あなたに恋をする・九
ふと目を覚ますと、もぬけの空になった掛布が視界に入った。
「公閭さま……?」
無意識で愛しい人の名を呼び、ぬくもりを探るように敷布に指を走らせる。指先に触れた敷布の感触は冷たい。昨晩隣にあったはずのぬくもりは、とうに失われているようだった。
置いてかれてしまったのだろうか。
物寂しい思いに囚われながら、ゆるゆると覚醒する。ナマエは体を起こそうとして、下腹に走った痛みに再度寝台に沈んだ。
うずくような鈍い痛みが、下肢に重く圧し掛かっている。それは賈充と結ばれた確かな証だ。乱れた敷布に昨日の出来事が脳裏に去来して、ナマエは緩む頬を抑えられない。掛け布をぎゅっと抱き寄せて、愛しげに賈充の名を口にする。
「公閭様……」
声が割れていた。昨晩散々声を出したせいだ。初めてだというのに賈充は執拗にナマエを求め、夜まで行為に没頭して、そのまま沈むように寝入ってしまった。
初めての共寝は、ナマエに男女の睦み事のなんたるかを鮮烈に叩き込んだ。愛しい人に求められる事、肌を合わせることの幸福感たるや他の比ではない。
しばし幸福感に酔いしれ、寝台の上でじっと息を潜める。
ふいに、室の外が騒がしくなった。
そういえば、いつも起こしにくる侍女はどうしたのだろう。いつもなら時間が来れば起こしに来る家人が、今日に限って誰もやってこない。ナマエはそろそろと身を起こし、痛みを堪えて身支度をし始めた。
外はもう大分明るい。どうやら寝過ごしてしまったようだった。賈充はもう登城した後なのだろうか。もし、もう出てしまった後ならば、見送りに出れなかったことが残念だ。そうぼんやり思いながら髪を整え、室を出る。
先ほど聞こえた喧騒はどこへやら、廊下はしんと静まり返っていた。
誰もいない。
ナマエは不思議に思いながら、居間など主室のある方へと歩を進める。
玄関前に、賈充はいた。こちらに背を向けて、立っている。
「公閭様、おはようございます。寝過ごしてしまいました」
そう云おうとしたナマエは、尋常ではない空気を察し、口をつぐんだ。
甲冑を付けた男達が、賈充の前に立っていた。傍らには、使用人が手を揉んで心配そうに立っている。彼らの周りには、肌を刺すような緊張感が漂っていた。
「子上にはすぐ行くと伝えろ」
背後で突っ立っているナマエに気づいた賈充が甲冑の男達にそう告げ、足早に彼女の方へと向かってきた。
「公閭様、なにかあったのですか?」
「落ち着いて聞け、ナマエ」
ひと呼吸後、覚悟を決めたかのように賈充は視線を定め、ナマエの肩を抱いて目線を合わせた。
「城で反乱が起きた。首謀者にお前の父親の名が挙がっている」
目の前が真っ暗になった。
「そんな……」
出てきたのは、それだけだった。足元から崩れるような感覚に襲われる。
ふらついたナマエを支えた賈充は、背後に控えていた使用人に指示を出し、彼女を預けた。
「暫く大人しくしていろ。外には決して出るな」
そう云い含め、賈充は踵を返した。
「俺にすべて任せておけ」
落ち着かない日々が続いた。
事実上、ナマエは軟禁という形で邸に閉じ込められた。反乱の首謀者の疑いがある者の血縁であったためだ。
ナマエの行動は制限され、常に監視役の供がついてまわった。
いくら使用人に尋ねても、反乱がその後鎮圧されたのかどうかは答えてくれなかった。ひたすらに邸に閉じ込められる日々が続く。
好きだった刺繍も手につかないほど、ナマエの心中は嵐のように荒れていた。
自分の父親のせいで、賈充に迷惑を掛けてしまった。どう詫びていいのか、分からなかった。もし李苞が反乱の首謀者であったことが事実ならば、刑罰は血縁であるナマエにも波及するだろう。そうなれば、このまま賈充の傍にはいられなくなる。刑罰は怖いが、ナマエにとっては賈充の傍にいられなくなる事の方が辛かった。やっと賈充と心を通わせられたと思ったのに、離れなければならなくなるのは心が引き裂かれそうなほど辛い。
だが罪は罪だ。反乱の罪は許されるものではないし、家族の罪は己が罪も同罪として、身をもって厳格に処分されなければならない。
一方で、ナマエは李苞が反乱を起こしたという事自体が信じられなかった。李苞は武官ではなく文官だ、反乱などという大それたことを起こすようなたまではない。李苞はナマエにとって、悪い父親ではなかった。
それに反乱といっても、どの程度のものなのか。無事に鎮圧されればいいが、万が一賈充の身になにかあれば、ナマエはきっと自分を許さないだろう。
「公閭様……、お父様……」
両者の身を案じて、ナマエは祈るように名を口にした。
反乱が無事鎮圧されたと聞いたのは、賈充があの朝出て行ってから五日後のことだった。
反乱の首謀者はその場で全員処分されたらしい。処分を下したのは賈充。彼自ら斬って捨てた、とナマエの現状を哀れんだ伊理が、監視の目を掻い潜って教えてくれた。反乱の首謀者に李苞の名が上げられているのは、変わらないらしい。
それを聞いたナマエは真っ青になった。賈充は厳しい人だ、きっとナマエにも自ら処分を下すだろう。離縁は間違いないようもなく、死刑かよくて流罪か。どちらにせよ賈充と離れなければならないのは変わりない。
怖かった。賈充に会いたい。でも会えば、それが最後だというのが恐ろしくて堪らない。
いや。
――最後でもいい。
せめて、ひと目。
ひと目でもいいから賈充に会いたい。会ってこの身の内の想いを伝えたい。深く愛してるのだと伝えたい。
たとえ賈充がナマエを処断するために帰って来たのだとしても、賈充にひと目会えるのであれば、それでも構わなかった。
「公閭さま……っ」
ナマエは賈充を想って、ぼろぼろと涙をこぼした。
賈充が帰ってきたのは、次の日だった。
「旦那様がお戻りになりました」
弾かれるように顔をあげたナマエは、監視の制止をかいくぐって玄関へと走った。
「お待ちください李夫人!」
玄関に飛び出ると、門の前に馬から下りる黒い背が視界に入る。ナマエはその姿に駆け寄った。
「公閭様!」
「ナマエ」
賈充は目を瞠り、ナマエの手首を掴んで咎めた。
「大人しくしていろと云っただろう」
そう云って賈充はナマエの腕を引っ張り、邸の中へと急ごうとする。
「待ってください! 私の処分を下される前に、どうか聞いていただきたいことがあるんです」
こみ上げてくる涙を堪え、ナマエはその腕を振り切って、賈充をきっと見据えた。
「私は、あなたを愛してます……!」
「なにを……」
賈充が戸惑った声を出した。
「私……私は今まで、あなたにとっては出来の悪い妻だったと思います。でも、私なりに精一杯努力してまいりました。努力が足りないとお思いならば、これから先も努力するつもりです。こんなことをお願いするのは本来恥知らずなことだとは分かっています。けれど一度だけでもいい、どうか云わせてください。私の父がこんなことになってとても残念だけれど、私が貴方にとって都合の悪い存在になっても、それでも私は、あなたのお傍にいたい……!」
それは心からの言葉だった。
「私はあなたを、公閭様を愛しています。お慕いしています。だから、どうか、どんな形でもいい」
――お傍に。
想いが言葉にならない。感極まって喉を詰まらせ、ナマエはその場にくず折れた。
だが完全に膝をつく前に、賈充の手がそれを支えた。
くく、と賈充の喉の奥から、笑い声が漏れた。
――こんな場面で笑うなんて。
すでに愛想をつかされたのだろうか。ナマエは力なく顔を上げた。
「往来で恥ずかしげもなくやってくれる」
薄ら笑いを浮かべた賈充が、ナマエを見下ろしていた。
「俺が、お前を手放すとでも思っていたのか?」
愉しむような声色とは裏腹に、賈充は優しげな手つきでナマエの頬にかかる乱れた髪を払った。
「くく……、だとしたら目論見が甘かったな」
「公閭様?」
賈充の言葉を、ナマエは理解できなかった。
ふと、賈充は目元を綻ばせる。
「反乱は鎮圧した。お前の父親は首謀者ではなかった。単に首謀者に操られていただけだから、処分も軽いもので済んだ」
賈充の言葉に聞き入るナマエの目が、徐々に驚きに見開かれる。
「つまりお前は晴れて自由の身になれるわけだ」
賈充は妻の頬が次第に紅潮していくさまを、愉しげに眺めていた。
「嬉しいか?」
問いかけに、ナマエは感極まったようにくしゃりと表情を歪ませる。
「嬉しい……! これでまた、私は堂々と公閭様の妻を名乗れるのですね……!」
涙がこみ上げて、ナマエはしゃっくりを上げた。
「ちっ、お前は……」
舌打ちした賈充は、頬を包むようにして親指でナマエの涙を拭う。
ぐい、と顔を上向かされ、賈充が目線を合わせた。美しい水色の瞳が、ナマエを映し出す。
「答えろ、お前は俺を望むか」
ナマエの答えは決まっていた。
「はい」
「ならば誓え、この俺の傍にいると。この先ずっとだ」
「誓います……!」
乱暴に唇を塞がれた。
互いを求めあうように、深く口付ける。熱が絡んで、解けあった。
つと唇が離れ、細い糸が二人の唇を繋ぐ。
賈充はナマエを見て、深く微笑んだ。
「この賈公閭、全身全霊で我が妻、李ナマエを幸せにすると誓おう」
ナマエの大好きな艶のある低い声が、高らかに愛を宣言した。
Fin.