暁の皖・四





「――私、恋をしたみたい」

 困り果てた表情を隠さぬまま、そう梅林に云ったら、何を今更という白い目で見られた。
 それで、どうやら気付いてなかったのは自分だけらしいということに気がついた。けれどもそれは、気付いていない者にしてみれば、やはり心外なのには変わりない。
「趙雲殿にも気付かれていたのよ」
 吃驚よね、と云うと、梅林は肩をがっくりと落とした。
「じゃあ、気付いてなかったのは姫様くらいですね」
 呆れた溜息に、だって仕方ないじゃないかとナマエは言い返したくなる。ナマエにとっては初めての恋なのだ。それゆえ感情が先走り、理性が追いついてこない状態だとしても仕方ないことだろう。だが、それこそ恋という感情の特性だ。彼女にとっては、そうかこれが恋なのか、という感覚なのだ。
 ナマエは、はぁと溜息を付く。初めての感情に、戸惑いを隠せない。
「恋って、……苦しいものなのね。もっと、ずうっと甘いものかと思っていた」
 何を甘ったれた事を、と梅林は思った。しかし、今まで何不自由ない暮らしで、欲しい物は直ぐに手に入れてきたナマエにとっては、初めての越えられない壁なのだろう。いわばはじめての挫折に、どうして良いか分らない初心な娘のそのものの反応に、梅林の中で悪戯心が顔を出す。
「そうですよ。恋はね、姫様が思っているより、ずーっと苦しくて切ないものなんです」
 うっとナマエが情けない声を出す。今でも十分苦しいのに、もっとだなんて、一体どんな感じなんだろう、と想像するだけて苦しくなるようだ。
 恋。劉表の娘が、一介の武将に恋だなんて。ナマエはそれこそ、今の状況について梅林が考えるよりもずうっと重く考えていた。彼女にとっては、恋=劉家の名を背負う重み、なのだ。それこそ軽々しく出来るものではない。
 しかし、一度起きてしまったものは修正は利かない。後悔先に立たずとはよく言ったものだ。ナマエは、趙雲との出会いを後悔こそしていないものの、浅はかな自分の行為を後悔した。それによって苦しい思いをするなど、自業自得も甚だしい。
 と、悶々と一人頭を抱えるナマエを見かねたのは、梅林である。
「それで、どうなさるんです?」
「え?」
 顔をあげてきょとんとした無知な少女に、侍女は苦笑して続けた。
「恋。諦めるのですか?」
 ナマエは、その問いに躊躇った風だった。ややあって気弱げに。
「……諦めた方がいいかしら?」
 ほつりと、呟く。
「さあ。姫様のことですから、姫様がお決めになってください」
 いつになく辛辣な梅林の言葉に、ナマエは益々萎縮した。そっぽを向いた友人を、気遣うようにナマエは見遣る。これでは、どちらが主人か分らない。
「……父上が許すはずないわ」
 ややあって、弱々しくナマエは目を伏せる。
 しかし、いつになく気弱なナマエの発言にも、梅林は同情を示す事はなかった。
「結構。では、諦めるのですね?」
 えっ、とナマエは焦った。これは、甚だナマエにとっては予想外の言葉だった。梅林は長年のナマエの友人だ、それゆえナマエが気弱になれば励ましてくれるし、冷たく突き放す事など持っての他だ、と絶対的に信じていた友の厳しい言葉は、しかしナマエの心を傷つけることなく、逆に彼女の心を煽りさえもするものだった。
 僅かの間、茫然としたナマエであったが、しかし見る見る間にその瞳が闘志に燃えていく。その心は、打倒趙雲……もとい、目指せ趙雲の恋人の座、というところか。
「――いいえ」
 すっくと立ち上がり、ナマエは拳を握った。きっと鋭く見据える姿は、とてもじゃないが他の人には見せられない。
「絶対に諦めないわ! 絶対、絶対勘違いなんかじゃないもの!」
 そう気合をいれ、華と謳われた姫君は足音荒く室を出て行く。
「あっ、姫様どこへ……」
 その梅林の問いかけも虚しく、既に主人の姿は扉の向こうだった。護衛がそれを追っていったのだろうか、数人のやかましい足音が続いた。
 どこへ、と問う方が愚かしい、恐らくかの姫君は恋しい人に会うために駆けて行ったのだろう。我が主ながらまるで猪のようだと梅林はくすくすと笑い、しかし不意に開いた室の扉の向こうに、護衛の者に付き添われた元気なさげなナマエの姿を見つけて、はて? と首をかしげた。
「あら、随分お早いお帰りで……姫様?」
 問いかけに、返事はなかった。
「もしや、趙雲様と会えなかったのですか?」
 ナマエは、ふるふると顔を横に振る。その様子では、恐らく趙雲を見つけられたのだろう。しかし、一体なにが、と疑問に思っていると、ナマエは随分さめざめと顔を覆った。
「彼の姿は見かけたわ。見かけたけど……、こ、声、掛けられなかったの……!」
 恥ずかしくて、とナマエは顔を赤くしてうめいている。これで相手が男ならば、甲斐性なし、とつっこんでいただろう、と梅林はつくづく思った。まったく、あの天真爛漫な姫が、恋一つでここまでしおらしくなるとは。
「まっこと、恋とは人を変えますものね……」
 しみじみと、梅林は呟いた。






 さて。
 ――今日も今日とて、空は青い。
 その空とは裏腹にここ数日モヤモヤした日々を送っていた人物が一人。名を、趙雲。言わずと知れた、劉備の若き主騎だ。胸を覆う、もやもやの原因は己でも嫌というほど分っている。しかし己一人ではどうにも出来ないゆえ、どうにも出来ずにこうして手をこまねいているのだった。
 今、彼は君主の一人娘である天明の元に、主からの用事を伝えに向かっているところである。彼らが住まう城は仮初めのもの。現在はそこの一角を借り切っているのだが、その城の主は劉表、流石は大陸に名を馳せる者の居住に似つかわしく、そこは壮麗たるものであった。
 その、彼ら武将に与えられた室よりさらに奥まった場所、そこにたどり着いた趙雲は、入口ですっと拱手した。室の中の人物が、彼に気付いて身じろぎしたようだった。
「天明様、失礼します――……!?」
 と、声をかけ、入室早々、趙雲の目にその場にいる筈のない人物が飛び込んできて、派手に固まった。対する、趙雲予想外の人物――ナマエは、やはり彼女も驚いて困惑した表情を露呈していた。
「あら、趙雲」
 室の主、天明はしかしただ一人おっとりとした反応を示す。固まる趙雲を、何の用かしら、と促がした。それに、はっと我に返る。
「殿が、お呼びとのことですが……」
「あら、何でしょうか。お父様ったら、間が悪い。趙雲、悪いけど、少しの間ナマエ様のお相手をしてあげて」
 天明のマイペースさは、時に最強のものとなりうる。それは今回も例外ではなかったようで、天明の言葉に、はっ!? と甚だしく焦燥と反抗を試みた趙雲の思惑は、しかして天明の思い通りとなる。つまり、趙雲は、もやもやの大原因であるナマエと一緒に、僅かとは言え二人きりで時を過ごす事になってしまったのである。そしてそれは趙雲にとっては、もやは僅かとは言えず、いつまでも長く続く拷問のような時であった。
 ああ、自分ではなく違う誰かに頼んで劉備の言伝を伝えて貰っていれば、と後悔するも時遅し、さらりと衣擦れの音を立てて出て行く天明を茫然と見送り、果たして趙雲はナマエと二人きりになってしまった。こくりと嚥下し、ちらりと戸惑うナマエを見遣る。その無防備な表情に、ああもう知らんぞ、と少し自棄になった。
(どうしようどうしようどうしよう……!?)
 対するナマエも、どうしていいか分らないといった表情でちらと趙雲を見、そして顔を染めて俯いた。離宮での出来事から幾日も経っていない、さらにはじめての恋を自覚したばかりである。先日梅林に「諦めないわ!」と大見栄を切ったとはいえ、少女の心は大いに戸惑いと恥じらいに満ち、満足に好きな人を見ることすら出来ない。同じ室、同じ空気を共有することすら、彼女を呼吸困難に陥らせさえする。
 沈黙が続く。それは決して、心地の良いものとはいえなかった。
 しばし後。
「あの」と、ナマエはひどく遠慮気に声をかけた。恋の自覚はどうやら恥じらいと大胆さという二つの相対する感情を与えるようで、その己の行為に趙雲はおろかナマエ自身ですらも驚いたように体を震わせた。趙雲がナマエを見ると、再度「あの」と戸惑い、小さな声で続けた。
「趙雲殿も、お暇ではないのでしょう? わたくしに、構う必要はありませんよ」
 それは、彼女にとっての最大の譲歩であった。遠慮しているとか怯えているとか、普段の趙雲であればそのナマエの心情を冷静に読み取れたであろうが、しかしそれが出来ないほどに彼自身も己の感情に飲み込まれていた。だって、あれほどに冷たく拒絶をした少女に、目の前でいたく恥らった様子で座られては。仕方ないのだと拒絶した彼女の好意は、再度目の前にして落ち着かないというよりは、思わず懺悔して許して欲しいと云ってしまいそうになる。ナマエの遠慮は、すでに彼にとって歓迎すべきものではなくなっていた。ガツリ、と鈍器で頭をなぐられたような衝撃が走る。
 ――要は、つまり彼は彼女にそう言われて、ショックだったのだ。
 彼が彼女をどう思っているか、気付きもしないのに。ショックを受けた事実だけが、彼をある行為に走らせた。つまり、無言の抵抗。
 ナマエは当然戸惑った。趙雲にとって、自分は会いたくない人物の筈だ、けれど何故か、怒ったような表情は浮かべこそすれ、一向に出て行こうとはしない。
「趙雲殿?」
「天明様に、相手をせよと言い付かっておりますゆえ」
 ナマエとしてはそんな理由でここにだらだらと居られたくはない。どうせならば、自分がナマエと一緒に居たいのだという理由がよかったが、目の前の趙雲にそれを望むのは酷な事であった。どうせまた、天明様がどうとか言うのだろう。考えていく内、ナマエは面白くない気分になってむっと口を尖らせた。
「そんな理由で居られたくないわ」
「仕方ありません。ですが、云い付けられた以上反する事は出来かねます。今しばらくのご辛抱を」
 むかむかっ。趙雲の言い分に、ナマエは何か胸中が熱くなったのを感じた。今、手元に何か持っていれば、間違いなくぎりりと力の限り握り締めていただろう。
「結構! では、相手をして頂戴。わたくし、退屈だわ」
 つんと横を見、言い放つ。頭の隅に追いやられた理性が、なんて横柄な態度だこれじゃ趙雲に嫌われる、と地団駄踏んでいたが、さっぱり無視した。
 趙雲は、しかしそんなナマエの態度にも動じなかった。いや、口を噤むことで、動揺することを封じたと言おうか。だから、口を開けば勿論その効力は切れ、皮肉やらなんやらが飛び出してくるというわけだ。
「今日は、……身軽そうな恰好ですね」
「え?」
 趙雲が云わんとしていることが分らなく、きょとんとした。
「先日は随分と着飾られていたようで。あの恰好を毎日というのは、いかに高貴な姫君とて流石に耐え難いと見受けられる」
 彼の言を聞いていたナマエの眉宇が、だんだんと険しく寄せられていく。
「……。それって厭味?」
「そう聞こえたのなら、そうなのでしょう」
「嫌な人っ」
 しれっと返す趙雲に対して、ナマエは憤慨した。
「わたくしだって、好んであんな恰好をしたいと思わないわ。支度に時間はとられるし、重たいし、歩きづらいし、苦しいし」
 趙雲は黙ったままだった。何も、「大変なんですね」とか労わりの言葉を期待していたわけではないが、何も云ってくれない彼に対し、ナマエの不満は募る一方だった。
「なんとか言ってくださらないの?」
「私には分りかねます事ゆえ。しかし、女人は少なからず、ああいう恰好を好むのではありませんか?」
 じっとナマエを見つめながら、問う。その視線に気付いたナマエは、先程までの憤りはどこへやら、今度は恥ずかしげに瞼を伏せた。
「……少なくとも、好きな人の前では、綺麗でいたいと思うわ」
 心持ち頬が赤い。やや切なげな表情はまさしく恋する乙女のもので、ナマエは趙雲を見上げた。
「趙雲殿、私は……」
 その続きを聞いてはいけない、言わせてはいけない、危機感を感じた趙雲は、しかしそう急かす理性とは逆に、凍りついたように動けなかった。
「わたくしは」
 ナマエが拳を握って顔をあげたその時。
「――お待たせしました、ナマエ様」
 さらさらと衣擦れの音とともに、室の主が舞い戻ってきた。
「て、天明様。お帰りなさいませ」
 相変わらずのほほんとした口調に、ナマエは出鼻を挫かれ肩を落とす。趙雲は平静を装おうとしたが、その顔が少し赤面している事に、天明は目敏く気付いた。
「あら……、お邪魔だったかしら?」
「い、いえ、そんなことは」
 にこり、と天明が微笑む。
「趙雲、お手間をかけてしまいましたね。ありがとう、もう下がってくださって結構ですよ」
「は」
 趙雲が短く答えると、「それとも」と天明は小首を傾げた。
「このまま趙雲も私達のおしゃべりに混ざります?」
 趙雲は苦笑した。分け隔てなく接してくれる主の姫は、欲目で見なくとも可愛らしい。
「いいえ姫、遠慮しておきます。私も、姫君たちの時間を邪魔するほど、無粋ではない」
 小さな頭を撫でた趙雲は、微笑んで一礼する。ちらりと横目で傍らを見ると、ナマエがぼんやりとこちらを見ていた。
 何故だか後ろめたい気持になり、真正面から見る事が出来ない。
「では失礼」
 背中に視線が当たった。誰だかは、考えなくともわかった。


 天明の室を辞した趙雲は、回廊の先で立ち止まった。
 おもむろに空を見上げる。
「十分、綺麗ですよ」
 先程、ナマエを前にして飲み込んだ言葉だ。そう言ってやりたかった。そうして彼女の手をとって、今までの非礼を詫びたかった。
 だが、――出来ない。
 どうしてか分らないが、己の胸中を恐れが走った。一体自分が何に恐れているのかさえ分らない、恐れだった。
「……ナマエ殿」
 何故か、分らないが。ひっそりと、余人に聞かれぬよう、その名を口にした。
(劉表殿の姫君、天子の血を引く娘……、――貴き劉の華)
 次に彼が前を向いた瞬間、その瞳は冷徹なまでに澄んでいた。






 良くも悪くも、ナマエは諦めの悪い娘であった。
 いや、生来の生まれの良さから、己の好意は絶対的なもので、決して人から無碍にはされないものだと信じているがゆえだろう。顔をあわせても、あいも変わらず素っ気ない態度の趙雲に、気落ちするどころか益々意気込んでくる始末。純粋といえば純粋すぎるナマエの想いを無碍にすることも出来ず、「私には姫君の想いを受ける資格はありません」などと最初はやんわりと断わっていたが、日々が経つにつれ、名物ともなりつつある二人のやり取りに、劉備もそれを聞きつけ、なんやかんやと興味津々で観賞しはじめている。それに頭を抱える唯一人憐れな男、趙雲は、このことが噂になりつつあると危惧し、ついに強硬手段に出たのだ。
 ――つまり、ナマエを見かければ一も二もなくトンズラするか、問答無用で帰れと促がすか。
 しかしナマエもそれに屈する姫君ではない、それどころか趙雲に対抗して、日に日に意地を張って高慢な態度になっていくばかりだ。「お帰りください」「嫌です」とのやり取りから始まり、ついには「無礼な、わたくしに命令をするのですか!」と、彼を侮辱する言葉さえ吐いてしまう。そして決まって趙雲は、どこかやるせない表情で「それは失礼を致しました」と他人行儀に謝罪し、去っていってしまうのだ。それを、ナマエは追うことも出来ず、趙雲以上に傷ついた表情を浮かべて見送るのだ。ナマエだって本当は好いた人の前では素直で可愛らしくありたい、が、悲しいかな、姫としてのプライドが、他人の拒絶を受け入れる事を拒むのだ。
(それもこれも、趙雲殿が頑固なのがいけないのだわ)
 己の非を認めたくない余りに、無理矢理にそう思い込ませようとする。だが、切ない胸の内はそれを安々と受け入れはしなかった。「ごめんなさい」と素直に一言言ってしまえればよかった。けれど、上にある者は、軽々と謝罪を口にしてはならないのだ。ナマエは、つくづくプライドを捨てきれない自分を恨めしく思った。
 ――ああもう、いっそ、断崖から身を投げる覚悟で、謝ってしまおうか。



 そうだ、謝ろう。謝ってしまおう。
 そう決意したナマエの行動は、意外と早かった。趙雲に会いに行くとはいっても、今回はナマエ独断のもので天明の協力は得られない。よって、まず護衛をどうにかせねばならなかった。普段城を散策する際に護衛としてついてこられるのは仕方ないが、それでも趙雲に会いに行くのにも付き添われたら、堪ったものではない。
 そこでナマエは侍女、兼、友人である梅林に協力を仰いだ。それに二つ返事で承諾した梅林とともに、なんとか護衛を出し抜く策略を練ること半刻、思いついたのはやはりナマエと梅林が入れ替わるというものだった。どれだけ考えてもこれ以上は思い浮かばない、案外自分の知能も役に立たないなとひっそりと涙を拭ったナマエは、気を取り直して梅林を高貴な姫君に仕立て上げるべく作業に取り掛かった。
 そして半刻後、二人の恰好は見事に逆転した。
 じゃああとはお願いね、と告げた侍女の恰好をしたナマエは、にっこり笑った梅林を見送った。中々姫君の恰好が似合っている。梅林は日差しを遮るための薄物を被り、室の扉を押し開ける。手には府庫から拝借した書物、その向こうに立っていた護衛をちらりと見遣って、何も云わずさっさと歩き出した。慌てたのは護衛で、薄物の中の顔を確認していないのにも関わらず、その少女がナマエであるとすっかり思い込んでしまったその男は「府庫に行かれるのですか?」と問い掛けた。ナマエに化けた梅林は心得たもので、声を出さずにこくりと頷いた。
 うまいものだわ、一部始終を見守っていたナマエは感心する。流石は長年ナマエの傍にいただけのことはある。身の振り方、歩き方はナマエのものと見紛う程であった。
 さて、と静かになった回廊を見渡す。邪魔な護衛は梅林が引きつけてくれて行った、ナマエはようやく本来の目的を果たすことが出来る。


 趙雲を求めて三千里――、もとい、趙雲を探す旅は、そう容易ではなかった。行ったら、必ず会えるわけでもないというのは分っていたが、それでも運を信じてナマエは探し回る。荊州城は、しかしナマエにとっては制約がありすぎ、そして広すぎた。
「もう、一体何処に居るのかしら?」
 半刻が経ち、そろそろ足が痛くなってきた。愚痴を零しつつ、ナマエは仕方なく人目のつかない場所を見つけて腰を下ろした。じんじんと痛む足をさすって、ふうと溜息を付く。そろそろ室に帰らないと、梅林が府庫から戻ってきてしまうかもしれない。そうは思っても、やはり諦めがつかないのか、ナマエは一向に室に戻ろうとはしなかった。
 やはり、そう何もかも上手くいく筈もない。はあ、と再度吐息をつき、ナマエは物思いに耽りはじめた。
 私はいったいこんなところで何をしているのかしら、足を痛くしてまでも探し回って、それほどまでにこの行為に価値があるものだろうか。それ以前に、ナマエが彼を好きでいるその益は? いや、益など求めているわけではないが、しかし得たい物はとてつもなく得がたく、そして得られるものといえば苦しみだけ。それでも好きなものは好きで。
 こんなの理不尽だ――、不意に立ち止まって考えた途端、何故だか急に弱気になり、つんと鼻の奥が沁みてきた。それでも涙を噛締め、己の足元から伸びる影をじっと見つめていた時。
「――姫君?」
 ざ、と土を踏みしめる音がして、ナマエは慌てて顔をあげた。
 そこには紛れもない、ナマエが探し回っていた人物が、不審げな表情で立っていた。その手には幾つかの書物、もしや府庫に行っていたのだろうか、だとしたら、なんて運の悪い。
 一方、侍女に変装しているのにも関わらず一目でナマエその人であると見抜いた趙雲は、彼女が何故こんなところで護衛もつけず一人でいるのかが分らないといったように、訝しげに眉を顰めた。己が何故、一目でナマエと分ったかなど、まるで気付いていないようだ。
「やはり貴女だったか。一体ここで何を?」
 厳しい口調で問いただされ、ナマエは一瞬「わ、わたくしは……」とまごついた様だった。しかし、直ぐに背筋をしゃんとただし、表情は貴人のそれとなった。
「わたくしは、趙雲殿に会いに来たのです」
「……」
 臆面もなく良く言う。趙雲は相変わらずのナマエに溜息を付きたくなった。
「――それで、何用でしょうか」
 趙雲の態度は、やはり素っ気無い。売り言葉に買い言葉とばかりに、ぴくりと米神をひくつかせたナマエはうっかりまた感情のままに振舞ってしまいそうになったが、それではいつもの繰り返しだと言い聞かせ、深く息を吸った。そして、できる限り穏やかに笑む。
「……今までのわたくしの無礼な態度を、謝りに参りました。謝罪を、受け入れてくださいますか?」
 言い切った瞬間、ナマエは思わず脱力しそうになった。やった、自分は言い切った。誰にともなくガッツポーズを振り上げたい気分であったが、しかしそれは冷やかな声によって呆気なく崩される。
「私は、あなたに謝られることなど何一つありません。よって、謝罪は受け入れられませぬ」
 ナマエは思わず瞬いた。今、この男は何を言った? 目の前には、無表情で立つ趙雲。
『謝罪は受け入れられませぬ』
 人が、決死の覚悟で言った台詞を、いっとうりょうだん、しやがった。ものの見事に、あっぱれ。天地が引っくり返った様な気がした。
 ナマエは唖然として趙雲を見ていた。その顔をじっと見つめているうち、だんだんと向かっ腹が立ってきて、目の前のすまし顔を無性に殴りつけたい気分に駆られた。同時に、思い切り泣きたい気分になる。
「……どっ、どうして、そう冷たくあしらうのです? 天明様には、あんなに、優しく接しているのに……。同じようにとは、望みません、け、けれど――」
 泣きたいのをぐっと堪えたら、しどろもどろな口調になってしまった。ああもう、情けないったら、とナマエは己を叱咤する。
「あなたは我儘だ。ご自分の立場を理解しておられない」
 しかし、辛辣な言葉は遠慮なくナマエに突き刺さる。ぐっと険しい表情になった趙雲は、何かを堪えるようにナマエの顔を凝視していた。
 趙雲の言葉に、ナマエは気が動転した。動転する余り、己が何を口走っているのかさえ、認知できなくなる。
「た、立場が、何だと言うの。私が、直々にあなたに会いに来ているのよ。そのような態度は、失礼だとは思わないの?」
 云った瞬間、ナマエははっと息を呑んで口をふさいだ。ああ、何て傲慢な台詞を、と後悔するも時遅し、青ざめるナマエを、趙雲は、それみろといわんばかりに視線を外した。
「少なくとも私は、貴女のような傲慢な女性と一緒に過ごしたいとは思いません。こちらから願い下げです」
 ナマエは言葉もなく、趙雲を凝視している。茫然としているのか、ぴくりとも動かない。
「お帰りください」
 趙雲は、そう告げて、座り込むナマエを立たせようとした。
(……嫌われた。きっと、嫌われたんだわ、私)
 ナマエの頭の中は、その考えで一杯だった。ぐるぐると廻る、趙雲の冷たい言葉、声、視線。
 己の稚拙な態度に、今度こそ愛想をつかされたのだ、どころか、嫌悪さえされたかもしれない。
(嫌われる、――趙雲殿に)
 そんなの、耐え難い。

 室までお送りします、とナマエに触れた瞬間、その人はびくりと震えた。何だと思って見てみると、大きく開かれた瞳には今にも落ちそうな程の滴が溜まっていた。趙雲がそれに驚いていると、今度は何故か反対にきっと睨まれ、呆気に取られている内に少女は彼の手をかいくぐり、どこぞへと走り去っていってしまった。
(どこか、泣ける場所へ行くのだろうか?)
 自分の知らないところで、ひっそりと涙を流すために。
 そう思った途端、趙雲は何故だか無性にあの娘を追わなければという思いに駆られた。
 だが、数歩進んだところで、立ち止まる。
 ――少女を抱きとめる腕を持たない己が、追えるはずがなかった。





「あ~あ、あの野郎、またやってやがる……」
 その一部始終を眺めていた影が、呆れたように溜息を付いた。影の正体は張飛。
「趙雲か」
 心配げな声が、背後から掛かる。張飛は腕を組んで、その声に頷いた。
 まったく、とその人――劉備は頭を抱えたい心地だった。
 ナマエの趙雲への恋心も、若いゆえだろう趙雲の頑なな態度も、最初は微笑ましく見守っていくつもりだった。
 だが、硬化し続ける趙雲の態度に、劉備は可愛い弟分の気持が分らなくなってしまった。彼は本当にあの少女を厭うているのだろうか。
「趙雲があそこまで女嫌いとは知らなかったな……やれやれ、しかも相手は劉表殿の娘。困ったものだ」
 劉備は米神を抑えた。相手が相手ゆえ、無碍にすることも出来ない。
「兄者、心配するこたぁねぇよ。ありゃあ、奴なりの照れ隠しだ」
 と、劉備の心配を他所に、張飛一人はのほほんと頭を掻く。その声に、劉備の傍らに立ったもう一人の男、関羽は、鋭い視線を投げかけた。
「翼徳、何故そう分る?」
「子龍の態度を見てりゃぁよく分かるさ。あいつが女相手にあんな態度を取る事が珍しいってモンだ」
 張飛は可笑しげに鼻を鳴らす。なるほど、と張飛の言葉に一理あると頷いた劉備は、おもむろに小さな趙雲の背を眺めた。気落ちしているのか、心なしかその背が丸まっている。
 ――女性には表面上は優しく、しかし一線は決して越えない。その態度が常である趙雲にとって、ナマエをここまで酷くあしらう事事態がそもそも可笑しいのだ。しかしそれを知ろう筈も無いナマエは、趙雲に向って憤慨するばかり。なんて冷たい人だ、と。……知らぬは当人ばかりか。
「……なるほど、好きな子には冷たく接してしまう、という理論か?」
 劉備の言葉に、張飛はにっと笑う。
「まったく、餓鬼だな」
 ぼそりと関羽が呟いた。呵呵、と笑い声が響く。


 ――三兄弟に散々に言われているのも知らず、趙雲はぼんやりと空を仰ぎ見た。