第九話
イカロスへの哀歌・後篇





 波乱の舞踏会から数日が経ち、そして一ヶ月が経った。グレイグの謹慎は既に解け、舞踏会から三日後にはナマエに顔を見せに来てくれ、騒動に対して謝られた。その後は将軍としての仕事が忙しいのか音沙汰がないままだ。
 しかしホメロスの方はあの夜の宣言通り、あれから一度も顔を合わせていない。ナマエが何度か部屋を訪れても、まるでそれを察したかのように不在が続いた。城内で仕事中のホメロスの様子は何度か目にしているから、長期不在ということでもない。ならばこれは本格的に避けられているのだろう。あの舞踏会の夜のナマエの迂闊な態度が彼の自尊心をいたく傷つけてしまった。そのことを謝りたかったのに、謝らせてすらくれない。
 あの時、確かにナマエは浮かれて不用意に近づきすぎた。ホメロスの魅力に翻弄されて、これではいけないと我に返っては手のひらを返すように拒絶して。冷静になって、自分がいかに酷い態度を取ったのかを思い知る。
 いつもは柔らかなホメロスの視線が、あの時ばかりはすっと熱が醒めたように冷ややかなものになったのを今でも思い出す。鋭い瞳の奥に、確かに怒りをたたえていた。明らかにナマエに対する怒りだ。あの瞬間、ナマエの背筋が凍った。嫌われてしまったかもという怯えと、目の前の人が急に見知らぬ男性に見えてしまったことへの恐怖によるものだ。
 自室のバルコニーで独りきりのお茶会を楽しむでもなく、ナマエはぼんやりとデルカダールの城下町を眺めていた。空は高く晴れ上がっている。樹々は鮮やかに紅葉し、すっかり景色は秋めいていた。
 テーブルの上に置かれた手紙に手を伸ばす。封の切られたそれは退職した元侍女からの手紙だ。
 アリサ。不幸にも誰かの命を狙った毒に当たり、ナマエを恨んで故郷へと帰っていった少女。その彼女から初めて届いた手紙は、ナマエに対する無礼を詫びる言葉で始まっていた。謝られる謂れはないのに、やはり生来のアリサは優しい性格なのだろう。手紙にはその他に、自分は元気にしている旨、そして嬉しいことに好い人が出来たことが記されていた。それを読んでナマエは思わず神に感謝した。アリサの人生を狂わせてしまったのは間違いなくナマエだ。同時に誰よりもアリサの幸せを願っていた。それは贖罪の意識によるところが大きかったが、それ以上にナマエはアリサのことが好きだったからだ。最後はナマエを案じる言葉で締められていて、思わず涙腺が緩んでしまった。
 アリサが退職してからその後、ナマエには特定の侍女がつくことはなかったが、今ではそれで良いと思っていた。思い入れが出来てしまえば、突然の別れが辛くなる。
 ……友人のように接してくれた”彼ら”とも、最初から距離を取って接すれば良かったのだ。そうすれば、急に離れていってしまった時の心算も出来たのに。今更後悔しても遅い。ナマエは薄ら寒く感じるこの部屋で、すっかり寂しいという気持ちをもてあましていた。
 白で統一された部屋へと視線を移す。あの角のソファテーブルで、何度も彼らとチェスを打った。テーブルの上には未だにホメロスが持ち込んだチェス一式が鎮座している。それをじっと見つめていると、ふいに在りし日の彼らの楽しそうな声が聞こえてくるようだった。
 ホメロスのくれた銀のスプーンが、ティーカップの中でからんと寂しげに音をたてる。
 ナマエは誰も訪れなくなったこの部屋で、どうしようもなく孤独だった。



 親友の様子がおかしいということに気がついたのは、数日前のことだ。もっとはっきりと言えば、自分とナマエに関する噂が流れ始めたころからだったと思う。
 グレイグはこの頃、活動が活発になってきた魔物の討伐に駆り出される日々が続き、助けを求められた分だけ剣を振るい人々を救った。その勇猛さと慈悲深さとでグレイグの将軍としての名声が一層高まり、その名は諸外国にまで広く知れ渡るようになった。本人としてはただ与えられた役割に相応しい仕事をこなしているという感覚に過ぎないが、至る場所で英雄としてもてはやされ若干居心地が悪いのも事実だ。グレイグの中では、自分はまだまだ若輩者という認識であったからだ。
 しかし本人のそんな認識も蚊帳の外で、甘い蜜に群がる蟻のように彼の名声に目をつけた貴族達たちから、是非自分の娘の婿にという縁談の申し込みがこの頃絶えないでいた。だがグレイグ自身、まだ所帯を持つには早いと思っているため、その申し込みは当然のように全て断っていた。将軍として、すべきことは山のようにある。そのような些事に時間をさいている暇などない。
 そんなことを続けていたからだろうか、いつの間にやら自分はナマエととうとう婚約したのではないかという噂が囁かれるようになった。グレイグにとっては寝耳に水の話だ。彼自身、以前に一度だけナマエと自分に関する噂の是非について直接問いただされたことがあったが、その場で否定して終わった。それ以降はあまり気にしていなかったが、いつの間にやら噂は尾ひれがついて広まっているではないか。残念ながら自分は、そういった噂事には非常に鈍いと自覚している。だからグレイグがその噂を認識した時にはもう、当然ながら友の耳にも入ってしまっただろう。
 ホメロス。グレイグの自慢の親友であり、自分にないものを持った友は幼い頃からグレイグの憧れの存在であった。戦場で背を預けられるとすればホメロスしかいない。
 出自によるものだろうか、小さな頃からどこか世の中に対して斜に構えていて、人を容易に信用しない。そんな友が、ナマエに出会ってから少しだけ雰囲気が柔らかくなった。グレイグに対してだけ発揮していた生来のお節介さを、彼女にも焼きはじめていたことに対し驚きを隠せなかった。
 あのホメロスが、恐らくナマエに無意識に惹かれているのだろうことはなんとなくわかった。珍しいことではあるが、同時に少しだけその心情を理解できるような気がした。この城で孤独な立場である彼女のことを、幼い頃の自分の境遇と重ね合わせて見てしまったのだろう。ホメロスの家系は元はデルカダール国有数の名門貴族だったが、今はそれも没落し、神童と呼ばれていた幼い彼は王が後見を務めこの城で庇護されるようになった。ホメロスはグレイグが来るまで、この城で独りだったようだ。だが最初に顔を合わせた時は物静かな印象の少年だったのに、それが一変し数々のいたずらを考案し城の人たちを困らせるようになるとは思いもしなかったが。
 ともかくナマエをあっさり懐に入れてしまった友に、グレイグは驚いたのだ。まあホメロスにしてみれば、親友がうっかり拾ってきてしまった動物の面倒でも看ている感覚だったのかもしれないが。
 ……思い返せば、ナマエはどこか、幼い頃に城下町の下層で二人が拾った仔猫に似ている。痩せぎすの、白くて小さなオッドアイの仔猫。グレイグはどうも構い過ぎてしまって避けられがちだったが、ホメロスにはよく懐いていた。気がつけば机に向かって勉強をするホメロスの足元で丸くなっていたその仔猫のことを、彼もまんざらでもなさそうに甘やかしていたのを覚えている。結局保護してから一年も経たずに死んでしまって、幼いホメロスは珍しく大粒の涙を流しながら仔猫を埋葬していた。
 グレイグにとってナマエは魅力的な女性ではあったが、あくまでユグノア王国の王女であり、敬意を払うべき人物だ。心のどこかで、救うことのできなかったマルティナの代わりとして見守っている自分にも気がついていた。そんなナマエは周囲に対してどこか一歩引いている節がある。グレイグは、彼女の孤独に深く踏み込むことはできなかった。
 だから自分と彼女に関する噂は、根も葉もないものだ。それが友の耳に入ってしまうことを少しだけ案じたが、だが情報収集を欠かさぬホメロスのことだ。今頃一笑に伏していることだろう。
 ……そう思っていたのだが、どうやら予想は外れたようだ。お互い久しぶりに顔を合わせても、ホメロスは不機嫌さを孕んだ表情で言葉少なに会話も弾まず、時にグレイグに噛み付く。聞いた話では、夜中にホメロスの部屋から唸るような雄叫びが聞こえたり、誰もいない空間で壁に向かって何事かをぶつぶつと呟いていた姿を見かけた、などという俄かには信じがたい伝聞がグレイグのもとに届いたのだ。
 友の体調を本格的に案じ始め、明日にでもホメロスのもとを訪れようと決めたその日の夜、突然その本人がグレイグの自室にやってきた。
「おめでとう」
 開口一番、そう告げたホメロスに押し付けられたのは、上物のワインだった。
「……なんだこれ?」
 訳がわからないグレイグは取り敢えず受け取って、ワインのラベルを眺める。ラベルに記載された製造年は十数年前、なかなかの年代物だ。
「とぼけるな、婚約祝いに決まってるだろ」
 贈り物の意図を理解できないグレイグに苛立ったように、ホメロスが噛み付く。衝撃的な友の言葉に、まさかとグレイグは瞠目した。
「ホメロスお前、まさかあの噂を信じたのか? あれはまったくのデタラメだぞ。どうしたんだ、噂を鵜呑みにするなんてお前らしくない。それとこの際だからはっきり言っておくが、俺はナマエ様を妻に望む気はないぞ」
 今度はホメロスが目を見張る番だった。
「なぜだ。幸せにする自信がないからか? 因縁のある国の元王女という肩書きがそれほど重荷か?」
「そういうわけでは……」
「ではどういう訳だ」
 否定してもしつこく食い下がるホメロスに常にない執念を感じ、グレイグは戸惑いを覚えた。嫉妬と焦燥が入り混じった感情を瞳に宿しながら、彼はその口でグレイグとナマエの婚約の噂をまるで決定事項のように語る。彼は今、自分がどんな顔をしているのかわかっていないのだろうか。
 まさか、ホメロスは自分の気持ちにまだ気づいてないのか。あるいは友がナマエのことを大事に想っているというのは、グレイグの単なる思い過ごしか。
「ホメロス、お前は俺がナマエ様を妻に迎えてもいいと本当に思っているのか?」
 目の前の友人のちぐはぐな態度に困惑し、グレイグにしては珍しく、慎重に言葉を選んだ。
「訳がわからんな。当然そうなるべきだろう」
 ホメロスの眉が神経質そうに歪んだ。
「……確かにナマエ様がそれを強く望むのなら俺とてやぶさかではない。あの方の命を一度お救いした以上、俺には最後まであの方をお守りする義務がある。ナマエ様の我が国でのお立場の曖昧さについては、俺にも責任の一端があるからな」
 余計な感情が混じらないように、グレイグは慎重に己の本音を語る。ナマエには特別な感情は抱いていない、という意味を込めて。
「義務……?」
 ホメロスは言葉を失って、しばし呆然としていた。ふいにその表情が怒りに歪んだので、グレイグはしまったと思った。どうやら逆鱗に触れたようだ。
「――義務、だと? お前は、お前はそんな理由で彼女と結婚するのか! それでナマエに恩を売ったつもりか? そうやって恩着せがましいことを言って、善人面しやがって! ……くそっ、お前には虫酸が走る。いつも、いつもいつもいつも……!!」
「お、おい落ち着けホメロス。いったいどうしたんだ?」
 豹変したホメロスに胸ぐらを掴まれる。訳も分からぬ言い分で責められ、グレイグは当惑した。噂はデタラメだと当人が言っているのに、ホメロスは頑なに信じきっている。いったい友はどうしてしまったのだろう。あれほど賢く広い視野をもった男が、なぜこうまで偏狭な考えに陥っているのか。
 とりあえず興奮するホメロスをなだめようとグレイグがその肩に触れた時。
「オレに触るなッ!」
 バシリとその手が叩き落される。
「ホメロス、おい!」
 グレイグの制止の声も聞かず、友は背を向けて走り去ってしまった。
 後に残されたのは呆然とした様子のグレイグと、床に落とされてごろりと転がるワインボトルだけだった。


(“惨めだ”)(“お前は惨めだ”)(“惨めなままでいいのか、見返したくないのか、すべてを手に入れたくないのか”)(“お前の大事なものはもうなにひとつその手に残っていない”)(“すべてお前が自ら捨てたからだ”)(“空になったその器に、闇の力を受け入れよ”)
「うう……あ……」
 不快な音が延々と頭の中で鳴り響いている。頭の中で、毒を垂れ流しつづけるあの声が。怒りと焦燥、孤独と虚無。負の感情がホメロスを押し潰そうとしている。
 あてどなく城内を彷徨っていたはずなのに、いつのまにやら辺りは深更のように真っ暗な闇に包まれている。上下左右、見渡す限りすべて真っ暗だ。平衡感覚を失って、ホメロスはその場にしゃがみこんだ。口から漏れる吐息が白く凝った。ここは寒くて寒くて仕方がない。その昔クレイモランに留学していた際、誤って迷い込んだミルレアンの森よりも寒い。いったいここはどこだ。温もりを求めて外套を掴み、前でしっかりと合わせる。ほわりと陽だまりのような温もりが全身を包んだ。それでも忍び込んでくる冷気は、その温もりすら容易に奪っていく。
 ガチガチと震えて鳴る歯を噛み締め、先ほどの友の言葉を反芻する。ズタズタになって血を垂れ流す自尊心を抱えながらも、それでも友を祝福したホメロスに、あの男はまるであざ笑うかのように告げた。単なる義務だと。友のためにと押し殺したホメロスの恋情を踏み潰して、捧げられた愛をいともたやすく握りつぶす。
 許せなかった。あれ以上の侮辱は許すことができなかった。
「惨めなものよ」
 背後で声が響く。自由の利かない体をなんとか動かして振り返ると、青白い肌を持つ不吉そうな男が立っていた。手には魔導杖、頭には角が生えている。明らかに人間ではないとわかる風態。魔に属するものだ。
「おまえは……だれだ」
 魔の者はこちらの問いには答えず、淡々と、しかし威圧するような視線をさし向ける。
「あの男はおまえなぞ眼中にない」
「質問に、こたえろ」
「あの男はお前が差し出した手を無視した」
「……なんのことだ」
「あの男が将軍に叙任されたあの日、お前はあの男に握手を求めた」
「握手……?」
 ギュルリ、と一気にホメロスの意識が過去へと巻き戻された。あれは叙勲式、友が栄光の第一歩を踏み出した日だ。
「……ああ、そうだ、そうだった。あいつはオレを無視した」
 すべてこの魔の者の言う通りだ、花道を進む友に求めた握手は虚しく空を切った。どうしてあんな屈辱を忘れることができようか。
 ――あいつは目の前の栄光を手に入れることにしか眼中になかった。友であるオレのことなど、どうでもよかったんだ。あいつはあの時、オレに背を向けた。オレはそんなあいつの影を追っている。いつからだ。兄貴分のつもりでいたオレを、あいつは内心であざ笑っていたに違いない。
(“いやグレイグはそんな男ではない、卑屈になるのはやめろ”)
 ――面倒を見てやっているつもりだった。だがそんなもの、あいつには必要なかった。
(“わかっている、すべてオレのお節介だ。オレは純粋にあいつのことが好きだった。オレにないものを持っているあいつを尊敬していた。あいつの助けになりたかった。あいつの隣を歩みたかった”)
 ――いつから隣を歩いていると勘違いしていた? あいつはオレ以外の友人にも恵まれて、名誉も愛も手に入れている。だがオレは、独りだ。
(“やめろ、その声に耳を貸すな。オレは独りではない”)
 ――オレは英雄様の影に隠れるちっぽけな存在だ。神童と謳われ、調子に乗ったただの凡人だ。
(“ダメだ、呑まれる。助けてくれグレイグ、……ナマエ”)
 ――ナマエ、春の妖精のような愛らしくて気まぐれな女、この世で最も愛しくて最も憎らしい女。あの男が彼女を望まぬのなら、いっそ。いっそ殺してでも奪い取ってやる……!
 訳の分からぬ怒りが腹の底から湧き上がってきて、目の前が真っ赤に染まった。耳の奥で囁く声がいっそ耳障りだ。この怒りに身を任せたいのに、善人面をしたその声がしつこく引き留める。
「お前の望みは何だ?」
 魔の者が静かに問う。
「オレは、……オレは、グレイグと一緒に国を支えると、約束した……ッ!?」
 わずかに残った自尊心が闇の力に抗って、闇に沈むこむ理性をなんとか引き留めようとすると、バシッ、と抵抗を罰するかのように杖で打ち据えられ、ホメロスの体はよろめいた。
「お前の望みは何だ?」
「オレは、……オレはグレイグのように、ッ!」
 バシンッ。また打ち据えられる。たまらず膝をつくと、こうべを垂れることを強制させるかのように杖で頭を押さえつけられる。
 奴隷のような屈辱的な態勢。だがホメロスにはもう、それに抗うだけの力は残っていなかった。
「お前のほんとうの望みは何だ」
「オレの、ほんとうの望み……」
 心の奥底に沈んだ仄暗い望み。ホメロスの抱える歪んだ望みは、とっくに見透かされている。
「……あ、いつさえいなければ」
 見て見ぬ振りをするのは、もう限界だった。
「あいつさえいなければオレはこの国一番の騎士になれた! 富も名声も愛も、すべてオレのものだった! バカな奴らはあいつばかり持てはやしやがって! オレは……オレは……」
 とうとう口に出して認めてしまった歪んだ願い。認めざるを得ず、床に額付きながら拳をきつく握りしめ、ホメロスは愕然とした。呪いに似たおぞましい願いは、確かに心の奥底に澱となって沈んでいたものだ。
 魔の者が高笑いをした。
「そうだ、すべて恨め。この世界の全てはお前の敵だ。お前を認めぬものたちを見返してやれ。弱い自分を斬り捨てよ。信条、友情、愛、全て無駄なものだ」
 押し付けられていた杖が離れていった。恐る恐る顔を上げると、凶悪な笑みを浮かべた魔の者がこちらに向かって手を差し出している。
「さあ、空っぽになったその両腕に力を授けよう。跪いて我に忠誠を誓え」
 目の前に差し出された手を凝視する。もはやそれを跳ね除ける力もなく、震える指先で氷のように冷え切ったその手を取って、手の甲に忠誠の口づけをした。
「我が蟲よ、今こそこの高潔なる魂を食いつくせ」
 魔の者の声が脳裏に響く。ぞわ、と脳内が俄かにざわめいた瞬間、ぱきり、と背後で何かが割れる音がした。
「……そこになにを隠している」
 不穏な声色とともに杖を差し向けられる。黒い炎が杖の先から飛び出して、外套に引火し、それはホメロスの全身を包んだ。
「っ、あああああっ!!」
 熱い、熱い。喉が焼ける。身を溶かす熱さにのたうちまわった。黒い炎の中で踊るように、パチン、パチンと白い火花が何度か散って呑み込まれていく。まるでこの黒い炎に抵抗しているようだ。だが次第にそれも弱まった。
 そのうち熱さを感じなくなって、小さくなった黒い炎が身の内にひゅるりと入り込んだ。
「……ふん、女神の加護か、小賢しい。道理で宿主の侵食が鈍いと思ったわ。だがもうなんの力も残されていまい」
 ナマエのくれた外套は、無残にも黒い炎に燃やし尽くされてしまった。足元に残ったのは黒く焼け焦げた何か。チャームほどの大きさだが、これはいったいなんだったのだろう。

 ……いや、気にする必要などない。
 思考がいやにすっきりとしていた。体に力がみなぎっている。今まで思い悩んでいたのが嘘のような晴れ晴れとした気分だ。今ならこの力でなんでも思い通りにできる気がする。
 過去のどうしようもない自分は、燃え尽きて死んだのだ。
「気分はどうだ」
「とてもいい。生まれ変わった気分です」
 魔の者はふっと満足げに笑って、杖を一振りした。
 あたりを包んでいた闇が晴れる。気がつけば玉座の間に立っていて、ホメロスは自分が今の今まで闇の中に囚われていたのだと知った。
 玉座にはデルカダール王が座し、肘をついてこちらを見下ろしている。否、これはかつてのデルカダール王ではない。
 ホメロスは玉座に向かって膝を折り、恭しく頭を下げた。
「闇の王よ。御名をお教えいただけますか」
「……我が名はウルノーガ、やがて世界を統べるものの名だ。しかと覚えよ」
「ウルノーガ様、我が偉大なる王よ。いまここに、私ホメロスは、あなたの忠実なる僕として忠誠を誓います」
 誓約は交わされた。ホメロスは魔の者に従属する人間となったのだ。これでもう、後戻りはできない。
 もとより今更引き返す気もないが。

 ふいに玉座の間の扉が開いた。
「王? お呼びと聞いてお伺いしましたが……ホメロス、お前こんな夜更けにここで何をしている」
 扉から顔を出したのは参謀の男だ。怪訝そうにこちらを窺うこの男にホメロスは散々こき使われ、理不尽な扱いを受けた記憶がある。
「ホメロス、やれ」
 どうすべきかと王を振りあおぐと、ウルノーガは参謀の方を顎でしゃくった。頷き、立ち上がったホメロスに迷いはなかった。剣を抜きながら無言で参謀の男に近づく。
「待て、なにを」
 男が不穏な気配を察した瞬間、ダンッ、と床を蹴る。一気に跳躍した。人間ではありえない距離を一息で飛び、剣を振る。首の骨を断つ感覚。
 びしゃ、と血飛沫が頬に飛んだ。
「……ふむ。ちょうど今、ひとつ参謀の席があいたな」
 ごろりと床を転がる首を無感情に見下ろし、ウルノーガはホメロスに視線をよこした。
「やれるか? ホメロス」
 白々しく尋ねてくる王に、ホメロスは犬歯を剥き出しにし、凶悪に笑んだ。上等だ。もとよりそのつもりで呼び出したのだろう。
 血に濡れた剣を振り払い、ホメロスは一礼して主人に恭順を示した。
「無論。力の限り、お役に立ってみせます」