春の訪れ・一




 秋風が過ぎ、冬も深まってくると、厳寒を伴って冬将軍がやってくる。
 本格的な冬を迎える前に、ナマエは家人を急かせて冬支度を整えさせた。物置にしまってあった火鉢を引っ張り出し、窓枠には木板を嵌めこみ、大量の薪の用意と大わらわだ。賈充の衣裳も冬用に新たにあつらえるため、行商人から反物も買い揃えた。
 邸の中が一段落すると、今度は広い庭園に立つ木々の冬囲いを行わなければならない。園丁はいるものの、到底一人では追いつかない量だった。家人総出で取り掛かる。
 雪の重みで木枝が折れないよう、長い竹ざおで木の周りを取り囲み、敷き藁で覆い、その上から麻縄で固定して保護する。最初は手こずって上手くいかなかったものの、回数を重ねれば段々と上手くなっていった。中々力の要る作業だった。

 午前からはじめた冬囲いは昼を少し過ぎ、家人が邸から出てきてナマエを呼んだところで、一度手を休めた。
「奥様、旦那様がお戻りです」
 と告げられた声に顔を上げると、丁度侍女が賈充を伴って庭園に足を踏み入れたところだった。ナマエは主人の早い帰宅に顔を輝かせ、賈充の元に駆け寄った。
「公閭様、お帰りなさい」
 賈充が飛び出してきたナマエを抱きとめると、彼女は背伸びをして賈充の頬に唇を寄せた。
「今日は早かったんですね」
「ああ」
 頷いて、賈充はあたりを見渡した。庭園には藁で囲まれた木々がぽつりぽつりと幾分寂しげに立っている。
「大分進んだな」
「ええ」
 ナマエ達の頑張りのお陰で、囲む木々もあと残り僅かといったところだ。
「昼餉は頂きましたか? 公閭様」
「いや、まだだ」
「そうですよね、まだ昼を過ぎたばかりですものね」
 そろそろ一区切りつけて昼餉の準備に取り掛からねばならない。
 園丁がナマエを呼んだ。途中だった冬囲いの準備が整ったのだろうが、ナマエが藁を固定するための大事な麻縄まで持ってきてしまっていた。
「やだ、大変」
 ナマエは慌てて園丁の下へと走りよった。その途中で振り返って。
「公閭様、少し待っていてくださいね。あの枝だけ縛ってしまいますので」
 園丁のもとへと向かうと、持っていた麻縄で木をぐるりと囲んだ。ぎゅっと力を入れて絞った時、横合いから手が伸びてきて縄を取り上げていった。この黒い爪の持ち主は。
「公閭様?」
 力強い手が更に強く縄を引き絞る。
 呆気に取られてその手が動くのを見守っていると、縄を縛っていた賈充が口の端を持ち上げた。
「……どうした、意外か?」
 賈充に雑事、あまりに意外な組み合わせにナマエは目を丸くするしかない。
「くく、たまには野良仕事も悪くない」
 そう笑って、邸の主人は縄を持つ手を動かした。

 賈充のお陰で手早く囲われた木は少し窮屈そうに藁に包まれている。
 ナマエは地面に散らばった道具を拾い上げ、箱にしまっていった。と、その手がふいに取り上げられる。賈充は寒さで赤く染まったナマエの指先に眉根を寄せた。
「手が氷のようだ。早く中に入れ。風邪でも引かれたら敵わん」
 心配性な賈充にナマエは頬を緩め、素直に言いつけに従った。
「そうですね。皆さん、そろそろお昼にしましょう」
 庭園に散らばる家人に声を掛け、邸の中へと急いだ。

 邸に入ると、厨房に直行した。上着を脱いで手を洗うと、朝から煮込んであった豚肉の粥の味見をする。皮蛋を取り出し、粥とともに器に盛った。
 準備が出来ると、家人皆で卓を囲む。
 賑やかな食事のあと、応接間に移動して火鉢にあたりながらナマエは賈充と二人で茶を頂いた。賈充は長椅子にゆったりと腰掛け、香りのいい茶を楽しんでいるようだった。
「今日のお仕事はどうでした?」
 ナマエは行商人から買い付けた反物を取り出し、布地にほつれがないかどうか吟味しながら尋ねた。
「まあ悪くない。さぼっている子上を捕まえたまでは上々、そこから先はお目付け役に任せて帰ってきたがな」
「お目付け役って王元姫様のこと? お元気でいらっしゃるかしら」
「ああ、口やかましいほどにはな」
 ナマエは反物から顔をあげ、少し笑った。
「それってお元気って云うのかしら」
 云って、反物を置いて立ち上がった。
「公閭様、ちょっとそこに立ってくださいますか。寸法を測りたいのです」
 床を指し示したナマエに訝りながら賈充が立ち上がると、ナマエは巻尺を手に近寄る。
「なにか作るつもりか」
「公閭様の冬のお召し物をあつらえようと思って」
「今からか。間に合うのか?」
 すばやく身の丈を測り終えると、今度は胴回りを測るため、ナマエは賈充に抱きつく形となった。賈充がナマエの肩にそっと手を置くと、彼女は顔を上げて微笑んでみせた。
「間に合わせてみせます。楽しみにしていてくださいね」
「まあ、ほどほどにな」


 早速布の裁断に取り掛かろうとしたナマエだったが、「俺を放って一人で愉しむつもりか」と賈充に厭味を云われて結局夕刻まで二人応接間で過ごすことにした。冬囲いの残りは家人に任せて、他愛無い話に花を咲かせる。
 賈充はあまり仕事の愚痴を云わない。畢竟ナマエが邸内のことやご近所のことについて喋り、賈充が相槌を打つという形になった。
 日が落ちるとぐんとあたりも冷え込んでくる。大陸の冬は厳しい。外ではちらちらと雪の姿が見え始め、長く続く冬が訪れようとしている。
 昼を軽く済ませたため、そろそろ小腹が空いてきた頃だった。ナマエは茶の湯が切れたのを頃合に長椅子から立ち上がった。
「そろそろ夕餉の支度をしなくちゃ」
 云って、なにかを思いついたようにナマエは賈充を振り返った。
「そうだ。よければ公閭様も夕餉作り、手伝ってくださいますか」
 楽しげにそう云えば、滅多に動じない賈充の目が驚きに見開かれた。
「俺がか?」
「はい、たまにはいい気分転換になると思いますよ」
「……まあいいだろう」


 火が入った厨房は暖かかった。ナマエは氷室から夕餉の材料を取り出して、卓に並べた。しいたけ、葱、筍、生姜、豚肉、老酒。それと小麦粉。
 今日の夕餉は肉まんを作る予定だ。
「公閭様は生地を練ってください」
 ナマエの指示の元賈充が腕まくりをし、小麦粉に塩と湯を混ぜ、練り込んでいく。
「中々力の要る作業だな」
「憂さ晴らしには丁度いいでしょう?」
 満面の笑みで恐ろしいことを云う。賈充は暫く手を止め考え込んだ。
「……俺はお前になにかしたか?」
「え? 何のことですか」
「いや、いい」
 賈充が生地を練っている傍らで、ナマエは材料を細かく刻んで練りこみ、味をつけていく。生地を練り終えれば、少し寝かせる。
「さあ、後は包んで蒸かすだけですね」
 肉まんのほかにも旬の野菜と豚肉の煮物、鶏と木の実の甘辛炒めを作った。

「さあ、頂きましょう」
 食卓に彩られた菜を前に、ナマエが嬉しそうに宣言した。
 昼とは違い、二人きりの食事だ。
 ナマエが賈充の杯に酒を注いでやると、なぜか賈充は立ち上がって棚からもう一つ杯を取り出してきた。
「たまにはお前も付き合え」
 酒を勧められるのはいつ以来だろう。ナマエは夫からの意外な申し出に嬉しげに頬を緩めた。
「はい、では一献」
 とくとくと杯に酒が注ぎいれられる。乾杯をして、杯を傾けると酒精が喉を刺激する。そこを我慢してぐっと一息に飲み干すと、満足げに笑った賈充が追加の杯を重ねてきた。
 体の奥に熾火が灯ったような感覚が訪れる。久しぶりの酒は、ナマエに心地よさをもたらした。
 蒸籠に、賈充と共同で作った肉まんが並んでいる。どれも美味しそうに真っ白に膨らんでいた。
 あつあつの肉まんを一つ手に取り割り裂くと、中から肉汁が溢れてくる。行儀も気にせず齧り付くと、素材のうまみが口の中いっぱいに広がった。
「肉まん、上手に出来ましたね。流石は公閭様」
「褒めても何も出んぞ」
「公閭様ったら。でも公閭様は手先が器用でなんでも出来ちゃいそうですね」
 どうだかな、と賈充は鼻を鳴らした。
「俺にだって苦手な事くらいはある」
「たとえば?」
「お前の機嫌を取るのは苦手だ」
「まあ」
 ナマエは驚いて声をあげた。
「私の機嫌を取るのなんて簡単な事ですよ」
 云って、ナマエは微笑を向けた。
「だって私は公閭様が傍に居てくれるだけでいいんですもの」
「くく、云ってくれる」
 くつりと笑った賈充が杯を促したので、ナマエは酒の入った水差しを持ち上げ、酒を注いでやった。
 外はいつしかとっぷりと日が暮れていた。