花盗人・後篇




 変化が訪れたのは、それから数日後の夜だった。なにやらいつもと毛色の違う男たちがぱらぱらと来店し、しかも一つの部屋に集まっている。その面子を見て、私の勘が告げた。――例の密会が、今から始まるのだ。
 女将に取り入って、その宴のお酌係として出してもらえるよう頼み込んだ。女将には物好きな、という顔をされたが、こっちだって仕事があるのだから仕方が無い。私だって本当は何も好き好んで出たくは無い。
 いつもよりも念入りに支度を整え、暗器を隠し持つ事も忘れない。そして宴に酒を運び入れた私は、その中の一人の男の御眼鏡にかなったようだった。
「ほう、これはなかなか……」
 腕を取られ、更には好色な目で見られ、流石に愛想笑いが引き攣りそうになる。だが、そこはぐっと堪えて笑顔を維持する。
「名は?」
「月と申します」
「では月、此処に座り酌をせよ」
「光栄ですわ」
 そして酒宴もたけなわになった深夜――。
 数人の妓女だけを残して人払いも済み、とうとう待ちに待った密会の本題に入ったのだった。
「それはそうと、例の話だが――」
 心持ち小声になったその会話を聞き取ろうと、私は耳を大きくする。
「南方から珍しい花を取り寄せたのだが、買い手を探している」
「おお、南方の花か。それは良い。ならば買い手は幾らでもつこう」
 ――花。近頃不法に流れている芥子の事かとも思ったが、しかしそれにしても様子が違う。
「うむ。これが中々飼育に手を焼いてな、だからその分高くついてしまうが――」
 ――まさか。まさか、これは――人身売買。思わず、背中に冷汗が流れた。これは、予想外の展開だ。人身売買ともなれば、この妓楼の支配人の中に、その斡旋に関わっている者がいるかもしれない。俄然、聞き取る方にも力が入る。
「では、詳しい事はまた今度に――」
 だが肝心なところまでは、聞くことは出来なかった。どうやら話し合いは今度に持ち越しらしい。……今度は一体いつになるのだろうか。まだ当分の間、私はここに居なければならないらしいのが少し痛いが、仕方ない。
「では、今は目の前の花を愛でるとしよう」
(――げっ)
 慌しく今日得た情報を頭の中で整理していると、ちらりと意味ありげに視線を寄越され、ぎょっとする。
 予想通り男に手を取られて部屋に連れて行かれたが、その日は例の薬で何とか難を逃れた。
 その薬も、もう――残りあと少し。



 それからは忙しかった。先日の密会の詳細を記した報告を書き、この妓楼の身辺を洗う指示を出すように書き付けた。返信は直ぐに来て、その内容の中に一度使いの者を私のもとに寄越すと記されていた。
(使いの者? ――誰だろうか)
 その使いの者が来る前に、私は女将から呼び出された。何かと思って伺うと、また、あの例の面子が此処に揃うらしい。――日時は、明後日の夜。
「この間の旦那からまたあんたのご指名もらったからね。ちゃんと出席するんだよ」
 向こうから宴に招いてくれるとは――、これで一つ手間が省けた。望むところだ、と、私は内心力んだ。ここで一気にかたをつけて、こんなところから早くおさらばしてしまいたい。
 その深夜、なにやら妓楼に大荷物が運び込まれた。それは直ぐに奥の蔵――中の造りは半地下となっている――へと消えていったが、ちらりと見えた頑丈な造りの箱の中は、あれは、――恐らくなにより今回の件の証拠となるものだ。
 そして私の元に使いの者とやらが訪れたのは、その次の日だった。そしてその正体は――。
「あ!」
 指名を受け、部屋に通されてきた人の姿を見て、私は思わず声をあげた。用心深く外套を被っていても、一見しただけで誰だかわかってしまう。その人とは。
「……趙将軍だったんですね、使いの者って」
 ぱたりと部屋の扉が閉まり、完全に人の気配が無くなってから、漸く口を開く。対する人物は、苦笑しながらぱさりと外套を脱いだ。果たして彼は、――趙将軍だった。
「万事上手く行っているようだな」
「はい」
 弾むように頷く。そんな私ときたら、予想外の彼の来訪にすっかり舞い上がって、先日の一件のことなど頭から抜けきっている。というわけで、私は普段どおりの調子で趙将軍と対面したのだった。ちなみにあの時首筋に残された痕は、既に綺麗に消えていた。
「なんだか随分と立派な部屋を与えられているのだな。この前とは、えらい違いだ」
 彼は部屋の様子を見回し、そのごてごてとした派手な装飾に呆れたように呟いた。
「ええ、もう。先日趙将軍がお客になってから、妙に待遇が良くなっちゃって。――此方に掛けていて下さい。今、お酒を用意しますから」
 云いながら、椅子を勧める。趙将軍は腰を下ろしながら、苦笑してきた。
「そうか。しかし、あまり顔が売れてもまずいだろう」
 そうなんですよねぇ、と私も同じく苦笑した。
 杯に酒を注ぎ、それを彼が一口啜ったところで、私は本題を切り出した。
「――明日、決行する予定です」
 ぴくり、と趙将軍の手が止まる。
「例の人身売買か?」
 はい、と私は頷いた。先日の宴で得た情報、更に昨夜見た荷物の件を話すと、彼も険しい表情となった。
「出来るならば明日、兵を集めてこの妓楼を包囲してもらいたいのですが。それが無理ならば私が直接動きます。なんとしても、此処で食い止めねば」
「分った、兵は何とかしよう。だから――ナマエ、一人では決して動くなよ。兵の到着を待て。いいな?」
 がしりと肩を掴まれ、妙に迫られながらそう告げられたので、私はその迫力に気圧されるように頷いたのだが、……何かが少し引っ掛かったような気がした。細作として信頼されてないわけでもないだろうが、けど、それにしたって――。
 と、考えている所、「そうか、明日か」と彼が呟いてちょっとだけ苦笑を浮かべたものだから、私は内心首を傾げた。
「ならば、これは余り必要なかったかな?」
 そう云いながら、趙将軍は懐から何かを取り出そうとする仕草をした。
「何ですか?」
 訊くと、すっと目の前に見覚えのある懐紙が差し出される。――眠り薬だ。
「諸葛亮殿からだ。そろそろ薬が切れる頃だろう、と」
「わぁ、有難うございます。丁度、今日あたり無くなりそうだったんですよ。流石、義父上」
 私はホクホク顔でそれを受け取り、いそいそとそれを懐にしまう。それを見ていた趙将軍が、怪訝そうな顔になった。
「――まだ、使う予定が?」
 そう訊ねてきた彼に、ええ、と私は頷いてみせる。
「早くとも明日の夜には此処を出れる予定なのだろう? ならばもう、使う必要は――」
「いえ、事件後すぐに妓女が一人消えたら、それはそれで怪しまれるでしょう? だから、2、3日は留まろうかと思っているんです」
「なんだと?」
 思わぬ鋭い言葉に、私は瞬いて趙将軍を見た。すると――。
「あぁ……いや、そうか。……分った」
 明らかに狼狽している趙将軍を見て、私は目を丸くした。思わず声を荒げてしまった、という感じだろうか。この人にしては、――また随分と珍しい事だ。
 等と思いながら、まじまじと彼の横顔を見詰めていると、その私の視線から逃れるように彼は杯を煽った。そこで、ふと何かに気が付いたように杯へと視線を落とす。
「――そういえば、この酒には薬は入っていないのだな」
 その台詞に、思わず私は吹き出した。……お酒を飲んで無くてよかった。
「あたり前じゃないですか。入れませんってば」
「良いのか? 私も一応お前の客だぞ?」
 にやり、と彼が笑う。ああ、何だか悪乗りしそうな予感をたっぷり感じながら、私は盛大に眉を顰めた。
「もう、からかわないで下さいってば」
 だが、更に身を乗り出してこられたので、とうとう対応に困り果ててしまった。
「よく考えれば、相手をしてもらっても何の問題もないんだよな。此処はそういう所だし、第一私はお前の客だ」
「……っ」
 その瞬間、私は、頭に――血が上ったのだと思う。すぐ近くにある彼の瞳から目が逸らせなくなってしまって、……消えた筈の痕が疼いたような気がした。
「……なら、試してみます?」
「――なに?」
 無意識に唇が紡いだ言葉に、彼が瞠目した。その時、自分が何を言ったのか、私は気がついていなかった。
「……」
 趙将軍の瞳が揺れ、その腕がゆっくりと持ち上げられ、惑うように、私へと向けられる――それは無言劇。
 だが、その指先が頬に届くより前に、私ははっと我に返って慌てて声をあげた。
「や、やだなぁ、本気にしないで下さいよ!」
 異様なまでに明るい声に、ぴたり、と彼の動きが止まる。私は趙将軍をちらと見、そして――目が合って、硬直した。
「――お前は無自覚な上に、結構無神経だな」
 いっそ不機嫌なまでの声。瞬間、腕に鈍い痛みが走った。
「わっ、――な、ん……っ」
 何が起こったのか、全く訳が分らずにいると、背中に柔らかな圧迫感を覚えた。押し倒された――と自覚する間もなく、耳元に生温い吐息が掛かった。耳朶を食まれ、乾いた唇が耳の形に添うように動き、熱い舌先が内部を侵食しようとしてくる。その感触に、俄かに体の奥が熱くなる。
「あ……」
 唇は徐々に降下していった。首筋を甘く噛まれ、更にはまたきつく吸われて痕が浮きあがる。唇が更に降下していき、私はいよいよ焦りを感じて抵抗を試みた。が、所詮力では敵わないのか、呆気なく押さえ込まれてしまった。
 そんな、既にまともに思考が働いてくれそうにない状態の中、脳裏に漠然と浮かぶ疑問は。――まさか、このまま、流されるままに、抱かれてしまうのだろうか? 幾ら好きな人とはいえ、これでは――。
「――いや……っ!」
 無意識に口走ったのは、拒絶であった。
「……」
 数拍、沈黙があった。後、俄かに体の上から重みが消え、代わりに、ぽん、と頭に重みを感じた。それは、覚えのある重みだった。
ナマエ
 呼ばれ、けれど目を開けるのが怖くて、私は恐る恐る目を開けた。そこに、趙将軍の笑み。
「すまん。少し、ふざけすぎたな」
「な……」
 どっと、途端に襲ってくる脱力感。もう、安心したやら、からかわれて腹が立つやら、何故か悲しいやらで――頭の中がぐちゃぐちゃだ。
「ば、莫迦っ、もう、最低っ」
 ぽんぽん、とあやすように頭を撫でられる。悔しい事に、それだけで思わず許してしまいそうになる自分が居る。
「だが、あまり大人をからかうものじゃない。でないと、今のように痛い目をみるぞ」
 私は、ただ無言でこくこくと頷いた。





 そして次の日。私の状態ときたら、何だかもう仕事どころじゃなくなっていた。頭の中は昨夜のことで一杯だったし、眠れなかったせいもあるからぼーっとする。せめて例の宴まで寝ていようかと思ったけど、客が来たからそうはいかなかった。そして迎えた夕刻――。
 事前に指定を受けたこともあって、私も宴に出席していた。昨夜のことは気になっていたが、しかし此処は気を引き締めてかからねば。という事で、いつも以上に気を張り詰めながら最終決戦に挑んだのだった。宴はかなり賑やかなものとなり、そして夜も更け、人払いがされた。今度は完全に、だ。私も当然部屋を追い出されそうになった、その時。
 俄かに外が騒がしくなり、同時に一人の下男が慌てて室内に飛び込んできて、客の一人に何かを耳打ちした。まさか――。
「兵、だと――!?」
 その客は、狼狽して立ち上がった。だがその台詞こそが、この場を混乱に陥れる。私は、というと、成る程と笑いながら、罵りあう男たちを眺めていた。その中に時折、妓女の悲鳴が混じる。
「何故だ!? この密会が何処かに漏れていたというのか?」
「いや、落ち着け! もしかしたら他の事件やもしれぬぞ」
「悠長なことを――! それでもし此処に押し入られたら、どうするのだ!」
「まさか、この中に密告者がいたのか!?」
 もしや、とか、誰だ、とか、罵声が飛び交う。この場に残された数人の妓女が部屋の隅に避難しているのを確認し、私は密かに扉の方に周り、逃げられないよう出口の前に立ちはだかる。
「――くそっ! 取りあえず此処は逃げるが上策だ。裏口へ急げ!」
「そうは行きません」
 私の一言に、ぴたり、と一斉に男たちが動きを止める。
「残念でしたね、この妓楼は既に囲まれています。ついでに貴方たちの企みも既にばれてますから。大人しく掴まるか、さもなければ――」
 言いかけた言葉は、いきり立った男の声によって遮られた。
「娘、もしや国府の手の者か――!?」
 かちり、と音がなった。男が鞘に手を掛けたのだ。だが私は、至って冷静に見返した。
「そうだとしたら、どうするのです」
「この……っ、妓女ごときが儂らの邪魔をするかっ!」
 そう喚き、一斉に飛び掛ってくる。その数、六人。――やれる、ぐっと拳を作り、私もまた飛び出した。
 所詮酒が入っている身では、その剣先は鈍るというもの。私は向かってきた男を難なく交し、回し蹴りを喰らわせた。すぐに後ろから襲ってきた男を、その勢いを生かして背負い投げる。それだけの動きでかなり衣裳が肌蹴け、目の当てられない格好となっていたが、気にしている暇はない。向かってきた一人の顔を蹴り上げ、横から来た剣戟を避けてその腕を逆に取り、関節を外した。そしてまた懲りずに立ち上がって向かってくる男を迎え撃とうとした時――。
 走り出そうとした私の身体は、くん、と何かの抵抗にあって体が前へと傾いてそのまま倒れ付した。
「きゃ……っ!」
 どさ、と身体に衝撃が走る。何か、と思って振り返ると、関節を外された男が必至に衣裳の裾を掴んでいた。しまった――、と内心舌打ちをする。このひらひらとした衣裳が仇となってしまったのだ。そして、ふと頭上から影が落ちる。
「覚悟しろ!」
 刀身が煌めいた。――やばい、絶体絶命。私は思わず目を瞑って、反射的に身体を横へと逸らした。
 ガツッ。
 鈍い音とともに、男の呻き声。
(……?)
 一体何が起こったのか――、恐る恐る目を開けたとき。
「――まったく、諸葛亮殿の懐刀が聞いて呆れる」
 聞き覚えのある声。俄かに耳を疑って、私は茫然と目の前に立っている人を見上げた。
「……趙、将軍?」
「だから、あれほど兵の到着を待てと言っただろう」
「そう……だけど、だって、まさか、趙将軍自ら来てもらえるとは――」
 かなり狼狽しながら言うと、腕を取られて引き上げられた。それでもまだぼんやりしていると、今度は彼が渋い顔になって、乱れた私の衣裳を乱雑に直しに掛かる。私は、まるで子供のように、されるがままになっていた。
「……お前はもう少し己を自覚した方がいいな。危なっかしくて目が離せん」
 あ、なんだか、少し怒っている? ちらちらと窺っていると、ぎゅっと一層乱雑に襟を締められる。ちょっとこれは、締めすぎではないか。うう、かなり苦しい。
 落ちつきを取り戻した頃、漸く辺りの状況を冷静に把握する事が出来た。床には、私に剣を振りかざそうとした男が気を失って転がっていた。つまり――あの時、絶妙のタイミングで、趙将軍が駆けつけてくれたという事か。他の男たちは既に兵士によって捕縛され、部屋の隅に固まっていた妓女達も無事に保護をうけている。
「将軍、例の蔵に捕らわれていた女達を発見、これを保護しました」
 一人の兵士が駆け寄ってそう告げ、趙将軍が頷いた。
「そうか、では――、支配人を此処に!」
 高らかに告げ、彼の前に一人の男が連れ出された。これが、この妓楼の支配人。私は初めて目にする男に、目を疑いたくなった。なんとも気弱そうな男だ。
「――お前の周辺を洗ったところ、昨年起きた失踪事件の証拠が出てきた。うまく証拠をもみ消したつもりだったのだろうが、どうやら不完全だったようだな。これをもって、人身売買斡旋の疑いでお前の身柄を拘束する。異議あらば国府にて申し開きせよ」
 支配人が、力なくうな垂れた。
 こうしてこの一件は、幕を閉じたのだった。



 ――それから。罪人も無事捕え、趙将軍と私を残して兵はそのまま撤退していった。駆けつけた女将が目を丸くしていたが、予想に反して冷静だった。支配人が捕まってこの妓楼はどうなるのかと思えば、女将が受け継ぐ事になったようだ。元々切り盛りしていたのは殆んどこの女将だし、それでも問題ないのだろう。まあ一応お世話になった身として、とりあえず応援しておくとしよう。そしてあたりも漸く落ち着きを取り戻した頃。予定では私はこのまま2、3日この妓楼に留まるはずだったのだが、あんな大立ち回りをした後だ。あの場に居なかった女将にはまだ私の正体はばれていないものの、一緒にいた妓女達には既に国府の者だとばれていたので、それが女将に伝わるのも時間の問題だろう。だが――。
「は――? 戻る? あんた何言っているんだい、一体何処にあんたの戻る場所があるってのさ!?」
 何故だか思いっきり怒鳴られてしまった。私の説明は勿論その罵声に掻き消される。
「此処に来た以上、もうあんたには帰る場所なんて残されてないんだ! ――それにあんたは人気があるんだから、今抜けられちゃ困るんだよ!」
 内心、そっちが本音か、とは突っこめない。流石の私も、女将の剣幕にたじたじだ。
「いや、だから、あの」
 だが私たちの会話を黙って聞いていた趙将軍が、また意外なことを言い出したのだ。
「――ならば女将」
「なんだい?」
 突然、後ろに立っていた趙将軍にぐいと引寄せられ、私はよろめいてその胸にぶつかった。
「この娘、私が身請けさせてもらうが、構わないか?」
 その台詞に、女将はもとより、私もかなり面を食らった。また、何を――。怪訝に思いながら、趙将軍の横顔を見上げる。
「――は? 今、ですか?」
「そうだ、何か不都合が?」
「い、いいえ、構いませんが、ですがその娘は人気がありますから、高くつきますよ。将軍様」
 将軍相手でもふっかけるところは流石女将だったが、だが彼が動じる事はなかった。
「構わん。其方の言い値で買おう」
(な、なんなの、この展開は――!?)
 そして私は、女将と趙将軍の間で商売が成立するのを、茫然と眺めるしかなかった。



 あれから私は、趙将軍によって有無を言わさずに趙雲邸へと連れ帰られた。一体何がなんやら、私は終始ぽかんとしていて、されるがままに一室に通される。いや、これは収容された、といった方が正しいかもしれない。時刻は既に夜中、元から静かな趙雲邸は、更に静まり返っていた。彼は私を部屋へと押し込め、一旦何処かへ行ったと思ったら、再び戻ってきた時には具足を解いた平服姿であった。
「先に断わっておくが、身請けは諸葛亮殿に頼まれたわけではないからな」
 部屋に入ってきてから、趙将軍の第一声がその台詞。
「え? じゃあ……」
 その台詞に、私は思わず声を挙げる。あれは、趙将軍が勝手にやったことなのか。だが、一体なんであんな大金を支払ってまで。……いや、彼にとってははした金なのかもしれないが。
「だったらあのお金、全部趙将軍の私財ってこと?」
「そうだ」
「そんな」
「気にするな。どうせ使い道が無くて溜まる一方だったんだ」
 なんだか、訊き様によっては随分と大層な事を言われた様な気がしないでもないが、とにかく私はその時言葉を失って一瞬黙り込んだ。
 が、依然納得がいかないのは変わらないわけで。
「でも、どうして、身請けなんて」
 愚痴るように言うと、ふと趙将軍は私を一瞥し、そして何故か視線を逸らした。
「……この数日で、嫌というほど思い知らされたからな」
 ――謎掛けのような言葉。
「は? 何をですか」
 問うと、今度ははにかんだような笑みを向けられ、益々困惑が広がった。
「己の本心」
「それだけじゃ、分りませんよ」
 そう言って、頬を膨らます。我ながら駄々をこねる子供のようだ、とは思いながらも、だが分らない事が多すぎて知りたいと思う自分を止められない。そう、彼には、教えてほしい事や、説明して欲しいことが沢山あるのだ。
「……それ以上は、流石に簡単には教えてやれん」
 だが、意地悪な台詞が、それを叶えてくれない。私は次第に、いらいらとし始めた。
「……分った。昨夜のことで、責任感じているとか?」
「少し違うな」
「だったら――!」
「そうだ」
 私がとうとう声を荒げた時、殊更に明るい声が響いた。思わず、私の勢いが削がれる。
「身請けもしてやった事だし、早速相手をしてもらおうか。払った代金分は、働いてもらわないと」
「え……?」
 俄かには言われた事が理解出来ず、私は瞬いて趙将軍を見上げた。だが、ゆっくりと近寄られ、肩に手を置かれた時。
「な! お金は気にするなって、さっき言ったじゃないですか……!」
「それはそれ、これはこれだ」
 振り払おうとした手は、しかし逆に掴まれる。意地悪げな笑みを浮かべた彼の顔が近付いてきて、私は慌てて後退りした。
 だが、とうとう背中が壁と衝突し、私は進退窮まってしまった。
「ほら、もう後がないぞ。観念しろ」
 肌に息が掛かるほどに近くに迫られ、私はもう為すすべもなく趙将軍を見上げた。心臓が煩く音を立てている。体が震えて、うまく力が入らない。
「な、なんだかこんなの、いつもの趙将軍じゃないですよ! この前だってちょっとおかしかったし、い、一体どうしちゃったんです……っ」
 喚き声は、突然覆い被さってきた彼の唇に飲み込まれた。――頭が真っ白になった。ぬるりとした物が口内へと入ってきて、舌に絡み付いてきて、その感触に体から力が抜けて、……気が付けば私は趙将軍へとしな垂れかかっていた。
「私はね、ナマエ
 見上げ、其処にあった鋭い瞳に私は思わず見惚れてしまう。
「欲しい物ができれば、奪い取ってでも自分の物にしたい性質なんだ」
「ほ、欲しい物って……」
「だが本当に欲しい物が出来るのは稀でね。だからかな、私は女に興味がない、と、いつの間にかそういうイメージが定着してしまったみたいなんだ」
 そう言って笑む彼の表情に、今度は釘付けになる。
「だけど、今はもう欲しいものが出来たから、これからは我儘になろうと思う。これでも結構私は、我儘な方だと思うよ。だから、――諦めなさい」
 にこりと微笑んで、また趙将軍は口付けをしてきた。同時に空いている方の手で私の衣裳の帯を掴み、勢い良く引っ張って――。
「……――って、ちょ、ちょっと待ってください!」
 慌てて帯を解こうとする手をがしっと掴むと、不機嫌な瞳が私を捉える。
「無理だ。もう待てない」
「子供ですか貴方は!」
「何も聞こえんな」
 しれっと答える彼に、とうとう絶句する。これじゃあ本当に聞き分けの悪い子供じゃないか。――などと茫然としている暇は、しかしながら私には残されていない。勿論、意外と手際良く衣裳を脱がせていく趙将軍に感心している間もなく。
「こ、これじゃあ展開が早すぎますよ……! もう、訳が分らない……っ!」
 そう叫ぶように言うと、しかし意外なことに趙将軍の手がピタリと止まり、真摯に見詰めてきたのだ。
「では簡単に説明しよう。――要するに、こうだ。私は、ナマエ、お前を――愛している」
 えっ? と、実際は声をあげていたのだが、再びの熱い口付けにより、それは音にならなかった。
「それともなんだ、私が嫌いか?」
 それは、熱い口付けの後にぼんやりとしていた私には、なんとも意地の悪い質問だ。
「い、いいえ。まさか」
 慌てて顔を横に振ると、得たりと趙将軍が笑ってみせる。
「だろうな。なにせ私はお前の初恋だからな」
 その台詞に、一瞬さっと血が引いていき、そして今度はかっと血が上る。
「ま、まさか、知って……!」
 だが、その唇もまた塞がれる。
「文句は明日聞く。だから今は――」
(ああ、もう――)
 囁かれ、私はとうとう観念したのだった。





 ――始めは優しい口付けだった。
 下唇でなぞるように唇に触れられ、そして食まれる。それは徐々に激しくなって、喰らい付かれるように口内を乱された。その間、一方の手が忙しなく肌を弄っている。
「この数日、お前のことが心配で、気が気でなかった」
「え?」
 不意の言葉に、私は声を挙げた。対する彼は、胸元に顔を寄せて、そのまろみを揉んでいる。
「私が見知らぬ男に、お前を汚されはしないかと」
「……意外です、ね、――っ、あ……っん」
 胸の頂を捉えられ、走った刺激に思わず吐息を零す。その指先が、悪戯に動くたびに、私は息を詰めた。
「なぜ」
 やんわりと問いながら、更に彼の指先は下肢へと伸ばされる。太股をなで上げられ、そして敏感な部分へも触れられ、一瞬びくりと体が震えた。
「……だ、だって、私は、ずっと趙将軍にとっては、妹のような存在でしかない、と、……はぁ、あっ!」
 武骨な指先に、その敏感なところを何度も強く摩り挙げられ、私は呆気なく乱される。その快楽に耐えるように唇を噛むと、今度は更に奥へと指先が侵入してきた。異物感は一瞬だった。直ぐに中を掻き乱され、下腹部に巻き衝くような甘い痺れが湧き起こる。
「――だと、思っていたのだがな。……もう、いいか?」
 弾かれるように顔をあげ、そして趙将軍と目が合った。其処にはいつものような理知的な瞳は無かった。獰猛な、――餓えた獣のような瞳。束の間見詰め、そして、ゆっくりと頷いた。
 抱き寄せられて、――下肢に圧迫感と鈍い痛みが走った。
「っ……つぅっ!」
 予想以上の痛みに、私は思わず無意識に上へと逃げようとする。だが、彼に腰を掴まれてままならない。痛みに耐えるように、敷布を握り締めた時。
「大丈夫か?」
 気遣うように囁かれ、私は辛うじて笑みを作ってみせる。
「……っ、趙、将軍」
「……何だ?」
「好き……」
 呟いた瞬間、趙将軍が瞠目して、そして微笑んだ。――それは今まで見たこともないような、優しい笑みだった。
 誘われるように彼が腰を動かし始める。揺さぶられ、それでも痛みは一向に引いてはくれなかったが、奥歯を噛締めてそれに耐える。対する趙将軍は、だんだんと余裕が無くなってきているのか、息を荒げながら私の首に噛み付いてきた。
「……っ、ナマエっ!」
「んっ、……――っ!」
 その瞬間、中で熱が放たれたのが分った。彼は肩で息をしながら、けれども優しく私を抱き寄せてきた。私もその逞しい首に腕を回す。すると、顔に口付けの雨が降ってきた。
 そして私は、その思わぬ幸福に、――酔いしれていた。
ナマエ、愛してる……」
 ずっとずっと焦がれていたこの腕も、蕩けるような甘い囁きも、もう、私だけのものなのだ――。




 まだ下肢に鈍い痛みが残る中、私たちは共に寄り添って寝台に寝そべっていた。互いの素肌が感じられるのがまだちょっと恥ずかしかったが、けれどその温かさが心地よい。
「明日、一緒に諸葛亮殿の元に行こうか」
「はい」
 髪を梳かれているその感覚に、うっとりとしながら頷く。すると、ゆるりと抱き寄せられる。見上げた時に、また唇を奪われた。
「諸葛亮殿、か……」
 だがふと何かを思い出したのか、趙将軍が途端に苦虫を噛み潰したような顔になったので、首を傾げた。
「どうしました?」
「いや、まだ最大の難関が残っていたな、と思って」
 苦笑と共に返ってきた台詞に、私は思わず吹き出した。
「手ごわいですよ、義父上は」
 肩を竦める彼に、私はとびきりの笑顔を作って見せた。
 ――花盗人は、重罪ですからね?