不器用な織姫と器用な彦星の場合
今日は七月七日、世に云う乞巧奠である。この祭事は女人のもの。女人達は、手芸が上達するよう願うのだと云う。大きな都では、この日にかこつけて、大きな祭を開くところもあった。むろん、孫家のお膝元、建業も例外ではない。
江東の孫呉に仕える勇ましい女将軍ナマエは、もとは劉表の将であり、紆余曲折の末、いまでは孫家に忠誠を誓う立派な武人である。家柄は古くより幾人もの武官を輩出する名家で、自らも功をたてんと貪欲に戦場に臨んでいた。
そんなナマエ将軍の性格は、全く勇ましいの一言で、竹を割ったように豪胆なものであった。そんな漢らしいナマエ将軍であったがゆえに、女であるにも関わらず此度の祭から誰よりも縁遠い存在であるとは容易に想像でき、……つまり誰もが、よもやこの将軍が手芸上達を願うなどとは思いもしなかったのだった。
さてさて、長い前置きであったが、そんな祭から蚊帳の外であるナマエは、ただいまある作業に一心不乱に挑んでいた。
戦場以外でお目にかかれないような必死の形相で挑むのは敵将ではなく、布が張られた丸い円盤だった。それに、ぷるぷると震える手付きで糸の通された針を刺しては抜き、刺しては抜き、を先ほどから際限なく繰り返している。ぶすぶすと遠慮なく刺された布は、既に無数の穴が空いていた。つまりナマエは今、初めての刺繍に挑んでいるのだった。
予想通り細かい事が大の苦手なナマエは、慣れぬ作業で先ほどから布ではなく己の指を刺してばかりいた。
「いたっ、……つう、また刺してしまったか」
ちくりとした痛みに、ナマエは顔を顰めて刺してしまった指を離した。どうやら血は出てないことを確認し、疲れたように溜息をついて一度刺繍版を置いた。
「どうやら私はこういった細かい作業が苦手なようだ……」
つくづく己の不器用さを思い知り、独り言を呟いた。今は夕刻、祭りともあってか、まだ居残って仕事をするような者は、数えるほどだった。だから誰も、こんな夕暮に染まる人気の無い外廊は通らないだろう、そう思っていたが、しかしナマエにとっては珍しい人が突然後ろから現れて、ナマエは目をぱちくりさせた。
「――こりゃまた珍しい光景だ」
そう言って現れたのは、独特のシニカルな笑みが印象的な男、凌統であった。
「凌統殿、まだ残っていたのか」
意外そうに言うと、凌統は「残業でね」と笑って、了解も得ずにナマエの隣に腰を下ろし、しげしげと小さな刺繍版を眺めた。
「へえぇ、アンタでも刺繍なんかするんだ」
「ああ、女官がやっているところを見てな、興味がわいたのだ。なんでも上手く縫えたら、良人に渡すのだとかで随分と楽しそうにしていたぞ」
ナマエは云いながら、さりげなく凌統の目から穴だらけの刺繍版を隠した。とてもじゃないが、見せれるものではない。
「そういえば今日は乞巧奠だったか」
今更思い出したように凌統は呟いて、おもむろにナマエが持つ刺繍版にひょいと手を伸ばした。
「アンタに刺繍なんて意外だね、見せてよ」
思わずナマエは、ひいっ、と悲鳴をあげた。
「いっ、いや、いやいや、他人に見せられる物ではないから……っ!」
「またまたそんな。いいじゃん少しくらい」
ナマエの必死の抵抗も空しく、ひらり、と笑顔の凌統に刺繍版を取り上げられてしまった。
「あ、コラっ、凌統どの! 返さぬか!」
慌てて手を伸ばすも、凌統の魔手から中々奪い返せない。ナマエは思わず、懇願した。
「た、頼む、後生だから返してくれぬか?」
しかし慈悲は、下されなかった。
にやりと殊更意地悪く笑った凌統は、手にした刺繍版をまじまじと眺めた。その傍ら、ナマエは冷汗をかいて次の凌統の言葉に構えた。さあ、どんな嘲りの言葉が飛び出すのか――。
けれど、実際彼の口から飛び出した言葉は、意外や意外の、お褒めの言葉であった。
「ふうん、思っていたよりは上手いじゃん」
「……そ、それは真か?」
「ああ、特にこの虎の模様がいいな」
ナマエの表情が凍った。
「………………それ、牡丹だ」
「え!? …………」
凌統はしばし押し黙った。なんてフォローしようか、真剣に考えているようだった。
「あ、そ、そうか。ま、まぁ、人には向き不向きがだな……」
「もう良い……」
必死にフォローされるとなんだか余計に虚しくなり、ナマエは達観したように遠くを見た。自分を卑下する気はないが、やはり少しばかり切ない。
凌統は、返す言葉もない。
ナマエは凌統の手から刺繍版を奪い返し、再び針を進めた。
「つっ!」
だが、すぐにまた指をさしてしまい、その様に隣に居た凌統が「あちゃあ」と頭を抱えているようだった。ナマエは彼の表情を見て内心でツッコむ、なんだその顔は、頭を抱えたいのはこっちだ! けれど決して悲愴にならないのが、ナマエがナマエたるゆえんである。
糸がつっかかり、力任せに針を動かすと、また指を刺す。
「不器用……」
凌統の呆れた声に、ナマエはキッと顔を向けた。
「そう言うが、意外と難しいのだぞ! 凌統殿もやってみれば分る!」
その言葉に、んー、と凌統はしばし思案し。
「貸してみろよ」
おもむろに、手を差し出した。
ちくちくちくちく、ナマエが見守る中、凌統の長い指が規則的に動く。暫しして、糸がだんだんと布にはっきりとした模様を刻んでいく様に、ナマエは感心しきっていた。いくら何事も卒なくこなす凌統でも、まさか刺繍は出来んだろうと思っていたが、その了見は見事に覆された。刺繍もこなしてしまう色男凌統、ただの色男ではない。
こいつ、すごい、ナマエは素直に思った。
「……凌統殿は、良き奥方となるだろうな」
感心して思わず言うと、凌統は流石に手を止めて眉をしかめた。
「やめてよ変なこというのは。俺は男だっつの」
「冗談だ」
くつりと笑って凌統の手から刺繍版を受け取ると、彼が縫った部分をまじまじと眺めた。上手い。
「しかし、難しいものだ。繕い物一つ満足に出来ぬとは、泉下の母上に呆れられてしまうだろうな」
言って、再び針を持つ。
「まあ、私は生涯独り身だろうから、出来なくてもさほど困らないが」
ナマエは、己の母が刺繍が大層上手であった事を思い出して、少し微笑んだ。
と、刺繍版を持つ手が、突然隣の男の手に拘束されて、ナマエは瞬いて凌統の方を見た。
「……血が出てる」
言われて、ナマエは己の指の表面にぷつりと玉のように浮かんだ血に、初めて気がついた。
「ああ、本当だ。先ほど、針で嫌というほど刺しまくったから。いかんな、このままでは血が付く。こういうものは、血で汚してはいけないと聞いたが」
少し慌てて拭う物を探していると、「貸して」という凌統の声とともに、突然ぐいと腕を引かれた。
「あ?」
そして、ナマエの指は迷いもせずに凌統の口の中へと放り込まれた。指先の皮膚が凌統の口内の熱を感じ、舌が当たった。そしてきゅっと吸い上げられる。ナマエが呆気に取られる中、凌統は指を口から解放して、懐から出した手布を指に巻きつけた。
そこに至ってようやくナマエの思考は再開し、布がぐるぐると派手に巻かれた指を見て、……ぷっと吹き出した。神妙な表情でナマエの指に布を巻く凌統の様子を思い出す。大仰に施された彼の治療に、くつくつと笑いが止まらなくなった。
「何笑ってんの?」
凌統がむっとしたようだった。ナマエは慌てて手を振る。
「いや、凌統殿は意外と面倒見が良いというか……。まるで母親のようだな」
瞬間、凌統は豆鉄砲を喰らった鳩のような顔をした。そして何か言いかけ。
「あー……」
諦めたように、「はあ」と大仰にため息をついた。ナマエはその反応に少しばかりむっとした。一体何の溜息だ。
「これ、出来上がったら誰かにあげる予定でもあんの?」
気を取り直した凌統が発した問いに、ナマエはぶんぶんと必死で頭を振った。
「い、いやいや、滅相もない。こんなボロ布恥ずかしくて誰にもあげられぬ」
「つまり、誰のものでもないってわけね?」
頷くと、凌統は何故かニッと笑ってみせた。
「じゃあ、決まり。それ、俺のものね。出来上がったら頂戴」
はい!? とナマエは素っ頓狂な声をあげた。慌てて拒絶の言葉を継ごうとしたが、それよりも早く「じゃあね」といつもの調子で飄々と手を振り、凌統は去っていった。
「ああ、あ……」
なんてこったい。
残されたナマエはしばし唖然とし、おもむろに手にした刺繍版に視線を落とし。
「……凌統殿はそんなに手ぬぐいが欲しかったのだろうか?」
ううむ、と首を捻った。しかし凌統は仮にも将軍職、別段手ぬぐいが買えなくて困っているようには見ないが。
さらに首を捻ると、あっと何か閃いたようにポンと手を打った。
「もしや凌統殿は、虎の模様の刺繍が気に入ったのだろうか?」
さっき、この模様を虎と間違えていたしな。うん、そうだ、きっとそうだ。
「ふむ、ならばこんなものでは申し訳ない。姉君に頼んでもっと良いものを縫ってもらおう」
そう結論付けたナマエは、いそいそと姉に手紙をしたためるべく、執務室へとむかった。
ふと空を見上げると、いつの間にか夜空に星が煌いていた。地平の向こうまで広がっている見事な限りの星空。
織姫は彦星に会えただろうか。
いつになく浪漫的になっている己の思考に、ナマエは苦笑した。
なるほど、偶には、こういうのもいいかもしれないな、と。