ここからはじまる


■注意
このお話はゲーム開始時より6年ほど前の設定です。オリジナルてんこ盛りのため苦手な方はブラウザバックお願いしますん。
登場人物のおおよその年齢:夢主12歳/ジェラール14歳/ジェイムズ18歳/ヴィクトール20歳








 ――第一印象は、おとなしい少女だった。
 妙齢というには、まだ幼い。
 ジェラールが初めてナマエに出会った時のことである。

 ナマエミョウジ公爵家の令嬢。
 彼女の父、マティアス・ミョウジは、ジェラールの父であるバレンヌ皇帝レオンの親友にして信頼のおける部下だった。だった、というのは、現在彼が第一線から離れた、隠居生活を送っているがためだ。
 彼はかつて、バレンヌ帝国の誇る偉大な戦闘魔術師部隊の長だった。術方面に非凡な才に恵まれており、若い頃の彼が編み出した術式のいくつかは今でも応用されている。そしてそれは娘のナマエにも受け継がれているようだった。
 ちなみにジェラールの母方の祖母は、ミョウジ家の血縁にあたる。

 そんなミョウジ家との付き合いは、ジェラールが生まれる以前よりあったらしい。らしいというのは、実際初めて彼が一家と面識を持ったのが、学院を出てより少し経った時のことだからだ。
 ちなみに学院というのは貴族の子息子女が通う学び屋のことで、たいていは十歳前後から入学させられる。

 初めての一家との茶会は、兄ヴィクトールと一緒に参加させられた。
 対してあちらは公爵夫婦と、一人娘のナマエ。ジェラールよりいくつか年下の少女は、かわいらしい装いに反して笑顔はほとんど見られなかった。
 緊張をしているのかとも思ったがどうやらそうでもないらしく、皇帝レオンの質問に静かに受け答えするさまは、どちらかといえばあまり子供らしくない。
 そんな子供らしくない少女の態度だったが、レオンはあまり気にならなかったらしく、彼らしからぬ穏やかな眼差しで少女を見つめていた。
 同席したヴィクトールには災難なことだったろう。ジェラールの尊敬する兄は、どちらかといえば子供が苦手だった記憶がある。
 しかし、そんなこともお構いなしにレオンはヴィクトールにナマエへと話題を振る。が、小さな女の子が喜びそうな受け答えをとっさにできるほど子供慣れしている訳ではない。第一皇子が返答に窮するさまを、ミョウジ公爵は口元に苦笑を浮かべて見ていた。
 ……もしかしたら、とジェラールは思う。父の考えは分からないが、もしかしたら兄の妃にでもと考えているのかもしれない。
 が、しかし
「娘というものも良いものだな……」
 茶会の後、父が漏らしたその一言に、さすがに皇太子妃候補というのは考え過ぎかもしれない、とも思った。
 その後、何度か公爵一家との茶会が開かれたようだが、ジェラールが招かれたのは最初の一度きりだった。



 ――良く晴れた初夏の日。
 さわやかな風のもと、ジェラールは剣の稽古を受けていた。剣の師は兄と同じ、リチャード近衛兵隊隊長。白髪まじりの壮年の男は、なおも衰えぬ覇気を備え、若い兵士たちの尊敬と畏怖の対象となっている。
 師に言わせれば、剣の筋は悪くはないそうだが、ジェラールはあまり剣の稽古に熱心なほうではなかった。どちらかといえば静かに本と向き合う方が好きだった。ソードプリンスの異名を取る兄とは、対照的だ。
「殿下の剣筋は、やさしすぎる。戦場では命取りとなりかねますぞ」
「わかっているよ、リチャード」
 稽古の後の、たしなめるような言葉も、毎度のことだった。
「今日もありがとう。また明日、よろしく頼む」
 ジェラールはこれ以上話が長引かないように、さっさと切り上げた。近頃の隊長は、少し話し出すと、なかなか話が止まらない。
 少しわざとらしいジェラールの言葉に、壮年の隊長はしかし特に気にすることもなく重々しく頷いた。
「では、明日も同じ時間で、殿下」
 ジェラールはこれに、軽く頷き返した。
「わかった」



 稽古を終えたジェラールは、衣服を改め訓練棟から図書館へと足を向けた。道すがら、城の前庭に立ち並ぶ林檎の樹が満開に咲き誇る様子に目を奪われ、足を止める。
 真っ白な花びらが舞い落ち、モザイク装飾が施された道の上に降り積もる。あと一ヶ月もすれば、木々は熟れた果実を実らせるのだろう。
 少し目線を上げれば、背後に壮麗なバレンヌ城の姿。白を基調とした建物は、青空に良く映える。空を振り仰ぎ、目を細めた。
 ふと、道の向こうから話し声が聞こえた気がして、ジェラールは視点を転じた。反対側から、二人の人物が和やかに談笑しながらやってくる。
(あれは……)
 ジェラールは人物の顔を見て取ると、自ら歩み寄り声をかけた。
「父上、ミョウジ公爵」
 声をかけられた人物は、各々穏やかに頷いた。
「ジェラール」
「殿下、ご機嫌うるわしゅう」
 ――どうやら、この林檎の街道を散歩中だったようだ。また茶会が開かれていたようだが、公爵夫人や令嬢の姿が見あたらない。
ミョウジ公、ご夫人は?」
 ジェラールの問いかけに、ミョウジは柔和な笑みを向けた。
「妻は残念ながら本日は参加を辞退しておりまして……。ナマエでしたら、今はヴィクトール殿下とご一緒ですよ」
「兄さんと?」
 ジェラールは目を丸くした。ヴィクトールとナマエ、あの二人が一緒にいて果たして会話が弾むのだろうか。
「ジェラール、様子を見てきてやってくれ」
 息子の戸惑いを察知したらしく、レオンが目線を寄越す。
 父直々の言いつけを断れる訳もなく、ジェラールはミョウジに挨拶をし、踵を返した。



 賓客室へと向かう途中、なぜか慌てた様子のヴィクトールと出くわした。回廊の向かいからあわただしく駆けてくる自分の兄の姿に、ジェラールは思わず声をかけた。
「兄さん?」
 ヴィクトールはジェラールの姿を認め、心底ほっとした笑みを浮かべた。
「ジェラール! いいところに」
「どうしたのこんなところで。ミョウジ嬢のお相手をしているんじゃなかったの?」
「話が早いな。父上にでも聞いたのか?」
 うん、とジェラールは頷いて、先ほど前庭でレオンと会ったことを告げた。
「それで、肝心のミョウジ嬢は?」
 問いに、ヴィクトールは至極真面目な表情で言い放った。
「部屋にいる」
 ええっ、とジェラールは思わず声を上げた。
「兄さん……」
 接待役はどうしたんだ、と弟の言外の問いかけにヴィクトールは心底参ったとでも言いたげに、髪をくしゃりとかき上げた。
「あーおまえの言いたいことは分かっているよ。だけどあの子、俺がなにを言ってもちっとも笑わないんだ」
「……兄さんが変な話題を振って困らせたんじゃないの?」
「そんなことはない、俺だって努力はしたさ! だけど人には得手不得手がある!」
 要するに共通の話題も見つからず、沈黙に耐えかねて飛び出してきたわけか。ジェラールは疲れ果てた様子の兄の姿に、内心で苦笑せざるをえなかった。
「まったく、まいったよ。もう少し元気のいい子だと助かるんだが」
「テレーズのような?」
「ジェラール」
 反射的に近頃兄と恋仲と噂されている金髪美人の猟兵の名を口にすると、じろりと睨みを利かされてしまった。
「ごめん」
 素直に謝るジェラールに対し、ヴィクトールは深いため息をついてそれ以上の追求はしなかった。その兄の態度を見て、噂は本当なんだと確信する。
 だとすれば兄もたいがい苦労性だ。テレーズは確か下流貴族の家柄だったはずだ。父はともかく、周りの家臣が良い顔をするはずがない。なんといっても、次期皇太子なのだ。
 と、思案にふけっていると、急に肩をがっしりと掴まれる。なんだと思って振り仰ぐと、そこに真剣な表情の兄の顔が。
「ジェラール、悪いがお前がミョウジ嬢の相手をしてやってくれ。子供は嫌いじゃないが、年頃の女の子の相手は苦手なんだ。なにを話題にしたらいいか、まったく分からん。それに向こうだって、俺と話すより年の近いおまえと話した方が楽しいだろう」
 な? 、と自分の兄があまりに必死な表情で頼み込むものだから、ジェラールは苦笑を浮かべた。いや、これは頼み込むというより、押しつけられていると言ったほうが近いか。
「分かったよ、しょうがないね」
「おお! すまんな」
 快諾を得られ、ヴィクトールはその日初めての晴れやかな笑みを浮かべた。
「ところで、ミョウジ嬢は今どうしてるの? まさか一人?」
 その問いに、ああそれは、とヴィクトールは当たり前のように。
「ジェイムズに任せてきた」
「ジェイムズに!?」
 うん、と事もなげに頷いた兄にジェラールは目眩を覚え、慌てて踵をかえした。



 ジェイムズは顔はいいが愛想がない。
 ジェラールは、近頃兵士見習いから近衛兵へと昇格したばかりの青年の顔を思い浮かべながら、足早に目的地へと急いだ。
 彼はたしか中流貴族の出自ではあったが、実力主義のため、剣を厭い読書ばかりのジェラールのことを内心ではやや見下しているような節がある。決して表に出しているわけではないが、やっかいなことにそういうものは自然と伝わってくるものだ。反対にヴィクトールには尊敬の眼差しを惜しまない。
 とはいえ、真面目な性格でよく働く。兵士見習いのころから度々賓客の護衛を任されていたようだが、いかんせん話し下手だ。顔はいいためご婦人方には受けがいいが、例に漏れず子供をむやみに怯えさせてしまう性質なのだ。

 案の定、部屋に急いでみると、むっつりと押し黙ったジェイムズと、人形のようにおとなしく椅子に座っているナマエの姿が。
 ジェイムズはいやに難しい顔で少女の顔を睨みつけている。……本人は決して睨みつけている気はないのだろうが。

「ジェラール殿下、ご機嫌よう」
 ナマエはジェラールの姿を認め、椅子から素早く立ち上がり形式通りの礼をした。
「やあ、ナマエ
 それに応えながら、ジェラールはテーブル上の様子をちらと横目で見る。ティーカップには冷めた紅茶の残り、焼き菓子にも手をつけていないようだ。
 どれくらいの時間、一人にさせたのだろうか。勿論ジェイムズが話の相手になれるわけもなく、おそらくは半時ほどはこの空間を沈黙が満たしていたに違いない。
「……あの」
 と、おずおずとした声が、思案をするジェラールの耳に届く。目線を声の主に戻すと、テーブルの傍らに所在なさげに立ち尽くす少女が戸惑ったようにこちらを見ていた。
「ヴィクトール殿下はご一緒ではないのですか?」
「え?」
 ジェラールが目をパチリとさせると、ナマエはますます困惑したように首をことんと傾げた。
「先ほどジェラール殿下のことを呼びにいかれると、部屋をお出になったのですが」
 ジェラールは頭を押さえたい気分に駆られた。どうやら兄は、自分にこの小さな賓客の接待を端から押しつける気だったらしい。
 しかし、そんな裏事情をナマエに悟られる訳にはいかない。ジェラールはなんとか笑顔を保った。
「あ、ああ、兄さんならさっき会ったよ。急ぎの用事があったみたいだから、今から君の相手は僕がするよ」
「そう……なのですか」
 慌ててそう取り繕うと、ナマエは無意識にため息をついたようだった。とっさの口からの出任せだったが、どうやら騙されてくれたらしい。しかしナマエの安堵した様子を見ると、やはり兄の相手は緊張していたのだろう。
「兄さんじゃなくて残念だった?」
 その質問は少し意地悪だったろうか。想定外の質問にナマエはきょとんとし、ついですぐに全力でかぶりを振った。
「えっ。あの、いえ、そんなことは全く!」
 予想外の反応に、今度はジェラールが瞠目する。はっ、とそこで少女が我に返った。思わずの本音に、自分でも驚いている様子だ。
「あっ、その、別にヴィクトール殿下が嫌という訳ではなく……」
 声が尻すぼみになるにつれ、ジェラールの肩がふるえ出すのを見てナマエは顔を赤くした。
「……殿下」
 恨みがましい声に「ごめん」と謝るも、笑いは当分収まりそうにない。眉を八の字に下げる少女の姿は、兄から聞いた印象とは随分と異なる。
 ジェラールにとってナマエは、ただの可愛い少女にしか見えなかった。

 と、ごほん、と咳払い。
 振り返ると、ジェイムズがうろんげな目線を寄越してきている。しまった、彼がいるんだった。
 ジェラールは兄の信奉者の前で、こともあろうに兄を話の種にしたことを迂闊に思った。
 彼は慌てて信奉者の痛い視線から逃れるように、ナマエに向き合った。そしてこの場からすぐにでも逃れるべく、もっともらしい口実を口にする。
「ねえ、よかったら外に出てみない? 僕が案内するよ」
「外に……?」
 提案に、ナマエの表情が輝く。と、それに横やりを入れるように後ろから鋭い声が。
「ジェラール様、それでは警護に支障をきたしかねます」
 真面目で空気を読めない仏頂面な護衛に却下されそうになり、ナマエが悲しそうに眉尻を下げた。ジェラールは内心でため息をつき、笑顔でジェイムズに振り返った。
「大丈夫だよ。外といっても城の中だから危険はないだろうし、護衛はもういいよジェイムズ」
 少し強調するように、彼の名を口にする。ジェイムズは眉をぴくりとさせ、わずかにおし黙った。
 ――が。
「いえ、そういうわけにはまいりません」
 生真面目なジェイムズはやはり諾とせず、だが彼なりの譲歩のつもりか、少し距離を置いて護衛の任を遂行するという条件付きで、ジェラールたちは了承を得られたのだった。



 侍女にナマエを連れ出すというミョウジ宛の言づてを頼んでから、ジェラールが彼女を連れてきたのは図書館だった。
 城の図書館は、一見すると美術館にも見まごうほどの美麗な造りになっている。ところどころに絵画や像などの芸術品が置かれ、見るものの心を浮き立たせる。重厚なオークの支柱は細かな装飾が施され、天井を見上げると小さな天使たちが楽しげに舞っている。先代の皇帝はここで毎夜コンサートを開き、饗宴を楽しんだと言われている。まさに皇族たちの贅沢のために作られた空間だった。
 とはいえ、図書館は蔵書の保管をするための空間である。先代まで集められた膨大な蔵書が三階までに及ぶ棚という棚にびっしりと隙間なく収められている様は、知の宝庫といえよう。読書好きのジェラールには、まさにうってつけの場所だった。しかし本嫌いにとっては、地獄に違いない。

「素敵なところですね」
 ナマエは図書館に足を踏み入れるなり、ようやく一息ついたようにほっと表情をゆるめて微笑んだ。そして、蔵書の数々を見渡して感嘆のため息をつく。
「それにすごい本の数……」
 呟いて、ナマエはジェラールに振り返った。
「殿下は本がお好きと伺いました。こちらにはよく来られるんですか?」
「うん、好きだよ。毎日通っている」
 ジェラールはそれに頷きながら、少女の様子を眺めた。どうやらナマエも本好きの部類らしい。蔵書を眺める瞳は好奇心に満ち、頬には薔薇色がさしている。先ほどよりも生き生きしている様を見ると、ここに連れて来て正解のようだった。

「こちらにおいでよ。もっと素敵なところがあるよ」
 ジェラールがナマエを手招きする。その先には、花が咲く緑に彩られたテラスが。丁度図書館の中央に造られたそれは、読書に疲れた時の憩いの場所ともなる。
 テラスに足を踏み入れたナマエは、眩しそうに目を細めた。
「わあ……」
「おいで。あそこに座ろう」
 木漏れ日の下、ジェラールとナマエは噴水の縁に腰を下ろした。
 優しげな空間にすっかりリラックスした少女は流れる水に手を浸し、冷たさを楽しんでいる。ジェラールが東屋の屋根の軒下に作られた鳥の巣から顔をのぞかせている雛を指差し、ナマエがそれに歓声の声を上げる。
 妹がいたら、こんな感じだろうか。少女の楽しげな様子を眺め、ジェラールは取り留めなく思う。
 と、ちらと後ろを振り返ると、ジェイムズがいつのまにか少し離れて控えていた。鎧が音を立てぬように気を使っているのか、あまり気配を感じさせない。まったく生真面目な性格だ。こんなところまで外敵がやってくるわけもないのだから、彼も少しは気を楽にすればいいものを。……彼には無理な相談か。

 少し打ち解けてきた雰囲気の中、ジェラールは何気なく尋ねた。
「兄さんの話はつまらなかっただろう?」
 するとナマエははっと表情を引き締め、居住まいを正した。
「いえ、そんなことはありません」
 失敗したかな。少女の堅い表情を見ながら、ジェラールは内心で呟いた。彼にとっては何気ない質問だったが、どうやら少女を緊張させてしまったらしい。
 先ほどまでの楽しげな様子がすっかり失われ、少し残念に思った。
「正直に言っていいんだよ」
 なにも気兼ねすることはない。皇族相手だからといって気を使われるのは良い気分ではない。それはジェラールの本心だった。だが少女は頭を振るばかり。
「いえ、本当にそんなことはないのです。ただ、私の知識が足りないばかりにヴィクトール殿下にご迷惑をかけているだけです」
 どうやら本当にそう思っているらしい。ジェイムズが聞き耳を立てているから……、という訳ではなさそうだ。少女の頑なな様子に、ジェラールは苦笑を浮かべる。
 と、ちらと後ろを見ると、やはりジェイムズが眉根を寄せてこちらを見ていたが、ジェラールは気づかない振りをした。
「兄さんとはどんな話をしたの?」
 そこでナマエは、ちょっと顔を赤らめた。
「あの、剣術の話とか、馬術とか、戦略のお話を……」
「……」
 ジェラールは言葉を失った。自分の兄は年端もいかない少女にそんな話題を振っていたのか。
「術式についてなら、少しはお話できるのですが……」
「……そう」
 よほど話題に困っていたのだろうか。

「あの、殿下」
 ジェラールが痛む頭を押さえていると、ふいにナマエが真剣な表情になった。
「お教えいただきたいことがございます」
 少女の態度に、ジェラールは思わず畏まる。どうぞ、と促すと、ナマエはやや迷いを見せ、そして決心したように口を開いた。
「皇帝陛下は……その、私とヴィクトール殿下をどうなされるおつもりなのでしょうか」
 その質問に、ジェラールは不意を突かれた。この少女は、思ったよりも事態を重く考えているのかもしれない。
 真剣な質問には、適当な受け答えは許されない。しばらく考え込んだ後、しかし最適な答えが見つからずジェラールはゆるゆると頭を振った。
「ごめんね。父上のお考えは僕もわからないんだ」
 そうですか、と重く沈んだ少女の声。その声に、ジェラールは少し心が痛んだ。だが、元より彼には父レオンの考えていることなど分かるはずもない。
 ――分かるはずもないが、しかし。
「……でも、たぶん、今君が考えていることが、もしかしたら正解かもしれない」
 すなわちこの年端もいかない少女を、果たしてレオンがヴィクトールの次期皇太子妃候補として見ているのか、ということだ。
 なにせミョウジ公爵家は過去にも幾人かの皇妃候補を輩出したことがある。家柄ももちろん申し分ない。
 だが、それを告げるのは彼女にとっては酷なことだ。
ナマエ、君はどう思っているの? 兄さんと結婚したい?」
 その質問に、ナマエは悲痛そうな表情を浮かべた。
「……私は、皇帝陛下のお言葉に従います」
 なるほど、皇帝の臣下としては当然の答えだ。ナマエの年齢にして、そこまで微妙な機微をおもんばかることができることを、ジェラールは少し憐れに思った。
 が、次に少女から出た言葉は、少し意外な言葉だった。
「でも、私なんかじゃヴィクトール殿下がお可哀そう」
 ジェラールは危うく笑い出しそうになった。無論ナマエは真剣なため、吹き出すのはこらえた。こんな少女に『お可哀そう』などと言われる兄は、いったいどうしたものか。
「どうして?」
 笑いをかみ殺しながら続きを促すと、ナマエはしょぼくれたように俯いた。
「だって、私、こんな子供ですし……」
 なるほど確かに。この先どうなるかは分からないが、今の時点では二人の年齢差は大きい。
 それにジェラールは、兄ヴィクトールがテレーズと恋仲であることを知っている。
「そうだね、兄さんは金髪の長い髪の、気の強い美女が好みみたいだし」
「美女……ですか」
 ナマエは途方にくれたように眉尻を下げた。下ろした髪に指を絡める。明らかに自分の髪を気にしている様子だった。
 父はまだ兄とテレーズの関係を知らないが、彼らの仲を知ったらどうするだろうか? 父の性格からすると、彼らの仲を認めるかもしれない。だが、父は良くとも臣下はどう動くか。
 皇族の結婚は繊細な問題だ。こと次期皇太子となれば、なおさら。
 ジェラールは第二皇子ゆえに、兄よりは少し楽な立場に居られる。だからといって、少女がその繊細な問題に巻き込まれて困っている様を、人事のように黙って見てはいれらない。

「もう一度聴くけど、兄さんのこと、どう思っている?」
 念を押すように尋ねると、ナマエが思案げな視線を寄こした。本音を告げていいのか迷っている様子だった。
「大丈夫、誰にも言わないよ」
 安心させるように微笑むと、ナマエの心が少し揺れたようだった。
「……本当に誰にも言いません?」
「誓って」
 そう告げると、ナマエは暫く迷った後、頷いた。
 ちらりと背後に控える護衛の存在を少しだけ気にする。どうやらジェイムズは聞こえていない振りをしてくれているらしい。ナマエはその様子を確認し、おもむろにジェラールに顔を寄せ、こそりと耳打ちした。
「……ヴィクトール殿下は、ちょっと怖い、です」
 素直な言葉に、ジェラールは微笑んだ。ようやく年相応の子供らしい顔を垣間見た気がする。
「一応兄さんの名誉のために言っておくけど、君みたいな女の子の扱いには慣れていないんだ」
 兄は父に似ている。どちらかといえば母似のジェラールと比べ、顔立ちも凛々しく、雄雄しい。だが、その分だけ子供にとっては怖がる要因ともなりかねない。
「でも、話題については落第点だね。もう少しましな話題を考えるように言っておくよ。あと、君が兄さんのことを怖いって言っていたことも」
「で、殿下!? 誰にもおっしゃらないって言っていたじゃないですか!」
 ナマエが真っ青な顔で食って掛かってきた様子に、ジェラールは吹き出した。
「ごめんごめん、嘘だよ」
 もう、と少女が頬をリスのように膨らませる。ジェラールはその頬を突きたい衝動に駆られたが、こらえた。



 損ねてしまったナマエのご機嫌を取り戻すのには、少し時間がかかった。ようやく機嫌が直ったころ、ふとジェラールは気になったことを尋ねた。
「そういえばさっき術式について、って言っていたね。術が使えるのかい?」
「……はい」
 少女が控えめに頷く。
「へえ、すごいじゃないか。なにが使えるんだい?」
「水の術法を少しだけ」
 どうやら謙遜をしているらしいが、一つの術も覚えていないジェラールは素直に感心した。魔術師になるには、小さな頃からのたゆまぬ研鑽が必要だからだ。
「すごいな、さすがミョウジ公爵のご令嬢だ。よかったら今度、僕にも教えてくれるかな」
 この提案に、ナマエはきょとんとした。
「私が? 殿下に?」
「うん、駄目かな。もちろん、ただでとは言わない。代わりにここの図書館の蔵書はいつでも好きな時に借りにきてもいい、……っていうのはどうかな?」
 魅力的な条件に、ナマエの目が輝く。
「殿下がお望みなら、いつでも」
 どうやら交渉成立のようだった。
「楽しみにしているよ」

「……あの、殿下」
 不意に、呼ばれる。
「なんだい?」
 やわらかく応えると、ナマエは恥ずかしそうに俯き、そして決したようにジェラールを見上げた。
「また、私と一緒にお話してくださいますか?」
 期待に満ちた瞳、ジェラールは笑みをこぼす。
「もちろんだよ。いつでもおいで」
「……はい!」
 一拍後、少女が浮かべたのは輝くような笑みだった。
 その笑顔に目を奪われる。
(なんだよ兄さん、全然可愛いじゃないか……)
 ナマエのことを『ちっとも笑わない』と云った兄は、いったい何処を見てそう評したのだろう。
 ジェラールは、赤くなった頬をごまかすようにぐいと擦る。
 少女が首を傾げると、なんでもないよ、と照れ笑いを浮かべた。
 午後の日差しが、二人に優しく降り注ぐ――。

 ……そしてここからはじまる、ものがたりへ。