今日も今日とて、ナマエの日々は平穏に過ぎていく……。
――筈であった。
平穏であった筈なのだが、何故か今、彼女は疾駆する馬を軽やかに操る男に必死にしがみ付いている。
本来ならば、午前の検診を終えてのんびりお昼ごはんを楽しんでいるところであったのに。はたまたは、近所のおばちゃん達と井戸端会議でも楽しんでいるところであったのに。
それも全て、一人の男によって全部ぶち壊されたのだ。
その大原因である一人の男とは、何を隠そうこの国の皇帝、ジェラール陛下である。美しいプラチナブロンドを惜しげもなく風に晒し、前に乗せているナマエを片手で抱きながらの馬術はいっそ見事なものだ。あとを追う数人の騎士達も、さすがは皇帝の守護者、惚れ惚れするほどの勇姿であった。
だが、この場合、そんなこと一切ナマエには関係なかった。ナマエにとって重要なのは、彼女の平穏を奪っていたのは紛れもなく皇帝その人と騎士達である、ということだけだった。
それはあまりにも勝手で、唐突な、誘拐劇のごとく。白昼の、一瞬の出来事。
(こいつらは、こいつらは、こいつらは~~っ!)
ナマエは、心の中で滂沱の涙を流していた。
(――私の平穏な日常を、返せ~~!)
高貴な誘拐犯
事の始まりは、彼らが唐突に現れたところから。
午前の診察も一段落した頃であった。突然戸外で、ドカリ、ドカリと乱暴に馬を駆る音がして、ナマエは慌てて外へと飛び出した。街中を乱暴に馬で乗り回すなど尋常ではない、もしやモンスターの襲来かと思ったのだ。扉を開ければ、ナマエの家の前で、ヒヒンと嘶いて数騎の馬が停止しているところであった。見れば、騎士らしき男女が4名。その内の2名の顔に、いやというほど見覚えがあったナマエはギョッとして駆け寄った。
「ど、ど、どうしたんですかっ!? そんなに慌てて、どちらに行かれるんです?」
陛下、と呼びかけると、その人は何故か厳しい表情でナマエを見下ろした。端麗な顔立ちは、まさしくジェラール陛下その人。
「――緊急事態だ」
なにが? と、言う暇も、実際なかっただろう。
「来てくれ、ナマエ」
まさしく有無を言わせず、だった。ぐいと引っ張り挙げられ、瞬く間にナマエは馬上の人となった。「え? えっ? えぇっ!?」と目を白黒させているうち、再び馬は門に向かって走り出した。
瞬時に遠くなる、愛しの自宅。
「え、ちょ、まっ、私の都合は完全無視ですかぁああ!?」
ナマエは訳が分らないまま、白昼堂々、この大胆な誘拐犯に向かって叫んだ。
――そして冒頭に至る。
最初はぷりぷりしていたナマエだったが、まあ、少し時間が経てば頭が冷えるというもので。というより、国の最高権力者である人のすることに、やっぱり逆らえる事は出来なくて。
ナマエは、おもむろに他の面子に目をやった。ジェラールの他は、いつぞやの悪友マールバラがいて、あとを走るのは知らない顔だった。一人は鎧に身を包んだ凛々しい女性騎士、そしてもう一人は、異国の衣裳に身を包んだ騎士だ。
「あの~、お二方、お名前伺っても良いですか? 私、ナマエです」
おそるおそる、馬上から声をかけると、直ぐに返答がきた。
「ディアナです」
「レンヤと申します」
「レンヤさん、ヤウダの人ですか?」
「はい」
レンヤは、穏かに頷く。ヤウダといえば、東にある、異国情緒溢れる国だ。武士と呼ばれるものたちがいて、所謂此方で言うところの騎士にあたる。へえ、と呟いたナマエは、次に気になっていた事を、己を抱える男にぶつけた。
「あの、ところで、緊急事態って、なにがあったんですか?」
ジェラールは、手綱を操りながら、にこりと笑った。
「ああ、ティファールの鉱山で、鉱山夫が次々と正体不明の病に罹っているらしい。そのおかげで、いまや閉山の危機だ。あそこは重要な財産収入源だからな。閉山はなんとしても避けねば」
「ジェラール、病だと何故分る。もしかしたら、また魔石が関係しているかもしれないぞ。せっかく連れてきたその薬師殿も、役に立たないかもしれない。守りきれる自信があるのか?」
隣を駆るマールバラが真面目な表情で続ける。ジェラールは顔を顰め、「あるさ」と小声で答えた。
「魔石って?」
そのやり取りを見ていたナマエが問うと、マールバラは手短に説明してやった。
「ああ、帝国史の記録にな、かなり前になるが、似たような事件があったらしい。その時は魔石の暴走が原因で、魔力の影響を受けた鉱山夫が倒れたと」
「だがあれは、記録によれば、砕いた魔石の欠片を持ち帰って、きちんと保管してあるだろう。今回のは、それとは関係ない。聞けば病状は、流行り病のそれと酷似している。特に呼吸器官のな」
マールバラの言葉を引き継いだジェラールは、にこりと腕の中のナマエに微笑みかけた。
「ということで、優秀な薬師殿の登場というわけだ。我々は、病には詳しくないからな、原因の解明を頼みたいのだ」
「なんだか大変な事を任されたような気がするんですが……」
不安を隠せずナマエが言うと、ジェラールは安心させるように明るく言う。
「そう気負わずともいい。今回は我々だけで様子見するだけだから、本格的な医師団派遣は、また後だ」
そんなら、何で、最初からちゃんとした御医者様連れてこないの?
……とは、怖くていえないナマエであった。あくまでナマエは、街医者程度の知識しか持ち合わせていないというのに。もしかしたら自分は、この陛下に何か大きな勘違いをされているのではないだろうか。例えば何でも治しちゃうミラクル万能薬師とか、万の知識を持つスーパー博学薬師とか。
(あうう、胃が……っ!)
ナマエは、極度のプレッシャーに胃が痛んだ。
帝都アバロンからティファールまでは、かなりの距離がある。
先ほどからずっと馬に揺られっぱなしだったナマエは、そろそろおしりが痛くなってきて、もぞもぞと身動きした。彼女はジェラールを見上げたが、こんな麗しい方に「おしりが痛い」などと恥ずかしくて言えるはずもなく、ナマエは困ったように周りの面子を見渡した。
(皆は平気なんだろうか……?)
するとディアナと目が合って、にこりと微笑まれた。
「陛下、ここら辺で休憩を入れましょう」
――ナイスディアナさん! 彼女の申し入れにナマエは思わず目を輝かせた。
その申し入れにジェラールは手綱を引いて速度を落とすと、辺りをゆっくりと見渡した。整えられた街道沿いには、一面緑のなだらかな傾斜が続き、モンスターの気配もない。近くには小川も流れているようだった。ふと腕の中の存在に目をやり、そこで初めてナマエの疲労に気付いたジェラールは、特に反対する事もなく「そうだな」と頷いた。
適当な樹に馬をつなぎ、各々休憩に入った。
馬から下ろしてもらったナマエは痛む腰を抑え、堪らずそこらへんにごろりと転がった。「薬師殿、もう限界か?」とマールバラが緑に埋もれるナマエを笑っていたが、気にする気力もなかった。ジェラールは苦笑をして、ナマエの隣に腰を下ろす。そして直ぐに、マールバラとともに此度の事件についての詳細を検討しはじめた。ナマエの頭の上を、良く分らない難しい単語が飛び交った。
ぐったり伸びきるナマエに、唯一の女性ディアナは穏かに微笑んだ。
「ナマエ殿、お茶を飲みますか?」
「はい、喜んで。あ、と、何か手伝いましょうか?」
嬉しい気遣いにすかさず顔を挙げると、ディアナは一人てきぱきと小枝やらを集めて火を熾し、銅製のカップやらを用意している。
「いいのよ、ゆっくり休んでいて」
ナマエの申し出にディアナはやんわりと辞退したが、彼女ばかり動いては申し訳ないと思い、おもむろに立ち上がって、薬缶を掴んだ。
「ナマエ殿、どこへ?」
「水を汲みに行ってきます~」
へろへろとした足取りで、小川の方に向かった。「何かあったら叫べよー」と、後ろでマールバラが叫んだ。
小川へは、丘を一つ越えたところにあった。川岸に辿りつくと、しゃがんで水面を覗き込んだ。透明で、光に反射してきらきらと輝いている。これなら飲み水としても大丈夫だ、とほっとしたナマエは、もっていた薬缶を小川に浸そうとして、……そこで水面にぬっと異形のものが映ってぎょっとした。
――え!? これって私の顔!? ……などでは、勿論なく。
「うわっ、モンスター!?」
慌てて振り返ると、背後に現れた獣人型のモンスターが今にもナマエに飛び掛らんとしていた。咄嗟に身を捩ると、さっと体のすぐ横を刃が過ぎって、「ぎゃっ」と声を挙げた。
「ひえぇっ、しょ、召雷っ!」
慌てて頭の中に浮かんだ術を唱える。咄嗟だったのでコントロールが出来ずに、バァン、と周り一帯に雷撃が落ちた。だが強力な術は確実にモンスターを仕留めた様で、目の前には黒焦げのモニュメントが出来上がっていた。
「――何事だ!?」
「あ、マールバラ殿」
音を聞きつけて駆けつけたのだろう、マールバラが血相を抱えてナマエの元に辿りつくと、傍にあるモニュメントに気付いて暫し言葉をなくし、ひゅうと口笛を吹いた。
「……こいつはやるなぁ、ナマエ。すごいじゃないか。街で評判の薬師殿は、実は偉大な術士であらせられたか」
感嘆したように言われ、ナマエは照れたように頭を掻いた。
「あはは、大袈裟ですね。このくらいじゃなきゃ密偵なんてやってられませんよ」
「――は?」
「え?」
マールバラがナマエの言葉に固まったと思ったら、今度は何故かぎょっとしたような表情で彼女を見た。何か拙いことでも言っただろうか。
「……」
「……」
二人は、暫し見詰め合った。
「――密偵?」
ずかずかずか、随分とまあ荒い足取りだ。と、剣の手入れをしていたジェラールは、川から帰ってきた二人がもの凄い形相で一直線に此方に向かってきていることに気付いて手を止めた。
二人がジェラールの元に着くと、お帰り、と言う間もなく、二つの雷が落ちた。
「おいジェラール、一体どういうことだ! こいつが密偵ってホントか!?」
「ちょ、ちょっと陛下! 私が密偵だって皆さんに説明しておいてくれてなかったんですかぁ!?」
その科白に皇帝陛下はきょとんとし、そして悪びれもせずににっこりと笑った。
「ああ、――忘れていた、すまない」
さらり、とそれはもう見事なほどに、二人の怒りは流された。ジェラールは目を丸くする他の二人の方にも向いて、ぬけぬけとナマエの紹介をはじめた。
「ということで皆、ナマエはカンバーランドの密偵だ。害はないから安心してくれ」
――害はないって、一体どこの動物の紹介だ。
傍で聞いていたナマエは、有難い皇帝陛下の科白にツッコミを入れそうになったが耐えた。
予想外の告白にジェラール以外の者は一瞬固まったが、彼一人は全く気にしてないようにのんびりと剣の手入れを再開した。
(あれは天然なのか、狙っているのか……)
ナマエは脱力を隠しきれない。隣のマールバラも、天を仰いでいた。
「陛下ってどこか抜けてますよね」
「あー、あれであいつ、結構苦労はしているからなぁ。それも自己防衛だろう」
マールバラは、苦笑した。
「あいつ、あの見てくれだろ? 女がビビッて近寄れないなんてことザラだったし、男共からはやっかみ。男の嫉妬は醜いぜぇ」
「しかし、恋愛には苦労しなさそうに見えますが」
レンヤがさり気に混ざって言うと、マールバラはいたく真面目な顔で首を横にふった。
「いーや、あいつのおとぼけた性格を知らないからそう思うんだ。あいつはこと恋愛に関しては、数々の伝説を作り出しているんだぜ」
あの陛下の恋愛話。俄然興味がわいたナマエは、身を乗り出した。例えば? と好奇心を隠せずに促がす。
「ガキのころからませた奴で、チビウォッチマンを生け捕りにして意中の娘にペットとしてプレゼントしては思いっきり引っ叩かれたりとか、イーリスに惚れては空を飛べる方法を研究して階から落っこちたりとか」
「はあ……」
ナマエとレンヤは、頷いた。ウォッチマンは確かに見てくれは兎のようで可愛い。だが、間違ってもあれは凶暴なモンスター、プレゼントに適するようなものではない。イーリスに関しても、飛ぼうと思うほうが珍しい発想である。しかし、それはまだ幼い子の可愛い思いつきとして笑える部分があるから良いのだ。
マールバラは、にやりと悪戯気に笑って続けた。
「それはまだ可愛いほうだ。次のは笑えるぜ。学院で知り合った娘に惚れてな、その娘が宝石を湖に落としたって言うんで、あいつは迷わず真冬の湖にダイブしやがった。無事に拾って感謝されたまではいいが、見事に風邪をひいて治ってきてみれば、その娘は別の男とラブラブ。ついでに言うと、振られた理由は、”恥ずかしくって、その顔の隣には立てません”ってな」
「うわ」
ナマエは思わず声を挙げた。憐れだ、憐れすぎる。あの陛下にそんな健気な一面があるなんて。
と、浮かんで来た涙をそっと抑えた時――。
「それで、親友が熱で苦しんでいる間、ちゃっかり彼女を物にしていた奴はどこのどいつだ?」
絶対零度の声が降ってきた。マールバラはぎくりとし、ゆっくりと顔をあげると。
「よ、よう、ジェラール」
引き攣った笑みで、己に剣を向ける元学友の名を呼んだ。
「楽しそうだな? マール」
氷点下の冷やかな笑み。その美貌も相まって、凄まじい迫力だ。マールバラは、危機を察してじりじりと後退しはじめていた。
「へ、陛下」
だがナマエが冷汗をかいて彼を呼ぶと。
「ナマエ殿、此方へおいで。お茶が入ったよ」
――ころりと艶かしい笑みを浮かべ、振り返った。
ディアナが淹れたお茶を飲みつつ、遠くでジェラールがナマエを弄る姿を眺めながら、レンヤはマールバラに問うた。
「それで、先ほどの別の男というのは、もしやマールバラ殿ですか?」
「あー、まあなぁ……」
天を仰ぐと、快晴だった。マールバラは苦笑し、幼い頃からの腐れ縁である悪友を見やった。ジェラールが惚れた娘は、殆んどといって良いくらい、マールバラに近寄ってきた。ジェラールの隣には立てなくとも、せめて近くで彼を見ていたいという複雑な乙女心ゆえんであった。
けれどナマエは、彼の美貌にも権力にもあまり尻込みしない。ビビリながらも彼の要望に対等に応えようとする彼女は、どちらかといえば珍しいタイプの人間であった。
上手く行くといいな、とマールバラは、密かに悪友に向けてエールを贈った。
と、マールバラが暖かく見守る中……。
ジェラールはおもむろにナマエへと手を差し出した。両手で何かを包むように持っている。
「ナマエ殿、ご覧」
「なんですか?」
頭を傾げたナマエに、ジェラールは満面の笑みで被せていた手を開いて見せた。
「ほら、可愛いだろう?」
ジェラールの手の平に隠れていたものを見た瞬間、マールバラはさっと青くなった。
彼の手の中にいたもの、それは。
妖精のような小さな小さな、……モンスター。それは可愛い外見とは裏腹に凶暴で、群れをなせば人一人だって殺しかねない。
現に今だって、ナマエの差し出した指に気付いて、凶暴な牙を向いて今にも齧り付こうとしている。それはもはや、お世辞にも可愛いとはいえなかった。
やばい。あの幼き日の再現だ。ウォッチマンの悪夢が再びやってくる。
「おいジェラール!」
一人慌てたマールバラが止め立てしようとしたが、それは遅かった。「いてっ」という声とともに、ナマエの指はモンスターの歯牙に掛かった。ジェラールが「あ……」と呟いて、うわ、とマールバラが痛そうな声を挙げたが、……しかしどうしたことやら、噛まれた当の本人は、暢気に「あらー」と笑ってがしがしと噛まれている指を上下に揺する。すると、目を回したモンスターがぽとりと地に落ちて。
「あー、ホント、可愛いですねぇ」
指からたらたら血を流しながらも、ナマエはのほほんと笑った。ジェラールがつられて微笑むと、二人は一気に和やかな雰囲気に包まれた。
(――同類だ。紛れもなく同類だ)
瞬間、その場にいた者は、一斉に思ったとか。
後日談。
休憩の後、再び走りだした一行は、数日中にはティファールに着き、原因を調べるため鉱山へと入った。鉱山夫が倒れた原因は、地下に根を張った植物系のモンスターが飛ばす胞子が原因だったらしい。あっさりとそれを退治し、病気はナマエの調合した薬で収まりを見せたようだった。
事件も解決し、さてやっとアバロンに帰れると思ったナマエだったが、しかしそう簡単には離してもらえなかった。意外と戦力になることが判明したナマエは、見回りと称してあちらこちらにつれまわされ、無事にアバロンに帰れたのは、それから約一ヶ月後だった。
世界一高貴な誘拐犯に掴まったナマエは、その後もちょくちょくと攫われ、ついには腹を括って皇帝陛下直属の薬師になることを承知したとか。
――憐れナマエ、一生逃れられない相手につかまってしまったと気付くまで、あと少し。