暁の皖・五





 人から嫌われるって、つらいことだったんだ。

 ナマエは、室で沈み込んでいた。
 趙雲の一言が、頭から離れない。『お帰りください』と言った冷やかな声が、何度も耳に甦っては消えていった。
 ――嫌われたのだと、思った。
 今まで、人から嫌われる感覚というものがよく分らなかったけど、この数日でそれが酷くつらいものだと初めて知った。誰かに嫌われていると考えるだけで、思考が沈んで、体が重くなるような気がする。
 いいや、心が重くなるのだ。

 あれから、趙雲とは会っていない。天明からの誘いはあったが、適当な理由をつけて断わってしまった。
 顔を合わせることが、怖いのだ。
 誰かに会う事が恐ろしいと感じることなんて、今までなかったのに。誰かに、――好きな人に嫌われていると思うことが、こんなにも心を萎縮させるのだ。
「わたくしを嫌いなら、はっきり嫌いと仰ればいいじゃない……」
 そう、はっきりと告げて欲しいとは思う。そしたらナマエも諦めもつくだろう。
 けれど、趙雲に会って、もし無視されたら、もし侮蔑の目で見られたら。
(ああ、考えるだけで怖い……!)
 いかにナマエとて、立ち直れないところまで落ち込むだろう。
 嫌ならば嫌とはっきり告げて欲しいとは思うけど、でもやはり否定されるのは怖くて。にっちもさっちも行かない、とはこのことか。



 雨が降りそうな、どんよりとした空であった。
 ナマエは師とともに、回廊を歩いていた。午前の学問を終え、師の室からの帰り道である。回廊には解放的な大きな窓が設けられ、そこから臨める階下には、城の人々が行き交う様子が見られた。
 その時、なにやら前方から賑やかな一団が近付いてきて、ナマエはふとそれに目をやって表情を強張らせた。
「――姉上」
 その一団の中の一人、まだ成人していないだろうと思われる紅顔の少年が、咄嗟にナマエに気付いて声をあげた。
「劉琮、殿」
 ナマエも、ぎこちなくその少年――異母弟の名を口にする。団体は、どうやら劉琮とその近侍たちだったらしい。嫌な相手に出会ってしまったと、ナマエは苦々しく思う。
「姉上、勉学の帰りですか?」
 劉琮は、にこりと己の姉に微笑んだ。表裏の無い少年の笑顔は、万人に愛されるそれであった。だがナマエは、強張った表情を隠さぬままに「ええ」と答えた。心なしか、その声も硬い。
 劉琮、ナマエの異母弟、叔父に蔡瑁をもち、父劉表の第二の後継として官からも注目されている。性格は明朗快活、聡明な少年で誰からも愛され、特に親から溺愛されていた。劉琮自身、ナマエのことも姉として慕っていたが、しかしナマエはこの弟が苦手だった。父に期待される聡明な兄、父に愛される利発な弟、そして、――役立たずなナマエナマエがこの優しげな異母弟に、苦手感を持つのは当然だった。
 いや、正確に言えば、少年の周りにいつも纏わりついている、あの母親が気に食わないのだ。今も、ナマエに声を掛けた劉琮を咎めるように前に出た彼の母親は、嫌なものでも見るかのようにナマエに視線を投げる。
「相手にするのではありません、劉琮。ナマエ殿、道を譲ってくださいます? わたくしたち、急いでいるものですから」
 そう云った彼女のナマエを見る目は、嫌悪感に満ちている。美しい人だったが、その瞳のせいで醜く見えた。その言い様に驚いた彼の息子が「母上」と咎めるように声をかけると、今度はころりと柔和な笑みを浮かべて己の息子に微笑む。その変わり身の早さは、見事と言おうか、劉琮も困った表情を浮かべるしかない。
 この女性にここまで毛嫌いされる理由を、ナマエは分っていた。この女性は、劉の華と持て囃されるナマエが、気に食わないのだろう。
 後妻とはいえ、この夫人は父の妻。黙って道を譲るのは癪だったが、問題を起こしたくない一心で、ナマエは無言で身を端に寄せようとした、が。
「蔡夫人、姫君に向かってなんと無礼な。道理で考えれば、ここはあなた方が道を譲るものでしょう」
 しゃがれた声が、一喝する。夫人の横暴な態度に、腹を立てたのはナマエの師であった。
「先生」
 ナマエは、戸惑って隣の師を見た。師の言葉は確かに正しい、本来ならば、ナマエが道を譲る必要は何処にもないのだ。けれど、弟に対しても劣等感を抱えるナマエは、師に「やめて」と目線で訴えた。
 が、それを察しても尚、彼は厳しい目でナマエを見た。
「あなたは劉表様の娘、尻込みせずしゃんとなされ」
 静かな声だったが、ナマエには十分だった。そう言われれば、黙って頷くしかない。

「……あら」
 と、その時声をあげたのは、二人のやりとりを憎憎しげに眺めていた夫人であった。ナマエが目をやると、彼女は窓の階下に、何かを見つけたらしかった。再びナマエへと視線を戻した夫人は、その表情は一変し、今度は面白げな表情を浮かべてナマエを促がした。
「あれをご覧なさいな、ナマエ殿。面白いものが見れますわ」
 そう言って、窓の外の風景の一点を差す。ナマエはそれを追って階下に目を凝らすと、直ぐに驚愕の声をあげた。
「兄様!?」
 劉琦だけではない、傍らに、もう一人。あれは、――天明だ。
(天明様と、兄様? どうして、お二人で?)
 談笑しながら歩く二人は、仲睦ましげだった。ナマエの中に、いつの間に、という焦燥が生まれた。それは、兄を盗られると無意識に危機感を抱いたからに違いない。
 動揺も顕わに、食い入るように二人を見つめるナマエを、蔡夫人は嘲笑う。
ナマエ殿といい、劉琦殿といい、どうも下賎の血を好まれるようですね」
「何を……!?」
 ひゅっと息を呑む。あろうことかこの夫人は、兄も、さらに天明までも侮辱したのだ。頭に血が上ったナマエは、夫人を鋭く睨み付けた。
「兄様を愚弄する者は、何人であろうと許しません!」
「おお、怖い。許さなければどうするのです」
 夫人はすっと目を細めると、妖しげに笑った。
「劉表様に云い付けても良いのですよ。ナマエ殿が、どこの馬の骨とも知らぬ男に惚れ込んでいると」
「……っ!」
 はっと瞠目する。師が「蔡夫人!」と隣で激昂したが、咎める気にはなれなかった。ナマエの恋を、知っているのだ、この夫人は。
 あまりのことにナマエが言葉を失っていると、劉琮は堪りかねたように母親を咎めた。
「母上っ、それは余りの云いようです!」
「まあ、阿琮や、お前は優しい子ですね。あなたは、わたくしの自慢の息子ですよ」
 息子の厳しい言葉も、夫人には何の効力ももたないのか、笑うばかりで反省の色も見せない。母を説き伏せようとするのは諦めたのか、溜息をついた劉琮はナマエに気遣わしげに声をかけた。
「姉上、どうぞ母上の言葉はお気になさらぬよう」
 その気遣いさえも、煩わしい。
 ナマエは異母弟の言葉も無視して、瞼を伏せた。




 劉備一行が賓客として迎えられて、暫らく経ったある日の事。
 それは唐突だった。
「劉備様が、新野に――?」
 ナマエは、その報せに目を丸くした。
 曰く、父が劉備に新野の城を居住として与えたらしい。いつまでも居候の身では、心苦しいだろうという劉表の配慮であったが、劉備は、多くは無いが有能な兵を有しているから、北からの守備も兼ねてという魂胆も少なからずあったことだろう。
 というわけで、劉備一行は急遽新野へと移り住むことになったのだった。
「はい。ですから、姫様にはお見送りに、と」
 劉表様が、と梅林は言う。時間は余りないと、ナマエは慌てて支度に掛かったのだった。

 護衛に付き添われて城門へ着くと、既に皆揃っていた。劉備軍の大半の兵は、既に城外にて待機しているようだ。
 ナマエは、頭に被った薄物ごしに、居並ぶ人々の顔を見渡す。劉備の傍らには天明、その脇を張飛関羽、そして、後方に控えているのは、――趙雲だった。
(趙雲殿……)
 その凛々しい武者姿を目にした途端、何も考えられなくなった。
 劉表が何かを言い、劉備が穏やかに笑う。天明が兄と挨拶をして、そのあとにナマエと言葉を交わした。何を言ったか覚えていない。多分、「文を出します」とか「遊びに行きます」とか簡単な挨拶だろう。
 その傍らで、これは別れの場面なのだと徐々に頭が理解してきた。無論、永久の別れではないが、しかし新野に移るという事は、ナマエにとっては限り無く遠い存在になってしまうということだった。
 ナマエは紗越しに趙雲を見つめる。まさか、これが最後なの? そう考えると、どうしようもなく胸が熱くなってきた。
(趙雲殿――!)
 離れたくない。傍に居て。思い切り我儘を言って、彼を留めたかった。彼は父の配下にならないだろうか、そうしたら一緒に居られるし我儘だって聞いてもらえる。そうだ、そうしよう。父は渋い顔をするかもしれないが、そんなの関係ない。
 趙雲が、傍に居れば、何だって我慢できる、……嫌われていたって構わない。
 ――そんなのあり得ない。
 一瞬抱いた都合の良い夢に、ナマエは力なく肩を落とした。分っている。彼は、頑固者だ。たとえ権力でねじ伏せようとしても、安々と従いはすまい。それよりも、そんな事をして益々嫌われてしまうほうが、ナマエにとっては一大事だ。
 大人しく、見送ろう。そう心に決めて、ナマエはじっと趙雲を見つめた。涙がほろりと一粒落ちた。失恋の涙だろうか。どちらにしても、頭を覆う薄物のおかげで周りに気付かれずに済んだ。
 ナマエが泣き声を押し殺しているうちに、挨拶が済んだのだろうか、劉備が拱手し、馬の元へと歩み寄った。それを追う趙雲がナマエをちらと見たような気がしたが、それは一瞬だった。ナマエは、最後まで趙雲に声を掛けられなかったのだ。
 嫌われているのだから、声をかけたって迷惑だわ……。そう、諦めて俯いた時。
「あっ」
 背後から風がびょうと吹き、ナマエは咄嗟に頭の薄物を手で抑えた。そうしたら今度は、あっという間に領巾が攫われ、こともあろうにそれは趙雲の足元に着地した。
 なにも、彼のところに落ちる事もないだろうに。ナマエは言葉を失って、飛んでいった領巾を見つめた。そして次に思ったのは、どうか、彼がそれを無視してくれればいい、拾わないで放っておいて欲しい、ということだけだった。
 けれども同時に、拾い上げてくれはしないかと、熱烈に期待してしまう。
 趙雲が取ったのは、……後者であった。
(――ああ)
 綺麗な領巾を拾い上げた趙雲がナマエを見る。
 ――鋭い瞳、ナマエを何処までも熱くさせる、その瞳。
 不意に、ナマエは初めて趙雲に出会った時に戻ってしまったような錯覚に陥った。
(いや、来ないで。――泣けてしまう)
 だから、近付いてくる趙雲に、堪らず踵を返して逃げ出してしまったのも、仕方の無い事だった。
 取り残された趙雲は、領巾を握り締め、去っていったナマエに茫然としていた。
 ――今度は、捕まえる事は出来なかった。

 一人飛び出した妹のあとを追ってきた劉琦は、膝をついて肩を震わせているナマエを見つけると、慌てて近寄った。人気に気付いたナマエがびくりとして振り返ると、劉琦ははっと息を飲んだ。
「兄様」
 ナマエの瞳から、とめどなく涙が零れ落ちていく。
「小妹、お前……」
 言葉を失う。劉琦は、恋に苦しむ妹を優しく抱きしめてやった。すると、耐えていたものが外されたかのように、声が漏れていく。劉琦は静かに、その背を撫でてやった。
 あの男に、どうしようもなく恋をしているナマエが、せめて安らぐように。





 それからひと夏が過ぎ、収穫の季節を迎える。
 あれから、天明とは何度か文のやり取りをしている。先立って、劉備はなにやら軍師を迎えたらしい。諸葛亮という人物で、隆中にて隠遁生活を送っていた賢人だそうだ。その方の策により、随分と軍に統制感がでてきた、などと天明らしいことが書かれていた。文中に、趙雲のことも時折書かれていて、ナマエの胸を切なくさせた。
 劉琦は何度か劉備の元へ足を運んでいるようだった。天明に会いに行っているのだろうかと思ったが、違うようだった。前に見た光景――天明と二人でいた事は、単なる偶然だったらしい。
 趙雲からは、当然のように何の音沙汰も無い。ナマエは、侍女伝いで返された領巾を、ぼんやりと眺めることが多くなった。

 そんな折である、江夏にて戦が起こった。孫権が攻めて来て、江夏太守黄祖はそれに敗れた。守護の無くなった江夏に誰か寄越さねばならなくなり、その後任にと願い出たのが劉琦であった。
 あれほど慕った兄が、傍から居なくなる。ナマエは今度こそ絶望した。
「兄様、どうぞわたくしもご一緒させてください」
 別れの時にて、とうとう耐え切れず縋ったナマエの姿に、劉琦は苦笑するしかない。
「莫迦な事を言うのではない。時折顔を見に帰るから、そんな悲しい顔をするな、可愛い小妹」
 そうしてやんわりと宥め、今度は傍らにいた劉琮へと振り向いた。ナマエを気遣わしげに見ながらも、少年の瞳は別れの悲しみに沈んでいる。劉琦は、ふっと微笑んでその小さな頭を撫でる。聡明な異母弟と言えども、まだ幼い少年なのだ。劉琮に触れる劉琦に、蔡夫人が忌々しげな視線を送ってきたが、彼は気にしなかった。
「賢弟。父上と、このお転婆を頼んだぞ」
「兄上……、はい!」
 劉琮は、兄の言葉に頬を染めて力強く頷いた。
「お前は賢いが、少々周りに流されやすいからな、気をつけておけ」
 諭すように言えば、劉琮は素直に頷く。元々、兄弟の仲は悪くは無かったのだ。それが、後継者問題で、互いに疎遠になってしまっただけのこと。それだけなのに、なぜこんなにもバラバラなのか。
 自嘲し、劉琦はナマエを梅林に預け、劉表へと挨拶をした。
「父上、それでは」
 うむ、と大儀そうに劉表が頷く。家族が見送る中、若武者は颯爽と馬に乗り、駆けていく。
 ナマエは、ただひたすら、その姿を見つめていた。
 とうとう兄も、ナマエの元を去っていってしまった。




 ――突き抜けるような青空を、ビュ、と一振りの槍が断ち切った。
 一心不乱に槍を振り回すのは、趙雲であった。何かを振り切るように鍛錬に臨む姿は、その冴え冴えとした槍術とは裏腹に、まるで何かに苦悶しているようでもあった。
 己から逃げ出したナマエの後姿が、瞼にこびり付いて離れない。別れの時に、趙雲を拒絶したナマエ。あれから幾月が経ったが、未だあの時の光景が頭に巻きついて離れないのだ。それを振り払うべく、暇があれば鍛錬に勤しんだ。だが、槍を振り無心になろうとすればするほど、脳裏に浮かぶのは唯一人の娘の事で。
 別れであるというのに、趙雲のことなど見えていないかのように振舞っていたナマエ、思えばその前に会った時も、己が差し出した手を突っぱねられたような気がする。ナマエの拒絶はつまり――。
 ああ、己もとうとう呆れられたのか、とそれに気付いて自嘲が浮かぶ。あたり前だ、好いた男にいつもあんなに冷たく振舞われれば、大抵の娘は諦めるだろう。そして、もっと相応しい男の元に――。
 そう考えた時、ズキリと胸が痛んだ。胸の痛みの原因は、もう分っていた。だが、敢えてそ知らぬ振りをする。
 ナマエは元々趙雲にとっては高嶺の花。だからこれでよかったはずだ、と胸の痛みを無視し、趙雲は己を納得させようとした。これは望んだ結末の筈だ、だが、趙雲のナマエへの振る舞いは予想以上に功を奏したのか、諦める以上にナマエに嫌われてしまったかもしれない。趙雲の姿を見て、怯えるように逃げだしたナマエ。それが、思った以上に趙雲に衝撃を与えていた。己を純粋に慕ってくれた少女に嫌われるのは、さすがに堪える。
 ――我ながら未練がましい。
 嫌われるのは自業自得とはいえ、趙雲の態度はナマエのためを思ってのこと、仕方の無かったことなのだ。けれども、やはり……。
 と、趙雲は一人押し問答を悶々と続ける。考え込むのはやめようと鍛錬に精を出せば、吹っ切るような彼の槍術にはいつも以上に気迫に満ち、鍛錬に付き合った同僚も、何をそんなに力んでいるんだと呆れ返っていた。ゆえに、趙雲は一人で型をなぞっていた。邪念を排し、ただ無心に槍を振るう、……つもりが、やはり脳裏に浮かぶのは少女の面影で。
 くそ、と内心で悪態をつき、破っ、と槍を振り下ろした、その時。
「――趙雲」
 劉備の声だ。主の声に直ぐに気がついた趙雲は槍を下ろした。背後を振り返り主の姿を捉えると、すっと片膝をつき拱手する。それを劉備が許し、趙雲は再び立ち上がって主に向き合った。
「殿、どうなさいました」
 そう問えば、劉備が少々真剣な表情で趙雲を見た。
「そなたに護衛を頼みたいのだが」
「無論、喜んで。して、どちらまで」
 直ぐに諾と頷くと、劉備は何故か歯切れ悪く続けた。
「あー、劉表殿のところへ、――ご息女に関して話があるとか」
「!?」
 思わず取り落とした槍が、ごつっと足の小指を直撃し、趙雲は声もなく悶絶した。






「開門ーっ!」
 ごおお、と地響きのような音とともに、門が開いた。
 劉備、諸葛亮、関羽、そして趙雲と幾人かの護衛が、荊州城に入城した。ここに張飛が居ないのが、不思議に思える顔ぶれであったが、趙雲は何も訊ねなかった。城下を通って、城へと至る。相変わらず、街は活気に満ち溢れていた。
 無事に城へと到着したが、奥へと通されたのは主君と軍師、そして関羽だけだった。すまぬな、と申し訳なさそうな表情を浮かべた劉備は、「暇ならば城下の見回りにでも行くがいい」と言い残して奥へと消えた。残された趙雲率いる数人の護衛は手持ちぶさたな様子で城をぶらぶらとし、知り合いを見つけては談笑していた。
 趙雲は一人、ぼんやりと城の中を歩き回る。途中、庭園を見つけてそこに降りた。無意識に周りを見渡す、――誰か、居ないかと思って。
(いかん、いかん)
 はっとする。そして、己が今まで無意識に誰を探していたのか気付いて、頭を振った。莫迦だな、と呟く。あの時のように、そう、都合よく会えるわけがない。
 ここでもまた物思いに耽りそうになった趙雲は、城下に出ることにした。


 そうして城下に出かけた趙雲だったが、賑やかな市場でちらと視界に過ぎった姿に、まず己の目を疑った。
 まさかと、見間違いではないかと目を擦る。
 ――しかし消えない。
 次は、人違いではないかとじっと目を凝らした。
 ――やはり本人だ。
 次の瞬間、趙雲はこみ上げてくる喜びと高揚感を抑え切れなかった。
 もう何も考えず、大急ぎでその人の元へと向かう。その小さな横顔に声をかけようとした瞬間、しかし突如出て来た強面の男にがっしりと肩を掴まれた。
「何者だ?」
 彼女の護衛か。趙雲は、掴まれた手をゆっくりと退かした。
「怪しい者ではない。私は……」
 と、名乗ろうとした時。
「――趙雲殿!?」
 高い声が、趙雲の名を呼んだ。思わず顔が綻ぶ。これこそずっと聞きたかった声だと、耳が喜んでいるようだ。
 その声の主、ナマエは、趙雲の登場に度肝を抜かれしばし口をぱくぱくとさせていた。が、直ぐに我に返って、護衛が趙雲の事をどうすべきか戸惑っているのに気付き、慌てて離すよう言う。
「その方を放してあげて。大丈夫よ、知っている方なの」
 そう云うと、護衛は心得たものですっと一礼して背後へと下がる。
 ナマエはそれを確認して、気まずげに趙雲を見上げ、そして何故か困惑した表情でふいと視線を外した。趙雲がそれを意外に思っていると、ナマエはそのまま市場を逍遥しはじめた。
 その横顔はまるで元気が無い。萎れた花のような印象だ。
 趙雲はその様子にぴくりと眉を動かし、あたり前のように彼女についていくと、ナマエが趙雲を気にしたように一瞥した。
「姫君、ここで、一体何をなさっているのだ?」
「――べ、別に」
 足を止めぬまま問うと、躊躇うような声が返る。
「よもやお忍びではございますまい。守役の劉琦殿が居なくなったからといって、好き放題しているのでは?」
 少々意地の悪い言葉に、ナマエは思ったとおりぴたりと歩みを止めた。くるりと勢い良く振り返って、「ちょっと!」と憤慨したような表情を僅かに見せるも、すぐに覇気が失せた。
「良いじゃない、わたくしが何をしようと、わたくしの自由だわ。貴方には関係ないもの」
 そう言って、またくるりと前を向いて歩き出す。趙雲は、「そうですか」と言っただけで、また同じように歩き出した。
 しばし、無言で歩く。市場には目を引く物が並べられ、商人が威勢良く客引きをしていたが、ナマエは何故かそれらに一切足を止めないでひたすら真っ直ぐ突き進んでいた。
 ゆらゆらと揺れる髪の間から、ちらちらと見える形の良いナマエの耳。それが真っ赤に染まっているのに気付いて、趙雲はくすりと笑った。それが聞こえたのか、彼女はちらと後ろを見る。
「……何故、ついてくるの?」
「別に、たまたま方向が同じなだけでしょう」
 消え入りそうな声の問いに、趙雲はさらりとそら惚けた。ナマエがきっと振り向いて趙雲を睨みつけるも、すぐにふいと前を向いた。
「か、勝手になさい」
 その声も、どこか勢いがない。趙雲は、精彩にかけるナマエの横顔をじっと眺めた。
「今日は、逃げ出さないのですね」
 聞こえないよう、ぼそりと呟く。
「え?」
「いえ」
 誤魔化しに、ナマエは不満そうな顔をしたが何も言わなかった。


 直ぐ後ろを歩く趙雲が気になってしょうがない。ナマエは、己の意思とは無関係にドキマギと高鳴っていく鼓動に頭を抱えつつ、早足で歩いていた。
 偶然とはいえ、なんでこんな。ナマエは悶々としていた。趙雲とはあんな別れをしたのだ、その手前、顔を会わせ辛いというか、――それ以前に自分は彼に嫌われているのかもしれないのに。
(……ついてこないで欲しいのに)
 だけど、また会えた事はやはりとても嬉しくて。ナマエの気も知らず、暢気にあとをついてくる趙雲が今ばかりは小憎らしい。
 ああ、もう、と頭を振る。後ろの存在から何とか気を紛らわせたくて、ナマエは目に付いた露店の親爺に声をかけた。
「ねえ、これは何ですか?」
 ナマエは並べられた商品の一山を指す。すると親爺は、にこやかにナマエを迎えた。
「おお、綺麗な小姐だ。これは、南方の国の珍しい果実で、綺麗になれるとかで若い娘さんに大人気なんだよ。ほれ、一つどうぞ」
「ありがとう。……ああ、美味しい。もう一つ、くださる?」
 瑞々しい果実は、今まで味わった事の無い物だった。ナマエは思わず顔を綻ばせる。気をよくした親爺がまた果実を渡すと、親切な方ねと微笑んだ。
 その時、薄汚れた子供が一人露天の台にかじりついて、果物をもの欲しそうに見つめているのに気がついた。おなかを空かせているのかと憐れに思ったナマエは、「あなたも少し頂いたら?」と無邪気に微笑みかけた。するとどうだ、その子供はナマエを見上げ、にこっと笑ったと思ったら、たちまちの内にぱぱっと幾つかの果物をくすね、あっという間に消え去った。その早業に「えっ?」と唖然としていると、親爺は憤慨してナマエを非難しはじめた。訳が分らないナマエは、私のせい? と首をかしげるが、親爺が言うには売り物を勝手に、しかも金も持って無さそうな子供なんかに勧めるな、だった。ナマエとしてはこの親爺が親切で果実をくれたのだろうと言いたい所だったが、世間の常識から見ればそれは限り無くずれている物だったらしい。これじゃ商売になりゃしないといわれ、これにはナマエも何もいえない。
「おいおい小姐、勘弁してくれよ、アンタ何処のご令嬢だよ。あの餓鬼が持ってった分、アンタ払えんのか?」
 えっとナマエはうろたえた。生憎金子は持ち合わせていない。かといって、私はここの君主の娘だとも言い出せない。
「ごめんなさい。わたくし、今お金をもっていなくて」
「小姐、こっちも商売なんでな、盗られた分は貰わねえと割りにあわねえ」
「でも、どうすれば良いの?」
 困り果てて首を傾げれば、親爺はちろりとナマエの耳を飾る玉に目をつけた。
「そうだな、それじゃあその耳飾と交換というのはどうだい」
「え、これ?」
 と、ナマエは耳元を抑えると、親爺が頷いた。ナマエが持っている耳飾の中でも一番小振りなそれは、実は劉琦から貰った大切な品だった。手放すなどととんでもない、が。
「でも……」
 ナマエは渋ったが、親爺が見逃してくれる筈も無い。仕方ない、これは自分が悪いのだ。はあ、とため息をついて、それを外そうとした時。
 ざ、と目の前に青い物が過ぎった。
「――失礼、小姐、こちらへ。小父、代金だ、とっておけ」
 その正体、趙雲は、じゃりと金子を親爺へと放り、鮮やかな手並みでナマエをその場から引き離した。ナマエが目を白黒させていると、趙雲はようやくこちらを見て、ふっと笑う。
 それにはっと我に返り、慌てて触れられていた手を払った。
「な、何するのよ。わたくしはまだあの方に用が――」
「そうか、貴女はもう少しであの男にカモにされるところだったのだが、どうやら助けは無用だったようですね」
 威勢の良いナマエに、趙雲はくつりと可笑しげに笑った。嘲笑のような笑みにむかりとしたが、彼の言葉にこそナマエはぽかんとした。
「え?」
「この耳飾一つだと、あれの十倍の価値はある。不当要求に応じる必要はない」
「……」
 ナマエは、言葉無く耳飾に触れる。しばし考え込むように目を伏せると、おもむろに耳飾を取り外した。
「助けて頂いて感謝します」
 そう言って、趙雲を見上げる。しかし、直ぐに目を逸らした。
「でも、親切心でしてくださった事なら、放っておいて欲しかったわ」
「なに?」
「嫌いな者を助けても、あまり気分の良いことでもないでしょう」
 ……は? 今のは何か、聞き違えただろうか。
 趙雲が一人混乱していると、ナマエは先ほどの謝礼とばかりに彼の手に耳飾を押し付け、もう用は無いとばかりに立ち去ろうとする。趙雲は、慌てて彼女を押し留めた。
「――ちょっと待て」
 間を置いて、ナマエの顔をじっと見つめる。
「嫌いって、一体誰が、誰を?」
 確認するようにゆっくりと問うと、ナマエは眉宇を顰めた。
「誰がって……、趙雲殿が、わたくしを」
「――嫌っていると?」
 信じられない、そう言いたげな趙雲の表情に、ナマエは堪らず声を荒げた。
「そうではないの? だって、わたくしったら、しつこいし、我儘だし、根暗だし、そんなに綺麗でもないし」
 ――根暗? 綺麗じゃない? 一体誰が? 誰を嫌っているって?
「ちょ、ちょっと、ナマエ殿!」
 趙雲は訳がわからなくなって、再び待ったをかけた。
「一体誰に教わったんですか、根暗なんて言葉」
「誰って、侍女から」
「あなたが、根暗?」
 趙雲が呟くと、じとりと睨まれた。
 直ぐに「いや、失礼」と言い、再び茫然とナマエを見て、……いる内に、だんだんと可笑しさがこみ上げてきた。ゆがみそうになる口元を手で覆うも、愉快な気分は漸う堪えきれなくなり、とうとう趙雲は声を上げて笑っていた。
 ああ、もう、この娘には敵わない。
「趙雲殿!?」
 ナマエがぎょっとする。
「ああ、愉快だ。全く、あなたには、ほとほと参った」
「どういう意味ですか」
 ナマエがむっとすると、益々笑いがこみ上げてくる。
「どうにもこうにも……。劉表殿の姫君は、随分噂と違うらしい」
 くつくつと笑いながらそう云えば、ナマエは途端に身を縮込ませた。噂とやらが、怖いのだろう。
「噂って、一体どんなものを聞いたの?」
 趙雲は少し意地悪げに笑って、巷で聞いた詩を詠んでみせた。
「”そは牡丹の如き麗しさ、その声凛とし美酒に酔うが如く、斯くも天に寵愛され、まさにこれ龍の華なり”……――」
 わあ、と声をあげたのは、ナマエだった。
「も、もういいわ十分よっ! 聞いていられないっ」
 ナマエは「なんでそんな噂が……」と、泣きそうになりながら頭を抱えている。
「しかし、あながち間違いではない」
 ナマエの横顔を可笑しげに眺めつつ、趙雲はぽつりと零す。彼女はその呟きに勢い良く振り返り、趙雲を凝視した。
「あなたには混乱させられる。劉の華と、今目の前に居る小姐、一体どちらが本物なのです?」
 眩しそうに目を細めながら問えば、ナマエは何故か恥ずかしそうに頬を染めた。
「どちらもわたくしよ」
 ふい、と彼女が照れ隠しのように横を向く。その耳が真っ赤なことに気付き、趙雲はふっと笑みを漏らした。
「……嫌いではないですよ」
「え?」
ナマエ殿のことは、別に嫌いではない」
 振り返ったナマエは、趙雲の台詞に変な顔をして押し黙った。趙雲は構わず、先ほど押し付けられた耳飾を彼女の手に返した。ナマエは返されたそれを、むっと見つめる。
(別にって、何よ)
 一言多いのよ大体さっきから人のこと笑って失礼じゃないの貴方は、と思うがまま言ってしまいたかったが、何故か趙雲が今までになくやさしい表情を浮かべているせいか、ナマエはぐっとそれを飲み込んだ。
 嫌いじゃないという趙雲の台詞が、ナマエの心を驚くほど軽くしていた。それに、先ほどからの趙雲の様子は、今までとは打って変ったように柔らかで、あのとっつきにくい所がなくなった様な気がする。まるで、二人の間を隔てていた壁がなくなったようだった。何故かは分らないが、しかしそんな事はどうでもいい。
 穏やかな午後、趙雲と二人で街を散策。それは夢にまで見ていた光景だ。
 ――ああ、今なら本当に空を飛べるかもしれない。

 と、突然後ろの趙雲が歩みを止めたので、慌ててナマエは振り返った。
 見れば、なにやら露店に並べられた装飾品を、熱心に見ているではないか。その内の一つ、珊瑚があしらわれた上品な色合いの櫛を手に取ると、迷いもせずに購入する。
 布に包まれていくそれを一瞥し、ナマエは呟く。
「綺麗な櫛ね」
(一体誰への贈り物かしら?)
 当然ながら抱く疑問。
 しかし、ナマエは訊ねなかった。少なくとも、自分への贈り物ではないとは分っていたし、そうである以上迂闊に訊ねてしまえば、傷つくのはナマエだ。
(天明様へ贈るのかしら?)
 そうして、ぱっと脳裏に浮かんだ少女の姿に、ふうと嘆息した。
 ああ、天明だ。趙雲が装飾品を贈るとしたら、相手はあの少女しかいまい。ナマエは、少しだけあの万人に愛される少女を恨めしく思った。
「天明様は、お元気?」
「ええ、相変わらずです」
 そう答えた趙雲に、ナマエは少し翳りのある笑みを浮かべた。
「……私、天明様が少し羨ましいわ」
「え?」
「だって容易く貴方に好かれるんですもの。今度、秘訣を教えてもらおうかしら」
 え、と趙雲はしばし言葉を失う。
 ナマエはそんな彼の反応を見て、しまった、と思った。あんな台詞、醜い嫉妬以外なんでもないではないか。呆れられたかもしれない、と思った瞬間。
「――馬鹿な事を、仰るものではございません」
 硬い声が返ってきて、ナマエは思わず情けない顔になった。趙雲の顔を、見上げられない。

 穏やかな雰囲気は、一変してしまったようだった。ナマエはそれを惜しく思う。だが、失ってしまったものは、容易に取り戻せはしなかった。
 その後、ナマエは護衛に促がされて城へと戻った。趙雲もついてきてくれたが、途中、言葉を交わすことはなかった。
 回廊で別れた趙雲の背を、ナマエは切なげな瞳で見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「あなたが、好きよ」
 でも、中途半端に優しくなんかしないで。
 ――悲しくなるから。




「――どうした? 趙雲」
 城下から戻った彼が、先ほどから暗い表情を浮かべていたのに気付いた劉備は、気遣うように声をかけた。すると趙雲は、はっと顔を上げ、そしてやはりどこか暗い表情のまま力なく微笑んだ。
「いえ……、殿、今ばかりは少し……、主騎である己が身を口惜しく思っただけです」
 趙雲……、と、劉備は苦悶の表情を浮かべた。
「お前が望めばいか様にでも、私よりも真っ当な君主にも仕えように。……私に構わずに行っても良いのだぞ?」
 主の慈愛に、趙雲は瞠目した。そして、己の失言を恥じるように、さっと膝をついて頭を下げる。
「つまらぬ事を口にしてしまいました、お許しください。――殿、私は、劉備殿に仕えられる事こそが、私の幸せなのです」
 このどこまでも優しい主を哀しませてしまったことを、趙雲は深く後悔した。許して欲しいと見上げれば、劉備はどこまでも穏やかに趙雲を受け入れる。
 ああ、と目を伏せる。
 この方を守るためならば、どんな事でも厭わないだろう。

 だが、今。
 それすらも凌駕する存在が、今、彼の身の内に生まれようとしている。
 煌くそれは、皖のそれに似ていて。
 迸る情熱は、炎の如く。
 その名は――。




※年代は大分端折ってあります。