第六話
真心を忍ばせて・後篇





 その時だった。
 廊下の向こうからガシャガシャと武具同士が擦れる音が聞こえてきた。音は段々と大きくなっていく。音の主はどうやらこの部屋を目指しているようだ。
「ホメロス! 無事か!?」
 バン、と勢いよく扉が開くと同時に、さっとホメロスが離れる。そして扉の向こうから現れた人物の顔を見る間もなしに、芝居掛かった仕草で肩を竦めた。
「はぁ……やれやれ、見舞いに一番相応しくない奴のおでましだな」
 現れた人物――グレイグは、慣れているのかホメロスのその皮肉げな態度も無視し、友の無事を確認しほっとして顔を綻ばせた。
「良かった、生きていたか」
「人を勝手に殺すな」
 この慣れた二人のやり取りに、ナマエは笑みを抑えきれない。
「……ふふ、お二人は本当に仲がよろしいのですね」
「腐れ縁って奴ですよ」
「ひどいぞホメロス、親友と思っていたのは俺だけか」
 少し傷ついたように眉を下げるグレイグに、ホメロスは不敵に口の端を釣り上げる。その様子からは、先ほどの弱った様子のホメロスの姿はどこにも見当たらない。グレイグの登場と同時にすっかりいつものホメロスに戻ってしまったようだが、友の気遣いを冷たくあしらうのは、恐らく彼なりの照れ隠しなのだろうことはなんとなく伝わった。
「でもまあ、それだけ皮肉が言えるのなら大丈夫だな」
 グレイグもホメロスの態度に慣れた様子で、歯を見せて豪快に笑った。その表情が、ふと顰められる。
「しかし倒れるなんてどうしたんだ。天変地異の前触れか?」
「人をなんだと思っているんだお前は。オレだって倒れることくらいある。……たまにはな」
「だが自己管理を怠らないホメロスが倒れるなど余程だぞ。本当に大丈夫なのか? 一度ちゃんと診てもらった方がいいんじゃないか?」
「大げさだな。なに、実はこの頃新しく手に入れた戦術書を読み解くのに夢中になって、夜更かしが過ぎてしまってな。おそらくそのせいだろう」
「なんだって? ただの寝不足か。まったく人騒がせな」
「ホメロス様、でもあれはただの寝不足などでは――」
 あれが寝不足の症状? そんなわけがない。
 隣で二人のやりとりを聞いていたナマエは、倒れていた時のホメロスの苦しげな表情を思い出し、思わず口を挟んだ。が、ホメロスがそれを制するようにナマエの手をそっと抑え、遮るように言葉を被せてくる。
「そうそう、ナマエ様がオレを見つけてくれたらしい。上長殿より前に見つけてくれて、オレの騎士としての面目を失わずに済みそうだ。寝不足で倒れたなどと知れれば大目玉を食らうからな。姫君には今度礼をしなければ」
 淀みないホメロスの言葉にグレイグは当然疑問を抱くこともなく、実直な青年はまっすぐナマエを見つめて頭を下げた。
「そうだったのか。ナマエ様、友に代わってお礼を申し上げます」
「いえ、そんな。私なんてなにも」
 大仰な感謝の表明に慌てて首を振りながら、ちらりとホメロスを窺う。
 なぜ誤魔化そうとするのか。何らかの意図があって己の症状をグレイグに隠したのだろうが、その意図を問いただせるような空気ではなかった。

 その後すぐにアリサが軍医を連れてきて、診察を受けたところ異常なし、との診断が下された。痛み止めが処方されたくらいで、特に処置はなし。その診断を疑いたくはないが、本当に異常はなかったのだろうか。しかし倒れた当時の詳しい状態を知っているのはナマエくらいなもので、呻き苦しんでいたこと、呼吸器官から血が出ていたことも伝えたが、それも軍医に聞き流されて終わった。今のホメロスが落ち着いてみえるから、あまり真剣に診察する気がないようだ。
 診察が終わった軍医を、体のいい荷物持ちにさせられたアリサが見送っていく。ナマエが不満気にため息をつく横で、グレイグはホメロスに声をかけていた。
「とにかく、お前は今日一日ゆっくりと休め。上長には俺から言っておく」
「すまないな」
「なに、気にするな。あまりナマエ様の手を煩わせるなよ」
「まさか、お前じゃあるまいし」
 ホメロスは友の言葉にふっと鼻で笑う。それもそうだな、とグレイグは笑った。
 どうやら訓練の途中で抜け出してきたようで、また様子を見にくる、と言い残してグレイグは部屋を出ていった。
 それを見送って、ナマエはおもむろにホメロスに切り出した。
「倒れた時の記憶がないことを、グレイグ様にお伝えしなくて良いのですか?」
「自分のことで手一杯な今のあいつに、余計な心配はかけたくありませんので」
「でも……」
 親友だから心配をかけたくない。ホメロスはそう言った。しかし親友なればこそ、包み隠さずさらけ出すべきではないのだろうか。ナマエはそう考える。心配をかけたくないから黙っているという行為には、相手を信頼していないという真意が裏にある。
 ホメロスの回答になおも納得がいかない表情のナマエに、彼は苦笑した。
「大丈夫ですよ。自分の体のことは自分が一番分かっていますから。次はあんな無様なことにならないようお約束します。だからそんな心配そうな顔をしないでください」
 ふっと微笑んだホメロスは、おもむろにナマエの顔へと手を伸ばす。伸びてきた指先が、ナマエの頬にかかるほつれ毛を絡め取ってそのまま耳へかけるように流される。耳は神経の集まる過敏な場所だ。そのような場所を断りなく他人に触れられたことに動揺していると、ホメロスはナマエの心中を見透かしたような笑みを浮かべ、ちょっと小首を傾げてみせた。
「……オレがあなたにそんな顔をさせていると思うと、心が痛む」
 その気障な台詞の、随分と様になっていること。まるで自分がどの角度から見れば一番魅力的に見えるのかを熟知しているようだ。
 溢れんばかりの男の色気に充てられ、ナマエはしばし硬直した。こんな気障ったらしい台詞に対して、なんと答えればいいのだろう。正解がわからない。おそらく心配性のナマエを和ませようとしての言動なのだろう。気遣いは嬉しいが、もしホメロスが気の利いた返しを期待していたのなら、まったくの力不足である。
「ええと、あの、私……」
ナマエ様?」
 まごつくナマエに、ホメロスが怪訝そうに眉をひそめる。
 今日は予想外のことばかりで、ナマエのキャパシティはとっくに容量オーバーを迎えていた。
 ゆえに、このいかんともしがたい状況から逃れるため、話題を無理矢理にでも切り替えようとしたのは仕方のないことだった。むしろ英断である。

「……あっ、そうでした」
 ナマエはホメロスの視線を振り払うように立ち上がると、執務机に置かれたまますっかり忘れ去られていたプレゼントの包みを取りあげ、戻ってそっと包みをホメロスへと差し出した。
「ホメロス様、これを受け取っていただけますか。遅くなりましたが、私が汚してしまった外套の代わりをご用意させていただきました」
 ホメロスは差し出された包みを怪訝そうに受け取り、中のものを改める。一瞬虚をつかれたように目を見開き、すぐに気難しげに顔をしかめた。
「わざわざ気を使っていただかなくとも良かったのに」
「……もしお気に召さなかったら、何か別なものをご用意いたしますが」
 ホメロスの反応は思ったよりよくない。もしかして喜んでもらえるどころか、余計なお節介だっただろうか。ナマエが内心しょぼくれていると、ホメロスはふとある部分に注目した。
「……この刺繍はナマエ様が?」
 指差されたのは、金色に輝く双頭の鷲の刺繍。どちらかというと刺繍が得意なナマエにとっても、これは形が複雑で綺麗に縫い込むのにとても苦労した。なんとか見た目にも問題ない程度まで仕上げたつもりだが、もしかしたら気に食わない部分があっただろうかとナマエは内心動揺しながら尋ねた。
「はい。なんとか見られる程度には体裁を整えたつもりなんですが、やはり不格好でしょうか。一度解いて、本職のかたにお任せした方が良いですか?」
「とんでもない、気に入りましたよ。ありがたく使わせてもらいます」
 微笑んで、ホメロスは広げていた外套を丁寧に折りたたんで膝の上に置いた。
「そう、よかったです。たまにでも使っていただけると嬉しいわ」
 どうやら無事受け取ってもらえたらしい。ナマエはホッとして、ホメロスの膝の上のものに視線を落とした。丹精込めて縫い上げた外套。どうやら仕込んだロイヤルチャームには気づかれなかったようだ。ナマエからのもうひとつの贈り物。あえて外套の中へと隠したそれに、今この場で気づかれてしまうのは流石に格好がつかないので、これでよかったのだ。
 気づかなくていい。否、いつの日か気付いてもらえればいい。気付いて欲しいと願うのは我がままだ。わかっていても、密やかに願うことは止められない。
「……それでは、そろそろお暇いたしますね」
「部屋までお送りできなくて申し訳ないのだが……」
 居心地が悪そうにするホメロスに、ナマエは微笑んだ。
「大丈夫ですよ、そろそろアリサが戻ってくる頃だと思いますから」
 ちょうどその時、扉が開いてアリサがひょっこりと顔を見せた。
「ただいま戻りましたぁ! あーもうあのおじいちゃん人をこき使ってむかつくー!」
 どうやら軍医に良いように使われたことに腹を立てているらしい。ぷりぷりとご立腹のアリサの様子に、ナマエとホメロスは顔を見合わせ、声を立てて笑った。


 ――春の花のような匂いがする。
 ひとり部屋に残されたホメロスは、膝の上に残されたものに視線を落とした。
 鼻先をくすぐるこの匂いは、外套に染み付いた匂いだ。匂いの正体を突き止めようと外套を鼻先まで持っていこうとして、それがナマエの纏う香水の匂いだと気付いて手が止まった。そうと分かっていて嗅ぐのは気が咎める。
 先ほどは気づかなかったが、どうやらいちから手縫いしたようだ。軍の支給のものと、ところどころ微妙に違う。
 女性からの心のこもった手作りのプレゼント。いつもなら面倒に思う気持ちは、驚いた事にこみ上げてくる嬉しさにすぐに掻き消えた。
 ふ、と口元から笑みがこぼれおちる。彼女には敵わない。
 それにしても今日は、友の躍進に嫉妬して気が滅入ったり、気がついたら倒れていたり、加えて歳下の少女の言動に翻弄されたりで散々な一日だった。あまりに無自覚にホメロスを翻弄するナマエを癪に思い、いつもならほとんど口にしないような甘い言葉と駆け引きを大人気なく駆使したあげく、まったく意図が伝わらなく逆に彼女を困らせてしまった。立場上、口説かれた経験などもないのだろう。ホメロスの言動をいちいち真面目に受け取って、困惑するナマエを見るのは正直に言って愉快だったし、反面意図が伝わらないことに腹立たしい気分でもあった。
(”腹立たしい。ああ、思い通りにならないあの女が、非常に腹立たしい”)
「……っ!」
 また、頭痛が病んだ。ぐるぐると思考をかき混ぜられるような、不快な痛み。頭がぼんやりとする。
 言われた通り今日は一日大人しくしているべきかと、ベッドに横になり目を閉じる。
 落ち着かなくて、すぐに目を開けた。少し肌寒さを覚え、膝下に丸まっている外套の存在を思い出し、手を伸ばしてそれを広げた。
 外套に包まれるようにすっぽりと身を包む。春の香りに包まれて、リラックス効果でもあるのか急に瞼が重くなり、ホメロスは胎児のように体を丸くした。
 あたたかい。
 すん、と鼻を鳴らし、彼女の匂いを鼻腔いっぱいに取り込む。
 まるで穏やかな春の陽だまりの中でまどろんでいるようだ。
 ……なんとなく、頭の痛みが和らいだような気がした。