いろあせぬもの
■注意
「ここからはじまる」の数年後的な感じのお話です。やっぱりオリジナル盛り盛りのため苦手な方はブラウザバックお願いしますん。登場人物のおおよその年齢:夢主15歳/ジェラール17歳/ジェイムズ21歳/ヘクター19歳
――麗らかな春の日だった。
ジェイムズは目の前で咲き誇る色とりどりの花……もとい風にゆらゆら揺れる柔らかそうな髪を見て、一言言い放った。
「なんだその頭は」
その日、ジェイムズはバレンヌ城の中庭に面する回廊である人を待っていた。
中庭には兵士たちのための簡易訓練場が設けられており、射撃や剣の鍛錬などができるようになっている。
時刻はちょうど昼間、天候もよく、穏やかな風が中庭の芝生を優しく揺らしている程度だ。そんな長閑な一時に誰も訓練などくるはずもなく、鍛錬に設置された人形が寂しげにうなだれていた。
と、向かいのアーチから人の姿が現れた。剣を携えた人物は、こんな穏やかな昼時に訓練を思い立った突飛な人物なのだろうか。
しかもあれは己がよく知っている人物である。知ってはいるが、――しかしあの頭の色はどうしたものか。
思わず口をついて出たのは。
「なんだその頭は」
そして冒頭の台詞に至る。
ジェイムズの言葉に振り返ったのは、なんとも派手な出で立ちの青年だった。
青年の名はヘクターと云った。バレンヌの雇われ兵――いわゆる傭兵だったが、傭兵ながらも皇帝に忠誠を誓う頼もしい戦士だ。とはいえ正規の軍とは違い、彼らはあまたの煩わしい軍律に従うことまで強制される立場にない。ゆえにそのスタイルは自由奔放を極めた。
振り返った青年の頭は、つい先日までは、金と茶のまだら頭だったものが、今は青や紫に鮮やかに染めぬかれている。とはいえ、元々派手であったことには変わりがないのだが、また輪をかけて派手になっている。
「よう、ジェイムズ」
ヘクターはジェイムズの姿を認めてにやりと笑った。中庭を突っ切ってジェイムズの元までくると、ご自慢の逆毛を摘んで得意げに鼻をならした。
「良いだろこの色、染めてもらったんだ」
「どこが良いのかさっぱりだ。なんだその滅茶苦茶な色は」
眉間にしわをよせ苦い顔をするジェイムズに対し、ヘクターはやれやれと肩をすくめた。
「堅物のジェイムズ君にはこの良さがわからねぇようだな。要は個性ってやつだよ」
「ああ、まったくわからん」
冷静に否定する。個性は大事というのはわかるのだが、彼の主張する個性というのはまるっきり理解できない。いや、むしろしたくない。
「……ついに頭の外までもが花畑になったか」
「も、ってなんだよ」
深いため息とともにつぶやくと、さすがのヘクターも嫌味だと気づいたらしい。わずかに気色ばむ。
だがジェイムズはあくまで冷静に、否むしろ冷ややかに相対する男を見下ろした。
「そのままの意味だ」
「あんだと?」
それに対抗するように、ヘクターは堅物の男を睨み上げる。お互い、平行線をたどるように、しばしにらみ合いが続いた。
一触即発に見えたが、だがこのような光景は日常茶飯事だ。
先に目線をそらしたのは、珍しくもヘクターの方だった。決して気まずくなってそらしたのではない(彼はこういったくだらない諍いにも譲歩することを嫌った)、何かに気を取られたようだった。
ちょうど今二人がにらみ合っていた回廊の向こう側にも、やはり同じように中庭に訓練場が設けられていたが、その先に内城へと続く回廊が伸びていた。回廊を進んだ先は、一枚の扉を隔てて皇族らの居住区に続く。
二人がいるところから、ちょうどその門扉が開くところが見えたのだ。自然、視線がそちらの方に向く。
ジェイムズが振り返ったとき、ちょうど門扉の奥からでてきたのは衛兵の姿だった。続いて姿を現したのは。
「あ、ボンボン皇子」
と、隣の男の言にジェイムズが眉根を寄せた。ヘクターがボンボンと名指ししたのは、この国の第二皇子であるジェラールまさしくその人だった。
そして、その後ろから姿を現した人物こそが、ジェイムズが待ち人。ミョウジ公爵令嬢、ナマエ。ジェラールより幾つか年若の少女は、付き人に付き添われてジェラールに挨拶をしている。
今日は二週に一度の、「お勉強会」という名の茶会がある日だった。一年ほど前から始まったこの勉強会は、初めはジェラールがナマエに術を教えてもらうという名目で始まったものだったが、いつのまにかジェラールがナマエに教える立場になっているようだ。ジェラールもまだひとつの術も習得できていない。術との相性が悪いせいなのだろうか。それとも素質がないのだろうか。
ともあれ、ジェイムズはこれから彼女を郊外にある邸宅まで送り届ける仕事があった。勉強会が始まってからの、二週に一度の彼の仕事となっている。
和やかに談笑する二人の様子に、ジェイムズは目を細めた。ジェラールとナマエは、まるで本当の兄弟のように仲むつまじい。
ヘクターは、だがそのほほえましい光景にジェイムズとは別の感想を抱いたようだ。
「さすが貴族様って奴だな。お子ちゃまと遊んでやるのがお仕事ってか? いい身分だぜ」
「失礼な口を利くな」
鼻をならすヘクターを、ジェイムズが窘める。ジェラール達とはそう離れている訳ではない、ヘクターの声が彼らに届かないとも限らない。
だが、ジェイムズのそんな気遣いもお構いなしに、ヘクターはわざとらしく声を張り上げた。
「なんだよ、お前だってあの第二皇子様のことは散々に思ってんじゃねえの?」
指摘に、ぐ、と言葉に詰まる。散々に思っているとは云い難いが、確かに一言云ってやりたいことならある。
「……俺は別にあの方が嫌いという訳ではない。努力をしないで逃げているのが嫌なだけだ」
相変わらずジェラールは軍事に関することは苦手としているようだ。だが先日行われた、ジェラールにとっては初めての軍事演習ではなかなかの戦略を見せていたのだから、本来ならばやればできるはずなのだ。だが、それをしようとしない。努力を放棄している、それはジェイムズにとって許し難いことだった。
ヘクターはしかし、茶化すように肩をすくめた。
「おーおー、真面目なジェイムズ君は他人にも自分と同じ努力を求めてるって訳か。厳しいねぇ」
「冗談で言っているのではない。あの方は皇族だ。皇民を守る義務がある」
自然とジェラールを見る目が厳しくなるのは、当然のことだった。
ジェイムズがヘクターを見やる。この男は戦闘に関しては、天才的な面がある。基本的には馬鹿だが、直感的な部分が優れており現場での判断もなかなかのものだ。今は別の男が傭兵部隊を率いているが、彼もそろそろ引退を考えても良い年だ。そうすればおそらく、次の傭兵隊長になるのはヘクターだろう。そして彼は、彼の上に立つ人間は、たとえどんなにすばらしい人間であっても、剣に優れていなければ、ついてはいかないだろう。
そう考えるのは、ジェイムズ自身が思う節があるからだ。
――ジェイムズとヘクターは仲が悪い。一見犬猿の仲のようだが、とはいえこれはこれで馬が合うのだ。要は似たもの同士だった。お互い気に食わない相手同士ではあるが、相手のことを認めてない訳ではない。それに、いざ実戦になった時にはおそらく一番安心して背を預けられる相手なのだ。
だが、彼は貴族嫌いの節がある。ジェイムズも出会い当初はそのことでさんざん突っかかられた。大乱闘の末、現在はお互い少しだけ和解をしてはいるが。ともあれ相変わらず顔を合わせれば、言い合いばかりになる。
ジェイムズ自身は貴族だが次男坊ゆえ、爵位後継問題とはほとんど無縁だ。
「ま、頼れるお兄ちゃんがいるし、自分はのほほんと暮らしてもいいって立場だしなぁ」
のんびりとした調子でつぶやくヘクターに、ジェイムズが釘を刺す。
「いや、皇太子の選出はまだだ。陛下のご決断によってはジェラール様が次期皇太子となる可能性もあるのだぞ」
その可能性は未知数だ。この先どうなるかは誰にだってわからない。
冗談だろ、とヘクターはしかしジェイムズの言葉を真に受けず、へらへらとした笑みを浮かべて首を振った。
「あーないない。それなし。そんなことになったら俺ぜってーこの仕事契約更新しねーぞ。あんな弱腰坊ちゃんの下で働けるかっつの」
いかにも
――ジェラールとナマエの挨拶はまだ続いているようだった。なんだかナマエが必死にジェラールに言い寄り、ジェラールはそれを微苦笑を浮かべながら宥めている。どのような会話が行われているのかはわからない。
ジェイムズとヘクターは、しばしなにくれとなくその様子を眺める。ジェイムズはこの後ナマエの護衛の任があるため、本当ならば彼女の元まで迎えにいった方がいいんだろうが、彼らの会話の邪魔をしたくないのも本音だ。
「で、あのちっこいお嬢ちゃんは何モンなんだ?」
と、平和な光景を眺めるのに飽きたのだろう隣の男が、いかにも興味なさげにジェイムズに聞いてくる。ジェイムズは今度こそ顔をしかめた。
「無礼な口を利くな。次期皇太子妃候補と目されているお方だぞ」
はぁ? と、ヘクターの顔が歪んだ。
「皇太子妃候補ぉ? なおさらろくなモンじゃねーな。あんな可愛い顔して、きっと腹ん中真っ黒だぜ?」
「決してそんな方ではない」
ジェイムズはヘクターの言葉をきっぱりと否定した。
ナマエという少女は、貴族にしては珍しいほどの純朴な性格だ。きっと年頃になるまで領地を出たことがないのが要因だろう。今は帝都にある邸宅に暮らしはじめて2年ほど経つが、中々貴族社会になじめずにいるようだ。
そもそもジェイムズが彼女と初めて会ったのは、数年前の茶会の時だった。ジェイムズは部屋の警護を任されていたが、突然ヴィクトールに呼ばれたと思ったら、小さな女の子の相手をしろと無理難題を云われたのだ。
ジェイムズが仕方なしに入室すると、椅子にちょこんと座っていた少女は、どことなく疲れた様子で挨拶をしてきた。それもそうだろう、ジェイムズが知るヴィクトールは、年頃の女の子相手に喜ぶような話題を豊富に持っているとは言い難い。むしろ、その逆だ。
彼がかけた言葉は一言だった。「災難でしたね」 その言葉に、少女がはにかんだのを覚えている。
『――そうでもないです』
「へっ、どうだかな。上っ面がいいだけかもしれないぜ」
と、ヘクターのつまらなさげな声が、ジェイムズを思案の淵から現実に引き戻した。
向こうはようやく挨拶が終わったようだ。ナマエがジェラールに礼をとり、ドレスの裾を返して付き人とともにこちらに向かってくる。
その様子を目線に捉えながら、ジェイムズは隣の男の言に呆れたため息をついた。
「まったくお前の貴族嫌いは度を越しているな。お前にかかれば、あんな少女すらも悪魔にしか見えんのか?」
「あの子なら、どっちかっつーと小悪魔ちゃんかな」
「おい」
ナマエがジェイムズの姿を認め、少し歩調を速めたようだ。彼女がこちらにたどり着く前に、この無礼な男の口を閉じさせねば。
だが、ヘクターは面白がっているようで、口調はますます滑らかになっていく。
「だいたいお貴族様ってのはよぉ、お気楽なもんだぜ。ろくすっぽ民のことなんぞ考えちゃいねぇ。自分さえよければって奴ばっかりじゃねえか」
「もうそろそろ黙ってくれないか」
この男の言葉で彼女を傷つけるわけにはいかない、ジェイムズは語気を強めた。
……だがナマエは、既に数歩手前で立ち止まってこちらを見ていた。複雑そうな表情。ギクリとした。聞こえていたのだ。
ナマエの様子を察したヘクターは口の端をゆがめ、ますます声を張り上げた。
「権力に媚びへつらうだけしか能がない奴らなんかクソくらえだ。せいぜいがあのお優しい腰抜け皇子様に取りい」
「いい加減黙れッ!」
――ガッと鈍い音があたりに響く。
キャッ、と短い悲鳴。息を呑む気配がした。
ジェイムズの拳をまともに受けたヘクターは、数歩後ろによろめき、足元の段差に足を取られて中庭の芝生に尻餅をついた。が、抜群の瞬発力で立ち上がり、ジェイムズに睨みを利かせた。
「んにゃろう……やりやがったな!」
殴られた時に切れたのか、唇についた血を乱雑にぬぐいながら敵対心をむき出しにする。対するジェイムズは、自ら中庭に降りて目の前の男を煽った。
「それ以上無駄口を叩けないようにしてやろう」
「望むところだ!」
吼えて、ジェイムズに掴み掛かる。ジェイムズはそれを流し、ヘクターの首根っこを掴む。が、振り返ったヘクターが繰り出した拳をまともに顔面に受け、思わずジェイムズは敵のマントを掴む手を離し後ろによろめいた。
好機と見て、すかさずヘクターはジェイムズの顎を捉えようとする、が、拳はあっさり阻まれ今度は先ほどとは逆側の頬に一発食らった。
「くっそ……」
数歩距離を取り、ヘクターは毒気づく。殴られた衝撃で廻る目を、頭を振ってなんとか視界を取り戻す。ジェイムズが軽く息を弾ませながら、鼻血をぬぐっている。ヘクターはにやりとした。
「へっ、ずいぶん男前になったじゃねえかジェイムズ」
「ぬかせッ!」
出し抜けに、胸倉を掴もうとしたジェイムズの腕をぐいとホールドする。そのままヘクターは体を反転させ、自由な方の肘を思い切りジェイムズの顎に叩き込んだ。ジェイムズがたまらず膝をつく。そのままもう一発お見舞したかったところだが、そこはただでは転ばない相手だ。いつの間にかヘクターの膝を捉え、転ばしにかかってくる。
「やべ……! っとと」
なんとかジェイムズの足技から逃れたヘクターだったが、踏ん張りきれなかったのか後ろに盛大に転がった。その勢いを利用してすぐに立ち上がって体勢を整える。ジェイムズもすばやく立ち上がり、油断なくこちらを睨みつけている、と――。
「ナマエ様、いけません」
ナマエの付き人の声のようだった。ハッとジェイムズが臨戦態勢を解く。遅れてヘクターが声の方を振り返ると、質素なデザインの淡いリネンドレスの裾をはためかせ、こちらにやってくる少女の姿が視界に入った。風に髪を靡かせながら、臆することもなくこちらを目指してくる。
ヘクターは、思わず戦意を失った。
「ジェイムズ」
ナマエはヘクターに視線を止めたままジェイムズの元までやってくると、ゆっくりと目の前の男に目線を戻した。ジェイムズがその場でかしこまる。
「お待たせしました、……大丈夫ですか?」
ナマエがレースの飾りのついた真っ白なハンカチを差し出す。ジェイムズは礼を言ってそれを受け取り、鼻から垂れる血をぬぐった。
「いえ、お見苦しいところをお見せして申し訳ありません」
苦々しい顔で謝罪を述べる。いつも冷静なジェイムズにしては、珍しく熱くなりすぎた自覚はあった。
ナマエは微笑んで、ジェイムズが抑えていた鼻の付け根あたりに手をかざしてさっと術を組み立て解き放った。一瞬濃厚な空気が漂い、優しげな光がはじける。癒しの効果を持つ水の術法だ。
――たかが鼻血ごときのために。お優しいお嬢様だことだ。これだからお貴族様ってのは大仰でイヤなんだ。
ちっ、とその様子を見ていたヘクターは、舌打ちして天を仰いだ。なんだか馬鹿らしくなって、踵を返そうとする。
「ナマエ様! およしくださいまし!」
絹の裂けるような声。ヘクターは思わず顔をしかめて声の発生源に振り返った。どうやら回廊の向こう側で真っ青になっている少女の付き人が発生源のようだ。と。
「あ?」
ヘクターは思わず我が目を疑った。先ほどまでジェイムズに癒しの術をかけていた少女が、今度はこちらへ向かってやってくる。一瞬、どうしていいか分からずヘクターは無防備になった。
しかし、そんな彼を我に戻す声が。
「ナマエ様、そいつは獣だ。近づくと危険です」
「ああ!? なんだと!?」
と、失礼な評価をしてくれた当人に向かって思わず噛み付くように吼えてから、ナマエの前であることを思い出してハッとした。いくら当人の前で嫌味は吐けれど、少女を怯えさせるのは趣味じゃない。
「大丈夫です、ジェイムズ」
だが、目の前の少女はヘクターの心配など何処吹く風で、ジェイムズの制止などまるで耳を貸さない。
「……なんだよ」
目の前で止まった少女は、もの言いたげに見開いた瞳でヘクターを見上げる。ジェイムズは、ナマエに何かあった時のために後ろで番犬よろしくヘクターを睨みつけている。少女に手を出す気はさらさらないが、これではお手上げだ。
ヘクターは肩をすくめた。
「俺に文句でも云いにきたのか? すいませんでしたね、貴族様の目に汚いものを晒しちま……って、おい、なんだよあんた!」
不意打ちで頬に伸びてきた手を掴んだのは、彼の反射神経が無意識にそうさせたのだ。細っこい腕をがしっと掴むと、目の前で淡い光の治癒術がはじけた。赤く腫れ上がりかけていたヘクターの頬が瞬時に正常に戻る。
「あ……」
思わず少女の腕を離すと、ナマエは驚いた顔をしていた。なんだその顔は、驚いたのはこっちのほうだ、とヘクターは内心で舌打ちする。ジェイムズは殺気を隠さず後ろで抜刀している。斬りかかられては流石にたまらない、と、ヘクターは一歩後ろに下がった。
「すみません、お気に障りましたか?」
無邪気に、いや、無邪気を装ってるのか、ナマエの問いにヘクターは顔をゆがめた。まったく何を考えてるんだか。ヘクターには少女の意図するところがまったく分からず、警戒をあらわにした。
「……あんた馬鹿か? 男にそんなホイホイ触ろうとすんじゃねえよ。それとも男に興味でもあんのか?」
分かりやすい挑発。しかし目の前の少女はそれには答えず、瞼を伏せる。
「――あなたは傭兵の方ですね」
「……そうだ」
静かに肯定すると、ナマエは意を決したように今度は顔をあげ、ヘクターを見据えた。ヘクターは、それに気圧されるような錯覚を覚える。
「あなたが先ほど仰っていたことは、その通りだと思います。少数の人間の中に、特権階級に甘んじているものがいることは確かです。中には権力を振りかざすことに快感を得る者もいます。富を独占するものも」
けれど、とナマエは息を吐き出した。わずかに震えていたが、ヘクターは気づかない。
「けれど、私たちは義務があります。立場に慢心せず、持てる者の義務を果たさねばならないのです」
そうきっぱりと告げ、しかし次の瞬間ナマエは無邪気に微笑んだ。
「ですから、あなた方にはしっかりと私たちを見張っていてほしいのです。私たちが、私たちの仕事を怠らないように」
「お、おう」
すっかり面を食らったヘクターが反射的に頷く。
「……ありがとうございます」
ナマエはほっと安堵のため息をついた。
と、瞼を伏せる。しばし惑うように視線をさ迷わせ、ややして恥ずかしげにそっと顔を上げた。まだ何かいい足りないらしい。
「あの、その髪……」
「あ?」
ヘクターは少し間抜けな声で応える。ナマエは頬を染め、あの例の花畑な髪色に目を留めた。
「……綺麗な色ですね」
ヘクターは雷を打たれたように立ち尽くした。その場の空気が凍る。
だが、ナマエはまるで気づかず、微笑んで続けた。
「まるで虹のようです」
「なんだあの生き物……」
ナマエが付き人のもとへと戻っていくと、そこにはすっかり毒気を抜かれ呆けた様子のヘクターが取り残された。
「天使か? いやいやそれとも妖精さんか? 誰だよ子悪魔って言ったの」
「お前だろ」
頭でも打ったか? 隣でぶつぶつ言っている男の言葉にジェイムズはとりあえず突っ込みを入れてやるが、聞こえている様子はない。余程最後の言葉が効いたらしい。
だからって、これはないだろう。
ジェイムズはヘクターのあまりの変わりように不気味そうに遠巻きに見つめ、ナマエのあとを追っていった。
――手が震えている。
ナマエは微震する腕を押さえた。
荒々しい気をまとう男に近づくのは怖かった。だが、あそこで聞こえない振りをして逃げるわけにはいかなかった。
……ジェイムズの思案通り、彼らの会話は最初から聞こえていた。風向きのせいなのか、回廊の向こうから良く声を運んでくれていた――委細詳しく、余計なことまでも。ジェラールはいつものことだと苦笑して取り合わなかったが、ナマエは心優しいジェラールが悪く言われるのは我慢できなかった。彼は決して弱腰なんかではない、乱暴な事が嫌いなだけだ。いつも民の生活のことを考えている。どちらかといえば内政向きなのだ。
剣を振り回すだけの脳しかない野蛮な人に何が分かるの。だが、それを云ってはナマエもあの男と同等になる。敵を圧倒させるには、よりスマートに。頭を使うのだ。
そんな気持ちで対峙したナマエに、あっさりと敵は陥落した。おそらく、あの傭兵はナマエの反撃を予想だにしなかっただろう。
けど。
「どうしてあんなこと云っちゃったのかしら……」
あの傭兵の惚けた顔を思い出す。一言云ってやりたい気分が収まらず、最後に告げた言葉を思い出し、恥ずかしさに頬を染める。ナマエ自身は厭味を云ってやりたかったのだが、きっとあれじゃ中途半端すぎて絶対厭味になっていない。
ナマエは悲しいほど厭味慣れしてなかった。なにせ、これから厭味を言うのだと思うと、なんだか緊張して口元がぎこちなくなってしまった。結果、あれだ。
これじゃ私の方がお間抜けさんだわ、ナマエは悲痛な顔でため息をついた。
と、前を歩くジェイムズが立ち止まり、彼女の様子を伺う。
「どうしました?」
「ジェイムズ」
そうだ、彼に聞こう。彼はいつも公平な判断をしてくれる。
「あの、さっきの、最後の……私の台詞」
私の台詞、というところでジェイムズは片眉をピクリとさせた。ナマエの声が尻すぼみに小さくなる。
「……ちゃんと悪口に聞こえました?」
「えっ」
ジェイムズが目に見えて動揺した。その反応で、ナマエは周りからどう見られていたのかを察した。
「ナマエ様、人は慣れない事はするものじゃないですわ」
付き人が呆れたように首を振る。フォローの暇もない。ナマエは顔を赤くして俯いた。
「たぶん、逆効果ですよ、あれじゃ」
ジェイムズが苦笑して、ヘクターの間の抜けた顔を思い出す。
しかし、彼にとっては良い薬になったんじゃないだろうか。効きすぎやしないか心配だが。
――それはもう、絶対に色あせないほどの強烈な出会いになったことだろう。
おまけの後日譚。
さらに数年後にナマエが遠征隊に加わって、再会した時。
「よお、あんたあの時のお嬢様だろ? 久しぶりだな」
「えっ、も、申し訳ありません。初対面かと存じますが……?」
「えっ」
「……あっ、あの時の髪の毛の!」
「……」
※顔の方は覚えてなかったっていうね。