あなたに恋をする・一





 賈家のご当主様がいらしています、と侍女が告げに来たのは、とある晩春の日のことであった。

 暖かい日差しが差し込む室で、一人刺繍版に針を通していたナマエは、その侍女の言葉に振り返った。
「お嬢様には、お相手をさしあげるようにと旦那様が」
 父の李苞の言伝を運んできた侍女が続けて言う。ナマエは針を持つ手を止め、そっと首を傾げた。
「賈家のご当主様? どうして私が?」
「さあ、存じあげません」
 素気ない侍女の返答に、ナマエは小さくため息をついてその場を立ち上がった。父親の言いつけに従うために。

 
 もてなしに失礼にならない程度に着飾り終えると、足元で丸くなっていた猫をひと撫でし、ナマエは室を出た。
 日の当たらない回廊は底冷えする。侍女に導かれるまま応接間にたどり着くと、ついたてを隔ててナマエは声を掛けた。
「お父様、ナマエにございます」
「おお、ナマエ。さあ、こちらへ来い」
 父の快活な声がかかり、ナマエはついたてから顔を出した。

 父の目の前に、一人の男が座っていた。艶のある、肩ほどまである黒髪を後ろに撫で付けたその人は、端整だがぞっとするほどに肌が白い。ぬめりけのある黒い服装が、なにか不吉なものを予感させた。
 その顔を見て、ナマエは心の中で、あ、と声をこぼした。先日宮城で、見たことのある男だった。
 父の李苞は魏の弱小豪族の一人だ。宮城で職を持つ、いち文官に過ぎない。その李苞に、宮城まで呼び出されて届け物を届けに行ったのは先日のことだった。李苞が勤める文官室は大部屋で、沢山の文官がきりきり舞の様子だった。その中で室長を務める父が、一人の男と話しこんでいたのだ。それがこの目の前の男だった。
 届け物の書簡を渡す際、男は振り返ってナマエを見た。目が合って、驚くほど美しい水色の瞳にナマエは眼を奪われたのを覚えている。
ナマエ、賈公閭殿だ。先日宮城で出会っただろう」
 李苞の声が掛かって、ナマエははっとした。慌てて礼の形を取る。
「賈公閭様にはご機嫌麗しく――」
 口上を述べようとするより早く、男――賈充が口を開いた。
「堅苦しい挨拶はいらん」
 低く静かな声が、絶つようにナマエの言葉を遮る。ナマエは居た堪れなくなった。
 だが李苞は娘の様子に気づかず、朗らかに促した。
「座りなさい、ナマエ
「はい。失礼します」
 一礼して李苞の隣に座る。賈充と向き合う形になり、目が合ってナマエは慌てて目線を下げた。

 侍女がやって来て、卓の上に茶の準備をした。ナマエは手を伸ばして茶壷を持ち上げると、薄い陶器の茶杯に茶を満たした。それを賈充の前に差し出す。
 李苞が立ち上がったのは、その時だった。
「それでは私は少し失礼するよ。ナマエ、お相手を頼むよ」
「え、そんなお父様……?」
 訳も分からず茫然としていると、李苞はさっさと退室してしまった。

 思いがけず二人きりになってしまったナマエは、戸惑って賈充を振り返った。賈充はこちらを見ていた。
「お前は李苞の一人娘か」
 ナマエは慌てて居住まいを正した。
「はい。李ナマエと申します」
 水色の綺麗な瞳に見詰められると、訳もなく緊張する。いや、賈充自身がそうさせる独特の硬い雰囲気を持っているせいだ。
ナマエ、単刀直入に聞く。お前の父親はこたびの事、乗り気だ。俺も無論異論はない。が、俺はお前がどう思ってるのかを知りたい」
「は、」
 ナマエには、賈充の云っている事が理解できなかった。だが、賈充は構わず重ねて尋ねた。
「どうなんだ。良いのか? それとも――」
「はあ」
 頭が混乱して、気のない返事が口をついて出た。
 そのナマエの受け答えに不満を感じてか、賈充は眉根を寄せた。
「なんだその曖昧な答えは」
 厳しい声。恐ろしさに、肩が竦む。申し訳ありません、とナマエは消え入るような声で、謝った。
「ですが、かように云われましても、私には何の事だか分かりません」
 賈充の眉間の皺が、増えた。
「父親から何も聞いていないのか」
「……はい」
 恐る恐る頷くと、賈充はじっとナマエを見詰めた。
 いったいなんなんだろう。恐ろしさに身を竦めていると、賈充はふとため息をついて半目を伏せた。
「まあ、いい。いずれ、分かる」
 意味深長な言葉。伏し目がちの男の頬に、まつげの陰がゆれている。賈充の言葉を聞きながら、ナマエは、このひと、まつげが長いな、などと場違いな事をぼんやりと思った。

 応接間に李苞が戻ってきたのは、そのすぐ後だった。
「で、どうですかな」
「悪くない」
 短く賈充が答えると、李苞は顔を明るくした。
「そうですか、いやそれは良かった」
 李苞の言葉に、ナマエははっとした。おぼろげながらも今ここで、何が進行しているかを悟ったのだ。
 ナマエが青くなっている傍ら、李苞は明るい声で告げた。
「いや、今日はめでたき日。祝杯はいかがかな、賈公閭殿」
「俺は遠慮しておこう」
「そんなそんな、一杯だけでも」
 李苞は侍女を呼び、酒の用意を申し付けた。

 酒の用意がされると、李苞は自ら賈充の杯に酒を注いだ。賈充が杯を持つ手を置き、酒の入った水差しを手にしてナマエを見た。
「お前も杯を持て」
「え? でも私は」
 ナマエは酒を飲んだことがない。
「いいからナマエ、云うとおりにしなさい」
「はい」
 李苞の云いつけに素直に従い、ナマエは杯を持った。その杯になみなみと酒が注がれる。
「では謹んで」
 続いて李苞の杯にも酒を満たすと、賈充は己の杯を持った。
「未来に」
 静かに告げると、一息に賈充が杯を空ける。
 ナマエも倣って杯に口をつけると、強い酒精が喉を焼いた。

 その日、ナマエの人生は決まってしまった。