Blue Sky・前篇






 初めて出会ったのは、数年前の春の日。春特有の強い風が吹き荒れ、しまいには激しい雨まで降り始めてしまった。父である劉備から紹介されて顔を合わせた彼はとても整った顔立ちをした青年だったが、笑みの一つも浮かべぬ無愛想だったので、ナマエは恐ろしくて泣き出してしまったのを覚えている。
 然しその初対面の印象は直ぐに覆された。今考えれば、単に彼が若いがゆえに女子供の扱いが下手なだけだったのだろう。散々に父と彼とを困らしたナマエの涙は、翌日にはすっかり乾き、かわりに頬に浮かんでいたのは笑みだった。以後、彼―趙雲は良き兄として、ナマエに接するようになった。

 そして、数年の歳月が過ぎる頃には――。


「……雨の匂いがする」

 午後のあたたかな時、城の一際奥まった部屋の窓からクスクスと笑い声が零れていた。それまで侍女と楽しく話に花を咲かせていたナマエは、空気に含まれている露の変化を感じ取り、砂糖漬けにした果実を指に摘んだまま窓辺に寄った。さらりと流れるような上品な歩き方は、ナマエが生まれ持つ気品を際立たせていた、が、ぽいと砂糖菓子を口に放るその仕草は、如何にも年頃の娘らしい愛らしさを醸し出していた。
 指に付いていた砂糖を品を失わずにぺろりと舐め取りながら、窓に身を乗り出して空を窺う。外は、思わず目を細めてしまうほどの光に満ちていた。地平線はくっきりと大地と天を二種の色に分かれさせ、少しの霞みすらも見られない。天は、青と白の斑模様。

 と。
 目を窄めながら空を見上げていたナマエの頬に、ポツリと冷たい何かが当たって砕けた。あら、と声を出したナマエは、手の平を外に差し出した。ぽつ、ぽつ、とその手の平の上に、水滴が次々と落ちてくる。それを認め、ナマエは途端渋い表情になった。
「……天気雨だわ」
 まぁ、と後ろに立っていた侍女がナマエに倣い、窓から身を乗り出す。
「本当に雨が降っているのね。姫様の云ったとおりになったわ」
 クスクスと笑いながら、侍女がナマエに振り向く。対するナマエは、やや不満顔だ。ナマエが雨よりも晴れを好んでいる事など、この侍女には御見通しだ。なにせナマエが五歳のときから仕えているのだから、互いの癖や好みを熟知しているのだろう。
 この侍女は、ナマエにとっては気が置けない相手の一人なのだが、どうやら今は親身になってはくれないらしい、ナマエの不機嫌そうな表情を見てクスクスと笑っている。ナマエが子供っぽい理由で機嫌を損ねたことが、兎角可笑しかったのだろう。

「良い勘をお持ちですこと」
 羨ましいわ、と云う侍女に、ナマエが憤懣やる方ないといった風情で口元を膨らました。
「こんな勘……いつもいつも私の嫌いなものとか、悪いことばかりに働くんだから。どうせなら、好きなものに働いて欲しいわ」
 云い終って、ふう、と息を吐いたナマエが、直ぐに気落ちするように肩を下げた。
「少し子供っぽすぎるかしら。雨で不機嫌になるなんて」
 と、湿気を含み始めた髪を気にしながら、ナマエが云う。
「でも嫌いなものは嫌いなのよね。だって衣は濡れるし、髪も濡れるし、何より外に出られないじゃない」
 うんうん、と屁理屈じみた理屈を並べて今度は力強く頷いたと思ったら、直ぐにナマエの顔に笑顔が戻った。隣に立つ侍女は、ナマエの一人百面相を可笑しそうに眺めている。

 ふ、とナマエが一息ついた所を見計らって、侍女が再び外を眺めた。雨脚は穏やかで、降ってくる量も微量だ。
「姫様、この分ならきっと直ぐに止みましょう」
 空を見上げながらそう云った侍女の言葉に、ぱ、と素早く反応したのはやはりナマエだ。
「ホント?」
 ええ、と侍女が穏やかな笑みを浮かべた。ナマエは窓から身を乗り出し、空を見上げた。
「姫様、危のうございます!」
 ぽかっと口を開けて空を見上げるナマエに、侍女がハラハラとした様子でナマエの腕を掴んだ。ナマエの今の状態ときたら、今にも窓から落ちてしまいそうなほどなので、見ている方としては気が気でないだろう。しかしナマエは生返事のみで聞く耳なぞ持たない。当然、侍女のため息も聞こえることなく。
 暫らくそのまま空を見上げていたナマエは、ややすると「あ」と声をあげた。侍女の言うとおり、次第に雨が細々となり、遂にはすっかり止んでしまったのだ。

 ナマエは一つ嬉しそうな声をあげると、くるりと侍女の方を振り返ってその手を取った。そして忙しく「ありがとう!」と云うや否や、何処かへと駆け出した。その場に残された侍女は、何がなんだかと云った様な顔をしてナマエの背中を見送っていた。ナマエの礼が、何に対しての礼なのだかさっぱり分らない。
 と、はっと我に帰った侍女が、慌ててナマエの後を追った。

 ごそごそと不審気な音を辿れば、即ち其処にナマエがいる。音の正体は、煌びやかな衣裳箱の中を探る音だった。ナマエがあれこれと、衣裳を取り出しては床にばら撒き、次を出してはばら撒き、というなんとも不可思議な作業を繰り返している。
「何をしてるのです?」
 と、不可解に思った侍女が声を掛けた時、ナマエが「あった!」と声を発してぴょんと立ち上がった。
 ウキウキとその手の中にあった衣裳を広げ、己の体に合わせたりなぞしてみている。と、その衣裳がなにやら見覚えのあるものだったので、侍女は驚いて口をあんぐりと大きく開けた。
「姫様! その衣はどうなさったのです!?」
 するとナマエは、何処で入手したやら、侍女の制服、ともいえる衣裳を手に持ちつつにっこりと笑ってみせた。
「内緒で作ってもらったの。ね、着るの手伝ってくれない?」
 ぬけぬけと云うナマエに、最早侍女は開いた口が塞がらずにその場に立ち尽くした。ナマエはその侍女の様子に気付かず、いそいそと纏う衣裳を脱ごうと帯に手を掛けた。
「今日ね、城下で月に一度の大きな市が立つでしょう?」
 きっちりと結わえられた帯に苦戦しつつ、ナマエが言う。その言葉に、侍女がナマエのこの不可解な行動の理由を察知した。
「まぁ、それで、これを着て城を抜け出されるおつもりですか」
 そう、とナマエ
「この格好じゃあ、流石に行けないからね」
 ナマエは金糸で織りこまれた繊細な刺繍が施された己の衣裳を摘み、あきれ果てた顔の侍女にふふっと肩を竦めて微笑んだ。

「まさかお一人で行かれるおつもりなのですか? 護衛を御付けしたほうが……」
「ダメよ。厳つい男達に護衛されるなんて、窮屈きわまりないわ。それにのんびり楽しめないじゃない」
 めっと眉を顰めてそう言われれば、反論の余地もない。ため息をつく侍女に、ナマエは止めていた作業を開始した。その至極嬉しそうな表情を窺いつつ、ああだからあんなにも先ほど雨が降って不機嫌になったのだと改めて気付いた侍女だった。

 と、ナマエが云い忘れていたという表情になり、侍女を覗き込んで念を押した。
「誰にも内緒よ? 黙っていてね」
「……はぁ、分りましたわ」
 己の主人にそう命令されては、侍女は従うしかない。ナマエにとっては単なるお願いだとしてもだ。だが、幾ら変装をしたとしても兵の目を潜り抜けるのはいかにナマエとて至難の業だろう。それに例え運悪く抜け出せてしまったとしても、近頃の都は治安も良く危険も少なくなりつつあることもあり、侍女は眉間に皺を寄せつつも仕方なくナマエの共犯者になることを承服した。まったく、好奇心旺盛な主人を持つとたいへんである。
 しかし念のためである、後で誰かに頼んで、そっと護衛をつけるくらいのことをしなければ。己の主人をみすみす危険に晒すことはしたくない。勿論、ナマエが抜け出したことを黙っていてくれる人物でなければならない。さて一体誰が適任かと、侍女が頭を悩ませている時。
「あ」
 ナマエが解いた筈の帯を、再び大急ぎで巻きはじめたのだ。
「どうなさいました?」
 と、首をかしげる侍女に、帯をグルグルと乱雑に巻きつけるナマエが悲鳴じみた声を上げた。まるで、殺人鬼にでも遭遇したかのような怯えた声だ。ナマエの口から飛び出した台詞は。
「お父様が来る!」
 は?と更に首をかしげる侍女を放り、ナマエが侍女の服を衣裳箱の中にぼすっと仕舞った。同時に、部屋の扉が叩かれる。
「……どなた?」
「私だよ、ナマエ
 果たして、返って来た答えは、ナマエの予想通り彼の人の声。

「本当、良い勘ですね……」
 はぁ、と感服した様子の侍女に、ナマエはくるりと振り返っておどけたようにむっと顔を顰めてみせた。くすりと、侍女が微笑んだ。


 ナマエの部屋を抜き打ち訪問した劉備を前に、ナマエは特にそわそわした様子をみせることはなかった。劉備が部屋に居座ることなく、直ぐに退出したのも幸いだっただろう。もし長時間居座られでもしたら、ナマエのにこやかな表情もだんだんと崩れていった事だろうから。
 再び着替え始めたナマエの姿は、劉備が自室に戻るまでには立派な侍女へと変わっていた。そうして日暮れには戻ると告げ、ナマエはいたく晴れやかに部屋を飛び出していった。が、この後ナマエは、すぐにまた部屋に戻ってくることとなる。


 何食わぬ顔で回廊を歩き、中庭へと抜けた。中庭から厩の番人が控える部屋に抜け、さらに厩へと続く道が、ナマエの知る抜け道の一つであった。一人の侍女が通ったとて、誰にも怪しまれる事もない。ナマエは上機嫌で、いつものように厩へと抜けようとした。
 が。
「!」
 厩に己が良く見知った、この状態で見つかったらきっと説教を長々と説いてくるであろう相手の背中を見つけ、ナマエは大急ぎでくるりと体を反転させた。と、カモフラージュに、近くにあった飼葉の入った桶を引っつかむ。これで、彼から見れば飼葉を馬に与える馬番の後ろ姿としか見えないだろう。
 が、この桶を持ったことがナマエにとって非常にまずかった。

「其処の方」
 と、彼に声を掛けられた時、咄嗟にナマエは自分に掛けられたものである事に気付かなかった。早くこの場を去ってくれないかと飼葉をいじっていると、再び、今度はやや遠慮気な声が掛かった。
「……あの、そこの方」
 二度も呼ばれ、ナマエが、ん?と漸く顔をあげて辺りを見回した。厩には、ナマエの他に馬番の者がいないことに、そこでやっと気付く。
 まるで冷水を頭から被ったかのようにばっと蒼白になったナマエは、後姿を向けたまま慌てて声の調子を変えて返答した。
「わ、私ですか?」
「はい」
「な、何の御用でしょう?」
「すまぬが、あなたの持っている桶を借りたい」

 ナマエは、思わずうめきそうになった。出来ることなら、数分前に戻ってこの桶を何処か遠くへ放り投げたい心地だったが、それも叶わず。
 ああ馬鹿馬鹿と心の中で自分の頭を殴りつけつつ、顔が見えないよう深く俯いて彼の方へと向いた。すたすたと早足で近づき、ぐいと桶を押し付けるように手渡す。
「……どうぞ」
 ぼつりとそれだけ残し、ナマエは内心走り去ってしまいたい衝動を抑えつつ足早に去ろうとした。
 が。当然ナマエの挙動不審な様子を不審に思った彼に、がっしりと二の腕を捕まれ、ナマエは驚いて悲鳴を上げた。相手は、この声に聞き覚えがあったらしい、不意を突かれたように捕む手から少し力が抜けた。
 そして、彼の次の言葉がこの逃亡劇に終止を打つことになる。
ナマエ殿!?」
 名を呼ばれた瞬間、ああ短い逃亡劇だったとナマエは何処か悟ったような笑みを浮かべた。さようなら自由、こんにちは説教よ、という心境である。
 と、腕を掴んだまま驚いて目を丸くする相手に、ナマエは、ご機嫌よう、と引き攣りつつ笑ってみせる。
「趙雲」
 相対する彼―趙雲は、返す言葉もなかった。



「そのような格好で、しかも斯様な場所で一体何をしているのです?」
 と、腕を離して向き直った趙雲の口から出た言葉に、ああほら説教が来た、とナマエは途端その場から逃げ出したい思いで一杯になった。趙雲のことだ、ナマエが城を抜け出そうとしたことはしっかりと父に報告するだろう。そして父から2度目のお説教。ナマエの未来は決して明るくはなかった。
ナマエ殿、黙っていないできちんと説明をしてください」
 ため息ばかりで返答を返さないナマエに、趙雲が絶対零度にも負けないほど凍てついた声で詰め寄る。絶望的だ。相手はナマエにとって誰よりも手厳しいのだ。よりによっていきなり総大将のお出ましとは。
(ああ、ついてないついてない……!)

ナマエ殿」
 暗い表情を浮かべるナマエに、それまで眉を吊り上げていた趙雲が少しだけ同情する。
 と、その時。
「趙雲!」
 どういう心情の変化か、ナマエは挑むように趙雲の名を呼んだ。こうなれば半ばやけくそ、の境地である。玉砕覚悟で、ナマエはこの強大な敵に挑んだのだった。即ち、趙雲を何とかして丸め込むこと。
 名を呼ばれた当の本人は、いきなりの声にビックリしている。と、ナマエが勢いを失う前に捲し立てようとした。
「今日ね、城下に大きな市が立つでしょう?」
「市……?」
 が、すぐに勢いが削がれる。趙雲がナマエの言葉に目を光らせたからだ。
「そ、それで、ね……えっと」
「で、お一人で行くつもりだったのですか?」
「……」
 図星である。ナマエはうっと黙り込んだ。趙雲はなにやら頭痛がし始めたらしく、こめかみをぐっと抑えた。
「まったく、お一人で抜け出されるのは危険だと何度行ったら解るのですか? 何のために護衛がいるのだか……」
「だって、見張られているようで窮屈なんだもの……」
「それが彼らの仕事です。いいですか、この数ヶ月、一体何人があなたのせいで仕事を失ったと思っているのですか? 少しは彼らにまともに仕事をさせてあげてください」
 そのように云われれば、ナマエは流石に言葉に詰まる。成る程、ナマエから見れば彼らは唯の妨害者としか思えないが、彼らの立場に立てばナマエの逃亡は迷惑どころか食うに困ることにさえなってしまうのかも知れない。
 はぁ、と心底あきれたように何度もため息をつく趙雲に、ナマエは小さく「ごめんなさい」と謝った。

 と、暫し後、ナマエが遠慮気に趙雲を見上げた。
「……あの、じゃあ、趙雲が、連れてってくれる? あ、お父様には内緒で」
 その言葉に、盛大にため息をついたのは趙雲だった。
「……反省してませんね」
 あきれたような声に、少しナマエがむっとする。
「してますってば」
「どこがですか」
 投げた言葉は、ポンといともあっさりと返され、ナマエは言葉に詰まった。むぅと唸ったナマエに、趙雲が再びため息をついた。一体、今日何度目のため息だろうか。
 やはり相手が相手では幾ら頑張っても篭絡する事ができないらしい、ナマエが諦めて部屋に戻ろうかと思い始めた頃、趙雲がポツリと零した。

「分りました」

 突然の言葉に、え?とナマエが目を瞬いた。
「いま、なんて?」
「……お供します、と云ったのです」
 あ、とナマエは目を丸くした。次いで、嬉しそうに声を零す。
「今日は雪が降るんじゃないかしら」
「………お言葉ですね。別に取り止めてもいいんですよ?」
「ああ! 待って待って!」
 と、慌ててナマエが趙雲の腕を取った。
「ごめんなさい! ありがとう、一緒に城下に行けるなんて嬉しいわ、趙雲」
 なんとか趙雲を引きとめようと、早口で捲し立てる。と、見上げた視界に入ってきたのは、趙雲の少し可笑しげな笑顔。
「……っ!」
 この趙雲、ナマエにとってはやや小うるさい兄分、という印象が強いお陰で何かと忘れられがちだが、兎角端整な顔の持ち主なのだ、近距離で顔を合わせればそれこそ赤面するほどに。例に漏れず赤くなったナマエは、彼の腕をぱっと目を瞠るほど素早く離した。
 趙雲はそんなナマエの仕草に、くすりと笑う。

 と、趙雲が調練を終えたばかりの汗臭い己の格好を認め、襟を摘んでくいと引っ張り、ナマエに己の状態を示した。
「着替えてまいりますので、暫しお待ちを」
 そう言い、ポンとナマエの頭を軽く叩いて横を通り過ぎる。

「子供じゃないんだから……」
 ナマエは触れられた頭に自らの手を乗せ、ポツリと呟いた。
「……着替え、ね」
 と、下を向いて己の、控えめに云ってやや地味な衣服を眺めたナマエが、何やら急にそわそわし始め、辺りを落ち着きなく見回したと思ったら、直ぐにその場を飛び出した。
 向かうは、――自室。


 ばたんと乱暴に戸が開かれ、驚いて振り返った先には、つい先ほどこの部屋を出て行った筈のナマエが立っていた。驚く侍女に構うことなく、ナマエはどこか慌てた様子で鏡台に向かう。
「ど、どうしたのです!? 姫様!」
「なんでもないの!」
 ナマエはどこか嬉しそうな様子で答えながら、鏡台の引き出しを探っている。と、何かを探り当て、椅子に座り銅鏡を己の視線に合わせ始めた。ナマエの手の中には、小振りの朱玉が可愛らしい耳飾が収まっていた。ナマエがそれを耳につける様子を眺めながら、侍女は首を傾げた。よもや逃亡が誰かに見つかって慌てて戻ってきたのではと思ったが、どうやらこの様子では違うらしい。
 しかし何故急に耳飾など。そんな高価なものを身につけたら、不審に思われるのではないかと侍女が頭を悩ませる。だが、その答えが見つかる前に、再びナマエは部屋を飛び出していってしまった。行ってきます、と、元気な声を残しながら。



 大急ぎで先ほどの厩に戻ったナマエは、まだ趙雲が戻ってきてないことを確認するとほっと息をついた。ついで、やや乱れた髪を整えると、近くにあった柱に寄りかかって趙雲を待つ。
(気付くかな?)
 耳飾をいじりながら、ナマエが微笑みを浮かべる。耳飾は、なんてことはない、ちょっとした身だしなみのつもりだった。
なにせ、久々に趙雲と一緒に出かけるのだ。耳飾の一つくらい、と思ったのだろう。趙雲とは以前は良く一緒に出かけたのだが、最近ではめっきり出かけなくなっていた。だからだろう、このおかしな緊張は、きっと久々だからに違いない。
(そういえば、久々に二人きりになるのよねぇ。やだ、どうしよう、もっと緊張してきちゃった)
 と、在らぬことを想像しては赤くなったり青くなったり、中々忙しいようだ。


(……それにしても遅いわね)
 と、思ったその時。
「お待たせしました」
「っ趙……」
 後ろから掛かった声に、嬉しそうに振り返って趙雲の名を口に登らせかけたナマエが、

「護衛は五名程度でいいですね?」

 そこで、固まった。




「聞いてないわよ、他に護衛がいるだなんて」
 如何にも私は不機嫌です、の表情を浮かべ、そう云ったのは腕を組みながら趙雲を睨みつけるナマエ。対する趙雲は、平然としている。
「あなたが聞かなかっただけでしょう」
「……嘘つき」
 嘘つき呼ばわりされ、平然とした趙雲の態度がうっと少し揺れた。如何に趙雲にとってはささやかな事だったとて、騙した事には変わりなく、やはり罪悪を感じていたのだろう。まぁ、といっても手の平に余る程度だが。
 分りました、と趙雲が片手を挙げて、ナマエに譲歩する。
「彼らには少し離れて護衛させますから、それで宜しいでしょう?」
「それでも監視されていることには変わりないじゃない」
 口元をぶっと歪めてそう云ったナマエに、監視ねぇ……と趙雲は手を口に宛がった。
「気にしなければいい」
「私、趙雲みたいに図太くないのですが!」
 ナマエの憤り振りを、そうかな、と軽い笑みでかわした趙雲が、さぁ、と促した。
「早く行きましょう。でないと時間が勿体ない」


 いつの間にか用意されていた輿を前に、ナマエが躊躇して立ち止まった。
「輿は遠慮します」
 それは、輿など乗って行ったら一体どこぞのやんごとなきお方が来たのだと注目されてしまうではないか、との心配から出た言葉だったのだが、しかし趙雲にはそれが通じなかったらしい。通じなかったどころか、またナマエの我侭が始まったと思われたようだ、痛むらしい頭をぐっと抑えている。
「なら、どうやって行きますか? 徒歩ですか?」
「馬に乗っていけばいいじゃない」
「馬ですか。しかし、あなたは乗馬があまりお得意でないと記憶しておりますが」
 正確に云えば、”あまり”どころではないのだが、それが彼の配慮なのだか皮肉なのだかは判断はつかない。
「そうね。でも趙雲が乗せてくれれば、きっと落馬の心配もないわ。そのほうが、趙雲の心労も軽くなると思うし」
「私の心労の心配をしてくださるのなら、輿の方へ乗っていただきたいのですが」
 いかにも私は仕事中ですといったような鉄仮面の表情は崩さぬまま、趙雲がそう告げる。その表情は、幾分ナマエにとっては厄介なものだった。なにせ小さな頃からの、ナマエの我侭ぶりに対抗できる唯一の手段だったのだから。
 しかし長年の付き合いの中、ナマエはその鉄仮面を崩す方法をちゃっかりと学んでいる。こんな時は、こう云えばいいのだ。
「でも、趙雲と一緒の方が安心だもの」
 お願い、と付け加えて。そうしたら、すぐに。

「……仕方ないですね」

 ナマエは、嬉しそうに声をあげた。



 趙雲の連れてきた馬は、大きな馬だった。が、彼の愛馬ではないらしい。軍馬では気性が荒いためか、乗り手を選ぶのだ。趙雲はナマエのため、比較的大人しい馬を選んだのだろう。鼻を撫でてやると、その馬は気持ち良さそうに目を瞬いていた。
 ぐい、と趙雲に手を引っ張り上げられ横座りに乗馬すると、一気に視界が開けた。わ、とナマエが感嘆の声をあげる。
 と、足元にあった草木に気を取られたのか、馬が唐突にその長い首を動かして草に鼻を寄せた。ぐら、と体に訪れた揺れにナマエが驚き、咄嗟に鞍の端を掴む。
「思ったより揺れるわね」
 ええ、と後ろの趙雲が答える。
 これまで仔馬には乗ったことがあったナマエだが、仔馬の体は小さいためか安定性に欠けて随分揺れ、乗馬とは難しいものだと思ったものだ。体格が立派な馬ならば幾分か鞍心はましだろうと思っていたが、だが予想以上の揺れにナマエは驚いて掴んだ鞍を離せずにいた。
 だが、そのやや前のめりの体勢では非常に安定が悪い。
「しっかり掴っていてくださいね」
 背後からの声に、思わず、首だけ回して趙雲を窺う。
「ど、どこに?」
 びくついた声に、え?と趙雲が微かに目を見開いた後、ああ、と表情を改めた。
「首以外ならば、何処でもどうぞ」
 つまりはこの目の前の男に掴れということか。
 ナマエは掴っている鞍と後ろの男とをちらちらと見比べた後、ぱっと体の向きを反転させ、より安全そうな趙雲の胴へと文字通り鞍替えした。この際、はしたなく思われるだろうかとか恥ずかしいとかいう可愛らしい感情論はまったく飛び出してくることはない。落ちないよう必死だ。
 趙雲は苦笑を浮かべつつ、ぽん、とナマエの背中を叩くと、ゆっくりと馬を進め始めた。


 馬の蹄の音を聞きつつ、後ろに続く数騎の護衛の姿をぼんやりと眺める。趙雲の腕にすっぽりと納まりながらも、然しナマエの心はとうに賑やかな市の方へと飛んでいた。
 と、ぐら、と大きな揺れが起き、ぼうっとしていたナマエが慌てて腕に力を込める。
(ん?)
 その時突然沸き起こった違和感に、ナマエがはたと首を傾げる。
 違和感の正体は、直ぐに知れた。趙雲の胴に回した両の手が、彼の背中で互いに巡り合わないのだ。つまり、ナマエの腕が短すぎる、という事ではなくて、彼の胴がナマエに比べて広すぎるのだろう。
(全然届かない)
 鎧を纏っているとはいえ、男女の体格差とはこんなに違うものなのだろうか。ナマエが、色々と角度を変えたり、よりきつく抱きついたり等してどうにかして腕が廻らないものかと試みてみたが、どうやっても届かない。

「……先ほどから一体何をしているのですか、あなたは」
 と、其れまで暫らくナマエの行動に黙っていた趙雲が、静かに口を開く。その大いに慌てふためく内心は、仏頂面でうまく覆い隠しながら。
「え? あ」
 ナマエが顔を上げて趙雲の仏頂面を認め、しまった、という顔になる。皆まで云われずとも趙雲の心情は、呆れ返っているか、怒り心頭かのどちらかだと言うことは分る。ナマエはそろりと言い訳を口にした。
「あ、あの、広い胴だなと思って。ほら、どうやっても、手が回りきらない」
「だからといってこのように男に抱きつく女性がおりますか。直ぐにお離しください」
 無防備この上ないナマエの行動は、趙雲の心臓に大いに負担をかける。趙雲は己の早鳴る鼓動に気付かれないよう、窘めなければならなかった。
 むっと顰め面になったナマエは趙雲から距離を置きながらも、しかし皮肉を言うのは忘れない。
「趙雲だって抱いているじゃない、私の腰」
 と、一瞬、ナマエの腰に置かれた趙雲の手がふわりと離れる、が、直ぐに、今度は少し強く抱き寄せたのだった。
「……あなたの安全のためです」
 微かに赤くなった頬を隠すように、ややばかり険を孕んだ声で低く呟く。

 その時、ぐふっ、と、妙な音が後ろから聞こえてきた。振り返らずとも音の正体は予想できる。おそらく一連の二人のやり取りに、後方を護衛していた男達が耐え切れずに吹き出したのだろう。
 趙雲は後ろを向く気力もなく、脱力した。
「何時までたっても子供っぽいお人だ……」
 ん? とナマエがその発言に、頭一つ分上にある趙雲の顔を振り仰ぐ。
「それはちょっと違うわ、趙雲」
「……ならば、何です?」
 うん、とナマエが考えこむように視線を上にめぐらす。
「あなたの前だから、私、素に戻っちゃうのよ、きっと」
 と、ナマエの思いがけない言葉に、趙雲が不意を突かれて言葉を失った。
「それは……」
「なに?」
 趙雲は目の前にあるナマエの笑みを暫し言葉無く見詰めていたが、やがて、ふっと苦笑を漏らした。
「喜んでいいんだか、悲しいんだか分らないな」
 ナマエは、はにかんだ笑みを浮かべたが、すぐに視線を趙雲からはずした。
「そうね」
 その態度に少しだけ引っ掛かるものを感じた趙雲だったが、しかし何も問わずにふと視線を落とした。


 城から続く道が漸く終わりをみせる頃には、もうナマエ達がいる所まで市の熱気が伝わってくるものだから、その凄さは知れようというものだ。趙雲は町に入る手前で馬を降り、馬番を買って出ようと寄ってきた少年に小銭を渡して馬を預けた。
 趙雲が連れてきた護衛の者達と話をつけている間には、ナマエはすでにきょろきょろと周りを見渡しながら市の方へと歩き出していた。それを、小走りで趙雲が追う。護衛の男達は、少し離れた距離から二人を追う形となった。
 商人も客も疎らだった市の外れから徐々に中心に入ると、途端にもの凄い熱気と込み合う人々にぶつかり圧倒された。道端で珍しい商品を開いている者、弁舌ふるって客を引きつける者、それに負けじと値引くよう交渉する客の姿、などなどあちらこちらで威勢の良い声が上がっている。中には其れに混じって罵声も。うわっと驚きの声をあげたのは、果たしてナマエだったのか趙雲だったのか定かではない。恐らく、両方。

 人々の間を縫いながら無遠慮に走る荷車に轢かれないよう気をつけながら、趙雲がぽけっと市を眺めるナマエに声をかけた。
「まったく、凄い人出だな。ナマエ殿、手を」
 そう言って、手を差し伸べる。
「え?」
 一瞬趙雲がいることすら頭から抜けていたのだろう、ナマエは振り返って目をしばたいた。と、目の前に差し出されている手を、ことんと首を傾げて眺める。
「はぐれては困りますから。ほら、手を繋ぎましょう」
 ぐい、と更に手を突き出され、しかしナマエは何故かそれに掴ることを躊躇った。趙雲としては、そんなナマエの躊躇いに構っている暇なぞ無いのか、自らナマエの手をがしっと取る。
 ナマエはちらりと趙雲を見、そのまま手を解くことなく前を向いた。と、その微かに赤らんだナマエの頬に気付いた趙雲が、苦笑を浮かべてからかう。
「何を照れているんです?」
「照れていません!」
 まるで噛み付くように、しかし手はそのままでぱっと反応を示したナマエに、趙雲が肩を竦めておどけたような顔になった。この男にしては珍しい表情だ。あら、と目を瞬いたナマエに、趙雲が悪戯気に笑ってみせた。
「本当は首に紐でも付けておいた方が安心ですけど」
 と、趙雲が紐を引っ張る真似をしてみせる。一呼吸遅れてその意図を理解したナマエが、頬を最大限に膨らまして怒りを表した。
「酷ーい!」
 云いつつ、ナマエはぐっと握る手に力を入れる。その痛みで、目の前の男の余裕な表情が崩れる様を見たいが為だ。が、娘の力では如何ともしないらしく、趙雲の苦笑はますます広がっていくばかりだった。
「そんな力では、痛くも痒くもありませんよ」
 応えは、ナマエの不機嫌な表情。そのまま、無言で歩き出したナマエに半ば引き摺られるように、趙雲は微苦笑を浮かべながら己もまた歩き出した。

 ナマエの不機嫌は、しかしながらすぐに何処ぞへと吹き飛んでしまった。客引きの威勢の良いがしかし宮廷で聞くことは珍しい粗野な声、城に篭っていては決して目にすることの出来ない珍しい品物を前に、ナマエはきらきらと目を輝かせている。籠に幾匹とぎっしり詰め込まれた、まん丸と太った可愛らしい兎の赤い目と出会ってしまい、ナマエが其処から動けなくなることもままあった。狭い籠に詰められて可哀相だとかこのまま食べられてしまうのだろうかとか、色々思う所もあるだろうに、しかしナマエは高慢かつ天真な姫らしい我侭も何も口にせず立ち去ったので、趙雲は安堵のため息をついた。まぁ、多少後ろ髪を引かれていないでもないようだったが。
 と、思った以上に自分は、ナマエに対して見た目よりも幼い見解を持っていることに気付き、趙雲は苦く笑った。相手は、何時までも子供ではないのだ。
 昔を思い出してなんだか妙に感傷じみてきたらしい、趙雲のしみじみとした口調がナマエを振り返らせた。
「そういえば、昔は良くこうやって手を繋ぎましたね。覚えていますか?」
 え? とナマエが意外そうに目を見開き、そして何故か暫し答えを口にするのを躊躇った。
「……覚えてない」
 暫し後の、答えは其れだった。しかしわざわざ視線を外したナマエのその態度は、嘘だと言っているようなものだった。なにせ実際、ナマエは覚えていたのだから。だが何故嘘をついてしまったのか、その理由は自分でもわからなかった。きっと羞恥心やら優越感やら、微妙なところが関係しているのだろうが、ナマエには己の微々たる心の動きのことなぞ理解できない。
 ナマエの小さな嘘に薄々気付いてはいるのだろう趙雲は、しかし「それは残念ですね」と呟いただけだった。

 そのまま賑やかな市を逍遥していたが、露店は眺めるものの何も購入せずに素通りするナマエに気付き、趙雲がやや不審気な声をあげた。
「何も買わないのですか?」
「ええ。だって、お金持ってないんですもの」
 当然とでもいいたげな様子で爆弾発言を投下したナマエに、趙雲がぎょっとなって振り返った。ついで、呆れる。
「……」
「何?」
「いえ」
 物言いたげに見詰めてくる視線に、暫し沈黙を守っていたナマエは耐え切れなくなって聞かれてもいないのに理由を口にした。
「……だって、私のような世間知らずにお金を持たせても、ぼったくられるのがいいところだし」
 はぁ、とナマエの言い分を聞いていた趙雲が、微かに感嘆を含んだため息をつく。
「良くご自分を理解していらっしゃる」
「それって褒めているの? それとも厭味かしら?」
 ナマエに云われて初めて気がついたとでも云うように、己の言葉に趙雲があっと口を開いた。
「……失言でした」
「趙雲、それってますます失礼よ」
 ぷぅっと頬を膨らませながら、ナマエが趙雲を見上げた。
「あ」
 取りも直さずに自分の失言を肯定してしまった趙雲がさっと青くなる。と、ぱっとナマエと視線が合い、その趙雲の慌て具合が可笑しかったのか、くすくすと笑いだした。その様子と己の先の慌てぶりに、自らも失笑を耐えきれなかった趙雲だったが、暫し後も経たずにナマエと同じように笑い出した。

「では、そうですね……お詫びに何か奢りましょうか」
 漸く笑いが引っ込んできた頃、趙雲が言い出したことにナマエが首をかしげた。
「へ?」
「櫛でも何でも、好きなものをどうぞ。なんなら、その耳飾に合わせて朱玉の付いた首飾りなどどうです?」
 瞳を優しく細め、ナマエの耳元を飾る赤い耳飾を眺める。その視線を感じてナマエが、ぱ、と赤くなって耳飾を掴んだ。
「あれ、これに気付いていたの?」
 勿論、と趙雲が頷く。
「……お似合いですよ」
 えっ、と思わずナマエは声を上げた。いっそ耳を疑う心地で聞き返したいところだったが、だが耳は正常らしい。頼んでもいないのに、先の台詞を繰り返した趙雲の声がはっきりとナマエの耳に届いたのだから。
「どうしたの? いきなり」
「いえ、まだ云ってなかったかと気付いたので」
「……」
 予想外の言葉に言葉を失いかけたナマエ。が、このまま調子を取られまい、と、赤らんだ顔を隠すように平静を装って趙雲にぐっとにじり寄った。
「何でもいいのよね?」
 ええ、と少々圧倒されたように、趙雲が頷く。これを得たりと、ナマエがにっこりと笑った。
「そうね、じゃあ……」