなかった、ナプガーナ密林へと抜ける道が実はある。その崖沿いの道を通って密林を西へ横断すると、このロトゼタシアの主大陸をナイフで切り分けるようにして流れる大きな川へとぶつかる。その川を跨いだ次の陸地がソルティアナ海岸地方へと続いているのだが、最近までその川には今にも崩れそうな丸太の道がかかっているだけだった。
まさに知る人ぞ知る道だったが、それに目をつけた姫さまが馬車でも渡れる橋の建設を王さまに奏上したのだ。通常、ソルティコへ向かうには船を使うルートがメジャーだが、交通の利便性を上げるべきだという聡明なる姫さまの鶴の一声で、今まで放置されていたナプガーナ密林内の道の整備が大急ぎで進められた。
グレイグさんが先日まで遠征に行っていたのも、実はこのためだ。国を挙げた大規模な土木工事を指揮するのは、国一番の将軍様のお役目だ。ソルティコとの共同出資のもと、行われる一大事業。主な土木工事を行うのは、デルカダール軍お抱えの工兵部隊だ。工兵とは土木や建築の仕事を担う兵のことで、戦時に置いては攻城兵器作製や兵站整備など、平時においてはこういった公共事業にまで携わる。
休日返上までしてグレイグさんが陣頭指揮を行いようやく完成させたその橋を、今から渡りにいくのだ。
ところで、ご存知の通りグレイグさんは虫が苦手だ。そしてナプガーナ密林は虫の宝庫。
密林への入り口に立ったグレイグさんの顔が、どことなく強張っている。遠征の間中、ずっと肌身離さず持っていた手作りの虫除けポプリを腰にぶら下げて(中身は入れ替え済みだ)、フードを被って首元の紐をぎゅうとしめる。完全防備で仁王立ち。その様はまるで、動かざること山の如し。……ちょっと意味が違うけど。
「準備はいいですか?」
「う、うむ」
「心の方も?」
やや間があって。
「――うむ!」
やがて覚悟を決めたようにゆっくりと歩み出した。
ナプガーナ密林の道は、大木の根が地面のあちこちに張っており平坦ではない。馬で進むのは難しいと判断し、リタの手綱を引いて徒歩で進んだ。
苔むした道には古王国の遺跡と思わしきものが埋まっており、かつてここには一体どんな国が栄えたのだろうと思いを馳せながら足を動かす。不思議な鳴き声の極彩色の鳥、手のひら大の虹色に輝く甲虫。隣接するデルカダール地方と大して緯度も変わらないこの地域だが、ここはまるで異世界だ。
「む、」
と、不意に唸って歩みを止めたグレイグさん、なにやら不穏な気配を察知したようだ。耳を澄ますと、ぶうん、と低い羽音がこちらに近づいてくることに気づく。全身警戒心の塊になったグレイグさんから、殺気が立ち昇りはじめた。
「いかん、こっちにくるぞっ!?」
「メラ!」
まっすぐ向かってきた羽音に向かって素早く呪文を唱える。私の指先から迸った小さな火の玉が、握りこぶしほどの大きさの、黄金色のカブトムシ……? のようなものに的確にヒットした。真っ黒焦げになったそれが地面にぼとりと落ちて、ようやくグレイグさん自前のアストロンは解除された。
「ふう……。す、すまんなナマエ」
「いいえ」
気まずそうな謝罪を、何食わぬ顔で受け流す。
飛ぶ系の虫は、彼にとって難敵なのだ。……ほんとうに、よくこんなところで一ヶ月も滞在できたなぁ。
本人は、大の男が情けない、と自分の弱点を少々気にしているようだが、誰だって苦手なものはある。むしろ不完全な部分があってこそ人間は輝くのだ。……というのはまあ、私の持論だが。
途中の木こり小屋でペルラさん特製ランチを頂きつつも、黙々と西へと進むうち、鬱蒼とした緑が次第に薄くなっていった。ふいに視界がひらけ、豪快な水音とともに現れたのは完成したばかりの石橋。グレイグさんを初めとした皆の苦労の結晶だ。
よし、と気合いを入れ、一歩一歩橋を踏みしめながら進むと、そこはもうソルティアナ海岸地方だ。
「とうちゃくー!」
何事もなく橋を渡れたことに歓声をあげると、隣に立ったグレイグさんがほっと胸を撫で下ろしていた。
「ふう、なんとか崩れ落ちずにすんだな」
「やだ、怖いこと言わないでくださいよ」
「ははは、冗談だ」
再びリタに乗って平原を進むこと少し、ようやく主要街道に合流した。空はもう薄暗く、夕暮れが迫っている。
本日の目的地まではあと少し。グレイグさんはリタに合図を送り、先を急がせた。
ギャロップで平原を駆け抜ける。次々流れていく景色の中に、ふいに海が現れた。ロトゼタシア大陸の広大な内海だ。水平線が沈みゆく太陽を少しずつ飲み込んで、もうすぐ夜のいきものたちの時間がやってくる。
行く先に、薄明に白く浮かびあがる女神像を見つけた。旅の間、何度もお世話になったキャンプ地だ。
前の旅人さんが残した焚き火の跡を前に、腰に手を当てたグレイグさんは声高に宣言した。
「よし、ここを本日のキャンプ地とする!」
「イエス・サー!」
テンション高く応える。本日は久々の野営である。
「何をすればいいでありますか? 隊長」
「うむ、では俺が荷物を降ろしている間、そこの井戸から必要な分の水を汲んでおいてくれ。その後はリタの世話を頼む」
「えっ、私で大丈夫かな?」
「はは、大丈夫だ。心配ない」
グレイグさんは軽く言ってくれるが、私なんかのお世話じゃリタ様にご満足頂けず蹴られてしまうかもしれない。などと不安になりながらも、とりあえず指示通り動いた。
水を汲んだ後、リタの鞍を下ろしてつやつやの毛並みを丁寧にブラシで撫でていく。その間リタはじっと大人しくしてくれて、どうやらなんとかブラシ掛けの及第点は頂けたようだった。
後ろでパチパチと薪が爆ぜる音が聞こえてきた。振り返ると、いつの間にかそこに小型のテントが出来上がっている。薪を上手に組んで手早く焚きつけられた火の近くでは、切り株を台代わりになにか作業中のグレイグさんの後ろ姿。流石の手際の良さである。
ブラシがけが終わったことをグレイグさんに伝えると、今度は交代で蹄の手入れをし、リタを草原に離した。黒影が飛び跳ねるように海岸の方に駆けていく。よかったねリタ、今日は草食べ放題だよ。
さてお次は人間たちの食事の支度だ。と腕を捲って張り切ったが、もう下拵えは済ませてある、というグレイグさんの有難いお言葉に私の意気込みは空振りに終わった。
焚き火の上にかざした鉄鍋の中身がグツグツと煮えている。きのことにんにく、干し肉のオイル煮だ。漂ってくるニンニクの香りがたまらない。ちなみにきのこはナプガーナ密林で採ったもので、一見見た目が毒々しい派手なきのこも混ざっているように見えたのだが、……信頼できるきのこ博士が自ら選別したものなので毒にあたる心配はないだろう。たぶん。いざという時はキアリーがある。
食事のお供として赤ワインを薄めたものを片手に、旨味の染み出したオイルにパンを浸していただく。城で出される食事ほど種類も量も豊富でないにせよ、秋の味わいがとても美味しかった。
「なんかこういうの、懐かしいですね。すっかりお城暮らしに慣れちゃったけど、たまにはキャンプも悪くないかも」
近くの木に自生していた青林檎を食後に頂きながら、私はすっかり満足したお腹をひと撫でした。小ぶりの果実をしゃくりと齧ると、酸味の強いさわやかな味が口内に広がる。
「そうだぞ、屋内に篭ってばかりでは体に良くないからな」
「人のこと引きこもりみたいに言うのやめてください」
ははは、とグレイグさんが朗らかな声をあげ、青林檎にがぶりとかぶりつく。なんてことのない他愛ない会話だ。だけどグレイグさんとこういうやり取りをするのは久々で、この何気ないひと時ですら貴重なものに思えてくる。
「でも、きっとグレイグさんと一緒だからこそこんなにも楽しいんでしょうね」
「……ああ、俺もだ」
グレイグさんの笑みが不意に深くなる。
「思えば二人きりでの旅は初めてだったな。今回は本当に急で済まなかった。だが良かったら、これに懲りずにまた君と二人で旅をしてみたいと思っている」
「本当ですよ。今度からもっと早めに言って下さいね。グレイグさんのお誘いなら、絶対に断りません……から、」
うわ、『お誘い』なんて、なに言ってるんだろう私。もちろんそういう意味じゃないけど、無意識な自分の発言に思わず赤面する。
「う、うむ」
私の照れが伝染してしまったのか、隣に座るグレイグさんもうっすら頬を染め、明後日の方を向いた。なんとなく甘酸っぱいような、むず痒い空気。
焚き火の勢いが次第に落ちてきた。
今日は静かな夜だった。虫の音と、パチパチと薪の爆ぜる音。空を見上げると満天の星空。柔らかな焚き火の光が、私たちを照らしている。
ひゅう、と風の音が通り抜けた。
「……ん、風が強くなってきたな。今日も早めに寝よう」
「はい」
促しに立ち上がり、リタを呼び戻して就寝の支度に取り掛かった。