あなたに恋をする・二





 賈充の妻になって、一月が経過した。
 華燭の典はそれは盛大に行われた。贅沢を凝らした花嫁衣裳、豪華に飾り立てられた式場に、華やかな招待客。招待客の中には司馬家の者達も列席しており、記憶に残る婚儀となった。
 婚儀が終わると、ナマエは賈充の邸に迎え入れられた。賈充の邸宅はナマエの実家より大きく、比べようもないほど立派であった。四季折々の花を咲かせる庭園には立派な四阿があり、池には鮮やかな錦の鯉が泳いでいる。使用人もナマエの実家より多く、商人達も出入りしている。
 賈充はしかし、その邸宅に滅多に顔をださなかった。要職についている彼はそのほとんどを宮城で過ごし、夜も帰ってこない。賈家に嫁いで一ヶ月が過ぎたが、ナマエは未だ賈充と共寝をしたことがなかった。このことを母が知ったら、妻の務めも果たせぬ不忠者と罵られるかもしれない。
 だが、賈充は意外と律儀な性格らしく、必ず五日に一度は帰ってくるので、その時ばかりはナマエも彼と一緒に過ごした。

 この日もナマエは五日ぶりに帰ってきた夫を出迎え、その労をねぎらった。
「公閭様、おかえりなさい。お疲れさまでした」
「ああ」
「夕餉は食べていかれますか?」
「ああ」
「では、侍女に云って参ります」
 彼はナマエの前では、言葉少なだった。頷くだけで、それ以外の会話を交わすことはあまりない。
 家の中のことはほとんど使用人が仕切っていた。ナマエがすべき事はあまりない。唯一救いなのは、使用人がナマエを気遣ってあれこれと世話を焼いてくれていることだ。

 夕餉の準備が出来ると、ナマエは賈充とともに卓についた。ナマエはまず賈充の杯に、酒を注いだ。賈充はよく酒を嗜む。彼は酒には強いのだろうが、対してナマエはあまり得手ではない。
 しばし無言で箸を進める。会話はほとんどなかった。賈充の人となりが良く分からなかったから、どういう会話を好むのか分からなかったためだ。彼は頭脳明晰なひとのようだが、ナマエはあまり頭の回転が速い方ではなかった。口を開いたはいいものの、彼に飽きられはしないかと心配だったせいもある。だからナマエにはこの賈充と共にいる時間が、苦痛でならなかった。
 ナマエ、と賈充に静かに名を呼ばれたのは、しばし後のことだった。
「不自由はないか?」
 ナマエが顔をあげると、賈充は明後日の方を向いていた。
「いえ、いまのところは。家人もよく働いてくれていますし」
「そうか……」
 それきり、会話は途切れた。
 賈充が箸をおいたのを見計らって、ナマエは声を掛けた。
「もうお済みで?」
「ああ。城に戻る」
 立ち上がった賈充は一服する暇もなくそう告げた。ナマエも立ち上がって、妻らしく夫の見送りに出た。
「お気をつけていってらっしゃいませ」
 玄関先まで見送りに出ると、賈充は既に騎乗していた。彼は登城するのに馬車を使わない。
 賈充はナマエを振り返り、一瞬なにか云いたげな表情を浮かべた。だが思いなおして、手綱を引いて去っていった。

 どうして、彼はナマエを妻にしたのか。
 遠のく背を眺めながら、ぼんやりと思う。
 この婚姻は、おそらくは政治的な背景あっての婚姻だったのだろうと思う。政略結婚ならば豪族として生まれたナマエもそれなりに幼いころから覚悟をしていたが、しかしそれにしては相手が格上すぎた。ナマエの実家は何の後ろ盾もない、いち弱小豪族なのだ。そんな出のナマエが古くから魏の忠臣である賈家に嫁ぐ事の、意図がよく分からなかった。
 とはいえ既に婚姻を結んでしまっているので、深く考えてもどうにもならない。が、せめてもう少し明るい人だったら、と思わないでもなかった。賈充はあまり喋る方ではない。利害から結ばれた関係に、夫婦生活は始まる前から冷える事は目に見えていた。
 家の中に戻ったナマエは、自分にあてがわれていた室に直行した。実家から連れてきた愛猫が、彼女を出迎えた。それを抱き上げ、愛しげに抱きしめる。
 賈充に夫としての愛情は未だ感じられない。だって会話する暇さえないのだから。

 
 次の五日後、ナマエは再び賈充を迎えた。
「公閭様、おかえりなさい」
「ああ」
「本日も夕餉は食べていかれますか?」
「ああ」
 ほぼ同じ会話を繰り返すだけのやり取り。
 先日と同じように侍女に夕餉の支度を申しつけ、準備が出来ると二人で卓を囲む。賈充の杯に酒を注いでやるのも、ナマエの仕事だ。
「邸前の花壇」
 賈充が口を開いたのは、三杯目の酒を飲み干した時だ。
「弄ったのはお前か?」
 その言葉に、ナマエは先日園丁とともに花を植え替えたのを思い出した。たしか小ぶりの青の花が病気にやられたとかで、黄色の花にすべて植え替えたのだ。
「はい。……申し訳ありません。お気に召しませんでしたか」
「別にお前の好きにしたらいい」
 賈充は杯を差し出し、次の酒杯を促した。
「だが、俺は黄より蒼の色が好きだ」
 酒の入った水差しを持つナマエの手が、一瞬止まった。賈充の声色は静かだったが、どこか棘があった。彼はナマエの行為を咎めたのだ。そう、ナマエは思った。
「……そうでしたか。では明日早速園丁に云ってもう一度植え替えさせます」
 声が少し震えた。賈充は気づいただろうか。
 だが、ナマエはそ知らぬふりして、賈充の杯に酒を注ぐ。
ナマエ
「はい?」
 呼ばれ、顔を上げる。水色の瞳が、じっと探るようにこちらを見ていた。ナマエは気圧されぬよう内心己を奮い立たせて、賈充を見返す。
「いや」
 なんでもない、と先に視線を外したのは、賈充の方だった。
 賈充が箸をおいた。
「お済みですか?」
「ああ」
 立ち上がった賈充に続こうとすると、手で制された。
「今日は雨だ、見送りはいい」
「分かりました。お気をつけていってらっしゃいませ」
 賈充が部屋から出て行くと、ナマエは前庭を見渡せる隅の小部屋へと向かった。
 窓の外を覗くと、雨で白くけぶっていた。その中を、一頭の馬車が音を立てて走り出した。