第十三話
誰がオフィーリアを殺したか・前篇





 
 かび臭く薄暗い室内の奥の方から、ぼんやりとひとつの明かりが漏れていた。
 壁際から窓の方までずらりと規則正しく並んだ背の高い本棚には、革張りの本がぎゅうぎゅうに詰め込まれている。おとぎ話から、技術書、歴史書、様々な蔵書が取り揃えられているこの場所こそ、デルカダール城の図書館。ここには国中、いや、ロトゼタシア中から集められた古今東西のありとあらゆる本が収められていた。
 豊富な蔵書は一階に収まりきることなく中二階にまで本棚が広がっており、上からは円形劇場のように下の階を見下ろせ、絨毯張りの階段の踊り場にはデルカダールの双頭の鷲像が鎮座していた。その双頭の鷲像の更に奥に、普段は厳重に鍵を掛けられた一室があった。禁書と呼ばれるようなものばかりが集められた、いわゆる貸出禁止区域だ。
 灯りはその一室から漏れてきているようだった。時刻は、もう間もなく日付が変わる頃だ。
 部屋の中に一人の男の影。
 ひとつにくくった長い黄金色の髪の持ち主、ホメロスだった。
 彼は部屋に備え付けられた机に向かい、持ち込んだカンテラの灯りを頼りにずっと本に食らいついている。その足元には読み終えた本が山と積み重ねられており、図書館の管理人がその様子を見たら青筋を立てそうな乱雑さだ。普段であれば貴重な本の管理に気を使うホメロスであったが、何かに憑りつかれたようにページを捲るその手はついぞ止まることなく、一心不乱に禁書を読み漁っていた。
 脳裏で、王から告げられた言葉が何度も何度も木霊する。それを振り払う術を探して、ホメロスは血眼になって本に目を走らせていた。

 ――今朝の事だった。
 朝早く王に呼び出され、向かった先は城の最上階にあるバルコニー。支度を終えたホメロスが到着すると王は既にバルコニーに佇んでいた。薄雲の空の元、手を後ろ手に回し、こちらに背を向け城下町を見下ろしている。
「ホメロス、ただいま馳せ参じました。長くお待たせしたことをお詫び申し上げます」
 バルコニーは人払いがされており、警邏の兵の姿はない。ホメロスは王の背に向かって跪き口上を述べた。
 王は、不意に切り出した。
「ホメロスよ、お前にひとつ頼みたいことがある」
「は、なんなりと。我が王」
 ホメロスは従順さを指し示すように、更に深く頭を下げる。
 束の間、沈黙が落ちた。嫌な沈黙だった。
 そして、

「――ユグノアの王女を葬れ」

「……は、」
 頭が真っ白になった。
 何かの聞き間違いか。ホメロスは堪らず禁を犯して顔を上げ、王を仰いだ。
「……なぜ、とお聞きしても?」
 今にも爆発しそうになる感情を努めて抑え、冷静を装って問いかける。デルカダール王、もといウルノーガは振り返り、冷厳な瞳で己のしもべを見下ろした。
「我が幾度もあれの命を狙っていたことを知り、なお惚けるつもりか? ……ふん、まあよい。なぜ、と問うたな。ならば答えてやろう。あれは紛れもなく勇者に連なる血統。忌々しいユグノアの血が新たな勇者を誕生させてはかなわぬ。芽は早めに摘んでおいた方がよかろう?」
「しかし」
 なぜ今になって。陰ながら幾度も付け狙いはすれど、あれだけ散々飼い殺しにしておいて、なぜ今更直接牙を剥くような真似をするのだ。
 ホメロスの微かな抵抗を察してか、魔王は咎めるように目元を眇める。反論はそのまま黙殺された。
「否やは許されぬ、ホメロス。今まで多少の目溢しはしてやった。だがもう十分だろう」
 ウルノーガはふと眼下に広がる街並みに目線を落とした。
「あの娘に流れる血は厄介だ。やはり大樹の加護を受けているらしい。あの娘の魔力から、忌々しい匂いがするのだ。聖なる匂いが我が物顔で、城の中をぷんぷんと漂っておる……臭くてかなわん」
 苦々しげに言って、魔王は再びホメロスへと振り返った。
「そのうえ、折れることを知らぬ。そのうち自滅すると踏んでいたが、こちらの手回しにも落ちず、毎度なかなかにしぶとく生き残る。これも忌々しい勇者の血統ゆえか、……それとも誰かが根回ししているせいか」
 もとよりこちらの葛藤すらも見透かされていたようだ。忠誠を誓った主君を凝視したまま動けぬホメロスに向かって、ウルノーガはさもおかしげにくつくつと笑い出した。
「ふ、我が気付いていないとでも思うたか。随分とあれにご執心だったようだな」
「ぁ、……」
 なにか、言わねば。ホメロスが焦りの浮かぶ心の内を取り繕おうとして、しかし失敗する。
「まあ人間の情など我にはどうでも良い。くだらぬ芝居はもう仕舞いにせよ。手段は問わぬ。――よいな、必ず殺せ」
 遥か頭上から、重くウルノーガの言葉がのし掛かってくる。たまらず、ホメロスはこうべ垂れた。
 ああ、まるで“あの時”のようだ。闇の力に良いように操られ、己の無力を嘆き、悪意に満ちた力に完全屈服したあの時のような。
 ホメロスははくはくと何度か空気を飲み込んで、乾きに喉を苛まれながら、やがてその口はこう告げた。
「……謹んでお言葉に従います」
 魔王との間で結ばれた契約の、抗えぬ強制力を実感した瞬間だった。彼の王の前では、己はちっぽけな存在でしかない。ウルノーガの采配ひとつで、ホメロスという命は塵と消え失せるだろう。
 ぎり、と抑えきれぬ葛藤を噛み締めながら、ふつふつと湧き上がる反骨心を悟られぬようホメロスは目線を伏せる。
 くつくつと不愉快な闇の王の嘲笑が、不協和音のようにホメロスの胃の腑の底を引っ掻く。
「思えば、あれはお前の心を揺さぶるのにちょうど良い道具であった」
 その言葉は鈍く、しかししたたかにホメロスの眉間を打った。すべてはウルノーガの手の内だと思い知らされる。己の運命はおろか、ナマエの運命、そして友の運命すら。
 闇の王の思うがまま。蒙昧で矮小な人間たちは、翻弄されるがままなのだ。
 重くデルカダールの空を覆っていた雲間がふいに途切れ、隙間から僅かに光の束が差し込む。陽光に誘われるようにゆっくりと顔をあげると、ウルノーガはとある一点を見つめていた。視線の先に、ナマエの住まう塔があるとすぐに気がつく。
「我の役に立ってくれたことには感謝せねばな」
 ホメロスは無言のまま、顔を歪めて足元のタイル目を睨みつけた。

 ……そしてウルノーガの元を辞したホメロスは、その足で図書館の貸出禁止区域へと飛び込んだ。
 よりによって、ナマエに求婚を断られた昨日の今日だ。彼女のことで熱くなっていた頭に冷や水を掛けられた……いや、冷や水よりもっと悪い事態が起こってしまった。
 ――冷静になれ。考えろ。どこかに抜け道はあるはずだ。
 逸る心のまま、ホメロスは手段を求めて禁書を漁った。
 本日予定していた演習はひとまずグレイグに押し付け、執務すら放り出してホメロスは最悪の事態を回避する術を探した。
 ウルノーガの命令は絶対で、当然逆らうことなどできない。魔との契約は人間のそれより重い。契約を破れば代償として命すらも要求されるだろう。基本的にウルノーガの闇の力を己の力として受け入れているホメロスは、魔王の言葉には忠実でいなければならない。
 だがナマエだけは。間接的にだが彼を闇へと引きずり落とす原因にもなった彼女の存在だけは、ホメロス自身の自我が優った。圧倒的な闇の力にも左右されぬ確たる意思が、ナマエへと向けられていた。
 ……とどのつまり、ナマエの存在こそがホメロスをホメロスたるひとりの人間としての最後の一歩を留まらせていたとも言える。
 ――そんな大事なひとを、殺せだと? 冗談ではない!
 だが彼の王の言葉には逆らえぬ。……ならば死を偽装する他ない。果たしてそんなことが可能なのか。否、不可能を可能にする程の気骨がなければ、魔王の目は欺けない。
 とはいえ、死を偽装するのは簡単ではないのは確かだ。今は失われた古代の魔法の中に、モシャスという姿を偽装する魔法があったという。それがあれば、姿だけならば偽装は可能だ。だがあの魔王が代理の死体で誤魔化されるはずもない。なにより匂いでわかる。魔王の言う、聖なる匂いとやらだ。
 ならば他の方法だ。
 と勇んで手当たり次第に本を漁るも、何冊もある薬草学には仮死の毒などどこにも載っておらず、魔道書にもそれらしい記載もない。
 なんの収穫も得られぬまま時だけが過ぎていき、ホメロスは次第に焦っていった。
 見つかるものといえば、お伽話のなかに出てくる存在しえない毒や魔法の類ばかり。
 探しているのはこんなお伽話ではない。もっと実用的な、有効なものを……。
 せわしなくページをめくる手が、あるページでぴたりと止まった。
「これは……」
 ホメロスの指先がざらざらとした古くさい紙質を確かめるように、ページに記された文字をなぞった。
 文字のそばに、絵が記されている。変色したインクで描かれたそれは、砂時計。
 そこに記されていたのは、時の砂、と呼ばれる失われた古代のアーティファクトだ。時を巻き戻す能力を持つ、神々の残せし遺物。つまり時を操れる究極のアイテムということだ。
 ホメロスがその時手に取っていたのは、そういった古代のアーティファクトを紹介する蔵書だった。とどのつまり、ただの伝説のアイテム紹介本だ。だがホメロスには、この砂時計の意匠に見覚えがあった。確実に、どこかで見たことがある。
(どこだ……? 一体どこでこれを見た)
 ホメロスは注意深く己の記憶を探っていく。かつての修行の場。雪深いクレイモラン、シケスビア雪原のさらに奥。古代図書館の、複雑な仕掛けに隠されたあの最奥の部屋。
 かつての大魔法使いが研究の日々を過ごしたとされるあのいにしえの書庫で。成年に満たないホメロスは、迷い込んだ古代図書館の最奥で確かに見た。乱雑に本が収められた本棚の一角に何気なく置かれていた、あの埃を被った砂時計こそが。
 神話の時代以前より存在していたとされるあの古代図書館ならば、現代では説明のつかぬ不可思議が漂っていてもおかしくはない。あそこには古代の叡智の結晶がたくさん折り重なってそこらに澱んでいる。ゆえに、古代の神々の遺物が残されていてもなんら不思議ではない。
 ならば、それに賭けるしかない。
 ガタリと椅子を蹴倒すように立ち上がる。手に持っていた禁書本を当然のように懐に入れ、読み散らかした本もそのままに、ホメロスは持ってきたカンテラを引っ掴んで部屋を飛び出した。
 向かう先は、クレイモラン。シケスビア雪原の奥、古代図書館だ。




 不意に違和感を覚え、ナマエはスプーンを持つ手を止めた。
 目線の先には、昼食を下げに来たメイドが淹れていった紅茶のティーカップ。先ほどナマエは、この陶器のカップに満たされた琥珀色の液体に、シュガーポットから取り出した角砂糖をひとつ、スプーンに乗せて静かに沈ませたところだった。そこまではいつもどおりだ。
 溶け出した砂糖をスプーンで攪拌しようと手を動かした時だった。黒い靄が視界に入った。銀のスプーンの、先端部分。そこに、錆びのようなものが浮かんでいる。
 おかしい。銀食器は全てちゃんと使用人達が磨いてくれているはず。まさか錆びではないはずだ。不思議に思って手を止めた瞬間、その靄は一気に増殖した。ぞわり、と闇が膨れ上がるように。
「ひっ……」
 ナマエは驚いてスプーンから手を離してしまった。今やスプーンは、陶器で飾られた柄の部分を残してすべてその輝きを失い、すっかり黒ずんでしまっている。その間、わずか瞬き三度ほど。
「なに、これ……」
 ナマエは不気味に変異したスプーンを不安げに眺めた。
 ひとつ確実なのは、これは錆びではないということ。銀が何かの成分に反応して黒く変色したのだ。とすれば、紅茶に何かの成分が含まれていると考えるのが自然だ。
「……まさか」
 毒? ナマエは自問するように独りごち、さっと青ざめた。
 のんびり食後の紅茶を楽しんでいる場合ではなかった。毒の可能性は大いにある。思い出していたのだ。この銀のスプーンをプレゼントしてくれた人の言葉を。
『――銀には毒物を見抜く神秘の力があると聞いたことがある』
 もし、その言葉が真実ならば。
 確かめねば。
 暖炉の上に飾られていた花瓶を持ってきて、ナマエはためらうことなくそこにカップの中の紅茶を少量流し入れた。花を飾ってくれた者には申し訳なかったが、緊急事態に免じてもらうしかない。
 すると、やはり思った通り。ものの数分もしないうちに、生気を失ったようにくたりと萎れていく花をナマエは言葉もなく見つめていた。
「そんな……」
 誰かが、紅茶に毒を仕込んだのだ。
 誰かがナマエの死を望んでいる。その事実に、心が折れそうになった。だがどこかで、しかたがないのだと達観している自分もいた。最初から、彼女の存在は歓迎されてなどいなかったのだから。
 ……けれど、一体誰が? 現時点で一番疑わしいのは紅茶を淹れたメイドだが、果たして毒はこの一杯だけに仕込まれたものなのか、それとも茶葉の入った紅茶の缶自体が毒に汚染されているのかすら定かでないのだ。
 ならば食事は? 水は安全なのか?
 疑えばきりがない。
 だが、悲観するほどでもない。ナマエは幸いにも、毒と知ってなお、それを呷るほどまだ生きることへの希望を捨ててはいなかった。それに解毒の魔法の心得もある。多少の毒を飲んでも、自分ひとりでもなんとか応急処置くらいは出来るだろう。
 なによりこんな寂しいところでひとり、ひっそりと人生を終えたくないという強い思いがあった。
 よりによって一番信頼を寄せていた人に、人生そのものをめちゃくちゃにされた。絶望して、泣いて、一度は死を考え、そして思いとどまった。ひとえに死を思いとどまれたのは、最後にひとめ、滅びた故国をこの目で見たいと強く願ったからだ。望郷の想いこそが、ナマエを生かしていた。
 ナマエに関する噂が宮廷に流れて以来、あれほどひっきりなしに持ちかけられていた縁談の話はすっかり鳴りを潜めている。やはり王にとっても、傷物の噂が立ってしまった娘には何の価値もなくなってしまったのだろう。だからホメロスの求婚は、冷静になってみれば彼の言った通り、追い詰められた彼女に差し伸べられた最後の救いの手であったのだ。あくまで傷物にした犯人が彼自身でなければ、の話だが。そうでなければ、ただの美談で終わる。
 ……ホメロスは一体なぜ、あんな真似をしたのだろう。あの恐ろしいひと時のことを思い出したくなくて、今まで考えないようにしてきたが、思えば不思議だった。彼の目的がはっきりしない。唯一わかっているのは、ナマエを妻にしても彼の得になるようなことは一切ない、ということだけだ。
 ナマエは、すっかり黒く変色してしまったスプーンをそっと持ち上げる。図らずも、命を救われた。複雑な思いがあることには変わりない、けれども実際この贈り主には幾度も心を救われた。
 ぎゅ、とスプーンの柄を握りこむ。
 まるでそれが唯一の救いであるかのように。