早朝の戯れ
先帝レオンの遺志を継いだジェラール一世は七英雄の一人であるクジンシーを倒した後、その後は順調に勢力拡大を図っていった。ジェラールは、かつて帝国が全盛期に勢力下にあった南バレンヌ領に目下のところ焦点を定めて南下政策を取り、既に運河要塞を開放しヴィクトール運河街を回復、さらにはニーベルを自治する格闘家たちを傘下に加える事に成功している。
新進気鋭の若き新皇帝は、現在ルドン領にあるティファールへと向かっていた。ティファールは宝石が採れる鉱山で有名だったが、近年その鉱山にモンスターが住み着き始めたという報告が入り、これはうまく傘下におさめれば帝国の貴重な収入源となるやもしれぬと早速ジェラールは遠征に出たのだった。道中を供にするのは、重装歩兵のベア、猟兵のテレーズ、フリーファイターのヘクターと、そして先のニーベル遠征より新たに加わった宮廷魔術師ナマエである。ちなみにナマエはジェラールの血縁に当たる公爵家の令嬢でもあったのだが、今現在帝国で最も有能な魔術師であるゆえその才を買われて遠征に加えられたのである。先立ってニーベルの格闘家たちにモンスター討伐の協力をした際には、ナマエの強力な術法は大いに活躍したのだった。
さて、そんなナマエには密かに悩みがあった。それは何を隠そう、彼女の体力の無さである。術の方面には突出して才を持つ彼女は、体力にはからっきし才能がなかったのである。天はニ物を与えずとはよく言ったものである、彼女は先の遠征においては度々仲間達の足を引っ張ってしまっていたのだ。ナマエにしては当然それがはじめての実戦で何もかもが慣れない事だらけ、それは他の面子も理解しナマエを良くフォローした。その結果として、ニーベルの功績があるのだから。
けれど、けれどである。他の者にならばいざ知らず、ナマエが守るべき対象であるジェラールにまでも守られてしまっては――しかも幾度となく――、ナマエは流石に情けなくなり一念発起せざるを得なかった。――つまり、彼女は生まれて初めて武器を手にしたのである。昼夜は移動と休眠のため、朝の僅かな時間しか暇がないナマエは、少し考えた末毎朝早く起きて一人で剣の練習をすることを思いついたのだった。ひとりということはつまり練習の相手がいないのか、といえばそうでもなく、けれどそれはナマエの剣のレベルでは剣技のプロである他の面子に相手をしてもらうのすら話にならないレベルであると彼女自身が自覚していたからであるし、それに彼女が剣を覚えたいなどと漏らせば、ジェラールあたりはきっと渋い顔をするに違いないとの確信からだった。ジェラールはなにかとナマエに過保護なのだ。
昨夜は夕刻まで馬を走らせ、ティファールへと向かう街道の途中にある小さな村で宿を取っていた。その翌日の、まだ夜が明けきらぬうちに、ナマエは一人目を覚ましベッドを抜け出した。支度を整え一人宿を出ると、裏の庭へと向かいレイピアを構えて、今日も一人練習を始めたのだった。
まずは基本の型をなぞることからはじめ、それが数十回を超えた時点からナマエは次第に呼吸が整っていくのを感じていた。無心に剣を振るう。元々精神を集中させるのは得意であることもあり、剣技のセンスはきっと悪くはないだろう、とは某傭兵隊隊長のありがたいお言葉だ。彼――ヘクターは何かにつけて世間知らずなナマエを弄りたがったし、某舞踏会においては彼から無礼にも程がある振る舞いを受けていたので、最近ナマエは極力彼との接触を避けているのだが。
”けど、あんたのお上品な振る舞いじゃ、せいぜい遊戯程度が限界じゃねえのか?”
くくく、といつかに言われた嘲りの言葉と笑い声が不意に鮮やかに浮かび上がり、思わずかっとなってナマエの集中は途切れてしまった。
「あっ」
振り上げたレイピアが近くの木の枝葉を絡めて、葉を数枚散らした。木を傷つけるのも申し訳なく思ったナマエはそっと剣を引き抜いて、ふうと溜息をついた。思うようにはうまく行かないものだ。剣に関してはてんで素人な彼女なので、こうやって一人素振りを続けていても実際どれだけの効果があるのかすら分らない。やはり誰かの指南を受けたほうが確実だ――と、思ったその時、背後で気配がしてナマエは振り返った。
と、ひゅ、と赤い何かが緩やかに弧を描いて飛んでくる。僅かに反応が遅れ、慌てて剣を構えたその瞬間、赤い物体が刀身にぶつかり剣を持つ手に軽い振動が伝わった。ぼた、と地面に落ちた赤を見遣れば、それは良く熟れた林檎だった。
一体誰が、と思ったとき。
「まだまだ構えが甘いな。そんなへっぴり腰じゃ、怪我しちまうぜ」
木々の間から不意に現れたのは、少し猫背の、長身の男であった。長い薄茶の髪の所々が、青や紫の鮮やかな色に染められており、白のシャツと黒のズボンにブーツを履いていているその人に、しかしナマエには全く見覚えがなく首を傾げた。いったい誰だろう、と思ったとき、男の特徴的とも云えるニヒルな笑い方になにやら覚えがあって、あ、と彼の名前がふいに浮かんだ。
「ヘクターどの」
「よお。こんな朝方から一人で稽古か? 熱心だな」
ニヤニヤと笑いながら近付いてくる彼はまさしくナマエが知る彼の仕草だったが、けれどいつもの奇抜な格好――特にあの天を突くような髪形と眼帯のような片眼のグラスをつけた彼の姿を見慣れた彼女にとっては、とても珍しいものを見たかのような気がして不思議であった。
「……随分と早起きなのですね」
ナマエはことりと首を傾げた。浮かべた笑みが少しぎこちない。けれど無理もない、だってあのヘクターが髪を下ろしただけでこうまで別人に――しかも、いつもよりかなりまともな人に見えるものだから。もともとが端整な顔立ちをしていたヘクターだったが、いつもなら奇天烈な格好に紛れる切れ目の瞳が今ばかりは真っ直ぐにナマエに注がれ、彼女の鼓動を早めさせていた。……だから接触は極力避けたかったのに、とナマエは密かに思う。あの時の舞踏会の夜が否が応にも思い出されるから――。
その動揺を隠すようにナマエは足元に転がっていた林檎へと視線を落とし、おもむろに拾い上げた。先ほどの衝撃で、少し皮に傷がついてしまっている。
「この林檎は、ヘクター殿が?」
「あ? ああ、それは、そこの木になっていたやつ。あんたにやろうと思ったんだ。見事に叩き落されちまったけどな」
ヘクターはナマエの手元をちらと見てニヤリと笑ったので、彼女は訳もなくどきりとした。すぐに、後ろめたいものを感じて視線をそらす。
「でしたら、普通に渡してくださればよかったのに」
「そりゃ悪かったな」
と、急に思わぬほど近くからヘクターの声が聞こえた。おどろいたナマエが慌てて顔をあげると、いつの間にか隣に立っていたヘクターが彼女の手から林檎を取り上げているところだった。ヘクターは、ナマエが一歩後退りしたのにも構わず、己のシャツで林檎の汚れを拭い、思い切り齧り付いた。シャリリ、と涼しげな音が鳴る。
「うまいぞ。食うか?」
と、林檎に齧り付くヘクターをぽかんとして見ていたナマエに、彼が唐突に齧りかけの林檎を差し出してきたので彼女は慌てて首をふった。彼はそれにふっと鼻で笑い、飽きたのかそのまま林檎をどこぞへ放り投げた。
「おっと。食べ物を粗末に……、なんて云い出すなよ?」
ナマエがあきれた顔をしていたので、ヘクターは濡れた唇を拭って先手をとった。彼女はむっと眉根を寄せ、ぷいと横を向く。
「云いませんわ。どうせヘクター殿相手では、聞く耳持たずでしょうから」
ナマエの言葉に、違いない、とヘクターがくつくつと肩を揺らした。
「――で、お姫様は何で急にこんな稽古なんか始めたんだ? しかもあんたの”お兄さま”に内緒で」
と、唐突にヘクターはそう切り出してきたので、ナマエは咄嗟に言葉に詰まった。お兄様、というのは遠まわしにジェラールのナマエに対する過保護っぷりを彼なりに皮肉った言葉だったが、現に彼女は血縁にあたるジェラールの事を兄とも慕っているので、あながち間違ってはいない。
ヘクターの言葉にナマエはやや顔を赤くして、持っていたレイピアを胸元に引寄せた。
「……。術だけでは心もとないので、嗜み程度に覚えようと思って」
ふうん、とヘクターはどこか斜に構えている。
「いい心がけだが、それだったら見てやる奴がいなきゃ上達しないぜ。型だって間違っているし、剣の持ち方だっておかしいし、下手すりゃ手首を痛めちまうぜ。――手、見せてみろ」
急に手をつかまれて強引に引っ張られ、ナマエは驚いて短く悲鳴をあげた。けれどヘクターはお構い無しにナマエの掌をまじまじと観察し、案の定赤くなった箇所を見つけては、あきれたようにため息をついた。
「ほら見ろ、変なところに豆が出来ている」
鋭い指摘を受け、ナマエはなんだか居た堪れなくなった。
「……もしかして、ずっと見ていたのですか?」
「おいおい、人を覗き魔かなにかみたいに云うなよ。偶々だ、たまたま」
ヘクターが、ナマエの物言いに思わず顔を顰める。念を押されたように云われ、ナマエは納得できないなにかを感じながらも、とりあえず頷いた。
――薄暗い朝は、気がつけば美しい暁光を迎えて辺りを淡い黄金色に染めつつある。
ヘクターは、ナマエから取り上げたレイピアを振ったりして、矯めつ眇めつしている。その様子を見ていたナマエは、おもむろに彼の名を呼んだ。
「ヘクター殿」
「あ?」
「――このことは、ジェラール様には内緒にしておいて貰えますか?」
「……なんで?」
と、彼は手を止めてナマエを振り返る。
「だって……知られたら、止められてしまいます」
ヘクターは何が可笑しかったのか、ナマエの答えにくつくつと肩を揺らした。
「あんたは本当に真面目だな。別に、なにもそんなに躍起にならなくてもいいんじゃねえの? あんたには術っつう強みがあるんだからさ」
いいえ、とナマエは首を振った。
「術だけではダメなのです。私が頼りないせいで、ジェラール様に余計な気苦労を掛けさせてしまうのが、忍びなくて」
と、ナマエがあまりに悲愴そうに語ったのでヘクターは一瞬ぽかんとして、ついであきれたように頭を掻いて呟いた。
「……どうせあのボンボンはそんなこと望んじゃいねえよ」
「え?」
訊き返したナマエに、ヘクターは手を振って誤魔化す。
「いや、なんでもねえ。しかしアレだな、もしおまえがこれで剣もうまくなっちまったら、俺達の出る幕が無くなるじゃねえか。それともなんだ、もしかして俺達の出番まで奪うつもりか?」
悪戯げに口の端を持ち上げたヘクターに、ナマエは慌ててかぶりを振った。
「なにもそこまでうまくなるなんて思っていません。けれど、せめて皆さんの足手まといにならない程度には、できるようになりたいんです」
はああ、と彼の深い溜息が、ナマエの言葉を遮る。彼女が恐る恐るヘクターを顧みれば、彼は目を細めて苦笑を浮かべていた。思わずナマエの鼓動が跳ね上がる。
「だから真面目だって言うんだよ、あんたは」
「――いいぜ」
と、ナマエのレイピアを弄っていたヘクターは、何を思い立ったのか唐突に彼女に向かって剣を放り投げて寄越してきた。彼女が慌ててそれを受け取る。ナマエが唯一持つこのレイピアは、ジェラールより賜った大切なものだ。
「ヘクターどの」
咎めるように名を呼ぶ。当の本人はけれどナマエの非難が篭った眼差しを一蹴するように、何かを企むような笑みを浮かべてずいとナマエを覗き込んだ。思わず、ナマエが怯む。
「いいぜ、二人だけの秘密だ。陛下には黙っといてやるよ」
「……それは、その、」
何でだろう、ありがとうございます、の一言が、すごく云い辛い。と、腹に何か一物抱えてそうなヘクターの表情を前に、ナマエは礼を云いかねてたじろぐ。対してヘクターは、己の発言に気を良くしたようだった。「秘密。秘密ねえ」 にやにやと、ヘクターの表情はどこか締まりない。
ナマエは少し警戒をあらわにした。こんな表情をしている時の彼は、大抵ろくな事をしでかさない。
――その予感は、果たして当たるのか外れるのか。願わくば、外れて欲しいというのがナマエの本音だ。
が。
さてと、と呟いてヘクターはおもむろに肩を慣らし始めた。体を適当に動かすと、腰に差していた短剣を鞘ごと外し、ひょいひょいと手品のようにまわした。一体なにを始める気だ、と彼の様子を半ば怯えながら見つめていたナマエの表情が、ふいにぎょっとなって固まった。
「ま、軽い運動くらいにはなりそうだな。んじゃま、やりますか」
ヘクターの切れ目の瞳と剣先が、こちらを向いて挑発している。けれど、よもや彼に剣を向けられると思っていなかったナマエは、固まったまま動けないでいた。
「……なんのつもりでしょうか?」
そうぎこちなく訊ねると、彼は肩を竦めてみせた。
「だから、この俺様が直々に稽古つけてやるっつってんだ。どうせもう俺にばれちまったんだから、こそこそ隠れて一人で稽古する理由もねえだろ」
――ヘクター殿の稽古! ナマエは思わず内心で悲鳴を挙げていた。あの猛者たちを束ねるヘクターの稽古だなんて、どんなスパルタ教育が待っているのか、想像するだけでもぞっとする。泡を食ってそのありがたい申し出を断わろうとするも、しかし彼は強引にもナマエの手を引いて少し開けた場所へと引き摺っていった。
「ま、待ってくださいヘクター殿! 私の稽古以前に、貴方が得意とするのは大剣でしょう!?」
ナマエはレイピアを習いたく、そしてヘクターはレイピアを教えられまい、暗にそう言いたかったのだが、しかしそれは逆効果のようだった。振り返ったヘクターが、意地悪げな笑みでもってナマエを見下ろしてきたから。
「おいおい、俺様を舐めんなよ。どんな武器にも精通してなければ、傭兵なんて名乗れねえぜ? ……それに、秘密なんだろ?」
二人だけの、と耳打ちされてナマエが弾かれるようにヘクターを見上げると、そこになんとも人の悪そうな笑み。"秘密"を持ち出されてはナマエが反論できる筈もない、ぐっと言葉を飲み込んで卑怯な男を睨みつける。ヘクターは、しかし満更でもなさそうだ。
「――ほれ、剣の持ち方はこうだ、しっかり握れ、脇を絞めろ。重心は下。基本の型はこうだぜ、いいか? しっかり覚えとけよ」
「あ、わ、はいっ」
ヘクターの指導はまさしく鬼軍曹のようで、ナマエに厳しいチェックを入れていく。当然それについていけないナマエは、彼の稽古を断わらねばという非生産的な望みはその厳しい指導を前にうやむやにされ、目を回しそうになりつつ気丈にも彼についていこうと健気に言うとおりに剣を握って構えた。
「こ、こうで良いのですか?」
よし、とナマエの構えを見たヘクターが、満足げに笑ったと思ったとき。
にいっと笑ったその顔に、泣く子も黙る傭兵隊隊長ヘクターの顔が現れた。
「とりあえず、始めに断わっておくが」
すっと音もなく剣先を向けられ、ナマエは唐突に寒気を覚える。じり、とヘクターが間合いを詰めたと思った瞬間。
「俺の稽古は、――第一に、実戦、あるのみ――、だ!」
「え!? そ、そんないきなりなんて……っ、きゃあ!」
だん、といきなり踏み込んできたヘクターにナマエは一瞬目を丸くし、あわてて身を庇った。すぐに、罵声が飛んでくる。
「目瞑ってんじゃねえ、良く見ろ!」
「すみませんっ」
厳しい声にナマエはひゃっと首を引っ込め、半ば条件反射で謝った。それほどに彼の気迫が彼女にとっては恐ろしいものだった。
「ぼうっとしてんなよ、次だ次」
「は、はい!」
だが息つく暇もなく、せかされるままナマエは剣を構える。そこへ、ヘクターが間髪いれずに迫った。鋭い突きが繰り出される。しかしこれも彼女は交わしきれず、すんでのところでヘクター自身が剣を止めたのだった。
それを繰り返される事数十回、既にナマエの息は上がり、おしゃべりをする余裕さえなくなっている。けれど体が限界に追い込まれるのに比例して、集中力が高まっていくのをナマエは感じていた。次に繰り出される剣の動きを見極めるべく、ヘクターのことをじっと凝視している。にい、と彼が嗤った。
「ほらほら、どんどん行くぜ!」
相変わらず、ヘクターの打ち込みは容赦ない。
と、ふいに突き出された剣の軌道を、ナマエの目が正確に捉えた。その剣の狙いの先に、明らかにナマエの右腕があるのを見て取った彼女は、閃くままに剣を構えて無我夢中で迫りくる刃を打ち払った。
「えいっ!」
――ギインッ! 甲高い金属音が響く。
「……お」
「あっ」
ヘクターの剣を見事に打ち払うことに成功したナマエは、思わず歓喜の声を漏らした。
やったわ、とナマエは内心で大いに感激した。ずぶの素人が戦いのプロ相手に打ち合って、ようやっと一撃を阻止することができたのだから、その喜びはひとしおだ。
だが、しかし。
「おーおー、よく止めたな。えらいえらい」
喜ぶナマエをまるで小馬鹿にするように、ヘクターは彼女の頭を子供のようにがしがしと乱暴に撫でてきたので、「まあ」 とナマエは憮然として彼の手を振り払った。しかしすぐにヘクターによって、また頭の上に手がずしりと置かれる。それを再びナマエが払っても、再度同じことが繰り返された。ヘクターを見上げれば、彼はまるで面白い玩具をみつけた猫のような瞳でナマエを見下ろしていたので、とうとう彼女の堪忍袋の緒が切れた。
「しつこいですわ!」
ぶん、と勢いのままにレイピアを振るう。
「おっと」
それを軽く避けたヘクターは乱れた髪を掻きあげ、肩を怒らせるナマエを見てにいと笑った。
「掠りもしないねそんな攻撃」
「……くっ」
余りに小ばかにした笑みに悔しく思い、ナマエは軽く地団駄踏みたくなったところをぐっと堪えた。ここで彼の挑発に乗っては思うつぼだ――、と理性が警告するもしかし。
「ほらほらどうした、もっと踏み込んで来いよ。遠慮すんなってホラ、ちゃんと受け止めてやるからさ。お前に迫られたら大抵どんな男でも絆されちまうからな。この俺が保証するぜ? ああ、それともおしとやかなお姫様には、自分から男に迫るなんて大胆な事は無理か?」
「――もうもう、少し黙っていてください!」
数瞬後、ナマエはまんまと彼の挑発に乗ってしまった。いきり立って剣を振り回す彼女を迎え、はは、とヘクターが声をあげて笑う。
「この俺を黙らせてみせられるもんなら、やってみろよ」
「まあ、云いましたね!」
どこまでも不遜なヘクターの態度に、頬を紅潮させたナマエはますます張り切って挑みかかるのだった。
それから彼女は積極的に攻めにでた。しかしながら圧倒的な力量の差ゆえ、ヘクターから一本取る事でさえ容易ではない。空振りが続き、疲労がたまり始めたナマエに容赦なくヘクターの罵声が飛ぶ。
「脇が甘いぜ、もっと締めろ!」
「……っ」
ナマエはぐっと唇を引き締め、次の一撃を繰り出す。しかし足元がもつれたため空振りし、ナマエは思わずよろけてしまった。
「おいおい、何処狙ってるつもりだ?」
と、ヘクターの声が耳元を掠めた。はっとして慌てて体勢を立て直そうしたナマエだったが、次の瞬間、剣を持つ手首をぐいと捉まれてしまった。
「あっ」
驚いて声をあげた瞬間、視界が翳った。低く艶やかな声が鼓膜を震わせる。
「――ほら、隙だらけ、だぜ? お姫様」
次の瞬間、ナマエの視界は、朝には似つかわしくないけぶるような瞳をしたヘクターでいっぱいになった。声をあげる暇もない。いや、辛うじてあげた悲鳴は、しかしふいに押し付けられた唇に飲み込まれてしまった。
――己の唇に、柔らかな温もりが触れて離れる。
束の間、ナマエは茫然とした。だが次の瞬間我に返った彼女は、こちらを見てにやにやとしているヘクターに向かって猛然と怒り出した。
「ヘクター殿っ!」
「ははっ」
ヘクターは声をあげて、身を引いた。ナマエが拳を振り上げると、それも難なくかわされてしまった。
「い、い、いきなりなんて事をするのですか!?」
「何って、訓練だよ訓練」
真っ赤な顔で喚きたてるナマエに、ヘクターはしれっと当然のように言い放つ。その物言いにナマエの怒りはいよいよ頂点に達しつつあった。
――訓練ですって!? 口づけをしておきながら、なんてまあ飽きれた事!
と、ナマエが屈辱に打ち震えている暇は、しかしたりとて一瞬たりともなかった。
「――ほら、呆けている場合か?」
との声にナマエがはっとした時にはもう、ヘクターの剣は直ぐ目の前に迫っていた。
「きゃあ!」
咄嗟になんとか剣で防いだが、鍔迫り合いになった際につとヘクターと目が合い、ニヤリと笑われ力押しで攻めてこられた。圧倒的な力の差の元、あえなく剣は弾かれナマエが体勢を崩し、その瞬間にもヘクターが入り込んできてナマエのキスを奪った。
「……っ!」
唇を吸われる。
二度目のキスは思いがけず官能をもたらし、背筋がぞくりとして思わずナマエがヘクターを振り払う。しかしそれを器用に避けたヘクターは、殊更挑発するような瞳でナマエを見下ろしてきた。
「どうだ、一瞬の気も抜けねえだろ? 悔しかったら、避けてみろよ」
と、云うなりヘクターがまた気まぐれに剣を繰り出し、辛うじてナマエが受け止めると、また剣越しにキスを奪われた。今度は羽根の様なキス。
へクターは、わざとナマエが受け止めやすい攻撃を仕掛けてくるようだった。剣を二度、三度と合わせるたびに、ナマエはまんまと彼に唇を奪われる。
――恥ずかしい、なんて屈辱! とうとうナマエは耐えかねて、剣をも放り出して全身でヘクターを突き放そうとした。けれど、彼はびくともしないで、ナマエの視界を独占している。
「……もうやめて、これ以上私をからかわないで下さい!」
「心外だな。俺はいたって真剣だぜ?」
ナマエの嘆願にヘクターはしかし軽く眉を顰め、彼独特の皮肉げな笑みを浮かべた。「愛してるぜ」 不意をつくように囁いて、今度はナマエの耳朶を食むようにして口づけする。
ナマエは、その冗談としか思えない彼の言葉に思わずかっとなった。
「ふざけないで!」
「おっと」
感情が乱れてナマエの中の力が制御しきれず溢れた。ヘクターは咄嗟にナマエから体を離すと、びゅっと二人の間を鋭い風が通り抜けた。「危ねえ危ねえ」 ヘクターがそうおどけて云うと、ナマエは真っ赤になって、怒りのためいきいきと輝く瞳で彼を睨みつけてきた、――それがヘクターの目を釘付けにするとも知れずに。
「――ど、どうしてあなたという人は! 大体あの舞踏会でだって、どうせ世間知らずな私をからか……っ」
ふいに言葉が途切れた。ヘクターが有無を言わせずナマエをぐっと強く抱き込み、一番強力な口封じを施してきたのだ。唇を食まれ、咥内に舌を入れられ蹂躙される。官能に満ちた口づけに、ナマエは今度こそ抗えなかった。
「ん、……ふ」
舌先で歯列をなぞられる。彼女の腰をつかんでいたヘクターの手が、惑うように下へと降りていったので、ナマエは慌ててその手を掴んだ。すると彼は不満げにナマエの手を払い、よりいっそう強く抱きしめて体を密着させて、ますます深く咥内を探られる。この前の舞踏会のときとは明らかに違う官能的なキスの仕方に、ナマエはひどく混乱していた。ヘクターの吐息は荒く、欲情しているのがナマエにも伝わる。彼女には些か情熱的すぎるキスに、けれどナマエは自分が恐れていたほど恐怖を感じてないのが不思議だった。むしろ、体が次第に彼の熱に浮されていくようだ。ナマエはとうとう脱力し、夢中で彼に縋った。
「あ……、へク、ター……」
甘いな、ヘクターはうっそりと呟き、満足そうに微笑んで唇を離す。ナマエは完全に彼に身を任せ、ぼんやりとヘクターを見上げている。
「……甘い、甘いぜナマエ。まだまだだな」
ヘクターは隠し切れぬ劣情を浮かべた瞳で、にやりと笑ってさらにナマエを挑発しにかかった。
二人だけの秘密の特訓は、まだまだ続くようだった。
「――さて、お前が俺から一本取るまで、俺が何回キスを奪えるか、数えてみるか?」