あなたに恋をする・七
ナマエの城参りは、その後も何度も続いた。
時には侍女を伴わず身軽に一人で訪れることもあり、その度に賈充からお小言を貰った。
「ナマエ、何度も云うが城に来るなら護衛くらい付けろ。何のために、邸に護衛を雇っていると思っている」
彼は意外と口うるさい。心配性な賈充に、ナマエは苦笑した。
「公閭様、意外と心配性なんですね。大丈夫ですよ、これでも私頑丈な方なんです」
「ちっ、まったく」
舌打ちした賈充は立ち上がって、ナマエを一瞥した。
「行くぞ、邸まで送る」
城門側につけてあった馬車に二人で乗り込み、帰路についた。宮城から賈家の邸宅まで四半刻ほどある。大路を通って、邸宅へと向かう。
邸宅前の門にたどり着くと、ナマエは先に下りていた賈充に手を取られて馬車を降りる。その際、ちらりと視界の端に映った影に顔を向けると、邸前の囲壁にひとりの浮浪者が座り込んでいた。その姿にナマエは、何となしに嫌な予感を覚えた。
浮浪者は賈充の姿を見て、ふらりと立ち上がった。おぼつかない足取りで、こちらへと向かってくる。
「旦那様、どうかお慈悲を……」
しわがれた声が慈悲を請う。賈充は浮浪者を冷たく一瞥し、門番に命じた。
「早く追い払え」
「はっ」
賈充はナマエの手を取り、背を向けた。ナマエは後ろが気がかりで、背後を振り返り振り返りした。
「公閭様、少し冷たいのでは?」
「他人に縋って慈悲を請おうとする輩だ。ああいう輩は一度やさしくすれば、付け上がる。それに国でも貧民対策の政策を出している。役所に行けばそれなりに援助を受けられるようになっているはずだ。あえてそうしないということは、犯罪者か亡命者の可能性がある」
賈充の言い分には一理ある。
「ですが……」
ちらりと再度背後を振り返った時、ナマエは信じられないものを見た。
浮浪者の男が門番の制止を振り切って、手に刃物のようなものを持ってこちらに向かってきている。
「公閭様ッ!」
ナマエの叫びに瞬時に賈充は反応した。ナマエを押しやり、向かってきた男の一撃を交わそうとしたが、切っ先が賈充の上腕を掠めた。が、賈充は怯むことなく男の腕を取り押さえ、その腕を捻り上げた。容赦のない反撃に、男は悲鳴をあげ凶器を取り落とす。
事の始終を凍りついたように見詰めていたナマエは、門番が駆け寄ってきて男を取り押さえてから、やっと人心地がついた。
「ナマエ」
いつの間にか傍らに来ていた賈充に声を掛けられ、ナマエははっとした。
「公閭様、お怪我は」
「ない。掠っただけだ」
思わず安堵に身が震えた。こみ上げてきたものを堪えて、ナマエはくしゃりと顔を歪ませた。
「良かった、公閭様。良かった……」
「怖い思いをさせたな」
賈充の手が優しげに背を撫でる。嗚咽を堪えて、ナマエは頭を振った。
すっかりしょげてしまったナマエは、賈充に伴われて邸内へと入った。賈充が伊理を呼びつけ、ナマエを任せると再び足を玄関へと向ける。その背を、ナマエは思わず呼び止めた。
「公閭様」
振り返った賈充は、うっすら苦い笑みを浮かべた。
「そんな顔をするな、今日は城には戻らん」
その言葉に、ナマエはほっと息をついた。
自室で伊理が入れてくれた茶を飲んでいると、賈充が入室してきた。長椅子に座るナマエの隣に、賈充は腰を降ろす。ナマエは無言でその腕に抱きついた。
なぐさめるように髪を梳かれる。
「……お召し物が破れてしまいましたね」
呟くように云って、ナマエはそっと賈充の切り裂かれた上着に指を沿わせた。襲撃者の凶行は、賈充の上着を軽く切り裂くだけに終わった。
賈充は無事だ。大丈夫。そうは思っても、先ほどの恐怖が身に沁みついて離れない。
恐怖を振り切るようにナマエは首を振り、賈充を見上げた。
「繕わせてください」
「そんなもの、侍女にやらせればいい」
そう主張する賈充を言いくるめ、上着を脱いでもらう。未だ賈充のぬくもりの残る上着を抱きしめ、裁縫箱から針と糸を取り出した。
「大丈夫、すぐに出来ますから。少し待っててくださいね」
幸い、破れたのは革ではなく厚い布地の部分だ。内側から縫い合わせば、応急処置くらいにはなるだろう。後日、上着は新しくあつらえ直す予定だ。
手早く針を縫いすすめる。あとひと針というところで、賈充がナマエを呼んだ。
「ナマエ」
「なんですか? もう少しで出来上がりますか、ら」
呼びかけに顔をあげると、目の前に陰がさした。
落ちてきた唇が、ナマエのそれを封じた。
触れるだけだった口付けは、徐々に深くなった。上着を取り落としたナマエは、それに応えるように賈充の首に両腕を回した。
「……この俺に心配をかけた代償を支払ってもらうぞ」
ナマエを抱き上げた賈充は、けぶるような瞳でそう告げた。
水色の瞳の奥には、まぎれもない熱が垣間見えた。
窓の外はまだ明るい。
寝台に横たえられたナマエは、若干不安げに賈充を見上げた。
「この穢れた手で無垢なお前を抱きたい。そう、何度思ったことか」
ナマエの頬を愛しむ様に撫で、掠れた声で賈充が呟いた。
艶のある低音に酔いしれながらも、ナマエは不安げに問うた。
「穢れた……? どうしてそんなこと仰るの」
ナマエにとって、いまや賈充はかけがえのない人だ。この半刻のうちで、ナマエはそれを思い知った。
――恋しかった。賈充が愛しかった。
心ない婚姻を結んだと思っていた人は、いつの間にかナマエの懐深くに入り込んでいる。そんな大事な人に、自らを貶めるような発言をして欲しくはなかった。
「お前は知らないだろう。俺が裏でどんな事をしているか」
云って、賈充は自嘲した。
「どんな清廉なまつりごとにも、必ず謀略がついて回る。俺はこの国のため、今まで何人もの人間を闇に葬ってきた」
挑むような強い目線が、ナマエを捉える。
「俺はそれを躊躇わない男だ。……恐ろしくはないか」
ナマエはかぶりを振った。
「誰に恨まれているとも分からん。今日は何事もなかったから良いが、これから先もつけ狙われることがあるだろう」
「はい」
覚悟は出来ている。その意味を込めて、ナマエは深く頷いた。
「もう一度問う。俺の妻になったこと、後悔してないか」
「――いいえ」
賈充の瞳を見詰め返しながら、はっきりと告げる。
ふ、とほころぶように賈充が微笑んだ。
「もう、後戻りはできんぞ」