紅
その日の空は、雲ひとつない、美しい青が何処までも続いていた。
その青は蒼を幾重にも重ね、天の奥底まで見えてしまいそうなほど深い色。
昼間であるというのに、地上から少し離れたところには既に月も浮かんでいる。
時刻は、そろそろ午後に差しかかろうとしていた。
カタン、と微かな音が窓の方から聞こえ、ふとナマエは顔を上げ、表情を和らげた。
その視線の先には、可愛らしい小鳥が一羽。窓辺に撒いてある菓子屑を、その小さな嘴に咥え、再びバサバサと飛び立っていった。
然しこの部屋の主――趙雲は、その音さえ耳に入っていないらしい、先ほどから手元の書類を熱心に読んでいる。
ナマエはその邪魔にならないよう、そっと音を立てずに座から立ち上がり、窓辺に寄った。
半開きになった窓からは穏やかな風が入り込み、薄い布地の窓掛をゆらゆらと揺らしている。
と、其れまで書類とにらめっこをしていた趙雲が徐に顔を上げ、ナマエの後を追うように窓の外に視線を遣った。
貫ける様な青を眺めつつ、ふ、とため息をついた。かと思うと、今度は唇を覆うように手を当て、考えに耽るように半目を伏せた。
そろそろ執務に厭きている、趙雲の仕草を眺めていたナマエは、いつもの男の癖を見て彼の心情を汲み取った。
「休憩にしますか?」
クスクスと笑い声と共にそう云えば、うーん、とちょっと間延びしたような返事が返ってくる。
ナマエが趙雲を振り返れば、丁度彼が大きく伸びをしている所だった。
趙雲の背後に歩み寄ったナマエは、酷使された彼の首の筋肉を労わるように優しく手を当てた。
それが気持ちいいのか、趙雲はじっと目を瞑ってナマエの手に己の首を委ねている。
時折ぴくりと揺れる趙雲の睫毛が、ややばかり艶かしい。
「休日まで、お仕事だなんて」
暫らくしてナマエがやや不満気に呟けば、閉じられていた趙雲の口が開き、苦笑が漏れる。
「仕方ないさ、体を動かすだけが将の仕事じゃない。……尤も、体を動かす方が私は得意だがな」
それはそうでしょうね、とナマエが微笑む。
と、ぴくりと趙雲の睫毛が揺れて瞼が開いたかと思えば、瞳をゆっくりと後ろに立つナマエに流す。
視界にナマエを捉えると、趙雲はやや含みの在る微笑を口元に刷いた。
「ナマエには、やっぱりつまらないかな?」
含みの在る笑みが気になったものの、その言葉にナマエは動かしていた手を止め、少し困ったような表情で趙雲を見た。
ナマエとしては今のところ趙雲と居られるだけで十分なのだが、やはりせっかくの休日、出来るならばこのような形ではなく、趙雲と一緒に楽しく過ごしたい。
返答に迷った末ナマエは、つまらなくはないけど……と遠慮気に応えた。
ナマエの口から飛び出た意外な言葉に、趙雲の眉が一瞬ぴくりと跳ね、少し憮然とした表情になった。彼としては此処でナマエに、つまらない、と云って甘えて欲しかったのだろう。しかしナマエはそれ程天真な性格ではない。卓に肘を付き、ナマエに対する己の認識の甘さに趙雲は軽くため息をついた。
そんな彼の心情などお構いなしに、ナマエは、でも、と続ける。
「……ちょっと、寂しいです」
そのやや気恥ずかしそうな声に、趙雲はそれまでの憮然とした表情を引っ込め、ナマエをゆっくりと振り返った。
見れば、ナマエは悪戯気に微笑んでいる。まるで彼の心情など御見通しだと言わんばかり。
趙雲は苦笑し、ナマエをそっと引寄せた。
「ちょっとか」
ええ、とナマエが微笑む。
そのナマエの台詞に彼の自尊心がいたく刺激されたのか、趙雲は眉間に小さな皺を作ってナマエの台詞を口の中でもそもそと繰り返している。
ナマエはその可笑しげな光景を、くすくすと小さな声を零しながら眺めていた。
と、唐突に趙雲がナマエを振り返る。
「本当に、ちょっと?」
やや真剣気に言う趙雲にナマエは耐え切れず、笑い声を上げた。
「さあ、どうでしょう?」
「ナマエ」
困り果てたような趙雲の声に、いよいよナマエは笑いが止まらない。
うーん、と趙雲はナマエを腕の中に仕舞ったまま、じっと考え込むように目を瞑った。
何を考えているのだろう、とナマエが趙雲を覗き込んだ。と、その瞬間、ナマエの視界が反転した。
趙雲がナマエを横抱きに抱えたと思ったら、急に立ち上がったのだ。
「趙雲様!?」と、すたすたと早足で部屋の戸へ向かおうとする趙雲に、ナマエはひどく慌てて彼の名を呼んだ。
すると趙雲はちらりとナマエを見、しかし直ぐに視線を元に戻した。
「今から出かけよう」
意気揚揚と、趙雲が告げた。
え? とナマエが慌てる。
「今からですか?」
「そう、今から」
嫌か? と微笑まれ、ナマエはたじろいだように首を横に振った。一緒に出かけられるのは、嬉しいことだ。しかし趙雲の提案は、ナマエを慌てさせるのには十分なほど急すぎた。
「でも、そんな、急に……」
どうして? と首を傾げるナマエに、趙雲は少年のように、にっ、と笑った。
「休日に仕事ばかりで、ナマエに愛想をつかれては困るからな」
まぁ、と驚いたナマエだったが、嬉しそうに趙雲の逞しい首にそっと手をまわした。
その後、そのままの格好で出かけようとした趙雲だったが、ナマエ付きの侍女に引き止められてしまった。
ナマエの格好といえば、およそ余所行きの格好ではなく、普段通りの、地味な、よく言えば落ち着いた色合いの衣を纏っているものだから。
少しでもめかしこまないと恥をかくのはナマエだと云われ、渋々趙雲はナマエの支度を許可した。
ナマエにしても、久々の遠出である。少しくらい綺麗な格好をしたいという気持ちもあっただろう。
「綺麗にして差し上げますからね」と趙雲からナマエの手を奪った侍女の言葉に、そのままでも十分綺麗だが、と言いかけた趙雲だったが、久々の遠出にナマエの瞳が嬉しそうに揺れているのを見て、まぁ仕方ないか、とため息をついただけにした。
――そして、半刻が経った。
じりじりとナマエの支度を待っていた趙雲が、遂に待ちきれずにナマエの部屋を訪れた。
コンコン、と戸を叩き、中から「どうぞ」という声が聞こえるやいなや、趙雲はさっと戸を開けた。
「ナマエ、支度はできたか?」
そう言いながら開けた扉の向こうに、佇む二人の後姿が趙雲の視界に入る。
すなわち侍女と、ナマエの後姿。
丁度白粉を塗り終った処なのだろう、白粉たたきを持った侍女は、驚きに固まって此方を見ている。
「趙雲様」
と、突然の趙雲の訪問に、ナマエが驚いて振り向く。
踏み出そうとした趙雲の足が、そこで止まった。
視界にナマエの姿を映したまま、趙雲が目を細めて無言で眺める。
――時の流れが、少しだけ遅くなったような錯覚に陥った。
己の一挙一動でさえも見詰められているような感覚に、ナマエの頬に朱が走る。
久々のめかし姿である。似合うだろうか、似合わないだろうか? それとも派手すぎるだろうか? と、ナマエの心配は尽きない。
然し肝心の趙雲の言葉は、幾ら待てども貰えない。
ナマエが不安に眉を寄せた時、侍女が趙雲に向かって頭を垂れた。
「お待たせして申しわけありません。後は紅をさすだけですから」
暫し無表情でナマエを見詰めていた趙雲が、その台詞を切っ掛けに、ああ、と漸く笑みを作った。
それに合わせ、己の仕事を思い出したように”時”もゆるりと動き出した。
そのまま、侍女が紅の色を選ぶ様子を見ていた趙雲だったが、何を考えたのか、いきなりナマエに歩み寄って卓に置いてあった筆を摘み上げた。
武骨な手に、華奢な造りの筆、何とも似合わない組合せである。
その筆先を神妙な顔で見詰めた、かと思えば、ナマエを振り返ってとんでもない事を言い出した。
「やってみても、いいか?」
ええっ? と、驚いたのはナマエだ。
「趙雲さまが?」
ああ、と頷きつつ、侍女の選んだ紅の色を手に取る。下がっていい、と侍女に云うのも忘れない。
「後は、これだけなんだろう?」
いいだろう? と、筆先に紅をつけながら、趙雲はしれっと事も無げに言った。
「大丈夫だ。これでも手先は器用な方だから」
「で、でも……」
唇に近づく筆先を、ナマエはひどく恐ろしげにじっと見据えた。
「ほら」
ぐい、と頤を持ち上げられ、ナマエはとうとう観念したようにぎゅっと目を瞑った。
くすり、と趙雲の苦笑が聞こえる。
と、その瞬間、唇に感じた筆先のくすぐったい感覚に、知らずナマエは力んだ。
「こら、そんなに口に力を入れたら、やり辛いじゃないか」
くすくすと、笑う声。
「出来た」
と、ナマエは慌ててパチリと目を開けた。
差し出された銅鏡に映った自分は、さほど可笑しいところは無い。
肝心の紅は唇の輪郭に添う様に、きちんと綺麗な弧を描いている。
「わ、お上手ですね」
と、少し興奮気味にナマエが趙雲を振り仰げば、趙雲は満足したように微笑んでいた。
ナマエも釣られて、微笑んだ。
じゃあ出かけましょうと、いそいそと歩き出そうとしたナマエだったが、不意に趙雲に腰を取られて驚きに声をあげた。
慌てて趙雲を振り仰ぐ、――と、そのナマエの視界が影に覆われた。
少し乾いた感触が、紅を刷いたばかりのナマエの唇を覆う。
すっと、目の前の影――趙雲の顔が微かに斜めに傾げ、より深くナマエの唇にかぶりつく。
口づけをされている、僅かに遅れてその状況を理解したナマエが、顔を真っ赤にして後ろに仰け反った。
結果的に唇が離れたのは良かったのだが、代わりにナマエの視界に入ってきたのは、端整な顔立ちに浮かべられた、――この上ない魅力的な微笑み。
瞳だけで微笑まれ、ナマエは魅入られたように固まってしまった。
――と、また顔が近づく。
あ、と呟く暇も無く、ナマエはまた口を塞がれた。
優しく、少し強引に、趙雲の柔らかな唇がナマエを翻弄する。
始めは抵抗を見せていたナマエの体から、次第に力が抜けていった。
脱力し、ナマエが趙雲にしな垂れかかる。
趙雲はといえば、ナマエをしっかりと支えては居るものの、思う存分柔らかな感触を堪能している。
と、最後にぺろりとナマエの唇を舐めて口を離した趙雲の顔が、少しばかり歪んだ。
「少し苦いな」
紅のことである。食用では無いから、あたり前といえばあたり前な趙雲の感想。
しかしその台詞に、我を失っていたナマエがはっとして趙雲を見上げた。
「な、何を、なさるんですか……!」
と、ナマエは睨み上げ、さっと再び頬に朱を走らせた。
趙雲の唇に己の紅が移っている。それが妙にナマエの羞恥心を煽ったのだ。
しかし赤い顔のまま睨み上げても、趙雲には余り効果は無い。
「嫌だったか?」
と、趙雲は笑ったまま、唇に移ったナマエの紅を手の甲でぐいと拭った。
その仕草が艶かしく見え、ナマエは耐え切れないように俯いた。
「べ、紅もなにも舐めてしまって……全部取れてしまったじゃないですか」
せっかく塗って貰ったのに、とナマエが零す。
くすり、とその時降って来た笑い声に、ナマエは嫌な予感を覚えて思わず顔を上げた。
と、そこには満面の笑みの趙雲の顔。
「心配しなくとも、また塗ってあげるから」
その台詞と共に、くい、と再び顎を持ち上げられたものだから、ナマエは心中大いに慌てた。
「次はこの色がいいかな」と、暢気に色を選ぶ趙雲を、慌ててナマエが引き止める。
「ちょ、趙雲様、自分でできますから……」
と、今度は薄紅色を手に持った趙雲が、にこりと笑う。
「遠慮せずとも」
遠慮なんてしていない、と言いかけたナマエの唇は、しかし開くことなく再び趙雲によって綺麗に色付いていった。
「この色も、似合うな」
筆を置いてそう呟いた趙雲だったが、やはりというか、次の瞬間には予想通りナマエの唇は塞がれた。
くたり、とまたナマエが趙雲の腕にしな垂れる。
何が面白いのか、再び紅も綺麗に舐められてしまった。
自分で色を付け、そして奪うという過程が、よほど気にいったらしい。
再び飽きもせずに色を選ぼうとする趙雲の手を、ナマエががっしりと掴んだことでやっと諦めさせることが出来た。
紅を塗っても、趙雲に舐められてしまっては意味が無い。
眉を寄せてむっとするナマエの表情とは対照的に、趙雲はくつくつと可笑しげな笑みを浮かべている。
「どうする?」
と、ナマエを腕の中に収めたままの趙雲がすっと笑いを引っ込め、ナマエの米神に唇を当てるように囁いてきた。
え? とナマエが見上げる。
「出かけるのなら早く出かけないと、時間が勿体ない」
それとも、とナマエに趙雲が意味ありげに微笑む。
「このまま此処で過ごそうか?」
ぐい、と、云いながら趙雲はナマエを更に引寄せた。
その仕草に、ナマエは今も自分が力なく趙雲にしな垂れかかっていることに気付き、慌てて体を起こした。
「だ、駄目です、それは駄目。出かけましょう」
せっかくの休日、しかも天気も申し分ない。こんな日に室内で過ごすなんて、勿体なさ過ぎる。
それに此処で過ごすとなったら、夜まで出られなくなりそうだ。
そんなナマエの心情を知ってか、趙雲の顔には苦笑が浮かんでいる。
「そうか、じゃあ行こう」
と、云うやいなや、趙雲はナマエの腰に手を添えて歩き出した。
ナマエが困惑する。
「でも、まだ紅が」
ナマエの唇は、趙雲によって綺麗に舐められてしまったままである。
しかし趙雲は歩きながら、そんなことなど気にも留めない様子でナマエに笑いかけた。
「いいよ、そのままで」
「でも」
と、それでも渋るナマエ。
と、趙雲が唐突に振り返って、少年のように屈託無く笑った、――かと思うと、ナマエを急に抱き上げた。
きゃ、と短い悲鳴を上げたナマエの目の前に、趙雲の笑みが迫った。
「実は、な」
ふっと目で微笑む、その仕草はやはり魅力的で。
さらりと衣擦れの音がした瞬間、ナマエは反射的にそっと目を閉じた。
唇に、温かな感触。
「……ナマエのこの色が、一番好きなんだ」
と、次に目を開けたナマエの視界には、蕩ける様に優しい趙雲の笑み。
真っ赤になって俯いてしまったナマエの米神に、趙雲はそっと口づけを落とし、綺麗だよ、と囁いた。
空は青く、何処までも広がり。
甘い囁きすら、優しく受け止めて。
穏やかに、恋人達の午後が