暁の皖・八
朝から降り続いていた霧雨は、昼になって漸く止む気配を見せていた。空にはまだ薄く雲が一面に広がっていたが、雲の切れ間から陽の光が差し込み始めたので、青空が現れるまではもうすぐだろう。
曹操の追撃より無事に逃れた劉備は江東の孫権と同盟し、夏口にて大都督周瑜ら三万の孫権軍と合流した。荊州で水軍を得た曹操軍は長江北岸の烏林に布陣を構え、そして周瑜軍はその対岸に、河を挟んでにらみ合う形となった。
後の歴史に刻まれる大戦、赤壁の戦いである。
兵力は少ないながらも劉備軍も参戦している。しかし連合軍といえども、曹操の大軍に比べればその兵力差は著しい。だが曹操軍にとって水上戦は慣れぬ戦、さらに慣れない風土に慢性しはじめた疫病に長期に渡る遠征と、此度の戦に苦戦しているようだった。膠着状態に陥ってより、既にかなりの時間が経っていた。
風が流れ、大河の水面に陽光が反射する。桟橋に降り立ったナマエは、その遥か彼方で戦っている人々に思いを馳せた。
水面に映る己の顔を眺めていたナマエは、ふと手元に視線を落とした。そこには、珊瑚があしらわれた上品な色合いの櫛が一つ。出立際、これを髪にさしてくれた男のどこか照れたような表情を思い出し、ナマエは切なげに瞼を落としきゅっと口元を結んだ。彼等が発ってから、一体どれほどの時間が過ぎただろう。
――あれは薄曇の空の元の、慌しい出立であった。
劉備と共に見送りに出たナマエは、統制の取れた見事な隊列を指揮する一人の若武者の姿に目を奪われていた。その凛々しい横顔はきりりと引き締められ、戦の緊張による高揚を瞳の奥に宿らせる彼は、どこから見ても厳正高潔な武将であった。
その様からは、あの日の出来事がまるで夢であったかのような錯覚すら覚える。あの辛い長坂の戦い、そして趙雲に抱きついて赤子のように泣きじゃくったあの日。全てがまるで遠い日の出来事のように思えたが、実際にはそんなに日は経っていなかっただろう。
……あの時、熱に浮されるように唇を合わせたのも、果たして夢であったのだろうか。
疑問がもたげる。そんな心中の渦を趙雲が知れば、どんな顔をするであろうか。
というのも、ナマエはあの時気力を使い果たしたように寝入ってしまい、前後のことを余り良く覚えていなかったのだ。さらに後日顔をあわせた趙雲は、全く何事もなかったかのような素振りでナマエに接してきたものだから、混乱は深くなる一方であった。とは言っても、あれから怒涛の日々が続いていたので、中々顔をあわせる機会すらなかったものだから、それは当然であったのかもしれない。ましてや、二人きりで会話をする暇などは皆無である。
けれど、仮に話をする機会があったとしても、ナマエは恐らく他人行儀に接した事だろう。だって、ナマエは趙雲ではなく関羽に嫁ぐ予定の身なのだ。その事を忘れてなどいない。だから、逆にあの日の事を言及されれば、困るのはナマエの方で。
そう、ナマエは嫁ぐ身なのだ。趙雲とてそれを知っているはずなのに、何故あんな事を。幾らナマエが言い寄ろうが今まで振り向きもしなかったくせに、何故今更になって。ああ、それともあれは己の願望が見せた都合のいい夢であったのだろうか。
よくよくあの男に振り回されてばかりのナマエの悩みは尽きない。
ひっそりと溜息を付くナマエの傍ら、諸葛亮ら出立する面々が劉備と挨拶を交わしていた。
ふと視線を感じておもむろに顔を上げると、趙雲と目が合った。どきりと心臓が跳ねて、不自然に思われぬよう目を伏せると、彼はゆっくりと近寄ってきてナマエの前に立った。ナマエは内心驚いたが、それをぐっと飲み込んだ。
「――少し顔色が悪いようですが」
「……そんなことは」
ありません、とじっと見つめてくる趙雲に、ナマエは居心地が悪そうに身じろぎした。
「そんなことよりも趙雲殿」
「はい」
「此度のご武運をお祈りしています」
少し余所余所しげに言った。が、趙雲はどこか冷たさを感じさせる彼女の声を大して気にした風でもなく、ふっと笑ってナマエの視線を容易く奪った。
ナマエが瞠目していると、彼は何やら懐を探り、絹の包みを取り出した。その中から何かが現れたが、確認する間はなかった。
「失礼」
一言断りが入り、趙雲はナマエの顔へとすっと手を伸ばした。まさか口づけをされるのだろうかと驚き慄いたナマエは、反射的に目を瞑って身を硬くした。だが、訪れたのは優しく髪に触れられる感触で。
髪にすっと差し込まれた何かに気付いて目を開けると、趙雲の穏かな笑顔が飛び込んできた。
「あの時、渡せなかったものだ」
ナマエの髪に触れていた趙雲の手が離れると、ナマエは恐る恐る自分の頭へと手を伸ばし、先ほどまでは無かったその”何か”に触れてみた。するとそれは髪からさらりと落ち、地に落ちないよう慌てて手で抑えた。
手の平に落ちたものを確認すると、ナマエは今度こそ言葉を失った。それはいつか、趙雲がナマエの目の前で露店で買い求めた櫛であった。
ナマエは弾かれるように趙雲を見上げ、しばし目を見開いて凝視した。
「これ、私のために……?」
趙雲があっさりと頷いたのを見て、ナマエは次の言葉が見つからなかった。嬉しい。信じられない。けれどどうして。今更何の意味があるの。色々な複雑な思いが心中を交錯し、ナマエは素直に喜べないことが悔しく思えた。
ナマエはなんと言って良いか分らず、困ったように横を向く。珊瑚の飾りを指で撫ぜ、あの日趙雲と一緒に城下を歩いた事を思い出す。あの時は、まさかこれが自分への贈り物だとは思いもしなかった。
「私、てっきり、天明様への贈り物かと……」
そう口にしてから、ナマエは途端に後悔した。天明のことはナマエにとっても未だ癒えぬ傷跡である。
「……」
硬直して蒼くなり立ち尽くすナマエを、趙雲は静かに見下ろした。
そして深く息を吸うと、何かを決意したように一度目を閉じだ。
「ナマエ殿」
呼ばれ、ナマエは見上げた。趙雲の眼差しは深く、静かにナマエを捉えている。
「この戦が終ったら、話があるんだ」
突然、息苦しくなった。
見下ろしてくる視線が熱いせいだろうか、ナマエはぼんやりとなりながらもただこくりと頷いた。
ナマエは知らなかった。
その日、君主と若武者の間でどのような会話があったかを。彼が、どれほど思い詰めた表情で、己の君主に対面したかを。
『殿、無理を承知でお願いいたします』
その真剣さは、劉備が思わず姿勢を正すほど。そして、忠義心溢れる寡黙で一本気な若武者は、こう告げたのだ。
『此度の戦において功績をあげたあかつきに、ナマエ殿を自分に賜りたいのです――』
手元に残されたのは、ただ一つの櫛。
ナマエは何故か、この櫛をくれた男が帰ってくるのを恐ろしく感じた。
再び、長江へと目を移す。
雄大な大河が、ゆったりと流れていく。この大きな流れに比べると、なんて自分はちっぽけで無力なのだろう。
北からの風が強くなってきた。
季節は既に冬に近い。戦はまだ決着がつかないようだった。兵が寒い思いをしていないか、心配だった。
その日、劉備は突然のナマエの訪問を受けた。
「突然の訪問で申し訳ありません、劉備様。少しお話がございまして……」
「おお、ナマエ殿、どうした?」
どこか浮かない表情の少女を、劉備はあくまでにこやかに迎えた。ナマエが身に纏ってる紫色の衣裳を見て、そういえば娘も同じ色の衣裳を持っていたなどと、他愛も無く思いだす。
劉備が座を勧めて、ナマエが少し遠慮したようにおずおずと腰掛けた。女官に茶を用意させるよう言いつけ、室には二人だけが取り残された。しん、と一瞬静寂が訪れる。劉備が口を開くより早く、「あの」とナマエは切り出した。
「あの、私……、父の死に際、関羽様の元へと嫁げと言い残されたのですが、劉備様は何か聞いていらっしゃるでしょうか?」
「ああ、その話ならば」
聞いている、と劉備が頷くと、ナマエは一層暗い表情を浮かべた。
「そのお話ですが、私にはもう父の後ろ盾もありませんので、こうなってしまった以上、かえって関羽様にはご迷惑なことだと思います。それで、――本来ならばこんな事を口にするのもおこがましいこととは分っておりますが、けれど無礼を承知で劉備様にお願いがございます。この縁組はなかったことにして下さらないでしょか」
ナマエが一気に畳み掛け相手を見上げると、劉備はしばし面を食らっているようだった。そこに女官が来て手早くお茶の準備をする。温かなお茶が二人の手元に渡ると、女官はしずしずと退出していった。
ナマエが椀を持ったまま押し黙る、劉備はお茶を一口啜ってから、再び続けた。
「失礼、話を続けようか……。そなたの言い分は分った。些かいきなりで驚いたが、良かったら訳を聞かせてくれないか? ――さては婚礼に支障をきたすことでもあったか? それとも愛する者が出来たとか?」
少し悪戯気に問うと、ナマエは心底困った表情でうろたえた。
「それは……、その」
少々意地悪が過ぎたか、劉備は殊更明るい笑みを浮かべると、ナマエの望む答えと、さらに己の望みを口にした。
「いや、しかしナマエ殿がそう望まれるのならば無理強いはせぬよ。むしろ、そうであるほうが丁度都合がいい」
「え?」
ナマエが戸惑う。都合が良いとは一体どういう意味だ。
劉備は椀を置いて、一度ナマエを見つめ、静かに切り出した。
「ナマエ殿、いきなりだが……、私の養女になる気はないか? いや、家族として迎え入れたい」
ナマエの頭は真っ白になった。
「……か、ぞく?」
――なんで、私が、彼の……娘など。
「……どう、して、ですか?」
辛うじてそれだけ言うと、劉備は少し哀しそうに微笑んだ。
「ナマエ殿はまだ誰かの庇護が必要だ。それに、ナマエ殿を見てると、どうしても――天明を思い出してしまってな、構わずにはいられないのだよ」
ナマエの目が驚愕に見開かれる。その瞳が、惑うようにうろたえた。
「けれど、私は。わたくしは……」
言葉が続かない。考えが上手くまとまらない。劉備が何をナマエに求めているのか、分らなかった。
もしかしたら、あの少女の代わりをすれ、ということだろうか。
――私が、見殺しにしたから。
これは、その報いか。その考えに、ナマエの背にじっとりとした汗が浮かんだ。
「直ぐに返事をくれとは言わぬ。だが、考えてみてはくれないか?」
劉備はナマエの葛藤に気付かぬ様子で、明るく告げた。しかし反対に、ナマエの心はどこまで深く沈んでいく。
(わたくしは――……)
どう、すればいいというのだ。
「少し、時間を下さいませ……」
それだけ告げ、ナマエは劉備のもとを退室した。
ナマエはその足で、ふらふらと当て所なく城内を彷徨った。
途中、ナマエを見かけた顔見知りの女官が親しげに声をかけてきた。彼女は、確か元は天明付きの女官であった筈だ。今は何かとナマエに親身になり、あれこれと世話を焼いている。その彼女の瞳にどこか哀しげな光を見つけて、ナマエは途端その場から逃げ出したくなった。
(ああそうだ、何故気がつかなかったんだろう。皆、私の中にあの姫様を見ていることに――!)
間違いない。自分は、あの姫君の代わりなのだ。劉備もナマエの中に天明を見ている。求めている。
そうして、その原因は他でもない、ナマエにある。
――日向のような少女、誰からも愛されていた少女。
(趙雲殿だってあの姫君を事の外可愛がられていたのに。……わたくしのせいで)
それを奪ったのは、ナマエだ。
そして迎えた奇跡の日。
報せを受けた劉備は上気した頬を隠さぬまま、ナマエを見つけて走りよった。そのままがしりと肩を掴まれ、ナマエはいきなりの事に驚いた。
「劉備様!?」
「喜ぶが良い、ナマエ殿! 我が連合軍が、遂に曹操を打ち破ったのだ!」
子供のようにはしゃぐ劉備は、顔を輝かせながらナマエを持ち上げた。
「きゃっ、りゅ、劉備様!」
おろしてください、とナマエは手足をばたばたさせた。劉備は笑ってそれを聞き入れ、とんと軽やかに下ろしてやる。
「さあ、もうすぐ皆が帰ってくるぞ! 暖かく迎えてやらねば! ナマエ殿も楽しみだろう。おお、そうだ、宴の準備をせねば――」
ナマエが呆気に取られているうちに、劉備は意気揚揚と去っていく。まさしく嵐の様であった。
呆然として劉備の背を見送っていたが、はっと我に帰って、暫しその場に立ち尽くした。
帰ってくる。
彼が帰ってくる。
けれど、今、彼と顔を合わせる勇気は無い。
ならばナマエは――。
『恩を仇で返すような真似をして本当に申し訳ありません。けれど、わたくしは……、これ以上はここにいられないのです』
――天明を失った悲しみを乗り越えるためには、ナマエはいてはならないのだと。そしてナマエ自身もまた、己を許す事は出来ないのだと。
丁寧に謝罪を綴った文を残して、室の主が消えた事が劉備に伝わる頃には、ナマエは遠い空の向こうだった。
文に添えられていたのは、――あの櫛だった。