第九話
イカロスへの哀歌・前篇





 デルカダールの短い春が終わり、そして再び夏が巡ってきた。ナマエにとっては、デルカダールに来てから二度目の夏となる。
 彼女は成人を迎えて以来、城で催される舞踏会には必ず招かれるようになっていた。王の隣を飾る花のようにいつも控えめに佇んでいた。
 呪われた姫と揶揄されるようになってから、次第に彼女に近づこうとする者達の数は少なくなっていった。彼女に関わると不幸に見舞われる。一連の男たちの不幸がため、そんな馬鹿げた噂がまことしやかに流れ、今ではそれを信じているものたちが大半を占めているようだ。噂を馬鹿げていると評したのは、彼女がこの国に来てから一番側にいたであろうグレイグとホメロスが身を以ていかにこの噂があてにならないかを実感しているからだ。ナマエが恐ろしくないのかと問われても鼻で笑うしかない。
 しかし人の心とは厄介なもので、一度抱いた恐怖はそう簡単には拭えない。虫の一匹すら殺せなさそうなナマエのことを指して、宮廷貴族達は恐ろしいものでも見るかのように遠巻きに眺める。
 誰からも話しかけられず、ダンスにも誘われないナマエがせめて孤独を感じないように、ホメロスはグレイグとともに出来る限り彼女の側に控えていた。彼女が踊らぬのならば自分も踊らぬ、と貴婦人がたの誘いを断ってまで。グレイグが元々踊れないのは周知の事実だが、社交界の華だったホメロスまでもが壁の花であることを敢えて選んだものだから、要らぬやっかみまで買ってしまったのは否めない。しかしホメロスにとってはやっかみなど些細なものだ。どうでもよい人々に愛想を振りまくくらいなら、その時間をナマエのために使いたかった。
 そんなことが続いたものだから、その年の夏が終わる頃にはまた別の噂が立ち始めていた。無論それもナマエにとっては良くない噂だ。


 デルカダール建国記念祭の日。国民たちは皆その日を祝し、街中は綺麗に飾り付けられ、招かれた巡回サーカスが広場に陣取り人々を喜ばせる。街中が賑わうその日、デルカダール城では盛大な舞踏会が催された。近隣諸国から大勢の招待客がやってきて、こちらも街中に劣らず盛況だ。
 招待客の客層は様々だ。長年デルカダールに仕えてきた貴族達はもちろん、地方で権力を握る代々の地主たち、権威ある学者達、そして商売でのし上がった者たち。当然その中には貴族社会の礼儀に疎い者もいる。中でもやっかいなのが、戦の匂いを嗅ぎつけて王に取り入ろうとする武器商人たちだ。彼らは舞踏会で好き勝手に振る舞い、気に入ったメイドを物陰に連れ込もうとしたり、派手に酔っ払って暴れたりとあちこちで小さな騒ぎを起こしているようだ。
 だからその武器商人の男の一人がナマエに挨拶に来た時、ホメロスは自然と警戒せざるを得なかった。武器商人の男は小太りの中年にかかったくらいで、一見ひとの良さそうな笑みを浮かべている。
 ナマエの居場所は今や王の隣ではなく、長テーブルの端のほうに追いやられている。王は一連の噂を否定せず、ナマエを守ろうとはしなかった。つまり王にはもう、彼女を庇護する気はないようだ。ナマエが孤立していようと気にしてすらいない。そんなナマエにどうしてわざわざ挨拶に来るのか、彼女に取り入ってもなんら利はないはずだ。ホメロスは横で酒が回っていい感じで出来上がってきたグレイグの注意を促すように、その脇をつついた。
「ん? どうしたホメロス」
 酒に酔った視線を寄越すグレイグに無言で顎をしゃくる。グレイグの眉が不穏にひそんだ。
 ナマエが静かに立ち上がり、挨拶にきた武器商人の男に会釈をした。男はナマエを見定めるかのように頭からつま先まで舐め回すように眺めた後、自らの名を名乗って片手を差し出した。
「あなたがユグノアの姫君か。これはこれは、なるほどなかなか。噂に違わぬ美しさ。そこなご立派な騎士二人が骨抜きにされるのも頷ける」
 にたにたと粘着質な笑み。男の発言は礼を失するほどではないが、ホメロスとグレイグにとってはあまり愉快なものではなかった。いや、むしろ勝手に関係性を憶測されたようで、不愉快このうえない。だがナマエはあくまで笑みを崩さず、差し出された手を取りながら穏やかに男の発言を窘めた。
「もったいないお言葉、大変恐縮に思います。ですが彼らは私の大切な友人ですので、そのような勘ぐりはおよしくださいませ」 
「またまた、そう惚けなくとも。……愛人なのでしょう?」
「愛人?」
 さっとナマエの表情が陰った時、男は彼女の華奢な手を強く握りしめ、その手の甲に口付けた。一瞬の出来事。
「……っ!」
 冗談ではない。これ以上ナマエを穢されてたまるか。
 気色ばんだホメロスは椅子を蹴倒すようにガタリと立ち上がり、男をねめつけた。その手は剣の柄にかかっている。今すぐにでもこの男を切り刻んでやりたい。しかし今日はめでたい晴れの日だ。今、この場を血で汚す訳にもいかず、ましてや王の招待客に向かって無礼を働いたとあっては最悪王の名を貶めたとして罰せられるかもしれない。男もそんなホメロスの葛藤を見透かすように優越感に満ちた笑みを浮かべてこちらをちらと一瞥し、不安そうに立ち尽くすナマエを仰いで下卑た笑みを浮かべた。
「城中で噂になっておりますよ。あなた様がその美貌でお二人を骨抜きにし、その愛寵を一身に受けているとか。私も是非あやかりたいものですなぁ」
 これ以上なくナマエの貞節を貶める発言。彼女はショックを受けて言葉を失った。
「貴殿いい加減に……」
 とうとう忍耐も限界を迎えたホメロスが一歩を踏み出そうとした時、さっとすみれ色の影が前を過ぎった。
「……おい貴様、黙って聞いていれば一体何のつもりだ!! これ以上不当にナマエ様を貶めるのなら、このグレイグが相手をしてやろう!」
「お、お待ちください将軍、これはただの戯れで……ぐっ!」
 今まで隣で大人しくしていたグレイグがやおら男に掴みかり、怒りもあらわに怒鳴りつける。激昂する将軍を前に男が今更になって慌てても遅い。メキ、と嫌な音を立てながら、酔ったグレイグの加減を知らない馬鹿力に殴られ、男は無様に吹き飛んでテーブルやら料理やらが巻き添えになった。
 周囲の人々がこの乱闘騒ぎにざわめきはじめる。それにも構わずグレイグは倒れこむ男の元へゆっくりと向かうと、手を伸ばして引っ立てた。
「おい……この程度で音をあげるなど許さんぞ。今から俺がその貴様の腐った性根を叩き直してやる。立て!」
「ひ、ひい……お、お許しください」
 ぼたぼたと流れる鼻血を抑えつつ、男が必死になって許しを乞う。どうやら鼻の骨が折れたらしい。が、怒りに燃えるグレイグは最早生半可な謝罪程度では止められない。
「グレイグ様いけません! ホメロス様お願いお止めして!」
「止せグレイグ、王の御前だぞ!」
 ナマエの制止を求める声にはっとして、ホメロスはすんでのところでグレイグの拳をなんとか止めることができた。
「皆様、どうなさいましたか。……将軍? これはいったい」
 ようやく駆けつけた衛兵が、鼻血を流しながら怯える男と興奮した様子のグレイグを見て、一体何が起こったのかと戸惑ったようにホメロスの方を窺ってきた。どう説明すべきか。ホメロスは逡巡し、玉座の方を一瞥すると、王の見放すような冷たい視線が男に注がれている。どうやらこの男の体裁を気にする必要はないらしい。
 体を張ってナマエを守った友の名誉を守らんがため、ホメロスは床に座り込む男を遠慮なく引っ立て、遠巻きに眺める観衆に向かってこう告げた。
「皆さま、お楽しみのところをお邪魔してしまって申し訳ない。ですがこの不逞の輩がこちらの女性の名誉をいたく貶めたため、我ら王に忠誠を誓う騎士としてこの男の横暴を見過ごすことができませんでした。この輩がこちらの制止も聞かず、止むを得ず手を出さざるを得なかった状況であったことをどうかご理解いただきたい。しかし、このようなめでたき日に騒ぎを起こしたことについては、平に謝罪させていただく所存です」
 芝居掛かった仕草で恭しく頭を下げる。多少話を大げさに盛ったせいか、首を抑えられている男が不満げにもごもごと何事かを呟いた。
「ふん、やはり所詮は野蛮な武器商人か」
「流石はグレイグ将軍ですわ。女性の名誉を守るためとはいえ、保身を気にせず体を張るなど中々できないことですのに」
ナマエ様も災難ね。でも素敵な騎士様に守ってもらえるなんて、これぞ怪我の功名というやつかしら」
 ホメロスの言葉に納得したのか、人々は口々に男を蔑み、その口でグレイグを褒め称える。人の心は移ろいやすい。人心掌握など容易いものだ。ホメロスの発言一つで、完全にこの場の人々はこちら側の味方だ。ナマエに同情する声すら上がっている。
「わ、私は、王に招かれた、客だぞ。こ、これ以上の、侮辱は……」
 それでもまだ男は抗う気らしい。しかし聞こえるか聞こえないか程度の小声で反論する男が滑稽でたまらない。ホメロスはくつりと喉の奥で笑い、青くなって震える男に耳打ちした。
「おいお前、鼻が折れただけで済んで運が良かったなぁ」
 ひ、と男の顔が引きつり、表情が恐怖に染まった。
 ホメロスはそれを愉快そうに眺め、男の耳元でさらに毒づいた。
「グレイグに感謝するんだな。あいつが先に飛び出してなきゃ、こいつがお前の喉を掻っ切っていたぞ」
 ホメロスが指し示したのは、腰に下げた愛用のプラチナソード。
 本気だった。
 グレイグが先に飛び出していなければ、ホメロスは本気でこの男の急所を狙っていただろう。


 男を衛兵に引き渡し、グレイグもまた騒ぎを起こした当人として連れていかれた。ただしこちらは事情確認の意味合いが強い。人々の手本となるべき将軍が王の御前で騒ぎを起こした手前、なんのお咎めもなしというのはありえないが、おそらくは軽い謹慎程度で済むだろう。
 再度玉座を窺うも、王はすでにこちらに興味を失ったように別の招待客と歓談していた。ほっと息を吐き、そこでナマエの存在を思い出す。
 振り返ると、すっかり置いてけぼりの様子のナマエが手を胸の前で握り所在無さげに立ち尽くしていた。人々の好奇の視線に耐えられず、縋るようにホメロスを見つめてきた彼女にまず心に浮かんだのは優越感だ。今、この場にナマエが頼れるのは自分しかいないという優越感。
 腹の底から湧き上がる笑いを噛み殺し、ホメロスはナマエを誘い出すべく手を差し出した。
「すこし、静かなところへ行きましょう。こちらへ」
「……はい」
 あからさまにほっとした表情を浮かべ、ナマエがその手を取る。従順な様子の彼女が愛しくてたまらなかった。
 ナマエを連れ出した先は、ひとけのないバルコニーだ。ガラス戸を隔ててしまえば舞踏会の喧騒が一気に遠のいた。
 美しい月夜だった。秋の匂いを含んだ穏やかな風が、樹々を静かに揺らしている。さらさらと葉擦れの歌声。
 バルコニーの手すり近くまでエスコートすると、ホメロスはふいに思い出したようにナマエの手を取った。胸元を飾っていたハンカチを抜きとると、失礼と一言断って、おもむろに彼女の手の甲を拭う。先ほどあの憎らしい男が口付けたところだ。
「ホメロス様、少し、痛い……」
「綺麗にして差し上げているのです。我慢してください」
 時間が経っているため今更拭き取るもなにもないが、ナマエの心を翳らせた男の痕跡を綺麗さっぱり消したくて、少し強めに拭き取る。ホメロス自身、まだあの男を許してはいない。同様に、あの男のいいようにナマエを汚させた自分のことも。
 ナマエは次第にホメロスのそんな心情を察したのか、黙ってされるがままになっていた。擦られる手の甲が次第に赤くなっていく。
「……私が何をしたっていうのかしら」
 ふいに、ぽつりと。
「人並みに幸せになれると思っていたのが間違いでした」
 ナマエの口から弱音がこぼれた。ホメロスは手を止め、彼女を窺う。
 ナマエは泣くのを我慢するかのように遠くをじっと見据えていた。だがその大きな瞳いっぱいに溜まった涙が、今にもこぼれそうになっている。
「あ……ごめんなさい。つい愚痴を零してしまいました。あなたの前だから、少し気が緩んでしまって」
 ホメロスの手が止まってしばらく、ナマエが見られていることに気づいて慌てて涙を誤魔化そうとする。だが瞬きすればすぐに流れ落ちる涙はどうあっても誤魔化しきれず、ナマエは恥ずかしそうに微笑んだ。なんでもないことのように指先で涙を拭い、忘れてください、とホメロスに向かって告げる。
 その健気さが、今夜ばかりは愛しい。ホメロスはナマエの涙には触れず、一歩下がってお辞儀をし、手を差し伸べた。
「よろしければ、踊りませんか」
「え……。ホメロス様、踊れるのですか?」
 唐突な申し出にきょとんとするナマエの無邪気な言葉に、ホメロスの自尊心は少しばかり傷ついた。
「心外な。これでもダンスのエスコートは得意な方ですよ」
「ごめんなさい。だってホメロス様が踊っているところを見たことがなくて」
 てっきり踊れないものだとばかり。ナマエの声が申し訳なさそうに尻すぼみになる。まさかグレイグと同列に扱われているとは思わず、ホメロスはがっくりと肩を落とした。
「……はぁ、まあいいでしょう。それで、踊るんですか? 踊らないんですか?」
「あ、つ、謹んでお誘いをお受けします……」
「ふっ……後悔はさせませんのでご安心を」
 ホメロスはたじろぐナマエに向かって、自信満々の笑みを寄越した。


 舞踏会場から流れてくるゆったりとしたワルツの音楽に乗って、静かに踊り出す。くるくると床に円を描くようにリードした。ナマエは流石に慣れたもので、踊り出してすぐにホメロスのリードに安心して身を任せてきた。
 腕の中、安心しきったように見上げてくるナマエの瞳が堪らなく心をかき乱す。この手を手放しがたい。華奢な腰を掻き抱いて、もっとナマエを近くに感じたい。願わくば、この音楽が鳴り止まねばいい。そうしたらずっと永遠に彼女は自分のものだ。
 グレイグになど渡さない。ナマエを守るのはホメロスの役目で、彼女の肌を暴くのも自分だけだ。
 叶いもしない願いをひっそりと抱えながら、紳士然とした笑みで誤魔化しステップを踏む。
 人並みに幸せになれると思っていたのが間違いだった。先ほどの彼女の言葉。そっくりホメロスに当てはまる。
 もともとこれは実ることのない恋だ。それは分かっている。だがどこかで諦めきれずに、ずるずると想いを引きずってばかりいる。親友との友情を優先し、この想いを告げる勇気すらないくせに、自分勝手にナマエを振り回して。あげく勘違いを起こしそうになっている。
 叶うと思うな。
 逸る想いを抑え、自分に言い聞かせる。
 彼女を幸せにしたいなどと、ゆめ思うな。
 だがそう必死に言い聞かせる努力も虚しく、満ち足りた笑みを浮かべてこちらを見上げてくるナマエの眼差しに理性はあっけなく揺らいだ。先ほどの涙で彼女の眦は赤く染まり、潤んだ瞳にはホメロスただひとりが映り込んでいる。男を誘う魔性の眼差しがあるとすれば、きっとこういうことを言うのだろう。
 幻聴が囁いてくる。
(”……その女はお前を誘っている”)(”あの男の言う通り、貞淑な女などではない。おまえと友を天秤にかけ、利を得ようとする計算高い悪女だ”)(”ためらうことはない。その女はおまえの献身に対して礼をする義務がある。……さあ”)(”――さあ、奪ってしまえ”)
 違う、彼女はそんなひとではない。
 脳裏に響いた自分の声にはっとする。よからぬ思考に気を取られ、我に返れば互いの体温を感じられるほど、体が密着している。目の前にあったナマエの美しい瞳に星々が散りばめられていて吸い込まれそうだった。じっと見つめると、次第にナマエの頬が染まっていくのがわかった。嫌ならば目を逸らせばいいものを、生真面目な彼女は見つめた分だけ見つめ返してくるものだから今度こそ本当に勘違いを起こしそうだ。ああ、面映ゆい。
「……そのような顔をされると、男は勘違いを起こしますよ」
 鼻先が触れた瞬間、これからすることに対する免罪符のようにホメロスは囁いた。もう限界だった。コルセットによって締め上げられた頼りない細腰にまわした腕に力を込め、彼女の上体をぐっと押し上げる。きつく寄せられた柔らかな胸がホメロスの胸板に押し付けられ、やや忙しなく上下していた。今一度ナマエを見る。ホメロスの異変に気づいてか、少し怯えまじりの視線が突き刺さった。だが、今更ためらい程度の怯えでは、この衝動を止められるものではない。
 これから行うことは、友に対する裏切り行為だ。それを自覚して、なお行為を止めることができない。
 半開きになった瑞々しく潤んだ唇が、こちらを艶やかに誘っている。蜜に誘われる蝶のように、その唇を封じようとしたその時。
 ナマエの表情が急に強張り、すっと顔を背けた。無言の拒絶。ホメロスはしばし呆然となり、彼女の腰を抱いたまま綺麗なラインを描く横顎を見つめていた。
 拒絶された。その事実を受け入れるまで、しばらく掛かった。襲ってきたのは苛立ちではなく、虚無感。ややあって、ホメロスは力なくナマエを解放した。
「……ごめんなさい」
「いえ、……別に謝ることでは」
 解放されたナマエは少し距離を取って、白々しくも謝ってくる。何に対する謝罪かは、言葉にしなくとも伝わった。
 感情を殺しておし黙るホメロスに対し、彼女は弱々しく微笑んだ。
「久しぶりに素敵なダンスに誘われて、柄にもなく浮かれてしまいました。……ダメですね、こんな風にあなたに甘えてばかりだから、愛人だなんて誤解されるんだわ」
ナマエ様、」
 ホメロスは遅まきながら、彼女の拒絶の理由に思い至って言葉を詰まらせた。迂闊だった。あんな騒ぎがあった手前、そうそう浮かれた事はすべきではない。それなのに、自分の感情を優先してナマエに我儘を押し付けようとしていた。それが彼女に追い打ちをかけてしまったのか。

 ナマエは後ろめたさを誤魔化すかのように、ホメロスに背を向けた。
「……グレイグ様、大丈夫でしょうか。罰せられたりしないといいけれど」
 グレイグ。彼女の唇から不意に溢れた友の名に、横っ面を張られたような衝撃が襲った。夢から醒めたような心地だった。
「グレイグ。――はっ、グレイグか」
 先ほどまで胸を支配していた虚無感が綺麗さっぱり消え、代わりに湧き上がってきたのは怒りだ。今この場で、別の男の名を持ち出すナマエが今は憎らしくて仕方がない。しかもよりによってグレイグだ。なんと軽薄な女なのだろう。腹立たしい。
 同時に思い知らされる。ホメロスのことなど、はなから眼中にないのだと。
「軽い謹慎くらいは食らうでしょうが、すべてはあなたの名誉を守るため。騎士としては当然の行いだ。王もそれをわかってくださるだろうし、まあ大丈夫だと思いますよ。心配なら後で顔を見に行ってやってはどうですか?」
 お決まりの皮肉げな笑みを貼り付け、投げやりに言い捨てる。ホメロスの態度が一変したことに戸惑うナマエを、冷たく一瞥して。
「……もしかして、グレイグと踊りたかったですか?」
「え?」
「そうか、はは、そうだったな。オレとしたことが、まったく気が利かなくて申し訳ありません。ナマエ様もオレが愛人だなどと噂されてさぞ不愉快な思いをされたでしょう。噂が静まるまで、少しあなたとは距離を置いた方がいいだろうな」
「あの、ホメロス様? 待ってください」
 慌てたナマエが何かを言いかけようとするのも無視し、ホメロスは芝居掛かった仕草で一礼した。
「迂闊なオレをどうかお許しください、あなたの貞節を貶める気はなかったのです。心配しなくともオレはもう二人の邪魔はしませんので、安心してください」
 早くナマエの元から離れたい一心で、踵を返す。舞踏会場へ戻っていつも通り請われるがまま貴婦人方と踊って、飲んで、名も知らぬ女と一夜を明かして全てを忘れたい。なにも思い悩むこともなかった頃へと戻りたい。惨めな自分を、これ以上直視したくない。
 こんなのは、自分ではない。こんな惨めな男は――。
(”だから言っただろう”)(”思い通りにならない女など、ころしてしまえと”)
「ホメロスさま待って!  どうか話を聞いて……!」
 ナマエの必死の制止が虚しく響く。
 頑なに心を閉ざしてしまった今のホメロスの前では、ナマエの涙ですらも無力だ。