四方山話



※「あなたに恋をする」五話と六話の間くらい


「そういえば、奥さんとはどうだ? 上手くいってんのか」
 司馬昭がふいに口を開き、そんなことを尋ねたのは、賈充が彼の裁決を待っている時だった。
 突然の話題に賈充は執務机の前にだらしなく座る司馬昭に目をやる。執務とは関係のない話題を振ってくる辺り、そろそろ執務に飽きた頃なのだろう。司馬昭の裁決を待っている書簡は山のようにあるというのに、それを放って訓練所で新兵相手に遊んでいた彼を漸くとっ捕まえて執務に向かわせたのが、つい一刻前のことだった。
 彼の裁決が滞ると、軍部全体の執務が滞るところが多数あった。無論賈充の執務もしかり。
「話す義理はないな」
 賈充は冷たく言い捨てて、司馬昭の目の前に広げられている書簡をとんとんと指差した。
「それよりもお前は目の前の事をとっととやれ。俺の仕事を滞らせるな」
「へいへーいっと」
 気のない返事をして、司馬昭は嫌々ながら筆を墨に浸す。彼の目の前にあるのは、司馬昭の受け持つ軍の部隊内異動に関する書類だ。
「にしても、意外だよなあ。お前ああいう純真そうなのが好きだったんだ」
 司馬昭は書簡に文字を書き加えながら、にやけた顔を隣に立つ賈充に向けた。
「結婚するって聞いたのもいきなりだったし。あ、もしかして先に手を出しちまったとか?」
 そんなことあるわけないだろう、と賈充はにやけ顔を睨みつける。まだ口付けすら交わしていない清すぎる仲だ。
「おおこわっ。そんな睨むなって」
「口ではなく手を動かせ。次はこちらの裁決だ」
 賈充は判を押して一つ処理が終わった書類を退け、新たな書簡を開き司馬昭の前に置いた。次の地方平定のための遠征に伴う、部隊長の選出の書類だ。司馬昭だけが提出が遅れており、部隊編制を担当している賈充の仕事も畢竟遅れがちになっていた。
「あーあ、めんどくせ。賈充お前やっといてくれよ」
「子上……、お前はやれば出来るというのにまったく」
 とうとう司馬昭お得意の口癖が出てしまった。賈充は痛む頭を押さえて、友人を振り仰ぎ、その胸倉にとんと指を突きつける。
「才ある者がその才を生かさずしてどうする。ただの阿呆に成り下がるつもりか」
 司馬昭は賈充の脅しまじりの忠告に、諦めたのか長い吐息をついて椅子の背もたれに仰け反った。
「わかったやるよ。やればいいんだろ」
「分かればいい。候補者はこの書簡に載っている」
 別の書簡を押し付ければ、司馬昭は肩を竦めてそれを受け取った。
 書簡を読み下し、選出された候補者を吟味する。量はそれほど多くないが、選出は慎重に行わなければならない。

「そういえば元姫がこの頃冷たいんだよなぁ」
 決裁を終えた書類の墨が乾くのを待っている間、司馬昭が独りごちた。司馬昭が処理した書類を見返していた賈充はその言葉に振り返り、口の端を歪めた。
「またか。子上、お前がなにかやらかしたのではあるまいな」
「えーやっぱりそう思うか? 思い当たりがありすぎてどれが原因なのか……」
 司馬昭の奔放な態度は相変わらずだ。しかしそれが時折王元姫の負担になっていることは自分でも承知しているのだろう。
「くく、ならば態度を改める事だな」
 あーあ、と司馬昭は盛大にため息をついた。
「お前の奥さんは優しそうでいいよなぁ。元姫はたまに厳しすぎるんだ……」
 司馬昭は王元姫を手に余しているようだ。自由を愛する彼にとっては、王元姫の存在は少し窮屈なのだろう。
 振り返って己の妻はどうだろう。
 無論、司馬昭の云うとおりナマエは賈充よりは優しいだろう。思いやりもある。だが、もっと一緒に居たいなどと困った我がままをたまに言う。しかもその我がままが嬉しいと来たものだ。忙しい合間を縫って邸に帰り、ナマエと過ごす一時は安らぎ以外の何物でもない。出来うるならばもっと傍で共に過ごしたい。だが賈充自身の重責がそれを許さない。
 傍にいたいのは賈充とて同じだ。だが自分だけが寂しがっているような口ぶりなのはいただけない。
ナマエは――」
 ナマエの言動にはいつも振り回されている。
 云いかけて、これでは単なるのろけにしか聞こえないことに気づいて口を噤んだ。
「……止めだ、下らん」
「えー言えよ。気になる」
「話すつもりはない。気にするだけ無駄だ」
 云いかけて止めた賈充に非難じみた目を向ける相手に肩を竦め、おもむろに「これだけは言っておく」と向き直った。
「子上、相手を大切に思っているのならば、それを行動に移すことだ。でないと、後々後悔するはめになるぞ」
 司馬昭は目を丸くした。次いでからかい半分思いやり半分といった眼差しで賈充をまじまじと見詰める。
「お前、やっぱり奥さんと上手くいってんじゃないか? 最近ちょっと丸くなったよな」
 自分では分からないが、そういうものだろうか。司馬昭の言葉が意外だった賈充は片眉をあげ、相変わらずにやけた笑みを浮かべる司馬昭を見る。
「そうか……?」
 うんうん、と司馬昭は頷いた。
「いいことだと思うぜ。人との出会いが人を成長させる。色々あったみたいだけどよ、丸く収まったみたいでよかったよな」
 墨の乾いた書簡を丸めて紐で結び、司馬昭は空中でくるりと一回転させたそれをずいと賈充に突き出す。
 賈充は苦虫を噛み潰したような表情で、差し出された書簡を受け取った。
「……知っていたのか」
「元姫から聞いた」
 ち、と舌打ちして、手元に広げていた書類を丸めて小脇に抱えた。
「余計な事を話すなとあの女に云っておけ」
「人の女をあの女呼ばわりするのやめろよな」
 ふん、と不遜気に鼻を鳴らす。
「ならばお前も人の妻のことに口出しするのはやめろ」
「あ、それって嫉妬? 他人の口の端にも上らせたくないくらい大切に思ってるわけ」
 図星だった。賈充にとって、大事な女の事を他人にあれこれ推測されるのは、不快以外のなにものでもなかった。
 一瞬言葉に詰まった賈充は、執務机に片腕をついてにやけ顔でこちらを見上げる男を一瞥した。あっさり認めるのは正直悔しいものがある。とはいえ己を飾る事の何の意味があろうか。
「そうだといったら、どうなんだ」
 吐き捨て、賈充は先ほど受け取った書簡で司馬昭のにやけ面をパシリと叩いた。
「いてっ」
「残りを早く片付けろ」
 必要な書簡は受け取った。もう用済みだとばかりに賈充は踵を返した。
「やっぱり変わったよなぁ」
 と、くすくすと笑い混じりの司馬昭の声が追いかけてきて、背にぶつかった。