Le chocolat fond
――ナマエ、と私の名を呼ぶあのひとの声。
その一声だけで、私はあっけなく崩れて、とけだしていく。
「ナマエ」
ああ。
どうしてあなたの声はそんなにもうつくしくて、つよくて、はかなくて。
こんなにも熱いのでしょうか。
ねえ、いとしいひと。
もっと呼んで、私の名を。
ねえ。
呼んで、わたしを。
「……ナマエ」
熱っぽい囁きに、私はあっけなく溶けていく。
海に。
――私は海に溶けていく。
ちょこれーとの海に、とけていく。
あなたの声はいつだってひどく熱を帯びていて、それが私をとかすのだ。
私はまるで、ちょこれーと。
あなたにとかされる、ほろ苦い甘さがとてもキュートなチョコレート。
口どけ滑らかに、そのほろ苦い甘さはあなたの愛を届けます。とろとろと口の中でとろけて消えるそのこげ茶色の物体は、なによりもその甘さで心と体を支配する。
……ように。
今もほら、私は、溶かされていく。
あなたの熱で。
「……なんか」
ふと思いついたように、私は独り言のように呟いた。
それは明確には独り言にはならなかったが、呟いた瞬間の私の意思はしかし誰かに聞かせるつもりは無かった。ただ、傍らの彼から一心に与えられる熱でぼんやりとする頭に浮かんでは消えていく取り留めのない思考を、完全に消えてなくなる前に口に出して形にしたいと思ったために漏れた心の囁きのようなものだ。
だから、これは私のひとりごと。たとえ聞き漏らされても構わない、ごく小さな囁きだった。
「ん?」
けれど傍らの人は手を止めて、律儀にも私の独り言を聞き返してくる。
かわいいひと、私が思わず微笑んでしまった時、彼は――伯約は怪訝そうな顔で「どうしたの?」と覗き込んできたものだから、私は頬の緩みを抑えられずに彼を見上げた。
「なんかね」
触れられている温もりが心地よくて少し夢見心地で続けると、伯約の表情もつられたように柔らかくなって。相変わらず美人さんだなあと、どうでもいい事を思ったりしちゃう。
「なに?」
「チョコになったみたい」
「ちょこ?」
私が告げたその名前は、やはりというか予想通り伯約にとっては耳になじみのない言葉だったらしい、途端にきょとんとした顔になるものだから、私は悪戯が成功した悪ガキのように、くふふ、と含み笑いを漏らした。
ナマエ、と窘めるように伯約が私の名を呼んだから、すぐに含み笑いはひっこめたけど。
「そう、チョコレート。とっても甘くて、美味しいお菓子なのよ」
知らない? と首を傾げると、伯約は当然「知らない」と首を振った。
「なら、いつか、伯約にも食べさせてあげたいわ。とっても、美味しいのよ」
「うん」
「甘くてとろけて、いい香りがして、すごく幸せな気持ちになるの」
あの独特の風味を持つこげ茶色の甘味が舌先で溶けていくところを想像しつつ、うっとりと告げると、けれど伯約は何を思いついたのか、にっこりと意味深な笑みを浮かべてこう告げてきた。
「本当。まるでナマエみたいだね」
「え?」
不意をつくような発言に、私は呆気にとられてしまった。
「だから、”ちょこれーと”さ」
と、伯約が微笑んだ。その笑みといったら、色気が惜しげもなく放出されていて、うっかりのぼせてしまうんではないかと思うほど。
「甘くて、いい香りがして、おまけにやわらかくて気持がいい」
じっと見下ろしてくる伯約の視線になんだか頬が火照ってきてしまい、その視線から逃れるように私は身をくねらせた。すいと彼の顔が降りてきて、私の首筋を細く柔らかな亜麻色の髪がくすぐった。ふいに伯約が私の鎖骨を舐めた。思わずぞくりとして、声をあげてしまいそうになる。
「ほら、甘い」
「恥ずかしいわよ、伯約」
「本当だよ」
伯約の顔は灯りに照らされていて、すべらかな肌は一層滑らかに輝いている。その上彼の瞳は火を反射してキラキラと輝いていて、そのまま射抜かれてしまいそうだ。私は伯約の肌に手を伸ばし、うっとりと呟いた。
「……そうしたら、伯約は熱だわ」
手の平に感じる彼の体温は熱く、しっとりと汗ばんでいる。ふいに下腹に押し付けられた彼の熱はもっとあつくて、体の芯がどうしようもなく疼いた。
「伯約が私を溶かすのよ」
私は熱に浮かされたようにそう囁いて、伯約の首に腕を回して彼の唇をねだった。急くように唇を合わせると、吐息が私の理性を溶かしてもう何も考えられなくなってしまう。
「伯約だけが、私を溶かせるの」
強請るように伯約の眼を見上げると、彼はいっそう魅力的な微笑を浮かべた。
「なら、お望みどおり、溶かしてあげるよ」
彼の熱に溶かされたくってたまらないとばかりに、体の芯がうずいた。
口づけはいつもよりも熱くて、荒っぽかった。それでいて、少ししつこいくらいに口内を探られる。少し呼吸が苦しくなって彼のキスから逃れようと顔を動かすと、つかまれていた手首に僅かに力が入り少し痛んだので、私は抗議の視線を伯約へと向けた。すると彼は少し拗ねたような表情になり、手から力を抜いた。けれど決して掴んだ手首を離さない。逃げ出すとでも思っているのだろうか。そう思うと私は伯約のことが愛しくなり、少し大胆になって彼の素肌を探った。
彼の一番熱くなっているところに触れると、伯約の吐息が少し乱れた。「ナマエ」 彼が私の名を囁く。背中がぞくりとして、私は彼の熱に触れる手に力を入れた。潤んだ瞳を向けられ、私は少し笑った。本当にかわいいひと。
私が笑ったので、彼は少しむっとしたようだった。それがまた子供っぽくて、思わずくすくす声を立てて笑っていると、瞬く間に形勢は逆転した。寝台に押し付けられ、今度は、彼が私の肌を探った。次第に息が上がっていく。体の芯がうずいた。はやく熱が欲しくってたまらない。そう思って伯約の名を呼ぼうとしたとき、急に彼が私の片脚に噛み付いたので、私は短く悲鳴をあげた。
「伯約っ」
痛みに身を捩って逃げ出そうとするも、腰を抑えられて叶わない。私は身を起こして、自分の太股に彼の歯形がくっきりと残っているのを見た。
「痛い」
「笑った罰だよ」
彼は艶を含んだ笑みを浮かべながら、今度は噛んだ場所を丹念に舐めた。時折強く吸い付いて、痕を残していく。その仕草はなにやら動物じみていて、私はぼんやりととりとめもない事を思い浮かべる。伯約は麒麟というより大型の猫科の動物みたいだなあ。綺麗だし、毛並み良いし、……肉食だし。思わずくすりと笑う。うん、彼になら、食べられても良いか。
「なに考えているの?」
ふいに彼が覗き込んでくる。
「伯約」
私は笑いながら彼の名を呼んだ。そして、唐突に告げる。
「伯約が好きよ」
「ナマエ?」
僅かに怪訝そうな伯約の顔を両手で包んで、引寄せる。
「大好き」
耳元で囁いて、彼の顔を覗き込んだ。伯約が少し身じろぎして、私を見返す。
「もう、しんじゃいそうなくらい好き」
「ナマエ」
恥ずかしいよ、と小声でいう彼の頬は、ほんのりと赤い。私は笑いながら、こっぱずかしい愛の告白を続けた。私の知っている伯約は、行動は大胆なくせに、こういうことに関してはとても慎み深いひとなのだ。そして私はそんな彼が。
「好き、ものすごーーく、好き」
彼に甘えて困らせる私に、伯約は苦笑を浮かべたようだった。彼の首に回した私の腕をやんわりと解き、まるであやすように私の顔を撫でた。
「もういいよ、解ったから」
「……いいえまだ足りないわ」
「ナマエ」
「伯約、ねえ、聞いて。私ね、あなたのこと――」
ナマエ、と静かな、けれど有無を言わせぬ声が、私を呼んだ。思わず言葉をとめて彼を見上げると、彼の唇が私の口を封じた。
――あなたが一つ音を紡ぐたび、私がどれだけ心乱されるかを知っているのだろうか。
「ナマエ」
そうやって私の名を呼ぶ伯約の声はひどく甘味を帯びていて、私の理性はあっけなく崩れてしまう。
「あ……!」
彼が私の中にはいってきて、ふいに私は泣きたくなるほどの震えを覚えた。
熱い。溶かされそうなほど、熱い。
「伯約、すき……」
「ナマエ」
必死になって彼にしがみ付くと、急いた様に唇を合わせた。
与えられる熱はとても熱くて、それでいて心地が良くて。
「すごく、好き」
キスの合間に、熱に浮されるように何度も告げると、ふいに伯約が微笑んだ。
私が知っている、彼の最も魅力的で綺麗な微笑を。
「知ってる」
「伯約?」
「知っているよ、ナマエ」
なぜって? そりゃあ。
僕も同じだから。
――そして、”ナマエ”という名のちょこれーとは、溶けていく。
あなたの熱によって。
あなたの愛に。
とろとろ、と。
私は、ちょこれーとの海になっていく。
「……ね、伯約」
「ん?」
「いま、すごく、”ちょこ”の気分」
あなたは、ちょこれーとの海に溺れて。
私という、ちょこれーとの海に。
「とろけた?」
「――うん」
そして、とろけるような快感を。
あなたの熱を。
どうか、私に。