例えばこんな日常





 恋は盲目、とはよく言ったもので――。
 例えば相手の癖とか、何気ない仕草とか。
 些細なことなのに、胸が高鳴ってしまう。


 ふと、その時私が目を覚ましたのは、多分私を抱く力強い腕がぴくりと震えたからだろう。
 久しぶりのすっきりとした目覚めは気持が良かったけれども、そのままえいっと起き上がることは出来ない。
 何故なら――。
(また、人を抱き枕にしてるし……)
 何故なら、私の身体は、人の腕の中にすっぽりと収まってしまっているからだ。首の下には逞しい腕が廻され、もう片方の腕はしっかりと私の腰を抱きかかえている。即ち、身動きできない状態。
(動けなくて寝苦しいからやめて、って何度言ったら分るのかしら……)
 そっと嘆息し、私は明け方に目を覚ましてしまった不幸を嘆いた。この男が目を覚ますまで、この体勢で居るのはかなり辛い。いっそのこと揺り動かして起こしてやろうかと思うが、けれど彼の休眠を阻害することも忍びない。
 頭の上では、私の身体を抱きこむその犯人の安らかな寝息が聞こえてくる。起こさないようそっと見上げ、私は犯人――趙雲の寝顔を窺った。
(相変わらず、整った顔なんだから……)
 私は、その羨ましいくらいに端整な顔の持ち主を、ちょっと小突いてみた。いつものことだが、やはり悔しいものは悔しい。ここまで、整った顔がすぐ近くに在ると。
(ちょっと、憎たらしい)
「……ん」
(わ……)
 一度小突いても気が収まらず、えい、えい、と何度か小突いていると、趙雲がぴくりと身動きして不快そうに眉根を寄せた。よもや起こしてしまったかと慌てて手を引っ込め、寝たふりをする。
「……」
 暫らくすると、また穏やかな寝息が聞こえてきたので、ほっと息をついた。
 しかし、そこではた、と思い返す。
(……って、寝られても、暇なのよね、私は)
 それでも起こすことも出来ないので、仕方なく、今度は起こさないよう注意をしながら、まじまじと観察をし始める。普段は彼に起こされる方なので、こんなにじっくり彼の寝顔を見たことはないから、少し新鮮だった。
 こうやって目を瞑っていると、鋭い印象の瞳が隠れて、なんだかちょっとあどけない表情になってしまう。可愛い、なんて言葉、似合わないと思ってたけど、今の趙雲にはしっくり来る。
(……睫毛、長いなぁ)
 睫毛が、濃い翳を肌に落としている。時折ぴくりと微動するのが、妙に色っぽいなぁと思った途端。
(触ってみても、いいかな……?)
 無意識に魅入り、胸がどきりと高鳴った。なんでもないことなのに、妙にドキドキさせられるのは何でだろう。
 手をそっと伸ばし、微かに震える指先で彼の睫毛に触れてみると、柔らかな感触が指先にくすぐったい。彼がちょっと顔を顰めたのが面白くて、私は笑みを漏らした。
 好きな人の寝顔を見守れるという――至福の時。
 きっと、今、私の顔は、ちょっと赤くなっていることだろう。ドキドキが、まだ続いているのだから。
 何気ないこと、だからこそ再認識させられる。ああ、この人が、好きなのだ、と。些細な事も、嫌な事も、全部、この人だから、許せてしまう。
 人を抱き枕にする彼の癖も、体勢を変えられないから、肩だって凝るし、息もちょっと苦しいから、あまり好きじゃないけれど、この人の腕に抱かれているのだと思うと、そんなことも我慢できてしまうのが不思議。
 やっぱり、恋ゆえだろうか。

(あ、髭……伸びてきてる)
 それに気付いて、そっと指先で顎をなぞった時。
「ん……」
 趙雲が身じろぎし、瞼がぴくんと震えた。そして何度目かの震えの後、――ゆっくりと、彼の瞳があらわになる。
 趙雲の瞳が、次第に私を映しだす、それは――やはり至福の時。
 そして私は、その様子をドキドキしながら見詰めていた。
「あぁ……。……もう、朝か」
 欠伸をかみ殺し、まどろんだような彼の声に、私は笑みを浮かべる。
「起きた?」
「ああ……。珍しいな、私の方が、遅く起きるとは」
 うん、と笑うと、ようやっと抱かれる力が抜けたので、彼の腕の中で少しは身体を動かせるようになった。一度大きく伸びをして、体の強張りを解す。その間にも、彼はもう一度欠伸をかみ殺していた。
「寝ている間、何やら目の辺りがくすぐったかったような……。何をしていたのだ?」
 その何気ない問いに、はた、と趙雲を見据え、考え込むように小首を傾げてみせる。さて、どう答えたものか。
「うーんと、……見惚れてました」
 少し、悪戯気に笑いながら言うと、今度は彼が首を傾げる。
「は?」
「趙雲って、寝顔も色っぽいのよね。ちょっと、羨ましいわ」
 は? と益々趙雲が分らないと言いたげな顔をしたので、思わずくすくすと笑ってしまった。それは、自分一人だけの秘密を見つけた時の喜びに似ていて。
「なんでもないです」
 ふふっと笑う私に、彼は肩を竦めただけだった。

 と、また彼の顎に指先を伸ばし、伸び始めの髭をいじり出した。趙雲はされるがまま、黙って私を見つめていた。沈黙は、気にならない。
「……髭、伸びてるね」
「ああ」
「私、剃っても良い?」
 無駄とは分っているが、けれど好奇心には勝てなくて、少し、小首を傾げて問うてみる。
「……。……――いや、やはり自分のことは自分でやらねば」
 やはり、予想通りの返答。なんだか妙な間が気になったが、此処は一つその爽やかな笑みに騙されてやろうか。まぁ、流血沙汰になっても困るし。
 などと考えていると、
「さて、そろそろ起きるか」
 そう云いながら、彼が腕の中から私を解放して起き上がろうとしたので、咄嗟に、その腕を引き止めてしまった。
 力強くて大好きな腕が、離れてしまう――俄かに、寂しさが湧き起こって。

「どうした?」
 不思議そうに問う声に、思わず眉根を寄せる。
「……趙雲、忘れてる」
「――ああ、……すまない」
 ぶうたれる私に、くすり、と笑って。ふいに近づく、端整な顔。
(あ……)
 ――瞬間、私は目を閉じる。
 ドキドキと、自分の鼓動が耳に煩い。自分から強請っておきながらも、胸が高鳴るのは押さえることは出来ない、滑稽なほどの恋心。
 口付けを交わす、この瞬間に慣れる日なんて、永遠に来ることはないのだろう。
 きっと、永遠に、ドキドキし続ける。
 彼がゆっくりと目を閉じる瞬間、その時が、一番大好き。
 彼の表情が、なによりも媚薬のように甘くて……。

 ――唇に、甘い感覚。けっして短くも、浅くもない、口付け。
 そっと離れても、まだその甘さが後を引いて。ぽうっとなって、思わずそのまま瞼を閉じていると、くすりと笑う声が聞こえてきて、はっと我に帰った。
 目を開けると、其処に趙雲の微笑。
「おはよう」
「……おはよう」
 たかが口付け一つに呆けてしまった事がちょっと恥ずかしくって、少し紅潮した頬を隠すように手を当てて俯くと、その上から大きな手が被さった。
「……趙雲?」
 そっと上を向かされて、耳に囁かれた言葉に、私は思わず目を瞠ることとなった。

「――貴女の甘さは、癖になるな」

 耳朶に、甘い痺れ。
 目を閉じて――、慣れることのない、胸の高鳴りを。
 永遠に感じていたい。

 ――例えばこんな、幸せな日常。