驟雨





 雨が降っていた。
 雨脚は激しく、全てを掻き消すかのようだった。
 見渡す風景は、白い煙にでも覆われたかのように、輪郭を曖昧にさせている。

 許昌の宮城。
 その中でも許された者のみが入室を許可される一室で、物思いに耽るように窓辺に座す男がいた。
 皇帝、曹丕。
 ――この国において最も高貴な人物。

「雨は鬱陶しいな……」
 長い沈黙の後、曹丕はぽつりと呟いた。
 まるで誰かに聞かせるかのようなそれは、明確には独り言ではなく、室の隅に静かに佇む、一人の女に向けてのものだった。簡素で目立たぬ衣を纏った女は、曹丕専属の護衛である。何処に行くのでも曹丕に付き従うその姿は、まるで彼の影――。
 影の名は、ナマエ
 曹丕はゆっくりと振り返り、沈黙に徹する己の護衛を見遣って、くつくつと笑った。僅かに嘲笑が含まれたそれに、しかしナマエの無表情は動かない。この影が、宮城においては人目をはばかって容易に素を曝け出さないことには、慣れたことであった。
 昔はあれほど潔く啖呵を切っていたのに。別人のように冷徹なナマエを、曹丕は可笑しく思う。
 曹丕とナマエは、以前敵対する者同士として出会ったことがあった。波乱に満ち溢れる運命の末、厭いながらも互いに強く惹かれあい、遂には愛し合い、袂を別つた。だが紆余曲折の末、ようやく魏王となった曹丕の手に戻ってきたのだ。無論、誇り高いナマエのことだ、屈服させるのは一筋縄ではいかなかったが。
 戦場で再びナマエとまみえた時の事を思い出し、曹丕は少し目を細めた。
 窓辺を離れた曹丕はゆっくりとナマエに近寄り、護衛の仏頂面を覗き込んだ。
「雨の日は、古傷が痛む。お前につけられた、古傷がな」
 言って、曹丕はおもむろにぐいと片袖を脱いだ。しなやかな筋肉がついた肌が露になる。
 筋肉が隆起する上腕に、斜めに走る一線の太刀傷が刻まれていた。
「手痛い一太刀だった。お前、あの時遠慮もなく斬りつけてくれただろう」
 曹丕の言葉に、ナマエの視線が泳いだ。
 再び敵同士であい見えたナマエは、曹丕に対して冷酷に刃を繰り出した。相変わらず潔い太刀は、何とかナマエを取り戻そうとする曹丕の手を焼いた。だが、無傷でナマエを奪取しようとする曹丕に対して、彼女は剣を突きつけて「私が欲しくば実力で取り戻せ」と啖呵を切ったのだ。そう言われれば曹丕も真剣にならざるを得ない、何合か打ち合った末剣を取り落としたナマエは、とうとう曹丕に従うことに承諾したのだ。
 いま、目の前に晒される曹丕の太刀傷は、その際の打ち合いにナマエが刻んだものだった。それを事あるごとに引き合いに出す君主に、ナマエはいつでも苦々しく思う。
「その節は失礼を。何分、命が掛かっていたもので」
 ぬけぬけと言ったナマエに、とうとう曹丕は声をあげて笑った。

「見事な一太刀だ」
 自らの指で痕をなぞると、曹丕は傷跡をナマエに見せ付けるように腕を突き出した。
「良く見ろ、お前が刻んだ傷だ」
 ナマエはその腕に視線を落とし、そして愉しげな己の主を見上げた。
「決して消えぬ傷だ。よくぞ、この私につけたものだ」
 この魏王である私にな、と曹丕は目を細める。
「咎められるのならばご自由に。護衛の任を解雇するというのなら、謹んで受けましょう」
 曹丕の眉宇がぴくりと動いた。そして、半目を伏せて言ったナマエの顎を掴んで、顔を向けさせる。
「莫迦な。私がお前を手放すものか」
 傲慢に言って、曹丕は微笑む。
「せっかく取り戻したものを、安々と手放す気はない」
 ナマエが何かを言おうとした。だが、それよりも早く曹丕が口を塞いだので、果たせなかった。
 触れた唇は少し冷たかった。それを暖めるように、食んでは舐めた。何度も離して、また触れる。
 ナマエは大人しくされるがままになっている。それに気をよくした曹丕が、ぐっと彼女を引寄せ首筋に唇を落とそうとした時、「殿」と、殊更冷静な声が彼を押し留めた。
 曹丕が見上げると、寸分も乱れていない瞳が見下ろしてくる。
「……護衛が出来ませんので、少し離れてください、殿」
 曹丕が暫しその体勢のまま押し黙る。離れるつもりなど毛頭ない。
 ややしてまた行為を再開しようとすると、今度こそ本当に押し留められてしまった。
「素直でないな」
 腕の中からするりと抜け出して、乱れた衣服を直すナマエの横顔に、彼は面白くなさげに鼻を鳴らした。
「本当は私の傍にいれて嬉しいものを」
 その言葉に、ナマエはぴたりと動きを止め、奇妙な顔をして押し黙った。そして、吐息をつくと。
「……ご随意に」
「肯定、と取っておく」
 ナマエの捻くれた回答に、曹丕はくつくつと笑った。そして、また懲りずに腕を伸ばす。

「殿」
 すっぽりと曹丕の腕に収まったナマエが、僅かに非難の混じった声を挙げる。曹丕は、しかし彼女を押し黙らせるかのように抱く腕に力を込めて、その頭に頬を寄せた。
「今は二人きりだ、ナマエ
 誰も見ておらんし、聞いておらん、と言うと、ナマエの体からふいに力が抜けた。
「……暫し、こうしていてもいいか?」
「好きにしろ」
 やはり、素直でない。曹丕はしかし満足気に微笑んで、ナマエの髪に唇を寄せた。
 ナマエはそっと曹丕の傷跡に指を添わせ、慈しむように唇を落とした。
 永遠に消えぬ、ナマエの証しを。


 驟雨は、まだ止まぬようだった。
 激しい雨は、全てを覆い隠す。
 人目をはばかり睦みあう、秘密の恋人たちですらも、全て隠して。
 この時だけは、どうか奪わないで。