第七話
忍び寄る悪意・前篇





 原因不明の体調不良で倒れてからひと月が経った。あれから体の方は別段不調もなく、ホメロスはいつも通りの日常を送っていた。
 ただ時折、耳元で囁き声が聞こえてくることがある。振り返ってもだれもいないため、幻聴かなにかの部類のようだ。違いと言えばそのくらいだが、幻聴が聞こえるなどと誰に相談できよう。倒れた際に頭を打ったか、または本当に寝不足が祟って頭がいかれたか。なるべく無理はしないように気をつけているが、一向に改善はしない。
 それがなんら害のない幻聴であればよかったのかもしれないが、そうではなかった。
(”あいつはおまえの首を狙っている。やられる前に首を切ってしまえ”)
(”あの男はおまえを嘲笑っている。友に置いていかれた無能だと。あの不愉快な口を切り裂いてしまえ”)
(”おまえは勘違いをしている。おまえはなんら有能などではない。ただ無駄に自尊心ばかりを肥やした、大海を知らぬ哀れな蛙だ”)

 まるで目があった人々の心に潜む秘密を見透かすような囁き。
 悪夢を煮詰めたような、悪意を凝縮したような。敵意に満ちた囁きが頭の後ろから聞こえてきた日には背筋が凍りそうになる。もしや呪いの一種かと司祭に相談したが、おはらいもあまり効果はなかった。
 不安なことに、その声も日増しに大きくなっているようだった。


 なんの手立てもないまま、日々が過ぎる。
 その頃デルカダールでは、ある変化が起きていた。
 賢君と呼び声高かった王。善政を敷き、国民たちからも愛される王。民が幸福であることを政の第一とし、その施策は無法者たちが多く集まるデルカダール下層の不法住民達にも及んだ。兵を巡回させ治安をよく守り、子供達には無償の教育を施した。
 そんな王が、突如として下層への援助を打ち切った。下層の健康な若者達は半ば強制的に徴兵され、上層の住民達にも軍を増強するという名目のもと増税を実施した。いまや城下町のいたるところに、兵募集の張り紙があった。増兵の目的は、おそらく悪魔の子だろう。草の根分けてもあの赤子を探し出すつもりらしい。

 そんな折、悲惨な事件が起こった。デルカダール周辺地域、及びユグノア地方において、複数の孤児院が魔物に襲撃されたという。デルカダールへ救援を求める報が届いてすぐに、グレイグが救援隊を選抜し現地へ派兵した。
 ホメロスは数人を率い、少人数で使用可能な移動魔法ルーラでグロッタの町まで飛び、そこから馬を手配してすぐさま孤児院へと駆けた。
 滝の下流にある孤児院に駆けつけると、入り口に管理人とおぼしき人間の遺体があった。無言で他の兵と視線を交わし、建物の方を見やる。どうやらこの分では生存は絶望的のようだ。
 まだ周囲に魔物が残っている可能性を考え、二人を周囲の警戒に当たらせ、残った兵で孤児院の建物へと向かった。建物に近づくにつれ、すえた匂いが鼻をつく。
「うっ」
 剣を構え、半開きになっていた扉を警戒しながら押し開くと、襲ってきた匂いに思わず顔を覆った。
 建物の中は凄惨を極めた。壁には無数の血が飛び散り、家具や食器は倒れて割れ、人間の一部だったものがあちこちに転がっている。
 救援隊の兵は皆、むごい惨状に言葉を失くしていた。我慢できずに、外へと飛び出した兵もいた。
 おそらく救援の要請を出してすぐに皆殺しにされ、子供達は食われたのだろう。死後数日が経っているようだった。

 結局なんの成果も挙げられず、遺体を埋葬して一行は帰還した。
 ホメロスはデルカダールへと戻り、他の救援隊の帰りを待って報告を取りまとめた。一番最後に帰還したグレイグの芳しくない表情を見て、どうやらどこも同じ状況であったことを察した。
「やはりそちらも、手遅れだったか」
「ああ、ひどいものだった……いずれも無惨に食い殺されていた」
 未来ある子供達の尊い命を救うことができず、忸怩たる思いでグレイグは固く拳を握った。
 救援隊の帰還を迎える大広間は、いつもの賑やかさはどこへやら、どこか物々しく暗澹としている。あちこちで荷物を整理する兵士たちの表情は暗い。
 どうやら兵士たちの士気が落ちているようだが、こればかりは仕方のないことだ。グレイグは兵士たちに労いの言葉をかけてやり、各々ゆっくりと休息を取るよう命令した。
 そんなグレイグをホメロスは壁際に手招きし、小脇に抱えていた携帯用世界地図をグレイグに見えるように拡げた。地図上にはところどころ赤い印が付いている。
「お前の帰還を待つ間に先に報告を取りまとめておいたが、どうやら今回、川沿いの孤児院が同時期に複数箇所襲撃されたようだな。これを見ろグレイグ。ユグノアからデルカダールに至るまでの川沿いの孤児院が襲撃の対象となっている」
 説明しながら、ホメロスは赤い印を指でなぞった。ユグノア王国からデルカダール王国領内までを流れる川沿いに、赤い印、即ち今回襲撃された孤児院が集中していた。
「なんと! まさかとは思うが、ユグノア王国を襲撃した魔物の残党か?」
「その可能性もあるな。川沿いに南下して兵を派遣すれば魔物の足取りをつかめるかもしれない。それに、さらに下流にはまだ孤児院が複数点在している。これがデルカダール国内の孤児院のリストだ」
 抱えていた書類をグレイグに手渡すと、彼はホメロスが言わんとしていることを察して膝を打った。
「おお、さすがはホメロスだな。つまりそのどれかが次に襲撃される可能性があるわけだ。よし、襲撃対象となりうるところを地図で精査して、早速兵を遣わそう」
「戻ったばかりのところすまないな」
 労いの言葉に、グレイグは目元に疲れを滲ませながらも精悍に笑った。
「構わん、これも仕事のうちだ。それに今度こそ、奴らに先回りして一矢報いることができるやもしれんしな」


 一度自室へと戻るグレイグを見送り、さて自分ももう一仕事しようと踵を返したホメロスは、階段の踊り場に立ち尽くしている人物を認めて足を止めた。
ナマエさま」
 名を呼び、ホメロスはわずかに眉をひそめた。これはまずいタイミングで出会ってしまった。もしや先ほどの、ユグノアに関する明るいとは言えない話題を聞かれてしまっただろうか。ナマエの色のない顔を見るにおそらくは、是。
 ホメロスさま、とナマエは恐る恐る一歩踏み出し、それ以上進むのを怖がるかのように立ち竦み、俯いた。
「申し訳ありません。聞くつもりはなかったのですが、聞こえてしまいました……。ですが今の話は、孤児院が襲撃されたというのは本当ですか?」
 震える声で問われる。ホメロスは頷くしかなかった。
「はい」
「ユグノア国内の孤児院も?」
「はい」
「川沿いの孤児院というと、南東の滝の下流にある、あの孤児院のことでしょうか」
「……はい」
 息を飲む音がした。
「……。食い殺されていたと、みな……」
「……はい、その通りです。力及ばず、誠に申し訳ありません」
 ナマエの心中を察して、ホメロスは深く頭を下げた。戸惑う気配。ホメロスの不義理を赦す言葉は、流石にすぐにはかけられなかった。
 ややあって、ぽつりとナマエが呟く。
「別にあなたをせめているわけでは、……っ」
 不自然に言葉が途切れたことを不思議に思って顔をあげると、ナマエが顔を真っ赤に染め、今にも泣き出しそうな表情を両手で覆ったところだった。ナマエがその場で崩折れそうに見え、思わずホメロスが駆け寄ろうとしたがそれを片手で制され、しかし堪え切れなくなってかナマエは体を翻した。
ナマエさま!」
 追うべきか、そっとしておくべきか。
 逡巡は、一瞬だった。

 翻る彼女のドレスの裾を見失わないように追いかけて、ナマエが飛びこんだ先を確認し、今度はそっと足を踏み入れる。
 誰もいない中庭の一角にある大きな樹を照らすように柔らかな陽光が差し込んでいる。
 その木の根元に、ナマエはいた。木の幹にもたれかかるように、全てを拒絶するかのようにこちらに背を向け顔を覆っている。
 その震える背中を眺めながら、陽の光に照らされて輝く髪が、場違いながらもとても美しく思えた。
 ナマエへと近づく。今度は地面を踏みしめる音をわざと立てながら。ナマエがぴくりと微動したが、こちらを振り向くことはなかった。彼女はホメロスの存在に気づいているはずだ。気がついていて逃げ出さないということは、少なくとも拒絶はされていないということだ。
 その事実に背を押され、ホメロスはナマエの側に膝をついて、そっとその細い肩に触れた。
ナマエ様」
 びくり、と肩が跳ねたと思えば、ナマエがぱっとこちらを振り返った。瞳が涙に濡れて星のように輝いている。ホメロスを認めたナマエはひゅっと息を飲んだあと、こみ上げる感情に顔をくしゃりとさせ、しかし泣き出した顔を見せまいとして首を背けようとした。
 その瞬間、肚の底から湧いてきた熱い感情がホメロスを突き動かした。
 自分は、傷ついた人間を慰める手など到底持ち合わせていないと思っていた。今までは。そんな面倒ごとに首を突っ込むくらいなら、戦術書に向き合っていた方がマシだとさえ。
 だが今なら、なんの見返りも求めずに弱きものに手を差し伸べるものの気持ちがよく分かる。目の前の悲嘆に暮れる少女を、抱き寄せられずにはいられない。温もりを分け合うように、彼女の抱える悲しみを分けて欲しかった。
「失礼を」
 一言断って、ホメロスはさっとナマエの肩を包み、自らの胸に抱き寄せた。
 予想外のホメロスの行動にナマエが一瞬固まって、離れようとして腕を突っぱねた。
「っ、はなして」
 弱々しい抵抗など無意味とばかりに、ホメロスは強張るナマエの腕やら肩やらを宥め、次第に脱力していく彼女の頭をそっと抱えた。それでも最後の抵抗とばかりにいやいやと首を振るナマエの耳元で、柔らかく囁く。
「大丈夫ですよ。ここにはオレ以外誰もいません」
 その一言に促されて、ひくり、とナマエの喉がひくついた。
「、う」
 感情の爆発を堪えるナマエの顔はもうどこもかしこも真っ赤だ。ややも嗚咽を堪えようとするナマエの強張った背を、ホメロスはあやすようにさすった。
「いいから、我慢はするな」
 彼女の限界はそこまでだった。
「う、……っ、ぅぁああぁ~ん!」
 ナマエはまるで癇癪を起こした幼児のようにわんわんと声をあげて泣き出し、ホメロスにすがりついて思う存分彼の衣服を涙で濡らした。今まで堪えていたものの堤防が堰を切って溢れ出したようだ。しゃっくりをあげながらも泣くことを止められないナマエを、ホメロスは黙って抱きしめていた。
 わたし、とナマエが未だ涙に濡れる声で切り出した。
「私、あの孤児院には度々慰問に訪れていて、行くたびにみんなあたたかく歓迎してくれて。みんないいこたちばかりで……っ!」
 言葉に詰まりながら、無念を訴える。
「ほんとうにいい子たちばかりだったの、それなのに」
 ホメロスの脳裏に、孤児院で見た残酷な光景が浮かぶ。子供達の命を、ナマエの大切な思い出を、助けられなかった。ギリ、と密やかに歯噛みして、ホメロスは半目を伏せた。
 ふいに、腕の中の体がくたりと脱力した。気を失ったかと焦って目をやれば、ナマエが茫然自失の状態で虚空を見つめていた。
「……私だけ、なんで生きているのかしら」
 ぽつりと呟かれた言葉。
「――連れていってほしかった……」
 投げやりな言葉に我慢しきれず、ホメロスは感情のままにナマエの両肩を掴み、彼女の瞳を覗き込んだ。
ナマエ様! 馬鹿なことを言わないでください。オレとグレイグを置いていくつもりですか」
 思いがけない叱咤にナマエはびっくりしたように目を丸くして、不安げに眉を寄せながらおずおずと尋ねた。
「……わたしはおふたりの重荷になっていませんか」
 その問いに、ホメロスはすぐには否とは言えなかった。グレイグならばいざ知らず、ホメロスは確かに最初ナマエとの関わりを極力避けた方が良いと考えていた。面倒ごとはごめんだ。しかし結局関わらざるを得ず、今は好んで関わっているくらいだ。彼女の人柄が心地良いせいもあって、関わるのが苦ではないからだ。
 ホメロスはなんと答えようか逡巡し、ふと彼の衣服をきつく握りしめているナマエの両手に気づいて視線をそこに落とした。
「……あなたの両手に抱えているものはとても重くて、独りで抱えようとするとつぶれてしまう」
 ナマエの強張った両手を包むように握りしめる。
「だからオレ達にその重荷を少し分けてもらいたい。人は皆そうやって、重荷を分け合いながら生きているんですよ」
 誰だってそうだ。一人で生きているつもりでも、実は多くの人に助けられて生きている。そして自分もまた、多くの人を支えていることにも気づいて欲しかった。
「逆に、オレもナマエ様に支えられている部分もある」
「わたしが……?」
 ナマエはホメロスの言葉にきょとんとした後、戸惑うようにゆるく頭を振った。
「私があなたを支えられているなんて、そんなこと到底思えません」
 ホメロスはナマエの不安を、笑って否定した。
「先日、倒れていたオレを助けてくれたのはナマエ様だ」
「それは人が倒れていれば誰だって助けようとするものです」
「オレのためにわざわざこの外套を手作りしてくれた」
「それだってあなたがくれた親切にお礼がしたかっただけで……」
 やはりホメロスの言葉を信じきれないのか、ナマエは自信なさげに俯いた。
「私なんか、迷惑をかけてばかりで」
「ご自分を卑下なさるのはやめてください。オレはあなたのことを、」
 続けようとして、頭が真っ白になった。いま自分は、なんと続けようとした? 分からない。鮮やかな色のついた感情が荒波を立てて寄せてくる。ホメロスの足を容赦なく掬おうとしてくるのを、彼は必死に耐えた。この胸に溢れる感情は、決して認めてはいけない感情だ。それだけは分かった。
「……尊敬している」
 凍りついたホメロスをナマエが不思議そうな顔をして見上げてきたので、誤魔化すように言葉をしぼりだす。そう、尊敬している、自分は彼女を。あくまで友人として。
 自身に言い聞かせるように納得させ、ホメロスは気を持ち直してナマエを見つめた。
「どんな絶望の淵にあっても、自らの足で立とうとなさるあなたはとてもご立派だ。あなたの我が国での立場がとても辛いものであることは重々承知の上で、あえて申し上げます」
 ひと呼吸置いて、ナマエをまっすぐと見据える。
「生きることを諦めないでください。あなたがユグノア王家の生き残りであることなんかどうだっていい。オレはあなたという一個人の友人として、あなたに幸せになってほしいと願っている。謂わばこれはオレのわがままだ。でもあなたはお優しいから、オレのわがままをきっと聞いてくださるに違いない。そうでしょう?」
 半ば確信を持って言い切る。人の善意を当てにした狡猾な言い回しであるとは分かっていたが、こんなふうに押されれば目の前の相手は頷かざるを得ないことを知っていたからだ。
 ナマエはホメロスの言い分に呆気に取られ、ぽかんと半口を開けていた。
「つまり、ホメロスさまのために、生きろと?」
「……まあ、グレイグのためでも構わないのですが」
 そう言い直されれば、柄にもないことを言ってしまったと急に恥ずかしくなってホメロスはふいと顔を背けた。
  ぷ、と吹き出す音が聞こえた。
「どうしてそこで照れるんですか。おかしな方」
 振り返れば、ナマエがくすくすと可笑しそうに笑っている。どうやら照れ隠しなのはお見通しらしい。まったく敵わない。笑われたのは不本意だが、ホメロスはナマエの笑顔にひとまずほっとし、彼女の顔に残る涙の跡を拭こうとして、ふとハンカチも何も持っていないことに気づく。
 かといって、女性の涙も拭わずにいるのは失礼だ。ホメロスはしばし迷い、ふと首元を覆う赤の外套に目を落とした。ナマエが縫ってくれた外套。まだそれほど汚れてはいないはず。……この際仕方がない、苦渋の決断だ。
 一言断り、ホメロスは外套のなるべく汚れてなさそうな部分の布地を引っ張って、それでナマエの顔を拭った。流石に驚いたのか、ナマエが「わぷっ」と声をあげる。
「すみません、ハンカチの手持ちがなくて」
 ハンカチよりもだいぶ目の荒い布地がナマエの繊細な肌を傷つけぬよう気をつけながら、ホメロスは平謝りした。
「外套、役に立って良かったです。この使い方は想定していなかったけれど」
 大人しく顔を拭われながら、ナマエはクスクスと楽しそうに笑った。その顔は先ほどまでとは比べ物にならないほど明るい。これは彼が引き出した笑顔だ。
 つられて笑顔になったホメロスは、おどけた仕草で外套をつんと引っ張った。
「ではこれはナマエ様の涙を拭く専用にしておきましょうか」
「光栄ですわ」
 ホメロスのユーモアに、ナマエは花が綻ぶように微笑んだ。
 そのナマエの顔を眺めながら、思う。この笑顔を取り戻すことができて良かった。彼女が悲しんでいる姿を見るのは忍びない。ナマエにはせめて、穏やかな日々を過ごしてほしい。
(”そうしてその女の歓心を買っていけば、女はおまえに靡き、あの男の優位に立てる”)
(”女の心を手に入れろ。おまえなら容易いことだ。女を服従させ、お前があの男より魅力的であることを知らしめるのは、きっと気持ちがいいだろう”)
(”あの男の目の前でこの愛らしい春の妖精を奪い、散らして捨ててやれ。どんな顔をするか見ものであろうなぁ”)

 ……彼女がこの手が届く範囲にいるうちは、できるだけ守ってやりたい。いつか友が決意を固めて、彼女の手を取るまでは。