暁の皖・十





 強い風に流された薄く棚引く雲が、西の空に傾いた月を覆い隠した。刻限は深更。あと数刻ほどで、東の地平は燐光を迎えて萌え上がるだろう。
 その闇夜の元、草原を疾走する一騎の騎馬があった。どかりどかりと蹄が地を蹴り、土が跳ね上がる。手綱を巧みに操る人物は若い男、一心不乱に行く先を見据えていた。その男の懐に、またもう一人。男と比べれば随分と小柄で、そのことから女であることが分った。そして男は、女をまた随分と強く抱きしめていた。

 疾走する馬の振動をじかに感じながら、ナマエはなんとか男の腕から抜け出そうと必死だった。己を閉じ込める男の真剣な顔を見上げて、先ほどからそうしているように、迂闊に舌を噛まぬように慎重に、且つこの疾走する風に紛れぬよう大声で訴えた。
「下ろして! 下ろしてください!」
 ナマエの頬を、びゅうびゅうと切るような風が当たって流れていく。彼女の叫びは少し風に掻き乱されたが、よもやこんな近距離でいて、聞こえなかったということはないだろう。けれどナマエを束縛する男――趙雲は、まるで聞こえてないかのように手綱をひゅっと払った。まったく無反応な彼に、ナマエは焦れて唇を噛む。
 問答無用でナマエを劉琦のもとから掻っ攫ってより、趙雲はひたすら馬を走らせていた。ナマエの事を顧みる余裕も無いのか、なんともまあ乱暴な手綱さばきだった。ナマエは何度も止めてと訴えたが、趙雲はその抵抗も力任せに押し込め、何を訴えても無視するばかり、普段ならば考えられないほど乱暴で無礼な仕打ちに、ナマエはとうとう焦れて彼が握っていた手綱をぐいと手前に引っ張った。突然の事に馬は混乱し、ひひんと嘶いて棒立ちなった。
 慌てたのは趙雲だ、転げ落ちぬようしがみ付き、ついで馬を宥めて険しい表情でナマエをにらみつけた。
「何をするんです!?」
 一喝する。
 あまりの剣幕に普段ならば身を竦めるところであったが、ナマエも必死だった。
「下ろしてくださいと言っているでしょう!?」
 彼の気迫に負けぬよう声を張り上げると、趙雲は少し冷静さを取り戻したようだった。だからといって、容赦は無い。
「下ろせません。あなたは、私と一緒に来てもらうのだから」
 まさしく手段を選ばず、趙雲の瞳に宿る冷酷な光が、ナマエを追い詰めた。けれど、捕まるわけには行かないとばかりにナマエは激しく頭を振る。
「私はあなたと一緒には行けないのです!」
 声を荒げると、束の間沈黙があった。
 ナマエが趙雲を見上げると、彼は暫し逡巡しているようだった。そして――。
「どうしてですか」
 当然のように問うて来た趙雲に、ナマエは息を呑んだ。どうしてと、それを訊くのか。
「どうしてって、天明様に合わせる顔がないじゃないの! わたくし一人が幸せになど……」
「――天明様は生きています」
「……え?」
 ナマエは、一瞬己の耳を疑った。ぽかんとして趙雲を見つめると、彼はゆっくりと繰り返した。
「間者が姫の無事を確認しました。今は、曹操の元で保護されていると」
 報せをあなたに伝えようとしたけど、生憎面会拒絶でしたからね、と趙雲は皮肉るも、ナマエはそんな皮肉すら耳を素通りし、ひたすら呆然として目の前の男を凝視した。
「……生きて、いるの?」
「はい」
 恐る恐る問えば、趙雲は薄く笑みを浮かべて頷いた。ほろり、と身のうちで何かが剥がれ落ちたような気がした。
「……無事なの? 元気なの?」
「はい」
 続けて問うと、恐れていた否定の反応は返らない。
 ぽろり、また、落ちて。ああ、と。
「――よ、かった……。よかった、よかった……っ!」
 瞬間、大きく崩れた。
 感情が一気に高ぶるのを感じた。熱い吐息が漏れ、目頭がつんと沁みてきた。
 生きている、無事だ。
 ――彼女は生きている。

 ナマエは思わず口元を抑えた。どっと安堵やら喜びやらに包まれて、うるんだ瞳を伏せて趙雲の胸に飛び込んだ。無意識にすり寄せるようにすると、趙雲は黙ってナマエを抱きしめ、ぽんぽんとあやすように背を叩いた。
 だが、悠長にしている時間はない。
 趙雲が再び手綱を握った時、ひひんと馬が小さく嘶いた。
 その時、彼は何かに気付いてピクリを体を強張らせたようだった。縋るように趙雲の衣を握り締めていたナマエは、その反応に気付いて彼を見上げる。見上げた横顔には、張り詰めた緊張が漂っていた。
 ――尋常ではない。
 一体どうした、と問おうとしたナマエを制した趙雲は、後方を見遣ってちっと舌打ちをした。
「来たか……」
 ぽつりと呟くと、ナマエの訳が分らぬまま、再び駆け出した。ぐんぐん増すスピード、先程より幾分速いそれに、ナマエは趙雲の焦りを感じ取って戸惑った。
 同時に、後方で俄かにあがる黒煙。いや、あれは、騎馬が立てる砂塵だ――。
「な、何?」
 ナマエが目を凝らしていると、視界に数騎の騎馬が現れた。一直線にこちらに向かっているのか、ぐんぐんとその距離は縮んでいった。騎乗していたのは武装した男、いずれも剣や弓を構えていて、此方を威嚇してきた。
「そこの騎馬! 止まれっ! 止まらぬと射るぞ!」
 趙雲は、ちらと後ろを振り返って、再度ちっと舌打ちした。馬の尻を打つと、距離が少し離れた。
「止まった方が良いのでは!?」
 射られてはたまらないと、ナマエが慌てて声を張り上げたが、趙雲は取り合わなかった。どころか、黙っていろとばかりに、ぐっと外套を押し付けられる。
「止まれといっている! 聞こえぬのかっ!?」
 再度声が飛んでくる。先ほど引き離した距離は、また縮められたようだった。
 ナマエは押し付けられた外套を跳ね除け、趙雲の腕の隙間から襲撃者の顔を窺った。すると、あっ、と声をあげる。
「あれは……」
 確か、良く荊州城で見かけた食客の一人。ナマエは己の記憶が間違っていない事を確認すると、もたげた疑問に首を傾げた。一体なぜ、彼がこんなところにいるのだろう。そんな事を考えていると、顔を露にしているナマエに慌てた趙雲に「隠れていろ!」と一喝された、が時既に遅し、ふいに男と目が合ってしまった。
「そこにいらっしゃるのはナマエ様、ナマエ様かっ!? ……おのれ賊めっ! その方を離せっ!!」
 ナマエはその一言で全てを理解した。彼等は劉琮が、いや、彼の家臣等がナマエを手の内に戻さんとして放った追っ手だ。趙雲はそれを知って、ナマエを隠そうとしたのだ。そんな事ならもっと早く言って欲しい、ナマエは半ば八つ当たりのように心の中で趙雲を罵った。きっと、この激しい揺れのせいで、まともな思考すら吹き飛んでいるんだ。そんな頭では、当然、この状況を打破する策すら思いつかない。ナマエは、必死で趙雲にしがみ付いた。
 追手は、二人乗りである趙雲達にぐんぐん追いつき、ついにはぴたりと並んだ。左右を囲まれると、遂に観念したように趙雲が抜刀した。
「趙雲殿っ!」
「しっかり掴っていてください! 見たくなければ目を閉じて!」
 趙雲は声を張り上げて、いきなり手綱を横に払った。ざ、と軌道が逸れて体が揺れたと思った瞬間、絶命する音が上がった。どさりと何かが落下する音がして驚愕したが、振り返っている暇は無い。
 ひゅん、と弦の鳴る音がして、趙雲はぐっと上体を落として矢を避ける。そのまま馬を寄せると、また剣を薙いだ。
 暫し、剣戟が続いた。趙雲は奇跡とも思えるほどの手並みで剣や矢をかいくぐり、的確に急所を打っていった。数騎いた騎馬も残り二騎となり、敵方にも焦りが浮かぶ。
 焦れた男が矢を番えた。既に、ナマエに当たらぬようにとの配慮も出来ぬほど、彼は焦っていた。狙いの定まらぬ、でたらめな矢が乱射される。その一本が馬の足に刺さり、そして一本はナマエへと向かった。
 ――矢が!
 ナマエが恐怖し、趙雲がはっと息を呑んで咄嗟に庇わんと身を乗り出した。馬の激しい嘶き、そして、どしゅ、と鈍い音と共に、ふわりと宙に浮かぶ浮遊感が二人にしばし訪れる。
 この感じ……、自分達は今、馬から放り出されて空を漂っているのだ。などと、妙に冷静に思った。
「……きゃあぁっ!」
 次の瞬間、ナマエは絶叫した。
 ――落ちる、落ちる!
「くっ!」
 己の手から離れていくナマエの体に、趙雲は咄嗟に手を伸ばした。空中で何とか彼女の腕を掴むと、気力を振り絞って引寄せる。
 そして訪れる衝突の瞬間。
 どさり、と地に打ちつけられ、その衝撃で腕に刺さっていた矢羽が折れ、さらに捻られるような痛みに襲われ趙雲はぐぅ、と呻いた。庇われたナマエは慌てて趙雲の上から身を退かそうとしたが、衣裳が彼の下に巻き込まれていて果たせなかった。
 そうしている内に、刺客はじりじりとにじり寄る。何とか身を起こした趙雲がそれに構えようとしたが、手の内にあるはずの剣がないことに気付いてはっと息を呑んだ。馬から放り出された時、咄嗟に剣を放ってナマエを掴んだのだ。しまったと思ったが、遅かった。
 ナマエもはっとして、自分を庇わんとして大事な剣を放り出した趙雲に愕然とした。剣は武人の命、それを放り出すなど何という大うつけ。ナマエがそんな腑抜けにさせてしまったのか、けれどそんなの、嬉しくない。他でもない自分のために、みすみす大切な人の命が危機に晒されるなんて、我慢が出来ない。
 趙雲に剣が振り下ろされる。ナマエが恐怖に声を張り上げて咄嗟に庇おうとしたが、趙雲がそれをさせぬとばかりに片手で引寄せ、振り下ろされる剣の元にもう片方の腕を差し出した。ぞぶ、と鋭い刃が肉を撫でていった瞬間、趙雲の瞳がぎっと光った。
 ――肉を切らせて骨を断つ。
 瞬く間に敵に詰め寄って片手一つで剣を打ち落とした。暇を与えず、瞠目する男の喉を的確に打つ。男がもんどりを打っている隙に剣を拾い、趙雲はそれを振り下ろした。
 返り血が趙雲を濡らす。残り、あと一騎。
 間髪いれず、ざ、と駆る音がした、はっと顔をあげた趙雲は迫ってくる剣を視界に捉えた。
 ……構えが間に合わない!
 ぎぃん、と刃が打ち合う音がし、一本の剣が宙に弧を描く。
「……っ!」
 振動がびりびりと傷口に伝う。趙雲がぐっと呻いて、片膝をついた。ぽたりぽたりと、血が伝って大地に滴っている。
「趙雲どのっ!」
「だい、丈夫だ……」
 真っ青になって駆け寄るナマエに、趙雲は肩で息をしながら応えた。すると、最後の刺客が目の前に立ちはだかり、剣を差し向ける。趙雲は、無言で男を睨み上げて、気付かれぬよう片手を腰の辺りに廻し、息を詰めた。
 趙雲に剣はない。先ほど、男が吹き飛ばしてやったのだ。睨みつけてくる趙雲にもう武器は無いと分って、刺客は一瞬勝利の笑みを浮かべた。
「姫をこちらに渡せ」
「断わる」
 けんもほろろに趙雲が言う。
「強情な。そのままでは、大事な腕を失う事になるぞ!」
 男がせせら笑って、趙雲はぎりと歯軋りした。
 莫迦にするな、莫迦にするな。そのような程度で、諦められるような想いではない――。

「――上等だっ! 此処でナマエを失うくらいならば、この腕の一本など貴様にくれてやる!!」

「言ったな!」
 かっとした男が、とうとう剣を振り上げた。


 ――趙雲が殺される。
「やめてぇっ!!」
 ナマエは血を吐くような叫びを上げ、ぎゅっと目を瞑ってその身を振り下ろされる剣の下に差し出した。男が驚いて、剣を振り下ろす軌道をぐっとそらす。だが、突然のことに避けきれなく、鋭い剣はナマエの腕を今にも切り裂かんとしていた。
 しかし。
 くん、と突然ナマエの肢体は何かに引っ張られ、傾いだ。そのおかげで剣は僅か衣裳を引き裂くだけに終わり、空振りに終った男の目に次に映ったのは、果たしてナマエの胴の隙を縫い、繰り出される刃だった。
 懐刀。それに男が気付いた時には遅かった、ぞぶ、と鋭い刃が腹を屠る。
「ぐぅ……っ」
 男の腹部から血がひゅっと飛び出て、その血飛沫が掛からないよう趙雲はナマエを引き倒した。男は血走った目で、趙雲の鋭い瞳をぎろりと睨んだ。この好機を狙ってナマエまでも囮にした、どこまでもあざとい男を、趙雲を。
「貴様……、姫を、盾に、とは……、ひ、きょ……」
 ぞぶり、と更に剣が深く差し込まれる。男は言葉を継ぐことが出来なくなった。
「……そうだな、確かに私は、――卑怯者だ」
 驚愕に見開かれる男の耳元で趙雲は呟き、自嘲するようにふと口元を歪ませる。そして、深く差し込んだ剣を一気に抜いた。
 飛び散る血、男は声もなく絶命した。





 肩で息をしながら、倒れ付した男の死顔に視線を落とした。
 力の限り握りしめていた懐刀をからんと打ち捨てる。おもむろに辺りを見遣ると、無情な月の光が惨状を照らし出していた。転がる肢体は、声もなく横たわっている。酷い有様だ。
 不意に空気が動いた様な気がして、趙雲は顔を向けた。
 そこには、月の青白い光を浴びて、真っ青な顔で立ち尽くしているナマエの姿があった。恐怖で声もでないのか、目を見開いて趙雲を見詰めていた。
ナマエ殿……」
 大切な者を、一片の傷を負わすことなく無事に守りきれたことに、彼は一瞬心底ほっとした。だが次に趙雲の瞳に浮かんだのは、己に対する嘲りであった。
 たっぷりと返り血を浴びた己自身を顧みる。先ほどまで死闘を繰り広げていたのだから仕方ないとはいえ、ナマエにとってはさぞ衝撃的だったことだろう。お世辞にも良い匂いとは言い難い死の匂いを体中に纏う己は、彼女の目にはさぞ恐ろしい悪鬼に映っているに違いない。己に怯えて近寄れないのだ、趙雲はナマエの表情をそう解釈した。だが、大切な人に怯えられるというのは、こんなにこたえるものなのか。
 自嘲して、半目を伏せた時。
 たっと地を蹴る音がして、反射的に顔をあげた。その視界に飛び込んできたのは、両手を広げて趙雲に抱きつこうとするナマエの顔だった。
「趙雲どのっ、趙雲……っ!」
「――!」
 趙雲は、涙を浮かべて飛び込んでくるナマエを迷いもせずに受け止めた。鏃が突き刺さったままの腕が痛んだが、気にならなかった。抱きとめると、ナマエは血で汚れるのも厭わず趙雲に縋りつき、ぴたりとくっ付いて離れない。その体が震えている。嗚咽を我慢しているのだと分って、趙雲はああと思った。ナマエは趙雲に怯えているのではなかった、彼を喪うのではないかという恐怖と格闘していたのだ。
 趙雲は震える背中を、苦笑しつつ宥めてやった。
ナマエ殿……、衣裳が汚れますよ」
 趙雲はそう口で言いつつも、決して引き剥がそうとはしない。構わない、というようにナマエは頭を振った。
「……っ、趙雲、殿の、ばか……っ」
 途切れ途切れに聞こえてくる悪態。趙雲は、ナマエがどれだけ心痛めたのか推し量り、心の中で少し申し訳なく思った。
「――確かに」
 穏かに苦笑を浮かべ、こんどこそ安堵の笑みを浮かべた。



 宵の闇が払拭されつつある。もう間もなく、美しい暁光が辺りを照らし出すだろうか。
 ナマエの涙も漸う止み、取りあえず切られた腕の止血を施すと、趙雲はナマエを促がした。血の匂いが強くなってきた、匂いに誘われて出てきた獣どもに出くわしてはたまらない。
「行きましょう……。あまり、見ていて気持の良い風景ではない」
 ナマエは大人しくしたがった。
 馬には逃げられたため、徒歩で進むしかなかった。
 脆弱な月の光のもと、ナマエは必死に進んだ。はやく、城にたどり着いて趙雲の手当てをせねば。もし取り返しのつかないことになってしまったら、ナマエは今度こそ一生己を許せないだろう。
 慣れない道でかかとが靴擦れを起こしたのか、じりじり痛む傷をナマエは忌々しく思った。ちくちくとしていて、余りにも気になる痛みに苛立って靴を脱ぎ捨ててしまおうかと衝動的に思ったが、耐えて黙々と進んだ。痛い、けれど、こんな痛み、趙雲の怪我に比べれば――!
 と、汗を浮かべて険しい表情で突き進むナマエを呼び止めたのは、趙雲だった。ナマエが怪訝そうに振り返ると、趙雲が少し眉をひそめて彼女を見ていた。
「少し、休みましょう」
「疲れたのですか?」
 ナマエの問いに、趙雲はちらと彼女の足元を一瞥した。
「そうではないが……。――いや、やっぱり疲れた」
 直ぐに言い直して、休もう、と言って問答無用でナマエを適当な樹の根元まで引っ張ってきて、強引に座らせる。自らもその隣に腰を下ろすと、怪我の具合を見た。
「大丈夫ですか? 傷みますか?」
 自らも痛そうな表情を浮かべて問うナマエの様子に、趙雲は苦笑を浮かべる。
「大丈夫だ。たいした怪我ではない」
 矢傷が一つと、切り傷が一つ。こんなもの、戦場でのそれに比べれば、趙雲にとってはたいしたことは無い。
 けれどナマエは痛々しい表情で、趙雲の顔を見上げた。
「でも趙雲殿、顔色が悪いですわ。わ、わたくしはまだ歩けますので、どなたか人を呼んで来ます。趙雲殿はここで……」
 立ち上がろうとした瞬間、強く引っ張り戻されて「きゃっ」とナマエは小さく悲鳴を上げた。
「駄目だ」
 抱きすくめられ、耳元に熱い吐息が掛かった。
「趙雲殿……っ」
 ナマエは慌ててもがこうとしたが、趙雲の傷に障っては拙いと思い直して変な姿勢で硬直した。離してと眼差しで訴えたが、趙雲の腕がしっかりとナマエを閉じ込めていたので身動きすら出来なくなってしまった。
「駄目だ、行くな。離れるのはもう御免だ」
 少し、きついと思うほどにぎゅっと抱きしめられる。耳元で懇願するような熱い声が聞こえて、ナマエは脱力した。
 その内ふわりと縛めが緩み、ナマエは懐を探っていた趙雲に何かを押し付けられた。
「忘れ物だ。もう無くさないように」
「これ……」
 手の平に視線を落とすと、そこにあったものを凝然と見詰めた。
 ――珊瑚の櫛。
ナマエ殿」
 呼ばれて顔をあげると、真摯に見つめてくる眼差しと目が合った。
「もう、私に黙って何処かに行かないよう、しっかり約束してくれますか?」
 その視線だけで焦がされそうだと思った。手放す気はない、逃す気はない。そう告げる瞳を見ていられなくて、ナマエは戸惑って俯いた。
「……けれど、わたくしは――」
 言いよどむ。暫しの沈黙の後、はぁ、と相手が静かに溜息をついた。
「……。あなたは、どれほど私があなたを諦めるのに苦しんだか知らないだろう」
「――え?」
 ゆるゆると相手を見上げたナマエは、何を言われたか分らず瞬いた。
「あなたの想いは嬉しかった。あんなに冷たくあしらっていたのに、それでもいつも私に会いに来てくれることが本当に、――本当に嬉しく思った。何度、この気持ちを白状してしまおうかと……。けれど」
 趙雲は、自分を慕ってくれる華のような少女に次第に惹かれていくのは分った。しかしナマエは劉表の娘だ。日々鍛錬を欠かさぬ武には誰よりも自信はあった、だが何より劉備主騎という地位にしかない自分が、心惹かれて良い相手ではない。ナマエは劉表の娘で、劉表には劉備たち流浪の軍に居場所を与えてくれたという並々ならぬ恩義がある。恩を仇で返してはいけない。身分などに囚われぬ趙雲も、この時ばかりは悔しく思った。しかし幾ら悔しく思うとて、どうにもならないことはどうにもならない。
 想いを自覚したと同時に、趙雲は己に息づく淡い恋心を抹消しようとした。望むのは無駄だと切り捨てようとした。あきらめろ、と、趙雲は己を戒めたのだ。しかし趙雲の血の滲む努力を知らぬが故であろう、ナマエは毎日のように趙雲に会いに来て、あからさまな思慕を見せつけてくれた。そして趙雲は、喜ぶ己の心に刃を突きつける思いで、彼女の思慕を毎回振り切った。
 だが、事態は劉表の死を迎えることで、一変した。ナマエは劉備に身を寄せた時点で、荊州牧の娘から、行く当て定かでない娘へとなったのだ。打ちひしがれるナマエの様子に、趙雲の胸のうちで暗い悦びが湧き起こった。
 手に入れられるかもしれない――。
 渇望した華が、手を伸ばせば届く位置にあるではないか。すぐに奪い去りたい衝動に駆られながらも、趙雲はしかし決して、已然として引かれていた境界を踏み荒らしはしなかった。ナマエの尊厳を守るために。
 しかし、それもナマエが逃げ出すまでは、だったが。
 初めて吐露された趙雲の胸のうちに、ナマエはしばし言葉を失った。
「じゃあ、何時もあんなに素っ気無かったのって……」
 そのためだったの? と問い掛ける瞳に、趙雲は苦笑した。
「あなたときたら、まったくめげてくれないものだから……。いつも、あなたを追い返すのに私がどれだけ心苦しい思いをしたか分らないだろう」
 まあ、とナマエは憤慨した。
「まるで自分だけ苦労したみたいな口振りね! 私だって、あなたに冷たくされて何度落ち込んだことか……。凄く悩んだし、とても哀しかったのよ」
「すまない」
 あっさりと謝罪した趙雲を、ナマエは胡乱げな目でじとりと睨んだ。
「本当は、私が悩んでいるのを見て陰で楽しんでいたんじゃなくて?」
「――それは」
 違う、と否定しかけ、言葉に迷った。
 ナマエが趙雲の態度に哀しむ姿は、趙雲にとっては苦痛でもあり、……けれど何よりも甘い官能でもあった。それは暗い愉悦であった。楽しんでいなかったかと問われれば、否といわざるを得ないだろう。なんて浅ましい、趙雲は自嘲した。
「そうだな、……好きな女が、他でもない私のことばかり想って苦しんでいるなら、それほど愉しいことはないだろうな」
「……酷いこと言うのね」
 否定してくれればいいのに、とナマエは思った。けれど、どこまでも莫迦正直に告げる男に感じるのは、嫌悪ではなく愛情だった。
 趙雲はナマエの言葉に苦く笑った。
「そうだな。本当に、そうだ……」
 独り言のように繰り返して、おもむろにナマエを抱き寄せ、その肩口に顔を埋めた。
「趙雲殿?」
 呼びかけると、ふいに趙雲が顔を上げ、深い色合いの瞳がナマエの奥深くを覗き込んだ。探るような視線に、心がめちゃくちゃに掻き回されるような感覚に陥って、ナマエは硬直した。
「……教えてくれ、ナマエ殿。あなたの心の中に、まだ私が入り込む余地はあるだろうか」
 息を呑む。趙雲は、続けた。
「まだ、私を好いてくれているだろうか?」
 どこまでも真摯な瞳。
 真っ直ぐに向けられる瞳の前に、ナマエはとうとう屈した。
「……趙雲殿って、ずるい。自分からは絶対言わないのに、他人にはそうやって求めるのね」
 悔し紛れのようにため息をついて言うと、趙雲は己を軽蔑するように暗く笑った。
「そうだ、私は、臆病者だから」
 そういって視線をそらした己は確かに卑怯だと趙雲は心の隅で思った。このようにされれば、気にかけない者などいない。きっとナマエは「そんなこと」といって否定をするに違いない。
 だが、趙雲のその読みは、見事に打ち破られた。ナマエが指し示したのは、どこまでも深い愛情。
 ナマエは無言で趙雲の頬を手で挟んだ。そして視線を合わせると、じっと見つめて。
「……好きよ。あなたが好き、大好き」
 趙雲の瞳が閃くように見開かれた。

ナマエ殿……」
「好き、趙雲どのが大好き」
ナマエ
 ふいに渇きを感じ、誘われるようにその頭を引寄せて、彼は喉を潤してくれる赤い果実を欲した。
「趙……」
 ――愛をさえずる唇を、儀式のように封じる。
「んっ……」
 驚愕したナマエが少し抵抗を見せる。趙雲は益々強く抱き寄せ、唇を吸い上げた。するとその内、ナマエの体から力が抜け、趙雲に任せるように身を委ねた。趙雲は、渇きを満たすようにナマエを貪欲に求めた。
 愛している。愛している。
 想いが止まらない――。

 思うが侭に翻弄して、惜しむように唇を離すと、思ったとおりナマエは真っ赤な顔で固まっていた。
 ――不意打ちなんて、卑怯だわ。
 そんな声が聞こえてくるようで、趙雲はくすりと微笑した。
「愛している、ナマエ
 さらりと告げると、ナマエは甚く慌てて見せた。
「な、そ、そんな青い顔して何言っているのよ」
「本当のことだ」
 あたり前のように言って、趙雲は愛しげにナマエを見詰め、眩しそうに目を細めた。
「あなたは誰よりも高嶺の花だった。だが、手に届かぬ存在なんて思いはもう御免だ」
 この渇きを満たすのは、一人しかいない。この想いを自覚する前より、ずっと彼女に餓えていた。
 ――ナマエ、愛しい、唯一の華。

「お前しか望まない。俺の想いは全部お前にやる、だからお前も全てをくれ。過去も今も、未来も……」

 どうか。
 愛しい華よ、この手に。

「――傍に居てくれ、ずっと」

 途方も無い情熱がこめられた言葉に、ナマエは感極まったように顔をくしゃりとさせて。

「はい……!」


 瞬間、華はついに一人の男の手に落ちた――。

 唯一人に摘み取られる事を望んだ華は、その男のためだけに大輪の華を咲かせることを選んだ。ただ一人に愛でられる事だけを望んで、その男の傍らに寄り添ったのだ。
 全ての幸せをかけて。

 宵があけてきた。
 東の空からぼんやりと暁光が差しこみ、たなびく雲を染め上げた。闇を払拭する光は強く、美しい紫色が空を覆った。
 だが、その光に負けぬ輝きを放つ星が一つ。輝く明けの明星が、東の空にぽつりと現れている。
 それは、暁に光り輝く、たった一つの(明星)




 二人寄り添ったまま空を見上げていた趙雲は、ふと地平の彼方から駆けて来るものに気付いて顔を緩ませた。あの旗は……、『張』、張飛が来てくれたのか。
「……ああ、迎えが来たか」
 安堵したようにほっと息をつくと、趙雲はナマエに穏かな笑みを向けた。
「一緒に帰ろう、ナマエ
「――はい」
 慎ましやかな彼の華は微笑んで、愛しい男に寄り添った。
 もう、この手を離さない。

 たった一つの、この輝く恋を。




 それは宵が明けゆく暁の中で。
 皖の如く、空に煌くたった一つの光のように。
 光り輝く、情熱の恋。

 ――暁の皖。






~暁の皖~
Fin.