春の訪れ・二





 少し、酔ってしまった。
 一度酒精に慣れてしまうと、不思議なものでするすると呑めてしまうものだ。賈充から勧められるまま酒を口にし、気がつけばほろ酔い加減になっていた。
 心ゆくまで夕餉を堪能した後は後片付けを侍女に任せ、ナマエは厨房に茶の支度をしに向かった。茶壷に茶葉を蒸らし、器を準備して盆に載せると、食卓で待っている賈充の元へと戻る。

「お茶にしましょう」
「酔ったな」
 茶を一口飲んだ賈充は、吐息と共に呟いた。そして隣に座るナマエの酒に染まった頬に触れて一言。
「頬が赤い」
「そりゃあお酒を頂きましたから」
 くく、と賈充が喉の奥で笑った。
「意外と呑める方ではないか。驚いたぞ」
「そうですか? 強いほうではないと思いますが」
 ふと賈充は物思いに沈むように視線を下げた。
「婚儀の席で一口飲んだっきりか」
 ナマエは一瞬賈充の言葉に首を傾げたが、すぐに思い至った。そういえば、前に酒を口にしたのは確かに婚儀の席での事だった。
「お前、あの時極度に緊張していただろう」
「ああ、そう、そうでした。今となっては懐かしい思い出です」
 数ヶ月前の事だ。突然の婚姻にめまぐるしい日々を過ごしていたナマエは、当日あまりの緊張のせいで食事は愚か水すらも口にすることが出来なかった。賈充とろくに言葉も交わした記憶すらない。
 が、そんなナマエの緊張を知ってか知らずか(今となっては気を使ってくれたのだろうと分かっているが)、賈充が杯を勧めたのだ。夫となる人に杯を勧められた以上飲み干さなくてはならない。妙な義務感に囚われたナマエは空きっ腹に酒を入れ、目を回した。
 あまり思い出したくない記憶だ。それ以来酒は苦手に思い、今日まで口にしてこなかったのだが。
「あの時公閭様が勧めてくださったお酒、緊張のせいで味も分からなかったんですけど、口当たりが良かったのだけは覚えています」
「上等な酒を用意させたからな。飲みたかったらまた用意させるぞ」
「い、いいえ大丈夫です。もう十分頂きましたから」
 悪乗りの予感に慌ててナマエが頭を振る。
 賈充が緩く笑った。
 ナマエは杯の水面を眺めて当時を懐かしむ。あの時はこんな風に賈充と打ち解けられるだなんて思いもしなかった。ずっと仮面夫婦のような関係を続けるのだと思っていたから。
 ふと、心に引っ掛かっている事を思い出す。
「あの時は聞けなかったんですけど、どうしてあの夜、訪れてくださらなかったの」
 婚儀の夜、初夜だというのに寝室でいくら待っても賈充は現れなかった。その事が棘となって、今でも心に突き刺さっている。そこから永く、共寝を果たせなかったのも気がかりの一因となっていた。
 賈充は苦く笑った。
「悪かったな。あの時調子に乗った子上にしこたま飲まされて、つぶされたんだ。あれは俺の中でも最悪の失態だった」
「そうだったんですか。それは仕方ないですね。……でも、心細かったんですからね」
 司馬家の子息が関わっているとなればナマエの出番はない。が、初夜に一人取り残される新妻の心境を果たして賈充は分かってくれるだろうか。
「ああ、分かっている。相応の償いはするつもりだ」
「償いなんて……」
 いらないのに。
 泰然と笑う賈充に、ナマエは眉尻を下げて呟いた。


「さて、俺は風呂に入る」
 そう宣言して、立ち上がった彼はナマエを振り返った。そして真顔で一言。
「お前も付き合え」
「え!? こ、公閭様?」
 手首を取られて強制的に立ち上がらせられる。有無を云わせず浴室の方角へと引きずられ、ナマエは大いに戸惑った。
 一体彼はどうしたというのだろう。普段から考えられない賈充の行動に、ナマエは目を回していた。まさか酔って我を失っているのだろうか。夫婦間とはいえ、一緒に風呂に入るだなんて気恥ずかしいにも程がある。それよりも前に、酒を飲んで風呂に入ってもいいものだろうか。
「待ってください公閭様」
「なんだ」
「あの、あの、付き合うってことはつまり」
「一緒に入るということだな」
 愉しげに賈充が告げる。
 そんな会話を交わしているうち、浴室へとたどり着いてしまった。賈充は扉を勢い良く開け放ち、ずんずんと中へと入っていく。それに引きずられながら、ナマエはいよいよ覚悟を決めねばならなかった。
「諦めが悪いな。さっさと覚悟を決めろ」
「……何もしません?」
 ナマエは上着を脱いだ賈充に向かって、決死の覚悟で尋ねた。
「なに?」
 賈充が虚を突かれて声を出す。
「何もしないと誓ってくれたら一緒に入ります」
 ぐっと両手で握りこぶしを作りながらそう力強く宣言すれば、賈充は困難に直面したかのように固唾を呑んだ。
 そしてしばし後。
「分かった。誓おう」
 ナマエの強情に押し負けて、賈充が頷いた。

 共に連れ立って入るのは流石に恥ずかしいため、賈充に先に浴室へと入ってもらった。ナマエはしばらく脱衣所でうろうろと足踏みしていたが、覚悟を決めて衣服へと手を掛けた。
 手巾で前を隠して浴室へと入ると、賈充が既にこちらに背を向けて湯船に浸かっていた。空気が湯に温められ、あたりが白く靄がかっている。
 手早く体を清めて湯船へと向かう。広い湯船の中、賈充から少し距離を取った場所に体を沈めた。
 暖かな湯にほっと一息つく。だが互いに裸、妙な照れくささのため、ナマエは賈充に背を向けたまま動けない。
 と、湯がさざなみを立てた。後ろにいる賈充が近づいてくるのを、肌で感じる。
「お前と湯浴みをするのは初めてだな」
 すぐ後ろで声が響いた。ナマエは体を硬くし、身構える。
「はい……」
 水音がして、上腕にぬくもりが触れた。賈充の手だ。
「こ、公閭様?」
 ぱしゃぱしゃと水が揺れる。
 ナマエが身を凍らせる中、賈充は丁度己の脚の間に彼女をすっぽり収めるように体を滑り込ませた。湯とは違う背中のぬくもりと肌触りに、いよいよナマエは息を詰まらせる。極度の緊張に背後を振り返れもしない。
「くく、そう力むな。取って食いはせん」
 笑い声が浴室内に響いて、背筋に賈充の吐息がかかる。
「は、はい」
「何もしない、と約束させられたからな」
「……すみません」
 言外に非難の色を汲み取って、ナマエは反射的に謝罪を口にした。無理を言ったつもりはなかったが、そんな風に言われるとなんとなくナマエが我侭を言ったような気分にさせられた。
 賈充の手がナマエの二の腕に触れている。それ以上は触れてこないつもりだと分かって少し力が抜けたが、それでも己の脚の両側に自分のものでない者の脚が伸びているという事実に少なからず緊張を隠せない。
 湯がとろとろと肌をすくう。温度は丁度いいぬるま湯で、いつまでも浸かっていられるような心地よさだった。こんな状況でなければ、もう少し湯を楽しめただろう。
 と、不意に賈充の吐息がナマエの首筋をくすぐり、びくりと身を震わせた。
「もっとこちらに寄りかかっても構わんぞ」
 かけられた声に、ナマエは背後を振り向こうとして思いとどまった。
「……あの、でも、痛くありませんか?」
 先ほどから気にしないように努めていたが、密着したお尻に昂ぶりを感じていた。明らかに先ほどと比べて硬くなっているようだった。
 ナマエが賈充に寄りかかれば、彼女の体重がそこに掛かってしまうことになる。
「つぶしちゃいそうで」
「くく、お前はたまに突拍子もないことを云うな」
 賈充は笑いながらナマエの体を引き寄せた。
「そんなに柔なものではない。お前も散々知っているだろう」
「は、はい」
 からかい混じりの台詞に顔を赤くしながら、ナマエは賈充に身をゆだねた。

 一度身をゆだねてしまうと、不思議な事に緊張は瞬く間にほぐれた。触れる人肌は心地良く、ぬるま湯も相俟って瞼が落ちてきそうなほどだ。
「気持ちのいいお湯ですね」
 そうだな、とすぐ耳元から同意の声が届く。
 湯には柑橘系の果物が贅沢に浮かんで、爽やかな芳香が漂っていた。湯をすくい取り、先ほどまでは感じられなかったその芳香を吸い込んで、ナマエは満足げに頬を緩めた。
「あ、公閭様の頬、少し赤くなっている」
 緊張もほぐれ、ようやく背後を振り返って賈充を認めたナマエは、その頬が赤みを帯びている事に気づいて声を上げた。
「これだけ長く浸かればな」
「湯あたりは大丈夫ですか?」
「問題ない」
 ぱしゃりと湯が音を立てる。
 ナマエはおもむろに体勢を変え、賈充の胸元に顔を寄せた。
ナマエ?」
「こうしていると落ち着きます」
「誘っているのか?」
「ち、違います。肌が触れ合うのが、なんだか心地よくて」
 からかうように問われれば慌てて首を振り、賈充の胸元にそっと手をつく。背中に彼の手が回った。
「お前を抱くのは心地いいからな」
「公閭様に抱かれるのだってとても気持ちいい」
 頬を緩めてそういえば、賈充が笑みをこぼす。
 思いのほかたくましい胸元に再び頬を寄せると、とくとくと心臓が通常よりも早く鳴っている。ナマエは賈充の胸に頬を寄せる瞬間が大好きだった。
「やはり誘っているだろう」
 くつりと耳元で響いた笑い声にはっとする。
 伸びてきた指に顎を持ち上げられ、唇をふさがれた。
「んっ!」
 賈充の舌が侵入してきて、口内を激しく探った。その官能に、ナマエは脱力した。
 唇を離した賈充は蕩けたナマエの様子に喉の奥で笑い、あやすように耳元に口付けする。
「お前はどこもかしこも柔らかいな……」
 艶がかった低い声が囁く。骨ばった大きな手が動いて、ふいにお腹をゆるりと撫でた。その手が輪郭に沿うように乳房を包む。
 瞬間、ナマエは抵抗した。
「駄目っ!」
 ぱしゃりと湯が激しく揺れる。ナマエの悲鳴が浴室内にわんわんと響いた。
 賈充の手をがっちり掴んだナマエは、真っ赤な顔のせいでいまいち迫力に欠ける顔で賈充を睨みつけた。
「嫌か」
「駄目なんです……」
 賈充に押されると弱いナマエは、自分をしっかり保つのに必死だった。
「口付けは許すのにか」
「でもここでは嫌」
 声も響くし、そろそろ湯あたりやらなにやらで頭がぼんやりしてきた頃だ。
「確かにこんなところでのぼせたら後が大変だな」
 ち、と舌打ちが響いたと思ったら、手首を引かれて湯から引き上げられた。
「こ、公閭様?」
「さっさと上がれ。続きをするぞ」
 そう宣言し、賈充はナマエを引きずって脱衣所へと向かう。
 ろくに体も拭かぬまま、強引に着物を纏わされる。
 賈充にいたっては殆ど前あわせが肌蹴たままだったが、余裕もなくナマエを抱き上げて寝室へともつれ込んだ。