天使なんかじゃない
へまをやってしまった。
それが、いつもナマエがやるようなドジな失敗や、ブルーへの悪戯などであれば良かったのだが、しかし今回はとてもじゃないが笑って済まされるようなヘマではなかった。
べり、と嫌な音がして、その場にいた者たちは一瞬凍った。
「……」
ナマエは、手元に残った紙くずと化したそれを呆然と見詰めた。それの元の形は、カード。ナマエはこともあろうに、あれほど苦労して入手した剣のカードを誤って破いてしまったのだ。術莫迦ブルーの大切な大切な剣のカードを。
破 い て し ま っ た。
ナマエはさーっと顔から血の気が引くのが分った。どうしようどうしよう。ああ、怖くてブルーの方を見られない。
破いてしまった、ナマエのせいで。例えそれが、いつものようにナマエが勝手にカードを取り出しそれに怒ったブルーとのくだらない喧嘩の末の結果であっても、その責任はカードを守りきれなかったナマエにあると言えよう(というか、ブルーはそう責めるにちがいない)
「……ナマエ」
ゆらり、と幽鬼のような表情のブルーが一歩近寄り、ナマエは内心「ひっ」と声をあげた。ああやばい、これはかなりのお怒りだ。ナマエは、怯えて一歩後退した。手から、カードの残骸がはらりと落ちる。
「ブ、ブ、ブルー……?」
ナマエは、まるでサ〇コのようにずるりずるりと近寄ってくる男の名を、おそるおそる呼んだ。すると、ブルーが突然かっと目を見開き、
「――お前は、今日と言う今日は許さんぞ!!」
「ぎゃーっごごごめんなさいぃ!!」
その余りの恐ろしい形相に、「悪気はなかったんです~!」と叫んで、ナマエは敵前逃亡した。
まさしくブルーの逆鱗に触れてしまったナマエはその後、暫らく俺の前に顔を出すな、とサイレンス伝いに言われ(無論ジェスチャーでの伝言だったため、ナマエはそれを理解するのに時間がかかり、人選をもうちょっと配慮してほしいと文句をつけようと思ったがやめといた)、しおしおと素直に従った。
と言うわけで、ただいまナマエはフリーなわけである。一人というのは楽だが味気ない、ブルーと仲間達の賑やかさに慣れた身としては、急に一人で放り出されると言うのは寂しい事この上なかった。
いつものように聞いていたブルーの煩いお小言すら、懐かしく感じてしまう。
「あ~あ……」
ナマエは一人寂しく、シュライクの児童公園に来ていた。園児達の賑やかな声に引かれて公園の真ん中にぼんやりと突っ立っていたナマエはさぞ可笑しい人に思われていたであろうが、ナマエはそんな園児達の視線にすら気づいていなかった。子供達は、ナマエについて根も葉もない事をこそこそと小声で喋っている。
「あの人さっきからぼーっとして何してんだろうね?」
「さあ、大方好きな人に振られたとかじゃないの?」
「きっと夫とりこんして、子供のしんけん争いに敗れたんだよ」
「あ、それでもしかして、私達をさらって自分の子供にしようとしてるんじゃないの!?」
きゃーやだやだ、怖い! と子供達は勝手にヒートアップしていく。
「……ん?」
ナマエがようやっと子供たちの視線に気付いてにっこりと笑うと、びくっとした子供達はひそひそ話をして公園の端っこのほうに集まり、じっと様子を窺ってくる。ああ、もしかして私って変質者扱いされている? ようやくその視線の意味に気付いたナマエは、拳を振り回して子供達を追いかけたい気分に駆られた。だが、そんな事しようものなら、すぐさまパトロールが飛んでくるだろう。
畜生、今時の子供達は生意気だぜ。ナマエはふっと背中に哀愁を漂わせ、空いていたブランコに腰掛けた。静かに揺らすと、きい、きいと耳障りな音を立てる。
かしゃり、と冷たい鎖に額を押し当て、ふと目を瞑った。耳に甦るのは、いつも聞いていたブルーの(御小言の)声。
「ブルー、ブルー、ブルー……」
口ずさめば、何故か気分もブルーになってきて、ナマエはげっそりとした。
「くそう、あの鬼畜外道術士め……」
なんでこんなに奴の事ばっかり思い出すんだ。あんな怒りんぼと離れたのだから、逆にせいせいできたのではないか。だが、そうは言っても思い出すのはあの非道術士のことばかり。
「ああ、私って意外とマゾだったのかも」
ブルーの御小言がないと、さびしいだなんて。
ナマエは、それが単なる刷り込みによるものであるということには、まるで気付いていなかった。
「会いたいなぁー……」
と、無意識に呟いて、ガバリと顔をあげて茫然とした。一体なんてことを言うんだこの口は、会いたい筈がないじゃないか、あんな捻くれた奴に。大体術マニアで女の子には優しくない偏屈野郎だし、根暗だし意外と子供だし、好き嫌いが激しくて野菜もあんまり食べないから、いつもいつも自炊の時に私がどれだけ苦労していると思ってるんだあの高慢ちきめ!
と、ぶるぶると忙しく頭を振った時。
「ねえ、君、一人なの?」
突然、ひょっこりと横からブルーの顔が現れて、ナマエは「ぎゃっ」と仰天した。
「ブルー……っ!?」
ブルーだ。ブルーがいる。ナマエは、次の瞬間落ちてくるであろう雷に備えて頭を庇った。
「ぎゃああごめんなさいごめんなさい! 捻くれた奴なんて言ってごめんなさいブルーっ!」
だから許して~、と絶叫する。が、しかし返って来たのは、冷笑ではなく、ブルーにはありえないような温かな笑い声だった。あれ、と思い、ナマエが恐る恐る顔をあげると、そこにはブルーと同じ顔の、しかしブルーでは到底浮かべないような穏かな笑みがあった。さらに目を瞬くと、ブルーとは違う赤の法衣を纏っており、きっちりと頭部で纏められている筈の艶やかな髪は背中に流されており、緩やかに頬や肩に掛かっていた。
即ち、別人。ナマエがそのことに気付いた時、ブルーと瓜二つな彼がにっこりと笑った。
「君、もしかしてブルーの仲間? 僕は、ブルーの双子のルージュだよ」
「あ、ああ!」
なるほど、というように、ナマエは頷いた。
「すみません。あんまりにもそっくりだったから……」
「双子だしね」
「……そうですね」
あはは、とナマエは笑った。
しかしそれにしても、なんて正反対な兄弟だ。ブルーが氷だとしたら、目の前の彼は陽のような温かさを感じる。にこにこと笑うルージュが、天使のように見えたナマエだった。ああ、彼の優しさの一ミリでもブルーにあったら、思わず考えて、ナマエは再びげっそりとした。
「隣、座っていい?」
ルージュが隣のブランコに座り、ナマエはなんとなく彼に聞かれるままに自己紹介をしてこれまでの経緯を話した。ルージュはやはり片割れの動向に興味があるのか、根掘り葉掘りとまでは行かないが色々訊ねてきた。
「で、どうしてナマエは此処に一人でいるの?」
やはり聞かれたか。ナマエは、彼の問いに内心がくりと肩を落としながら、あははと苦く笑って見せた。
「いやあ、ちょっといざこざがあって、別居状態なんですよ」
「え!? 別居って、ブルーって結婚してたの!?」
するとルージュに本気に取られ、ナマエはビビリながら慌てて訂正した。
「あ、いや、別居っていうのは冗談なんですけど」
「じゃあ、今は一人なの?」
こくりと頷くと、おもむろにルージュにずいと迫られて、ナマエは内心どきりとした。ルージュはやはり、あの顔だけは良いブルーの双子だ、異常に整った顔に迫られて動揺せずにいられようか。特にルージュの場合、柔らかな雰囲気が相俟ってますます鼓動を早まらせる。
そんなナマエの内心もお構い無しに、ルージュは天使のような微笑を浮かべた。
「なら、僕と一緒に来ない? あ、今ね、僕はアセルスっていう半妖の女の子と一緒に旅をしているんだけど、すごい個性的なパーティなんだ」
「へ、へえ」
ナマエがなんとか頷くと、ルージュはにっこりして続けた。
「星型のニップレスをつけた変態妖魔でしょ、赤カブでしょ、年中不機嫌低血圧な鴉みたいな根暗妖魔でしょ、コスプレ好きな女の子に、長髪サングラスな四十男でしょ……」
ルージュは微笑みながら、仲間の特徴を挙げていく。なんだか途中で野菜の名前が入っていたような気がしたのは、気のせいだろうか。
「……」
ナマエは、先ほどルージュが天使のように見えたのは、幻であった事に気付いた。天使の笑顔で、凄まじい毒舌っぷり。やはりブルーと血が繋がっているだけある。
「ね、楽しそうでしょ? 一緒に来ない?」
ずい、と顔を近づけるルージュ。
この顔には逆らえない。
哀しいほどにブルーに刷り込まれたナマエは、同じようにルージュにも反射的に遜る自分がいることに気付いて、とほほと頭を抱えた。
「……い、行きます」
ルージュが、にっこりと笑った。
(濃い……)
ルージュに紹介された仲間達は、流石に妖魔だらけで濃かった。そこはかとなく漂う耽美な空気を感じながら、ナマエは目の前で繰り広げられるアセルスとイルドゥンの子供のような喧嘩を眺めつつ、ぼんやりとしていた。ブルーのところにいた時も面子が濃いと思っていたが、ここはそれ以上に濃い。
ふと後ろから「ねえ」と声が掛かり、振り返るとそこにはボンテージ&星型ニップレスという、奇想天外な恰好をした妖魔がいた。名を、ゾズマ。
「ルージュが、ナンパしてきた女の子って、君?」
ナマエは、彼の言葉に目を回した。
「な、なんぱぁ!?」
「あれ、違うの? さっき、ルージュの奴が嬉しそうな顔で、”可愛い子を連れてきた”って言ってけど」
あれは果たしてナンパだったのか、とナマエは疑問に思った。しかしルージュがそう言っていたのなら、ナマエは優しいお兄さんの笑顔に騙されてのこのこ付いていった頭の軽い女、という図が出来上がるわけだ。くそう、まんまと嵌められた。
というか、あんな笑顔を振り撒いておいて、ルージュは結構策士らしい。
と、むー、とナマエが腕を組んでいると、ゾズマは何を思ったか長い指を伸ばして、ついと彼女の顔を上向かせた。はっとしたナマエが瞬くと、ゾズマの妖しさたっぷりの笑顔が迫っていて。
「君、結構可愛いね。ね、ボクに魅了されてみない?」
「えっ、い、いえあの……」
瞬時に全身に鳥肌が立ったナマエは、内心悲鳴をあげた。これはやばい、貞操の危機だ。
ナマエは逃げ出そうとしたが、しかしさすがは上級妖魔、彼が本気を出したのならば、所詮人間であるナマエが叶う筈もない。
「ボクが怖い? その顔もそそるね」
と、さらにゾズマがずいと顔を寄せた時。
「こらゾズマ! なに女の子襲ってんだ!!」
すこーんといい音がして、目の前のゾズマが横っ飛びに吹き飛んだ。何が起こったかと見てみれば、彼はなにやら赤カブと一緒にくんずほぐれつ地に沈んでいた。何が起こったんだと茫然としていたところ、赤カブを飛ばしてナマエの窮地を救った凛々しい人物が、傍に寄ってきた。アセルス、魅惑の君と人間との両方の血を併せ持つ、少年のような不思議な魅力を持つ少女。
「ナマエ、大丈夫だった? 怖かっただろう、ごめんね」
「あ、い、いえ……」
そう真摯に見詰められれば、ナマエは知らずドキドキとした。アセルスは、あの99人もの寵姫を持つ魅惑の君の血を受け継いでいるだけあってか、人間の娘程度であれば容易く魅了してしまうのだ。……本人にとっては不本意なものであろうが。
「だ、大丈夫ですよ、アセルス」
ナマエは云いながら、さりげなくアセルスから距離を取った。まったく、こうも妖魔だらけでは心臓がいくつあっても持ちゃしない。
――こんなことなら、いやと言われようが素直にブルーに引っ付いていればよかった。
ナマエは、早くも前の仲間が恋しくなった。
とほほ、となりながら、ナマエは遠い目をした。