花盗人・前篇






「――なりません。ナマエ、それだけは絶対に許しません」
 思わず私は、義父の剣幕に一歩引いてしまった。ここは蜀国、丞相府の一角にある諸葛亮の――つまり丞相の執務室。ちなみにナマエというのは私の名前で、義父というのはこの声の主、諸葛亮その人だ。勿論義父というからには血の繋がった親子ではないが、その昔戦乱で親を無くした私を養子に引き取ってくれたのがこの孔明様だった。諸葛家は子宝に恵まれなかったせいもあるのだろうか、義親は私のことを本当の子のように慈しみ、育ててくれた。その恩義は計り知れずといったところか、そのため私は何か彼の役に立ちたいと思い、数年前から義父の細作として働き始めたのだった。自分で云うのはまぁアレだが、細作としては結構私は優秀だと思う。そう、思うのだが……何故かこの頃、仕事に関して義父に煩く言われる事が多くなったような気がするのだ。何か、気付かないところで失敗でもやらかしただろうか? ああ、もしかして私の大好きな酒がらみとか? ……いや、それは考えたらきりがないのでとりあえず置いといて。うむむ、やはり考えても思い当たらない。とまぁ、原因がわからないだけに、内心首を傾げるばかりだ。
 この日もそうだった。今回の仕事に関して報告をしに云ったところ、真っ向から拒否されてしまった。しかも、内心怒り心頭な絶対零度の声で――。普段穏やかな人柄で通っている義父のその声は、当然ながら普段滅多に聞く事の出来ないものである。そして此処は丞相の執務室。武官文官問わず、様々な人が引っ切り無しに出入りしている。そんな最中、かの丞相閣下の声に、室内に居合わせた人々の何人かは耳を疑い、何事か、と人々の視線が一気に私と、隣に立つ同じく細作の男に集中してしまい、思わず私たちは身をちぢこませた。身の置き所がない、とはこのことか。……なんて暢気に思っている場合じゃなく。
「しかし丞相。此度の役は彼女以外に適任はいないので、今回ばかりは承諾して頂かないと……」
 負けじと、隣の男――これは立場上私の上司、兼、師匠に当たる人だ――が義父に反論する。だが、それも義父に羽扇をびしりと突きつけられて、一気に硬直してしまった。
「だからといって嫁入り前の娘がどこに進んで妓女などに扮する者がおりますか。他に適任者がいるはずでしょう?」
「いえ、適任者に該当する者は全て国外に出払っています」
「呼び戻しなさい」
「残念ながらそのような時間はありません。密会が行なわれる予定は、数日後に迫っています」
「……」
 義父は羽扇で口元を隠し、目を眇めて私たちを見つめた。何も疚しい事はないのに、妙に嫌な冷汗をかいてしまうのはどうしてだろう。
ナマエ
「は、はいっ」
 殊更静かな声で呼ばわれ、私は思わず姿勢を正した。あ、義父の目が据わっている。これは本格的に怒っているらしい。
「貴方はその仕事の内容を知ったうえで、承諾したのですか?」
「……はい」
 義父の手元から、ぎり、と音がした。何かと思えば、義父が羽扇をきつく握り締めている。今にも手折りそうな勢いだ。
「……分りました、許可しましょう。……しかしナマエ!」
 びくっ、と突然の大声に、私は硬直した。ああ、一体なにを釘さされるのだろう。
「幾ら腕が立つとは云え、あなたは女性。妓楼ならば客を取らなければいけない事態になる事もあるでしょう。ならば、いつも以上に慎重に事を進めること! わかりましたね?」
 つまりはいつもの御小言だった。私は拍子抜けし、がくりと肩を落とした。大切にしてくれているのはありがたいとは思うけど、これじゃあちょっと過保護すぎる。
「分りました」
 が、反論するとまた話が拗れてしまうので、とりあえず私はそれを承諾した。その後、話は一応順調に進み、切りの良いところが来たので一度退出の辞を述べた。義父がまだ納得しきれてない顔をしていたが、これは全く気付かないふりをして私たちはさっさと室を後にした。



 室を後にし、私たちは視線を床に落として黙々と彼の人の存在から遠ざかる。どちらからとも口を開く事は無い。
「……」
「……」
 しかしそれも、やがてあの界隈の喧騒から遠ざかり、人も疎らな回廊に出た途端、私たちの緊張が一気に解けた。はぁ、と今度は同時に溜息を付いて脱力する。
「疲れた……」
「ああ……」
 とりあえず虎口は脱した、ということで、互いに労わるように声を掛け合う。二人とも、あの丞相閣下の絶対零度の視線に耐え忍び、かなり精神力を消耗している。あの絶対零度の攻撃をくらって、けろりと平気な顔をしている者は稀だ。そんな者がいれば拝んでみたいくらいだ。
「しかし何故丞相はああもお前に煩いのか……。小言を言われるようになったのは、今年に入ってからだろう? お前、何かしでかしたのか?」
「分りませんよ。私だって知りたいくらいですっ」
 ぼやくように云う師匠に、私は握り拳を作って息巻いた。が、それも空しさが残り、再び溜息が零れた。
「しかし我々は見事最大の関門を突破した。そう思えば、後の任務は楽なものだ。では、私はこれから別の準備に掛かるから、後は任せたぞナマエ
 きりり、と今度は表情を一変させ、師匠はそう言って去っていった。丞相府を出た途端上司面をかぶる師匠に向かって、お調子者、とは決していえない。だってお調子者は、私だって同じ穴の狢だから。
「はーい、畏まりました」
 既に背中すらも見えない師匠に向かって溜息混じりに呟き、私もまた準備に取り掛かった。
 ――私が請け負った仕事内容の詳細はこうだった。とある妓楼で何かの取引が行なわれるらしい、との情報を掴んだのが、二日前。大概、密かに情報の交換を行なう際、妓楼などを隠し蓑に使うのが常套手段だ、というのは最早私たち細作の中では常識だった。内容は機密情報の流出だったり、密輸だったり、人身売買だったり、様々だ。大抵はそれに国府の官が関わってくる事が多い。金に目が眩んで、という奴は、やはり蜀でも少なくは無い。つまりは私はその妓楼に潜入してその密会の内容を掴み、更には裏切り者がいた場合、それを把握しておくのが任務だった。大方の筋は把握してあるので問題はない。……のだが。
(やっぱり客取らされるのかなぁ)
 やはり妓楼という場所が場所なだけに、別の心配は大いにあった。

 と、その時。
「浮かない顔だね。やっぱりさっきの仕事、断わった方がいいんじゃないの?」
「え!?」
 突然の声に驚いて振り返ると、姜維殿がいつの間にか後ろに立っていた。私とした事が、後ろを取られるとは迂闊だ。――って、違う。
 姜維殿は先の魏との戦にて蜀に下ってきた魏の若者だったが、歳が近いせいか私たちは直ぐに意気投合した。その人柄も素晴らしく、武芸は勿論、あの趙雲将軍に引けを取らぬほどの達者ぶりだ。つまり将来有望――、義父も彼に何かと目をかけているらしい。
「姜維殿、まさかさっきの丞相との話、聞いてたの?」
 掛けられた台詞が台詞なだけに、私は直ぐに姜維殿が何のことを云ってきたのか理解した。予想通り姜維殿は頷いて、私は困ったように笑った。
「姜維殿も、やっぱり止めた方が良いと思う?」
 姜維殿は虚を突かれたように瞠目した。
「でも、もう当の本人は納得済みなんだろう?」
「うん、まぁ」
 納得したは良いけどやっぱりちょっと迷ってる、とは言えず、曖昧に頷いた。
「だったら、私が口出しするまでも無いよ」
 はにかむよう微笑まれてしまい、私は「うん」と照れたように頬を掻いた。と、姜維殿が懐から何かを取り出し、それを差し出してきた。
「じゃあ、これ、丞相から」
「え?」
 視線を彼の手元に落とすと、其処に何かが包まれている懐紙があった。
「眠り薬だって。いざという時に使いなさいって」
 その台詞に、思わず拍子抜けしてしまった。なんだ、やっぱり義父のお使いなのか、と肩を落として包みを受け取る。と、くすり、と笑い声が聞こえ、顔をあげた。其処には姜維殿の苦笑があった。
「何だかんだいって、やっぱり丞相はナマエのことが心配らしいな。こんな物までわざわざ用意して」
 うーん、と私は腕を組んで唸った。姜維殿の言葉に素直に同意しきれない。
「心配してくれているのはありがたいけど、最近、ちょっと煩いくらいなんだよね……」
「それは――、仕方ないんじゃないかな」
「何で」
「だって、可愛い娘だもの」
 笑いながら、ぽん、と頭に手を乗せられ、その仕草にむっと眉間に皺がよる。そのまま、くしゃりと撫ぜられる。
「……もう、姜維殿! 一つしか歳違わないのに、子ども扱いしないでよ」
 暫らくされるがままになっていたが、手を振り払って姜維殿に向かって軽く憤慨してみせる。私は女性にしては長身の部類だから、頭を撫でようにも、思わず、とはいかない。つまり、彼にからかわれているのだ。
「ごめんごめん」
 姜維殿が悪びれずに笑う。私は乱された髪を直しながら、ぶつくさと続けた。
「それに頭を撫でていいのは、趙将軍だけと――」
 決めているんだから、との私の台詞は、続かなかった。

「――楽しそうだな。何の話をしているんだ?」
「うわっ!?」
 突然割って入った第三者の声に、私たちは驚いて声をあげた。ばっと振り返り、そこでまたまた驚くことになる。
「――趙将軍!?」
 そう、まさにその人だったのだ。噂をすれば何とやら、らしい。
「……そんなに驚いてもらえるとは、光栄だな」
 予想外の私たちの驚きように、趙将軍も驚いたらしい、目を見開いて此方を見ている。
「趙将軍、遠征からご帰還されていたのですね」
「ああ、先程な」
 そんな中、先に我に帰ったのは姜維殿だった。私は、というと、完全に頭に血が上ってしまっている。辛うじて、頬が熱を持っているのが分ったくらいだ。だって、あんな子供じみた恥ずかしい台詞を言いかけたのもあって余計に意識してしまうのもあったのだが、あの――彼の謀ったような現れよう、もしかしたら最初から全部聞かれていたのかもしれない。……いや最初の会話は聞かれても構わないのだが、問題は最後に言いかけた台詞だ。あんな台詞を聞かれたら、勘付かれてしまうではないか――私の想い人の正体に。
 そう、私の初恋は趙将軍だった。いや、それは今でも現在進行中だから、正しくは”だった”ではないのだろう。出会った頃から始まったその恋心を今でも大事に抱えているものだから、私の初恋はそりゃあもう自分でも天晴れなほどに年季が入りまくっていた。趙将軍と初めて出会ったのは、義父である諸葛亮に紹介された時、私がまだ小さかった頃の話だ。
『そうか、ナマエというのか。私は趙雲という』
 よろしくな、と言って微笑んだ彼の表情は、今でも大切な思い出の一つだ。頭に乗せられた暖かな手の大きさも、克明に覚えている。このなんとも息の長い恋心は、そこから始まったのだ。その端整な顔立ちと穏やかな物腰、稀に見る槍術の使い手である青年に憧れを抱いた幼少時代。そして、かの趙範との一件でこの趙雲が放った「天下に女は星の数ほど」との大胆発言に多大なるショックを受けた少女時代。更には女性との浮ついた噂を聞く事も無かった故に、もしや彼はそっちの気かと一度はその想いを諦めてしまおうかと思った思春期。ああそれでもやっぱり好きなもの好きなのだと己の想いを再確認し、そして今現在に至る――というわけだ。私が頭が上がらない人物といえば、この人が筆頭にのぼる。勿論一番は義父なのだが。
 そんなわけで私が要領悪くあたふたしていたので、姜維殿が気を揉んだのか横から小突いてきた。
「ほら、お待ちかねの趙将軍だよ。頭を撫でてもらったら?」
 こそり、と意地の悪い台詞もおまけとばかりに囁かれ、私はきっと姜維殿を睨んだ。ちなみに私の恋は、勘の良いこの青年には早々にばれている。まぁつまり弱みを握られているわけで、意地悪そうな笑みを見ても何も反論できないのが痛い。
(この性悪め~)
 せいぜい心の中で罵ることくらいしか出来ない。普段女官殿にはああいった意地悪そうな顔は絶対にしないのに、それは遠慮がないという証拠なのだろうが、あまり嬉しくない。彼に熱を上げている女官殿たちは少なくないが、絶対にあのお優しい笑みに騙されているに違いない。
 だが私の睨みも効果なく、姜維殿は意味ありげに笑みを寄越し、そしてまた趙将軍へと視線を戻した。
「長い旅路、お疲れ様でした。今から丞相への報告に参るのですか?」
「いや、先程済ませてきた」
「そうでしたか、それでは行き違いになってしまったのですね」
「そのようだな」
 そこで、ちらり、と趙将軍に視線を寄越され、それまで黙って姜維殿が何か変な事を言い出さないかと横目で睨んでいた私は意味もなく緊張する。だが、その視線も直ぐに姜維殿へと戻っていった。
「……というと、今日は趙将軍のご帰還を祝っての宴になりそうですね」
 宴、という単語に、私は何気なく姜維殿を見る。その姜維殿がまるで子供のように目を輝かせていたので、思わず苦笑してしまった。そう、趙将軍もまた姜維殿にとっては、数多の戦場を駆け抜けた英雄として憧れる存在なのだ。
「今回はどんな戦果をあげてきていらしたのか、宴の席では是非ともお話をお聞かせ願いたいです」
「大袈裟だな、異民族叛乱の討伐など大した事でもあるまい」
「いいえ、多忙な趙将軍からお話を窺える機会はそう多くはありませんし、その話からも学べる事が多くありますので、とても楽しみにしている所存です」
 その台詞に、趙将軍は穏やかな笑みを浮かべた。諾、という意味だろう。
 その後、仕事がありますので、と断わり姜維殿はまた丞相府へと戻っていった。予期せず趙将軍と二人きりになってしまった私は、久々に顔会わせしたせいも手伝ってか、掛けるべき言葉にかなり迷った。
「あの……」
 ここは「お帰りなさい」が妥当か、それとも普通に会話を切り出すべきか。特に「お帰りなさい」は言いそびれてしまった感もあったので、言い出し辛いこと甚だしい。
 と――、趙将軍の態度が豹変した。
 ふう、と趙将軍が嘆息し、首をこきりと鳴らし始めた。
「相変わらず肩が凝る奴だな」
 呆れたように姜維殿が去っていった方を眺め、呟く。そして徐につけていた具足を外し、その篭手を私に放り投げてきた。
「わっ」
 慌ててキャッチすると、「持ってろ」と遅れて声が掛かる。私に顧みる事も無く、そのまま何処かへ歩き出した彼を慌てて小走りで追った。
「趙、趙将軍? 一体どこへ……」
「部屋。疲れたから寝る」
 何とも簡潔な答え。不機嫌なわけではない、ということは、分っていた。その見事なまでの掌の返しように、最早私は苦笑を浮かべるしかない。いや、それ以上に、以前と変わらぬ態度で接してきてくれることに嬉しささえ覚える。
「で、私はこれを何処まで運べばいいのでしょう?」
「当然、私の部屋まで、だな」
 振り返り、にやりと不遜気に笑ってみせる彼に、私は肩を竦めてみせた。そして、計ったように笑いあう。そう、恋心こそひた隠しにしているものの、私と趙将軍との間柄は万事こんな風であった。長年共にいるおかげで、私はまさしく彼の妹のような存在となっていたのだ。彼の態度の変わりぶりは、そんな妹のような私の前だからだろう。私の前ではお偉い将軍の役目を演じなくてもいいのだ。そんな知られざる趙将軍の素顔を知っているのは、恐らく数えるほどだろう。その数少ない一人のうちに私も入っていること自体は自慢なのだが、私の場合は彼への恋心もあってかちょっと複雑だ。
ナマエが柄にも無く大人しくしていたから、熱でもあるのかと思った」
 一通り笑って、ふうと安堵したように息をついた趙将軍が、そう言いながらぽんと頭に手を乗っけてきた。くしゃり、と撫でられても、私は姜維殿にしたように振り払いはしなかった。頭を撫でられるのは、私にとって趙将軍からの挨拶のようなものだ。小さな頃からその手が大好きだったのもあって、その仕草に内心かなり喜びつつも、だが表には出さず私はとぼけた風に笑ってみせる。
「趙将軍の猫かぶりも相変わらずですね」
「聞こえんな」
 軽くからかってみると、同じくとぼけた表情と共にそんな台詞が返ってきた。長年の付き合いで最近漸く分ってきたのだが、この人はかなり食えない人物だ。この人の本性を知ったら、姜維殿はどんな顔をするんだろうか。
 そうだ、とそこで趙将軍が切り出す。
「今日の宴、ナマエも出るんだろう?」
「いえ、今日は無理です」
「なんだ、冷たいな」
「だって仕事ですもん」
 私だって本当は出たいんですけど、と付け加えると、趙将軍がいきなり顔を顰めた。
「仕事と私と、どちらが……」
「勿論仕事の方が大事です」
 先回りして言うと、趙将軍がからりと笑った。まったくこの人は、冗談でもそんな台詞はやめて欲しい。
「……姜維とは随分仲が良いんだな」
 唐突にポツリと零れた台詞は、私を驚かすには十分だった。
「なっ、変な言い方しないで下さいよ。姜維殿はただ気が合うというだけです」
「そうか」
 幸いな事に趙将軍はそれ以上その件については突っこんでこなかったが、ちらりと見せた微妙な表情が妙に気になった。
「……で、恋人の一人や二人くらいできたのだろう?」
「出来ませんってば。もう、からかわないで下さいよ」
「なんだ、寂しいな」
「それはご自分も同じでしょうに」
「いや、私の場合はだな……」
 そうこう言い合っている間に、目的地に到着だ。私は預かっていた具足を渡し、これ以上からかいの種にならないようさっさと踵を返した。背中に、冷たい、だの、もう少し付き合え、だのぼやく声が当たったが、当然綺麗に無視だ。
 と、しかし忘れていた事に気付いて途中で立ち止まり――。
「あ、そうだ。趙将軍」
「なんだ?」
「お帰りなさい」
 少々面食らったように目を見開いた趙将軍だったが、直ぐに満面の笑みを浮かべた。それだけで心が満たされる私も大概現金な奴だなぁ、と自分に呆れながら、仕事の準備にとりかかるのだった。





 そして夜、例の妓楼に潜入することになる。
「おやまぁ、今回の新入りは、また随分と別嬪さんだこと」
 妓楼の女将が私を見て、そう呟いた。
「行くところを失ったのは可哀想だけど、此処に送られて来る子は皆同じ境遇だ、あんたもこれから頑張って働くんだよ」
 妙に憐れんでくる女将に内心首を傾げながらも、私はとりあえず頷いた。勿論ここへは素性を隠しての潜入なので、表面上、私は戦で行き場所をなくし、ある人の紹介を経て此処に来たという事になっている。その他の細かいところの脚色は師匠に任せてあるので、どういった紹介をされているのかは定かではない。師匠のことだから、またとんでもなく同情を誘うような憐れな境遇の娘に仕立て上げたに違いない。だがそのお陰で、新人への風当たりは余り強くならなくてすみそうだ。
「新入りに、通り名をつけないといけないねぇ。そうだね……、あんたの通り名は”(ユエ)”にしよう」
「通り名?」
「そうだよ。こういうところではね、本当の名は隠すもんなんだ。あんたも、客にうっかり名をばらさないよう気をつけるんだよ」
「分りました、月、ですね」
 ……とまぁ、とりあえず初日はこんな感じで終った。掴みは、まぁ大体良い感じだろう。だが新入りということで、当然の如く大部屋で数人の妓女と寝食を共にした。暇を見ては屋敷の構造や訪れる人物など、届く荷物などをチェックし、人の目を忍んで書いた報告文を、同じく妓楼に用心棒として潜入していた細作に託す日々が続いた。そんな私が初のお客を取ったのが、潜入三日目の夜だった。見るからに好色そうな男だったが、義父から託された薬をうまく酒の中に混入させ、ぐっすりと心地よく眠ってもらった。
 そして、次の日。今日もまた人目を忍んで報告文を書いていたところ、急な呼び出しをくらい、慌てて私はその文章を火にくべて証拠抹消した。呼ばれて渋々向かったのは、客が妓女を選ぶ際に使用する広い室だった。どうやらお得意様が来訪したらしい、沢山の妓女達が既に集められていて、声を掛けられるのを待っている。彼女達が微妙に浮き足立っている様子を見ると、どうやら妓女達に人気がある人物らしい。私もその末端に場所を取り、近付いてくる客に目を凝らした。
 ――そして私はそこで、思わぬ人物と出くわす事になる。
「……まったく、面白いところがあるから来いと言うから付き合ってやったのに、結局これか」
 あれ? と聞き覚えのある声に、思わず私は首を傾げた。この声は、もしや。
「そう言うな。お前もたまにはこういうところで羽目を外したらどうだ? いつもいつもお堅いばかりで、肩が凝っているだろう」
「結構だ。私は帰らせてもらおう」
 ああ、やっぱり! 再度の声に確信を抱き、私は愕然とした。客は、予想通り馬将軍と趙将軍だった。ああ、神様……! いや、その存在自体余り信じてないけど、もしいるとしたらなんて巡り会いを用意してくれたんですか! こんな偶然な出会いはいらないのだ、むしろ迷惑だ。迷惑すぎる。近付いてくる二人に、私は慌てて顔がばれないよう俯いた。後は私に気付かずに帰ってくれることを願うのみだ。
「ま、別に構わないが。……じゃあ、俺はあの娘を」
 畏まりました、と女将の声がする。と、私の前にいた妓女がすっと前に進み出てしまい、絶好の隠れ蓑を失ってしまった。馬将軍が奪っていったのだ。ああ、絶体絶命だ。
「で、そっちの旦那は? せっかく来てくださったんだから、ゆっくりしていって下さいよ。きっと気に入りの娘が見つかると思いますよ」
(ああもう女将さんったら引き止めないでよ早く帰ってほしいんだってば~!)
 俯きながら、内心必至で帰れコールを繰り返す。
「いや、私は結構だ」
 よしよし、いいぞ。その調子だ、などと心の中で応援する。
「このまま帰らせてもら……う」
 ……? その台詞の妙な間が気になり、というか妙に視線が突き刺さっている様な気がして、私は思わず顔を挙げてしまった。そこで、時が止まる。
 ……。……ばっちり目が合ってしまった。――そう、気付かれてしまったのだ。
「……気が変わった、そこの娘を」
 趙将軍が茫然と私を凝視しながら、呟くように言う。その瞬間、私は盛大に溜息をついた。
「まぁまぁ有難うございます。月! こっちにおいで、旦那がお呼びだよ」
 女将の嬉しそうな声をどこか他人ごとのように聞きながら、のそのそと彼のもとに進んだのだった。



 とにかくひたすらに無言で回廊を歩んだ。後ろを歩く趙将軍から感じる無言の重圧に耐えながら黙々と歩かねばならなかったので、割り当てられた室までの道のりがひどく遠いものに感じられた。そして漸く部屋の前へとたどり着き、室内へと入って、ぱたりと室の扉を閉じたとたん――。
「――で、何故お前が此処にいる?」
 趙将軍が振り返って厳しい視線を投げかけてきた。予想通りの問いかけとはいえ、その鋭い視線にうっと怯みそうになる。
「仕事ですよ。趙将軍こそ、こんな所に興味があるとは知りませんでした」
 今度は逆に、彼が言葉に詰まる番だった。
「言うな。付き合いというのものだ、仕方ないだろう」
 苦虫を噛み潰したように言う趙将軍に、苦笑するしかない。彼もまた、私の苦笑を見て同じように苦く笑った。
「馬将軍のいきつけだったんですね、ここは」
「みたいだな。店の者には、将軍とはばれていないようだが」
 それも直ぐにばれるだろうな、との台詞に、困ったなぁと頭を抱える。
「うーん、今来られるのはとちょっと都合が悪いなぁ。少しの間控えてもらえるよう、後で趙将軍から言ってもらえますか? 将軍が出入りしているとばれて、せっかくの獲物が逃げてしまっても困るので」
 あい分った、と彼が頷く。
「しかしお前が妓楼に潜入とは……、よく諸葛亮殿が許可したな」
「ええ、そりゃもう、苦労しましたよ」
 少し大袈裟に肩を竦めて見せると、趙将軍が呵呵と笑った。
「しかし、化粧が濃いな。一瞬、別人に見えたくらいだぞ」
 云いながら、すっと唇を親指で拭われ、その思いがけない行動に私は面を食らった。見れば、趙将軍の親指が紅で真っ赤に染まっている。
「う、煩いですね。仕方ないじゃないですか。妓女なんだし」
 そう、今の私の格好は妓女らしく、艶やかな着物で、髪は独特の形に結い上げられ、香もかなりきつい物をつけられている。ちなみに肌の露出度もかなり高い。なもんだから、こうやって知り合いに対面してしまうと、かなり恥ずかしいものがあるのだ。趙将軍も、そんな私の姿に戸惑っているのか、いつものように頭を撫でようと伸ばされた手が、途中で止まってしまった。
「どうも、お前がそんな格好をしていると、調子が狂うな」
 苦笑を浮かべている彼に、少しだけ悲しい気持ちになる。所詮は妹か。私がなんとも応えられずに黙ってしまったので、気まずい沈黙が訪れてしまった。
 だが暫し後、その沈黙を破るように、殊更明るい声で笑みを投げかけた。
「あの、立ち話もなんですから、お酒でもいかがです?」
 その言葉に、彼は渋い表情になった。
「しかし、だな」
「お客様にすぐに帰られると、怪しまれるんで」
 お願いします、と少々大袈裟に手を束ねて頼み込むと、趙将軍も肩を竦めて笑った。
「そうだな、では……」



 杯の中に、なみなみと酒を注いでゆく。それを眺めながら、趙将軍はぽつりと漏らした。
「こんな美人に酌をしてもらえるとは光栄だな」
 私は思わず、酒を注ぐ手を止めて彼を見やった。
「ご冗談を」
「中身は相変わらずか」
 驚いて瞠目する私に苦笑し、彼は杯を煽った。その飲みっぷりに、ああそう云えばこの数日お酒を口にしていないなぁ、などとどうでもいいことに気付く。そんなことに気がついてしまったので、どうやら私はかなり物欲しそうな目をしていたらしい、趙将軍がおかしげに笑いながら杯を勧めてきた。
ナマエも飲むか?」
「えーと……、では遠慮なく」
 迷った末、私は自分の欲に素直に従った。
 杯に唇をつけると、液体が静かに喉を通りぬけた。素晴らしく芳醇な香りが鼻腔へと突きぬけ、私は思わず溜息をついた。それを眺めていた趙将軍が、苦笑を浮かべたが、気にせず杯の中の酒を一気に飲み干した。
「しかし、あんなに小さくて可愛かったお前が、今は張飛殿に劣らぬ酒好き、とは……。まこと、人とは分らぬものだ」
 はぁ、と殊更大袈裟に嘆いてみせる姿に、また私も顔を顰めて反論する。
「また随分と年寄りくさい発言ですね。まだまだ若いくせに妙に達観しちゃって、お堅い性格を売りにしているのは良いですが、そんなんだとその内女の人からも呆れられてしまいますよ」
「心配無用、これでも困らぬ程度には持てている」
 そう言い切った彼に、流石に言葉を失う。案外自信家なのか。
「……随分と厭味なお言葉ですね」
「ははは、伊達に歳は重ねていない」
 そう笑って、趙将軍はまた杯を煽った。その台詞だけを鑑みると、この趙将軍は随分と年寄りだと思われがちだが、実のところまだまだ若かったりする。むしろ三十を過ぎ、今は男盛りといったところか。そんな人物からの年寄りくさい台詞、誰だって溜息をつきたくなるというものだろう。
「なんせ”天下に女は星の数ほど”いらっしゃいますものね」
 溜息混じりにそういうと、意外にも相手は喰らいついてきた。
「……それを持ち出してくるとは、卑怯だぞナマエ
 おや、と趙将軍の方を顧みると、なんだか少し照れているようだった。
「――確かに天下に女性は星の数ほどいる。だがな、心に想う女性は一人でいいと私は思う。別に自惚れていたわけではないし、第一あの時はかりそめとは言え趙範殿と義兄弟の契りを交わしたのだし、その義兄弟が”義姉”を娶るというのは殿の部下として体裁が……」
「はいはい、分りましたー」
 つらつらと言い訳を口にする彼に、何故だかだんだんと向かっ腹が立ってきてしまい、私は素っ気無く話を切り上げてしまった。だが趙将軍は言い訳し足りないのか、「ナマエっ!」と焦ったように私の名を呼ぶ。その慌てた様子を横目に、しらっと告げた。
「余り大声出さないで下さい。この建物、造りが悪くて大きな声だと外に漏れてしまいますから。それに今私はナマエではなくて、”月”です」
「あ、ああ、そうだったか?」
 曖昧に頷いた趙将軍が、はた、とそこであることに思いついたらしい。
「――そういえば、もう客は取っているのか?」
「はい」
 あっさり頷くと、俄かに彼が気色ばむのが分った。
「お前――」
「ご心配なく。お客には毎回、気持ちよーく眠って頂いていますよ」
 これのおかげでね、と私は懐から懐紙をちらりと出して、趙将軍に示してみせた。その中には、義父から託された薬が入っている。それに気付いて、趙将軍は、ほ、と表情を緩めた。
「そうか。しかし店の者にばれると大目玉だな」
「ばらさないで下さいよ」
「さて、どうしようかな」
 意地の悪い台詞にむっと顔を顰めた私に、得たりと趙将軍が笑う。今度は躊躇うことなく頭に手を乗せられ、私もくすくすと笑った。
 途端――。
 ぎしぎしと軋む音と共に、隣の室から、不明瞭な声が聞こえてきた。その声は、考えずとも正体はわかった。この妓楼では日常茶飯事の声。何とタイミングの悪い、と私は内心泣きそうになった。しかも丁度良く、いや、悪くも二人の距離は限り無く近い。趙将軍もすぐに声に気付いて、身体を硬直させたようだった。――うわ、目があった。やばい。
 その状態のまま、胃がきりきりと痛くなるほどの沈黙が数瞬続いた。その沈黙を、無理矢理破ったのは、趙将軍だった。
「……私はもう帰るとしよう」
「え!? あ、はい……」
 その声に大いに反応した私だったが、同時に安堵もした。だが瞬間、ちくりと胸に刺さった物の正体に、知らぬうちに彼へと抱いていた極々ささやかな、それこそミクロ単位のささやかな淡い期待も裏切られてしまったのだと気付き、少しだけ落胆の色が声に出てしまった。
 だがそれ以上は無言を通し、趙将軍を扉まで見送る。
ナマエ
 部屋を出際、呼ばれて私は顔をあげた。そこに、予想以上に真剣な表情があった。
「いいか、無茶だけはするなよ」
「はい」
 私も倣って真剣に頷くと、彼はがらりと表情を崩した。
「よし、いい子だ」
 ふわり、と微笑んだかと思うと――。
「うわっ、――っつ!?」
 いきなり腕を強く引かれ、耐え切れず私は趙将軍の胸に衝突した。目を回す間も無く、首元に湿った感触が訪れ、次にちくりと刺されたような痛みが来て、思わず身を震わせた。――何を、とは、考えるのも莫迦らしかった。ぬるりとした感触が肌を掠めるたびに、甘い痺れを呼び起こしそうになるのだから。
 腕を解放された途端、ばっと首元を押さえ、きっと彼をにらみつけた。けれどきっと私の顔は今これ以上ないほどに赤くなっているだろうから、いまいち迫力には欠けるだろう。
「な、何、するんですか!?」
「怪しまれると、いけないのだろう? ならばそれくらいの証拠は、あった方がいいからな」
 意地悪く笑う彼に、私はとうとう絶句した。口をぱくぱくと動かし、そしてようやっと出てきた言葉は――、
「……莫迦っ!」
 悲しいことに、それだけだった。
 趙将軍が去ったその後、椅子にへたれてまだ顔を赤くしていた私の元に、ホクホク顔の女将がやってきて興奮気味に捲し立てた。趙将軍は、どうやら金の羽振りがかなり良かったらしい。そういうことは、名も売れてない新人にしては珍しいらしい。
「あんた、良い人についてもらえて良かったねぇ。かなり気前の良い旦那だったよ」
 機嫌よく笑う女将に、最早私には笑う気力すらなかった。
 その後、一気に私の待遇が良くなり、部屋を与えてもらった。その分仕事もかなり楽になったので、まさに趙将軍さまさまだったが、しかしあの時彼の唇に蹂躙されたところは、やはり痕がくっきりと残っていた。手鏡でその部分を見るたびに、あの感触を思い出して真っ赤になってしまう。一体何を考えているんだ、とは思うが、元々あまり何を考えているか分り難い人であるから、一人で考えたって無駄だった。が、一旦思い出してしまえば、懲りずに思考が嵌ってしまうわけで――。
(ああ、もうっ! お陰で仕事がはかどらないじゃないのよ~っ)
 私は心の中で、彼の人に向かって力なく罵倒した。