第十三話
誰がオフィーリアを殺したか・中篇





 夜半、ホメロスが急に部屋を訪れてきたのは、それから六日後のことである。来客を告げられた時、寝室のベッドで横になり枕元の灯りで本を読んでいたナマエは、当然ながら寝間着姿だった。非常識な時間帯の来客には一度はお断り願ったものの、相手は緊急事態だと言って引き下がらない。しかたがないのでシルクのネグリジェの上からガウンを羽織り寝室を出た。
 ナマエは応接間に入ってすぐ、部屋の中央に佇んでいる人の後ろ姿を認めてキッと非難の眼差しを向けた。
「こんな夜更けの訪問は、流石に無礼ではないですか。ホメロス将軍」
 つい口調が厳しくなってしまうのも仕方がない。もうすぐ、日をまたぐ頃だ。それに彼の求婚を断ったのもつい数日前で、本来ならば顔を合わせるのも気まずいというのに……。
 名を呼ばれ、こちらに背を向けて立っていた男は振り返ってさっと一礼した。ひとつにまとめた長い髪が、その動きに合わせて馬の尾のように揺れる。珍しいことに、その白銀の肩当ての上から毛皮の防寒具を纏っていた。
「まずはこちらの非礼をお詫びいたします、ナマエ様。しかし残念ながら、今はあなたのご機嫌を取っている時間がありません」
「な、」
 あまりの物言いに、流石にかちんときて気色ばむ。
「しっ、黙って。本当に時間がないのです。いいですか、よく聞いてください。手短にお伝えしますが、あなたは王に命を狙われています」
「なにを、……っ!」
 一拍遅れて、告げられた言葉を理解する。ナマエは息を飲んで目の前の男を見つめた。冗談だろう、と一笑に付すことはできなかった。先日の毒混入事件もあって、彼の言葉には信憑性がある。
 あの一件以来、ナマエは食事には必ず銀食器を添えるよう使用人に命じ、口にするもの一切に慎重になっていたが、後にも先にも毒の混入があったのはあの時の一度きりだった。少なくとも、いまのところは。
「陛下が……。そう、陛下が……」
 だからホメロスの言葉はすぐに理解できた。だがその口から告げられた人物の名にこそ、衝撃を受けていた。俯いて、その愛称を反駁する。声がかすかに震えていた。
 ならば毒殺を命じたのも、あの王か。
 ホメロスはナマエが気を取り直すのを待っていたようだが、言葉通り本当に余裕がないのか畳み掛けるように告げた。
「私は王より、あなたを手に掛けるよう命じられました」
「……!」
 ナマエは目を見開いて、ホメロスを凝視した。
 告げられたその言葉は大層物騒ではあったが、しかし不思議と恐ろしいとは思わなかった。目の前の人が今から自分を殺すようには到底見えなかったからだ。彼には他に別の目的がある。そうでなければ、わざわざこんな夜中に駆け込んでくる訳がない。そう思わせる何かがあった。
「……では、あなたは私を殺めにきたのですか?」
 何気なさを装って、しかし真意を探るように慎重に問う。
 ホメロスは束の間、真顔でナマエをじっと見つめた。まるでこちらの心の内を探るようなその視線に、若干の居心地の悪さを覚えたその時。
「――おっしゃる通りです。あなたには死んでいただきます」
 淡い期待はかくも儚く裏切られる。無慈悲な宣告にナマエはその場で凍りついた。まさか本当に、彼は自分を殺しに来たのだろうか? 足元から急に言いようのない不安感と恐ろしさが這い上ってきて、ぐらぐらと彼女の理性を揺さぶる。
 告げられた死の宣告に、ナマエは縋るようにホメロスの整った貌を見つめることしかできなかった。
 ふとホメロスがその涼しげな切れ長の目元を緩ませる。
「ふっ、ひどい顔をしていらっしゃる。ご安心下さい、死んでいただくのはいっときの間です。ナマエ様のことは、必ずやこのホメロスがお救いします」
「……どういうこと?」
「人里離れた場所に、隠れ家を用意しました。あなたにはそこにしばらく隠れていただく。世話役にひとり、老婦人をお付けします。彼女は私の知人で、信用に足る人物です」
 色々と気になるところはあった。そんなうまい話があるかとか、死ぬのはいっときというのはどういうことだ、とか。……そもそもこの暗殺騒動自体、彼の狂言ではないのか、とも。
 だがそれよりも、ナマエの意識はとある一点に釘付けになっていた。
「……この城を出られるの? ほんとうに?」
 この城を出たいという積年の願いが叶うかもしれない。俄かに降って沸いたチャンスに、疑心暗鬼になるのは当然だった。ナマエの疑惑に、ホメロスは少し困ったように眉根を寄せ微笑んだ。
「卑怯者の私の言葉なぞ、信じられませんか?」
 問いかけに、俯く。すぐには答えられることができなかった。
 ホメロスのことを、信じたい。いや、やはり信じられない。彼はナマエを傷つけた。でも一番傍にいて、寄り添ってくれたのはまぎれもなくこのひとだ。
 ナマエの中で、ホメロスに対する嫌悪感と不信感と、親愛の情とが激しくせめぎあう。
「あ……」
 迷う彼女の脳裏に、天啓が閃くように数日前見た光景がよぎる。ナマエははじかれるように顔を上げ、くるりとホメロスに背を向けて続きの間に駆け込んだ。小さなダイニングテーブルの奥、食器棚を目指して。
ナマエ様?」
 背後から戸惑うように声を掛けられる。それを無視してナマエは食器棚の引き戸をあけ、そこからペンほどの長さのナフキンの包みを取り出した。
 その包みをそっと開く。彼女の掌の中に、毒で黒く変色したスプーンが収まっていた。銀の美しい光沢は半分ほど取り戻してはいたものの、いまだところどころ黒がこびりついている。変色したそれをナマエは一生懸命布で磨いてはみたが、こびりついた黒は中々落ちてはくれなかった。
 その包みを胸元に抱えてホメロスの元に戻ったナマエは、静かにそれを彼の前に差し出した。
「これは」
「……あなたにいただいたスプーンが、紅茶で黒く染まったの。前に言っていたでしょう?  銀には毒を見抜く力がある、って。それで紅茶を花に浸してみたら、花は見る間に萎れたわ。だから誰かが私を毒殺しようとしていることには、薄々気付いていました。ただ、それがまさか陛下であるとは思いもしませんでしたが……」
 ナマエはそこで一度言葉を区切り、ホメロスを見上げた。
 ホメロスはナマエの言葉を一言すら聞き漏らすまいと、真摯にこちらを見つめている。硬質な琥珀色の瞳の奥に、かつての誠実な青年だったホメロスの姿を、ナマエは確かにそこに見つけた。
 迷いは晴れた。
「――ホメロス様、あなたの言葉を信じます」
 まるで神聖な誓いのように、ナマエは宣言する。
「……!」
 ホメロスはその切れ長の瞳を目いっぱい見開き、そして顔を綻ばせた。
「……それでいい」
 そう云って頷いた彼の肩が、脱力したように僅かに下がる。もしかしたら、彼も少し緊張していたのかもしれない。
 ホメロスの言葉を信じると決めたナマエであったが、しかし彼女にはひとつ気がかりがあった。
「でも、陛下の言葉に逆らうのは、ホメロス様が危険ではないのですか?」
「あなたが気にされることではない」
 ホメロスは眉をひそめ、冷ややかにナマエの心配を切って捨てる。その素っ気なさにナマエはやや怯んだ。
 この時は気付かなかったが、一見冷たい物言いは余計な気遣いをさせまいとしての彼なりの配慮だったのかもしれない……、と後になってからそう思う。とにかくこの時のナマエにはそれだけの余裕はなかった。言葉尻に囚われて、彼の真意を探ることをしなかった。
 ホメロスの叱咤に萎れるように俯いたナマエは、それでも苦しい胸の内を吐き出したくて、震える唇を割る。
「ホメロス様、あなたはどうして……」
 ――散々踏みにじった私のことを、助けてくれようとするのか。
 喉まで出掛かった言葉が、胸のあたりでつっかえていてとても苦しい。しくしくと病む胸元を抑えて黙り込むと、ホメロスはしびれを切らしたのか片手をあげ、会話を切り上げにかかった。
「おしゃべりはもう終わりだ。続きはこの城を無事に抜け出してからに」
「……わかりました。私はどうすればいいですか?」
 頷き、気を取り直して尋ねれば、ホメロスは無言で一歩距離を詰めてきた。びくり、と体が反射的にホメロスを警戒し固くなる。きっと顔も引き攣っていたことだろう。ホメロスの瞳の奥に、少し傷ついたような色が浮かんだようにみえた。……たぶん、気のせいかもしれないけれど。
 ホメロスはそれ以上近寄らず、ナマエに指示を出した。
「しばらく、目を瞑っていただけますか」
 その指示の意図するところを探ろうとして、ナマエはホメロスの顔をじっと見つめる。見れば見るほど、彫刻のように整った顔立ちだった。ナマエを真摯に見つめる理知的な切れ長の瞳と、意志の強そうな眉。すっと通った鼻筋と、薄めの唇。月夜に淡く輝く長い金糸がとても神々しい。こうしてじっと見つめていると、かつて彼に抱いていた淡い恋心が、さわさわと息吹を取り戻すような感覚に囚われる。感傷が込み上げ、眦が少し熱くなった。
 ナマエはその姿を目に焼き付けると、指示に従ってそっと目を閉じた。
 視界が闇に覆われる。
 ふいに滞留していた空気が微かにふわりと動いて、肌に圧迫感を感じた。ホメロスがすぐ目の前にいる、と直感的に感じたとき、その鼻先を冬の匂いがかすめた。
「あっ……」
 首元に自分のものではない熱が触れて、ナマエは動揺して声を上げた。熱くて乾いたそれはホメロスの手だ。彼の手が、鎖骨のすぐ上のあたりを抑えている。
「少しの間、辛抱してください。すぐに済む」
 いったい何をするつもりなのか。漠然とした不安に襲われながら、それでもナマエはホメロスの指示通り目を閉じ続けた。
「ホメロス、さま」
「大丈夫だ、なにも案ずることはない。私はあなたを、決して見捨てたりはしない」
 首を絞められているわけではないので、苦しいことはなにもない。だが首元を抑えるホメロスの手は徐々に強く肌を圧迫してきて、ナマエは不意に足元が崩れていくような感覚に襲われた。まるで流砂のように足元から沈んでいくような、そんな感覚。
 眦に、生理的な涙が浮かんだ。ナマエの真っ暗な世界が、音もなく崩れていく。
 ――唇に柔らかな感覚があった。
 それが何なのかと考える間もなく、意識がふつりと途切れた。



 ナマエの手に握られていたスプーンが包みごと足元に落下して、音もなく絨毯に埋もれた。
 意識を失いくずおれる華奢な体を抱きとめて、ゆっくりと足の長い絨毯の上にその体を横たえる。散らばった髪を片手で梳いてやり、ホメロスはナマエの顔を見下ろした。ホメロスの心を惹きつけてやまない美しい瞳は、今は閉じられた薄い瞼の下だ。ガウンの前合わせは横たえた際に肌蹴け、ネグリジェ越しにしなやかな体の稜線がくっきりと露わになっている。非常に悩ましい光景だったが、生憎じっくりと眺めている暇もない。
 ホメロスは先ほどナマエの首元の血管を圧迫し、なんなくその意識を奪ってみせた。脳への血流を止め続ければ、人間は容易く死ぬことを彼は知っていた。だが血管を押さえる手を離した今、すぐに彼女の意識は戻ってしまう。そうなる前にと、再び首元を圧迫して血流を止め続ける。固く目を瞑るナマエの顔色からだんだん色が抜けていき、呼吸が次第に弱くなっていく。
 そのまま殺すつもりなど毛頭なかった。
 ホメロスが狙うのは、彼女の生命活動が停止するその間際――。
 ふ、と肺に残っていた最後の空気がナマエの半開きになっていた唇から漏れ出る。
 今だ。
「……時の砂よ、彼女の時を止めてくれ」
 懐から取り出したガラス製の砂時計をナマエの脱力した両手にしっかりと握らせ、自らも彼女の両手ごと覆うようにその上から握りしめ、ホメロスは奇跡を願って口上を唱えた。彼女の手に握らせたその砂時計こそ、彼が探し求めた時の砂だ。極寒のクレイモラン、古代図書館まで飛んで必死になって探し出したそれは間違いなく彼の最後の希望だった。
 時の器の中で、上から下に、下から上に、ぐるぐるとメビウスの輪のように常に流動する時の砂。その動きを止めることができれば、きっと彼女の時間を止められる。
 時の砂は、本来ならば時間を巻き戻す効果を持つ奇跡のアイテムだ。このような用途で使えるかどうか不安だったが、ホメロスの祈りに応えるように、やがて時の器の中で砂の動きがぴたりと止まった。
 ……どうやら、うまくいったようだ。
 握りしめていたナマエの両手を離す。脱力していたはずの彼女の手は、しっかりと時の砂を握りしめたまま離れない。ナマエの顔へと視線を移せば、青白い相貌には死相の兆候が現れていた。
 これならば、きっとウルノーガの目も欺ける。


「――なにしてるんですか」
 ほっと安堵の息を吐いたその時、背後から急に声をかけられホメロスはバッと勢いよく声の方を振り向いた。そこにいたのは、先程ホメロスの訪いをナマエに知らせた見張り兵の青年だった。
「おまえか、驚かせるな」
 見知った顔に、ホメロスは肩の力を抜いて警戒を解く。が、見張り兵は険しい表情のまま剣に手をかけこちらを警戒しているようだった。
「ねえホメロス将軍、その人に一体なにしたんですか。まさか殺したなんて言わないでくださいよ。……あなたを信じて部屋に通したのに。ねえ、ホメロス将軍、なんとか言ってくださいよ!」
 見張り兵の視線が横たわるナマエへと注がれる。青年の肩が、わなわなと怒りに震えていた。
 しまった、とホメロスは舌打ちした。いつから見られていたのかは知らないが、目の前のことに夢中になっていて、すっかりこの兵の存在を失念していた。きっと部屋に入ってからしばらくたっても出てこないホメロスに心配になり、部屋の中の様子を窺って、そこで彼女の首元に手をかけるところを見られてしまったのだろう。
「待て、落ち着け。これには事情がある」
 今にもこちらに飛びかからんとする兵をなだめるべく、ホメロスは片手で兵を制した。こうなってしまえば仕方がない、ホメロスは事情を簡潔に説明することにした。ナマエが王に命を狙われていること。自分は彼女を守るために動いていること。とある細工をして、ナマエの死を偽装するつもりであること。勿論彼女はちゃんと生きていることも付け加えた。とはいってもギリギリ生と死の淵を彷徨っている状態であるので、生きていると言い切ってしまうのは些か語弊があるかもしれない。
 ホメロスの理路整然とした説明に、次第に見張り兵の警戒が薄れていく。俄かには信じがたいといった様子で、疑惑の残る視線がホメロスとナマエの顔を行ったり来たりした。
「ほ、本当ですか? お姫様、し、死んでない……?」
「ああ、死んではいない」
 あからさまにほっとした表情を浮かべた兵に、ホメロスは内心で肩を竦めた。嘘はついていない。
 ホメロスはふと息をつくと、片膝をついて立ち上がり、兵と向き合った。
「それで、だ。ナマエ様を守るため、出来ればお前にも協力してほしいと思っている」
「もちろん、オレでよければ力になりますよ! なにをすればいいんですか?」
 ホメロスの申し出に一も二もなく兵は頷いた。
 まったく、こうも素直で柔軟で、人の言葉を疑わず、あっさりと受け入れてしまうとは。お人よしにも程がある。だが戦場ではこういう男から真っ先に死んでいくことをホメロスは知っていた。
 思えばこの兵も、ナマエに関わったせいで出世街道から離れてしまった。年がら年中、彼女の部屋の前に立ち続ける味気ない兵士生活をもうずっと何年も繰り返している。
 後悔はしてないのだろうか。ふとそう尋ねてみたくなったが、その答えを聞いてどうなるわけでもあるまい。
 ホメロスは迷いを振り切るように半目を伏せる。この兵は見た目によらず、きっと口は堅いだろう。ここで起きたことを口止めすれば命に代えてもそれを守るに違いない。
 ――が、このユグノア王女の死という“悲劇”を完成させるには、ひとつ重要な役者が不足していた。
「そうだな……では、お前には大役を引き受けてもらおう」
「大役? やりぃ! で、いったいどんな役なんですか?」
 青年がホメロスの言葉に無邪気にはしゃぐ。足元から言いようのない罪悪感がひたひたと寄せてくるのを感じつつ、ホメロスは努めて穏やかにこう告げた。
「うむ、ではこういうのはどうだ? ――お前は身分違いの恋に身を焦がし、ナマエ姫に無理心中を迫った哀れな兵だ」
「へ?」
「……が、姫を殺めたことに罪悪感を覚え、そこのバルコニーから投身自殺を図る。結果、二人は無事心中を叶えることになる」
「はは……なんすかそれ、冗談にしてはちょっと笑えなっ……ッぐ!!」
 兵がホメロスの真意を測りかねて戸惑っている間に、彼は音もなく距離を詰め、兵の首を掴み上げた。腕に力を込め、闇の力を借りれば片手一つでその体はあっさりと持ち上がる。宙に浮いた足先で床を掻き、苦しそうにもがく青年兵を辛そうに見上げながら、ホメロスは真摯に謝罪した。
「すまない」
「なん、で……」
 青年兵は信じられないといったような顔で己の首を絞める男を見下ろした。その瞳がホメロスを非難している。絶望して、それでも迫り来る死から逃れようと手足をバタつかせ足掻いている。
「ほんとうにすまないと思っている」
 その抵抗を封じるように、ホメロスはさらに手に力を込める。ごりッ、と手のひらに嫌な感触があった。かはっ、と青年の口から泡立った唾液が飛んで、ホメロスの頬を濡らした。
「だがナマエを守るため、こうするしかないのだ」
 苦しげに呟いて、ホメロスは青年の首を締め続けた。
 この悲劇を完成させるためには、どうしてもナマエを殺めた犯人役が必要だった。ホメロスがその犯人役になるわけにもいかず、好奇心で顔を突っ込んできたこのお人好しにその役を押し付けてしまった。仕方がないのだ。事故や自殺を除いて、人間はひとりでは殺されない。
「どうか恨んでくれるなよ」
 ホメロスは今手にかけている青年のことを、存外気に入っていた。だから彼が吐露した言葉は真実心からのものだ。本当ならば殺したくない。だがホメロスの中の冷徹さが、それを許さない。
 哀れだと思った。この青年の足を引っ張ったのは、弱きものを切り捨てることができなかった彼自身の優しさだ。そして、自分も。この悲劇の物語に囚われている。
 兵の抵抗は次第に弱まり、最期のあがきのようにビクンッと一度大きく跳ね、そしてぐったりと脱力した。手を離すと重力にしたがって兵の体は崩れ落ちた。気を失ったか、それとも。
 兵の生死を確かめる気にはなれず、ホメロスは兵の首根っこを掴むとそのままずるずるとバルコニーの方へと引き摺っていった。
 ガラス戸を開け、バルコニーへ出ると下弦の月がぼんやりと城下町を照らしていた。ホメロスはその街並みを一望し、足元の兵に視線を落とした。苦悶の表情を浮かべている。
 ……なにか、この兵に報いねば。そういえば、故郷の家族に仕送りをしていると言っていたな。それくらいは肩代わりしてやらねば。殺人犯として仕立て上げられた兵士だ、きっと遺族年金すら出ないだろうから、なにか代わりとなるものも送らねば。
 忘れないよう心に留め置きながら、ホメロスは脱力している青年の体を担ぎ上げた。ぐにゃぐにゃと力の入らない体をなんとかバルコニーの手すりへと乗せると、一度黙祷を捧げる。
 そして、ぱっと手を離す。
 兵の体がずるりと滑り、バルコニーの向こう側の闇に吸い込まれるように落ちていく。
 青年の最期を、見届ける気にはなれなかった。
 ホメロスはバルコニーの下に広がる闇を一瞥し、部屋へと戻った。絨毯の上に横たえられたナマエの体を抱きかかえ、部屋を後にする。王に彼女の死を知らせるために。