あなたに恋をする・三




 空回りする日々は続く。
 そんな中でも、ナマエの救いとなることが一つあった。ナマエの身の回りの世話をしてくれる侍女の伊理と、打ち解けた仲になれたことだった。
 伊理は良く働く、気立てのいい娘だった。ナマエより少しだけ歳は上だ。だが、お喋りなのが玉に瑕だ、とは近侍長の言葉だったか。
 とにかくナマエにとっては、気の置けない友人であったことには違いない。

「奥様は旦那様のこと、怖くないんですか? 私もう、あの方が怖くて怖くて」
 刺繍版に針を通していたナマエは、室の窓を拭いていた伊理の口から飛び出した言葉に苦笑した。
 伊理は使用人の中でも新参で、主人の賈充のことを怖がっている節がある。そんな彼女の言葉は、まるで己の心を代弁してくれたようではないか、とナマエは思った。
「伊理は怖がりね。私の猫にもそう云って怖がっていたじゃないの」
「奥様の猫はまだいいんです、近寄らなければいいんですから。でも旦那様だとそうはいかないじゃないですか」
 確かに人間と猫では勝手が違う。片方は言葉は通じないが、片方はそうではない。ましてや伊理にとっては己の主人なのだ。
 ナマエは糸をたぐり、刺繍版に視線を落とした。怖い、というのは的確にナマエの心情を表している。確かにナマエは賈充を恐れている。だがそれは彼の人となりを良く知らないからであって、賈充自身が人でなしだからというわけではない。今までの少ない会話から、賈充はそれなりにナマエを気遣ってくれているのには気づいていた。
 だがあの水色の瞳。あの瞳が時折、ナマエの怯えから悲しみまですべて見透かしているような気がして、それだけが唯一本当に怖いと思う。愚鈍である己自身を見られている気がして。
「そうね、私もあの方は少し怖いわ。たまに、まるで心の中を覗かれているような気分になるの」
 自嘲とともに云う。それでも、とナマエは思った。それでも、あの瞳の色はきれいだとも思う。
 ガタン、と室の入り口にあるついたての奥から物音がしたのは、その時だった。
「誰?」
 返事はなかった。ナマエははっとして立ち上がり、ついたての向こうに急ぐと、そこに賈充の姿があった。
「公閭様!?」
 ナマエが声をあげると、じろり、とねめつける様に見られた。
「あの……私、」
 きっと先ほどの会話を聞かれていたのだ。ナマエはばつがわるくなって、束の間口ごもった。
 今日はたしかに、賈充がいつも帰ってくる日だったが、だが今は昼間だ。大抵賈充は夕方帰ってくるのに、今日に限ってどうしてこんな時間に帰ってくるのだろう。何も云わぬまま立ち尽くす賈充にナマエは一瞬泣きそうになったが、謝罪を口にするより早く賈充が踵を返した。
「あっ、公閭様!」
 待ってください、とナマエが追いかける。が、足早に歩く賈充に追いつけず、彼は玄関先へと飛び出ると騎乗して駆け出してしまった。
 その日賈充は、そのまま宮城に戻っていった。
 それから五日待ったが、とうとう賈充は帰ってこなかった。

 心無い言葉で、賈充を傷つけた。謝罪した方がいいのは分かっていたが、賈充は宮城に篭りっきりで帰ってこない。
 ナマエは一日迷って、伊理を呼んで宮城に向かう支度をし始めた。
 
 伊理を伴い、馬車を使って宮城に向かう。急な訪問だったため、朝早くから向かったのに、門番に止め立てされて門を通るだけで一刻以上費やした。手続きに時間が掛かったためだ。ナマエが帝のおわす壮麗な宮城に足を踏み入れたのは、昼も近いころだった。
 賈充が勤めているのは、東の政務棟だった。案内人の下官に伴われ、薄暗い廊下を歩く。
 要職についていた賈充は一室を執務室として与えられていた。下官がとある室の前に着くと、ついたての向こうから一人の男が飛び出してきた。
「きゃっ」
「おっと失礼」
 男はナマエを驚かせたことを悪びれず謝った。立派な体格のその男は、癖のある薄茶の髪に明るい表情が際立っていた。どこかで見たことのある顔だった。だが一体どこで。
 男はナマエをじろじろと眺め、口を開いた。
「お前達、賈充に用か」
「はい。こちらの賈公閭様の奥方が御用だとか」
 下官が答えると、男はものめずらしそうにナマエの顔を見た。
「へえ、お前が」
 そして後ろの入り口を振り返り、ついたての奥に向かって声をはりあげた。
「おい賈充、お前の奥さんだってよ」
 暫く後、「入れ」と低い声が届いた。その低い声に、ナマエは無意識に体を強張らせた。
 下官が先を促す。ナマエは男に頭を下げ、伊理を伴って室に入った。

 執務室の奥、中央に大きな卓が置かれており、その向こうに賈充は座していた。周りには副官と思しき男達が数名。
 室に入るなり、鋭い声が飛んできた。
「何をしにきた」
 反射的に首を竦めたナマエは、ややあって卓の奥に座する賈充に目を向けた。賈充の水色の瞳と目が合う。彼は怒っているようだった。
「その……」
「人払いを」
 ナマエがまごついていると、賈充は副官達に命じた。一斉に動きを止めた副官達がそれぞれナマエを一瞥し、賈充に一礼して退室していった。

 室には賈充と伊理、三人きりになった。しん、と空気が痛いほど張り詰めている。
 賈充は立ち尽くしているナマエをじっと見詰め、彼女が口を開くのを待っているようだった。愚鈍な己が、水色の瞳に映し出されている。
 ナマエは己を奮い立たせ、一歩前へと踏み出した。
「公閭様、先日は申し訳ございませんでした」
 云って、ナマエは頭を下げた。ナマエなりに誠意を込めた、精一杯の謝罪だった。
「うかつな言葉で、公閭様のお心を傷つけてしまいました」
 くっ、と喉の奥で笑う声が聞こえた。
「詭弁だな」
 ナマエは目を見開いた。誠意は伝わらなかったのだと気づく。隣の伊理が怯えて一歩下がったのが、分かった。
 賈充は立ち上がり、ナマエに近寄ってきた。ゆがめていた口の端をゆっくりと元に戻し、真顔で尋ねた。
「俺が怖いか」
 それは詰問にも近い声色だった。
 目の前に立って顔をよせた賈充の吐息が近い。ナマエはうろたえて、半歩後ろに下がった。
「怖いと思うなら、なぜ見合いを断らなかった」
「それは……」
 言葉に詰まる。
「旦那様、奥様は悪くないんです。私が奥様に変な事を尋ねたから――」
 黙れ、と賈充が使用人を静かに一喝した。
「俺はナマエに聞いている。侍女ごときが口を挟むな」
 かわいそうな伊理は、怯えて俯いてしまった。
 それを横目で見ながら、ナマエは賈充から顔を逸らせない。賈充はナマエの怯えを見抜き、彼女の顎を持ち上げ瞳を覗き込んだ。
「なぜだ? ナマエ
 詰問は続く。
 賈充が怖かった。でもそれは賈充のせいではない。蒙昧無知な己自身を知って呆れられたくないという、彼女自身の怯えのせいであった。だが、それを上手く説明できる自信がない。
 ナマエは唇をかみ締め、視線を逸らした。
「お前はあれが見合いだと気づいたはずだ。知らなかった、では済まされないぞ」
 賈充の云うとおりだった。ナマエは、突然賈充が李家を訪れた理由に薄々気づいていた。だがナマエには、断る、という選択肢は思い浮かばなかった。そもそも賈充だって、最初から逃げ道を用意してくれていたとは思えない。
「どうした、なぜ黙っている。俺は人形を妻にした覚えはない。きちんと己の言葉を喋れ」
 苛立ったように云う賈充に、ナマエはとうとう涙を抑えきれず固く目を閉じた。眦から涙が零れる。
「ごめんなさい」
 吐き捨てるように告げて、ナマエは室を飛び出した。
「奥様!」
 伊理の声が、背後に響いた。