微睡む誰そ彼




 大陸の南に、広大なルドン高原が存在していた。そこは人間の侵入を阻む峻厳な自然が広がっており、その奥にはかの伝説のマーメイドが暮らす美しいアクア湖があるという。とはいえ、その伝説は事実であったと先先々……代のバレンヌ皇帝が証明したのであったが。
 ナゼール地方からアバロンへの帰途中であったバレンヌ皇帝一行は、丁度ルドン高原へと足を踏み入れていた。
 
「休憩にしようか」
 と、今をときめく皇帝ジェラール陛下がそう告げたのは、仲間達が続く強敵どもの迎撃にそろそろうんざりし始めた事だった。ここルドン地方のモンスターは手ごわい事で有名で、果敢にもここに足を踏み入れた旅人が二度と帰ってくることはないという噂がまことしやかに流れるほどである。
 そのモンスターどもの手ごわさといったら、世界最強の軍事力を誇るバレンヌ帝国の、そのまた粋を集めたといっても過言ではないアバロン軍団筆頭の最高の軍人たちをもってしても、手を焼くほどだった。
 つまり、端的に云えば、そう、――彼らは既にぼろぼろだった。
 其処に先のありがたいお言葉、まさしく鶴の一声だった。それまで鬼の形相で戦っていた皇帝の下僕もとい部下たちは、一転身を翻し、モンスターの追撃を必死で振り払って、この高原唯一の安息地であるアクア湖へと脱兎のごとく逃げ出した。巨大な三頭竜とじりじりとにらみ合っていたヤウダの孤高なる武士レンヤだけは、一人反応が遅れて危うく吐き出された炎の餌食となりかけ、憐れな事に艶やかな黒髪がちょびっと焦げてしまっている。その表情はなんだか血気迫るものがあった。
「に げ ろ ー!」
 先頭を切っていたのは皇帝の元学友にして戦友マールバラ、重い鎧もなんのその、長槍を担いで全力逃走。次点はパーティのお目付け役ディアナ、そして憐れなレンヤと続き、最後に優雅に退却する皇帝陛下とオマケもといナマエの姿があった。厳密にいえば、ナマエは後ろから迫り来る大軍のモンスターの足音に蒼くなって硬直していたから、冷静なのはジェラールだけである。
 マールバラが神聖なるアクア湖へと足を踏み入れ、ディアナとレンヤがそれに続いた。ナマエがそれに追いつくと、ジェラールはその一歩手前で軽やかに振り返り、追ってきた大量のモンスターたちと対峙した。太陽の剣と謳われたデイブレードを構え、彼らの勢力が集結するのを待つ。一網打尽にするつもりなのか、ぞくぞくと集まるモンスターたちを前に術法の詠唱を始めた。と、一匹のモンスターがジェラール目がけて鋭い爪を翻らせる。
「陛下……!」
 それに気付いたナマエが、慌ててジェラールの前に飛び出そうとした。
「下がって」
 が、しかし至極冷静な声とともに、むんずと首根っこをつかまれ、ナマエはぐえっと息を詰まらせた。その瞬間、ジェラールのプラチナブロンドの髪が、超自然的な風に翻った。かっ、と内なるものが解き放たれ、光が溢れ出す。
「――ギャラクシー!」


 無事にアクア湖へと逃れた皇帝一行は各々休息に入ったのだが、既に彼らはぼろぼろで横たわるものもおり、まさしく死屍累々とした様だった。中でも怪我が酷かったのが、最前線に立っていたインペリアルガードのマールバラである。彼は、薬師であるナマエの治療を受けながら、ひたすら己が主人への不満を零していた。いや、零すというより、爆発か。
「おいジェラール! なあにが暢気に”休憩にしようか”だ馬鹿野郎! あと少し退却が遅れれば、もう少しで俺等全員、ぜ ん め つ だ!」
「うるさいなマール。この中で瀕死なのは君だけだぞ、インペリアルガードが聞いてあきれる」
 全く反省の色がないジェラールはしかし、しれっとした様子でマールバラの攻撃を受けながす。ありがたい薬師様の治療を受けている友人が羨ましいのか、その瞳はどこか陰険だ。けれど、そんなことはマールバラには問題ではない。いや、寧ろ治療を受けて当然の働きをしたのだ、彼は。
「ばっ、一体誰を守ってこうなったと思っているんだ!? ……いっ、し、沁みる~」
 威勢の良いマールバラが思わず顔を顰めると、傷口の消毒をしていたナマエがあっ、と声をあげた。
「す、すいません」
「形無しね、マールバラ」
 と、あきれたように笑ったのは、マールバラの同僚のディアナ。彼女は比較的軽症だったため、既に身の回りの整理のため忙しく立ち回っている。マールバラは冷たい目線をくれた同僚を一度きっと睨みつけ、しかし不満の矛先は已然としてそのまま、優雅に木の幹に寝そべるジェラール陛下に向いていた。
「というかだなあ、お前、あんな高位の術法をもっていたんなら、もっと早くだしやがれ!」
 ジェラールは、その言葉ににやっと笑った。最後の最後まで粘った彼が放った渾身の一撃は、あの凶悪なモンスターたちを見事に消し炭と化すことに成功したのだ。
「奥の手は、最後まで取っておかないと意味がない」
 正論で反撃されたマールバラは、ぐっと言葉に詰まる。とその時、ぴりぴりとした二人の空気に、ナマエののほほんとした声が割って入った。
「でも、皆さん無事で良かったですねえ」
「そうですね。終わり良ければすべて良し、とも云います」
 ナマエの言葉に同意したのは、焦げた髪を梳いていたレンヤだった。どうやら、意外とタフな性質のようである。
「お前等はこいつに甘すぎるんだっ!」
 と、すかさずマールバラの突っ込みが入った。

 あらかた治療を終え、漸く落ち着いたのは既に日が傾きかけてる頃だった。ジェラールは、本日の宿を交渉するため、マールバラをつれてマーメイド――ネレイド一族が住まう奥の湖へと出かけていった。彼ら一族は自分達の領分を荒らされるのを、あまり好かない。
 なんだかんだいってうるさい二人が消えると、あとは静かなもんである。ディアナはレンヤの焦げた髪を切る手伝いをして、ナマエは使った薬品などをのんびりと片つけている。
 と、あ、と不意に何か思い出したように、ナマエが声をあげる。
ナマエどの?」
 いそいそと鞄を持って立ち上がったナマエにレンヤが怪訝そうに声をかける。彼女は振り返って、上機嫌に頬を緩ませた。
「さっき向こうで珍しい薬草を見つけたんで、ちょっと摘みに行ってきます」
 本業の薬のこととなると目がないナマエは、云いながら足取り早く奥へと出かけていく。その背中に、ディアナが釘を刺すのを忘れない。
「じきに陛下が戻られるから、あまり遅くならないでね」
「はーい」
 どこか上の空な返事が返ってきて、ディアナは少し不安そうに眉を寄せたのだった。



 元々、アクア湖付近は貴重な薬草の群生地で知られている。とはいえ、採取するにしても実際にここまでたどり着ける者もあまりいないので、ナマエが訪れた場所は数も種類も豊富な様々な薬草が生えていた。
 夢中で取る事しばし、持参してきた鞄がこんもりとした薬草の山を作り始めたころ、ナマエは一度手を止めた。
「沢山取れたなぁ」
 ほくほく顔で手に持っていた薬草を鞄につっこむ。すでに鞄はぎゅうぎゅうだ。けれどまだ物足りないのか、ナマエはしばし考えるふりをして、
「もう少し摘んでもいいかな」
 と、再びかがもうとした時。

「わ!? ととっ」
 ぎゅう、と突然後ろから手が伸びてきて抱きしめられ、ナマエは驚いて鞄を取り落としそうになった。不審者よりも薬草大事である。慌ててぎゅっと鞄を掴みなおそうとした時。
「つかまえた」
「あ……」
 聞き覚えのある声がして、ナマエの頭の中は真っ白になった。どさ、と手元が緩んで足元に鞄が落ちる。
 声の主、ジェラールは腕の中で硬直しているナマエの様子に可笑しげに笑い、耳元で優しげに囁きかけた。
「可愛らしい密偵さん、すぐ近くまで人が迫っているのに、全く気付かないなんて少し無防備すぎやしないかい?」
「へ、陛下」
 ナマエは青くなって赤くなって、うろたえた。気配を消して忍び寄る人に云われたくない、なんて大胆な反論はナマエには無論のこと出来るはずもなく、けれど抱きしめられているという今現在の状況ゆえに彼女の頬はひどく火照っていく。但し額には汗をかきそうなほどであるから、それが純粋な恥じらいの反応というわけではなさそうだ。俗に言う、嫌な汗というやつが彼女の額をつつうと伝う。抱きしめられている背中から伝わる熱が、妙に生々しい。
 しかしジェラールはそんなナマエの様子に気付く素振りも見せず、あくまでマイペースに彼女を振り回す。逃げ腰になっているナマエを一度ぐいと己の体に引寄せ、彼女がびくうっと滑稽なほどに震え上がったのにも構わず、髪をかきあげ露わになった真っ赤な耳朶に今にも触れそうなほど唇を寄せ、わざと息を吹き込むようにして囁きかける。吐息に驚いて、ナマエの体が一度跳ね上がった。
「私に気付いてくれないなんて酷いな。それほど花摘みに夢中になっていたのか?」
 胸焼けがしそうなほどに甘いささやき。
 大抵の令嬢ならばすでに腰砕けな美味しい状況にしかし、それまで小動物のように縮こまっていたナマエはなぜかむっとしたようで、突然奮起したようにジェラールを見上げてきたので、彼は予想外のことが可笑しくて少し笑えてしまった。
「花ではなく薬草ですよ。都にもあまり流通してない貴重なものだったんで、つい夢中になってしまいました」
 どうやら彼女を奮起させたのは、己が薬草摘みを花摘みと取り違えたことだったらしいと知って、ジェラールは微笑む。甘いささやきよりも、面白みのない話に食いつくこの風変わりな娘の反応がいちいち新鮮で、楽しくて仕方がない。
 ジェラールナマエの言葉に、そう、と一応頷いてやりながら、何気ない素振りで彼女の髪を一房持ち上げた。
「それにしても、無防備すぎるよ」
 モンスターだったら、どうするんだい? そう言外に瞳で云い、ジェラールは彼女の髪に口づけた。その仕草に見惚れたのか、ナマエの頬が赤くなる。我ながら気障っぽい態度だとジェラールは思うが、彼女の反応が随分と可愛らしく癖になる。
 ――見惚れているのは、一体どちらか。
「……すいません。以後、気をつけます」
 ナマエが赤い顔を隠すように、俯いて答えた。ジェラールはその横顔を眺めて、目を細める。
 気がつけば日は既に西に沈みかけていて、黄昏時の仄かな暗さが徐々に濃さを増していく。

 ジェラールは、今日に限ってナマエが珍しく腕の中で大人しくしている事に満足していた。薄暗い夕闇のなかで、彼女が何を考えているかまでは分らなかったが、普段ならばとうに逃げ出していただろう。恥ずかしがり屋な彼女ゆえに、この夕闇が幸いしたのかもしれない。
 と、ジェラールが一人ほくそえんでいると、ナマエが意を決したようにそろりと見上げてきた。
「あの、それで……陛下」
「なんだい?」
 とっさに笑みを向けると、ナマエは少したじろいだようだった。
「いつまで、この体勢でいるつもりですか?」
「私の気が済むまで」
 間髪いれずに極上の笑みで当然のように答えれば、彼女はぐっと言葉につまったように口をつぐんだ。
 しかしそれ以上に何か訴えたそうな瞳でしばしジェラールを見上げるも束の間、すぐに諦めたように深い溜息をつく。
「……はぁ」
「それは、一体何の溜息?」
 すかさずジェラールが笑顔で問いただすと、ナマエは何か怖いものでも見たように少し顔を青くして、口元をひくつかせる。
「いえ、あの……」
「云って、ナマエ
 その笑みはまさしく誘導尋問。暫し後、はああとより深い溜息をついたナマエがしぶしぶ口を開いた。
「……この湖一帯は、獣も出ない安全な場所だと思ってたんですけど」
「けど?」
 彼女の言葉の続きが気になって、ジェラールは抱く腕に少し力をこめる。するとふとナマエが微笑んだので、咄嗟に彼は視線を奪われた。
「まさか、狼がいるとは思いませんでした」
「……云うね」
 くつ、とジェラールナマエの的を射た言葉に喉の奥で笑う。そして、殊更狼に相応しいような笑みを浮かべて、ぐいとナマエに迫ってみせた。
「そう、可愛い娘をたぶらかす悪い狼だね。そして今、君はその悪い狼に捕まっている。さて、どうする?」
 ナマエはぐっとジェラールの気迫に押された後、うーん、と本気で困ったように眉尻を下げた。きっとどう答えたところで、ジェラールが彼女を解放する訳もないことを、なんとなく察しているのだ。
「どうするって聞かれても……、どうしましょう」
 と、幾分のんびりとした、気の抜けるような回答に、ジェラールは苦笑を禁じえない。この娘は、曲りなりにも男に抱きしめられているくせに、何故こんなに安堵しきった瞳を向けてくるのだろう。ナマエの目は、疑いもなくジェラールを見つめている。
 ――あるいはそれは。
 ジェラールは、ふいに思い立って大胆にもナマエの顔を覗き込んだ。唇が触れそうになる紙一重まで近づけると、ナマエの瞳が驚きに見開かれ、揺れていた。
「相変わらず暢気だね。逃げなくて良いのかい? 食べられてしまうよ?」
 囁いた瞬間、彼女の瞳が潤んだのにジェラールは気付いた。
 食べられるって、私、そんな柄じゃないんですけど。そう恥ずかしげに呟いたナマエに、ジェラールはくつくつと笑う。と、真っ赤になったナマエが耐え切れず自ら体を離そうとしたので、ジェラールは気まぐれに彼女を縛めから解放してやった。
 きょとん、と不意に自由になったナマエが見上げてくる。
「……逃がしてくれるんですか?」
 瞬間、ジェラールは極上の笑みを浮かべて、ナマエの心をも捕らえにかかった。
「――まさか」
 ばさり、と外套が翻って、ナマエの全身を包み込む。熱い吐息が唇に触れた瞬間、どちらともなく目を閉じる。


 ――黄昏に伸びた二つの影が重なった時、丁度太陽が西の彼方に消えたところだった。