暁の皖・六





「――いや、しかし困ったものだ」

 劉備は深く溜息をついた。
 趙雲は、目の前で繰り広げられるその会話に、静かに耳を傾けていた。
 今は劉表との謁見を終え、新野への帰路途中である。
 話しの内容は大方劉表との謁見でのことだろう。趙雲はその場を許されていなかったゆえ、一体劉備が何を困っているのか検討がつかない。知りたいとは思ったが、だからと言って、余計な口を出す真似はせず、ただ黙々と護衛の任を遂行していた。それに、目の前の会話を聞いていれば、大体の内容はつかめてくるだろう。
「雲長、そなたはどうしたい?」
「拙者は、兄者の命に従おう」
 劉備の問いかけに、関羽は静かに答えた。あくまで劉備に任せる気でいる関羽に、劉備は戸惑いを隠せないようだった。
「しかし、だな」
「良いではないですか、殿。せっかく頂けるというのです、頂いてしまいましょう」
 そう云ったのは、諸葛亮だった。軍師の象徴である羽扇で、顔の半分を隠している。
「孔明、そうはいっても、こうも歳が離れすぎていては可愛そうだろうに。しかも、雲長には既に立派な家族もいる」
 そうでしょうか、と諸葛亮は劉備に返した。
「この世には、歳が離れた夫婦は幾らでもいらっしゃいます。この場合、それは問題ではありませんよ。問題は、どれだけ相応しいかということ」
 すっと目を細めて、続ける。
「――それに、あの方の令嬢は、この先利用価値がある」
 ぴくり、とその言葉に反応したのは、趙雲だった。
「ご令嬢とは……? どなたのことでしょう?」
 ずっと沈黙を守っていた趙雲が、そこで初めて口を開いた。先ほどから話題の中心になっている人物が気になったからだ。劉備が振り返り、気遣うような視線を寄越したが、彼は気付かなかった。
 ご令嬢、といって、思い浮かぶのは、一人しかいない。
「趙雲殿」
 諸葛亮は、突然会話に混ざってきた者の名を呼んだ。趙雲が、何か、といった顔で、その人を見る。
「曹操が、ここ荊州を狙って、南伐を開始しました。さし当たって曹操は降伏を促がす使者を差し向け、劉表殿のご令嬢を差し出す意向を伝えられたそうなのです」
「……そうですか」
 趙雲は、何とか動揺を押さえ込む事に成功した。
 諸葛亮は、涼しい顔で続ける。
「それで、劉表殿は殿に相談を。――ご令嬢を守るため、是非関羽殿に嫁がせてほしい、と」
「……!?」
 今度は失敗した。

 なるほど、そういうことか。諸葛亮は、蒼くなった趙雲にそっと笑いを噛締め、ひとつ羽扇をはためかせた。
「さて、――これから忙しくなりますよ」





 ――劉表が病を得た。
 その報せに、ナマエは蒼白となって父の元へ駆けつけた。
 室に駆けつけると、数人の侍医に囲まれた劉表が、寝台にぐったりと横たわっていた。その顔はまさに死人のように白く、ナマエは震える声で父を呼んだ。
「ち、父上……っ!」
 まさしく唐突だった。大黒柱である彼が倒れたと言う事は、ナマエにとって多大な衝撃を与えた。
(嘘よ、嘘……! そんな、こんなことって)
 あるはずがない。あの偉大な父が死にかけている。あんなに大きいと思っていた人が。
 ――いやだ、まだ、父に認められてさえもいないのに。父上、父上。
 決して優しくはなかったが、それでもナマエにとっては唯一無二の父親なのだ。
 感情が一気に押し寄せ、喉が詰まった。ぐっと奥歯を噛締めると、涙がどっと出てきた。思わず口に手を当てたが、嗚咽は抑える事が出来なかった。
 侍医や側近の者達が忙しく立ち回り、ナマエは一人その場で立ち尽くしていた。
 その時、侍医がなにやら騒ぎ出したので、何事かと思っていると、病床の劉表が僅かに目を開けたようだった。
ナマエ、こちらへ……」
 弱々しくナマエを手招いた劉表に、ナマエは瞠目して慌てて駆け寄った。
「父上、しっかりなさって。父上っ!」
 差し出された手を確りと握ると、弱い力で握り返された。ああ、とナマエは涙を零した。
 劉表は、弱々しい視線をナマエに向け、うわごとのように囁いた。
ナマエ……、儂が死んでも、何も、心配することはない……。劉備殿が、お前を守ってくださる」
「父上?」
 何を言っているのだろう。ナマエは意味がわからず、劉表に問い掛けた。
 父はなおもうわ言のように呟く。瞼を支える力すら失ったのか、目が今にも閉じようとしていた。
「お前は、関羽殿の元へ、嫁ぐのだ。あの方ならば、必ずお前を守ってくれるだろう……」
 瞬間、ナマエは言葉を失った。
 ――嫁ぐ。いったい誰の元に?
 その言葉がナマエを混乱に陥れた。呆然と父の顔を見つめていると、握っていた劉表の手が脱力して、ずるりと寝台の上に落ちた。それが合図だったように、劉表の首がかくりと傾いだ。
 一瞬、しん、とその場が静まり返る。
「ち、父上っ? 父上っ!?」
 ナマエが、震える声で父を呼ぶ。肩を揺らしたが、一向に応答はなかった。
 どっと、喪失の恐怖がナマエを包んだ。
「父上ぇっ!!」
 ――劉表は、もう二度と目を開けることはなかった。



 劉表が亡くなった事で、一気に事態は混乱した。
 曹操が迫っているのである。戦が目前という時に頭を無くした荊州は、一気に割れた。即ち、開戦派と、降伏派。そして後継者問題としての、劉琦派と、劉琮派。
 だが、肝心の劉琦はここにはいなく、さらには劉表のかつての側近達がこぞって蔡瑁に指示を仰いだものだから、自然どちらが優勢かはっきりするものである。蔡瑁を叔父に持つ年若い劉琮、態の良い傀儡となりうるのは確実である。
 そして劉琮が当主につけば、あの蔡夫人がナマエの事を放っておく筈があるまい。ナマエは城に残る劉琦派の者に相談し、梅林とともにひっそりと兄の元へ行こうとした。
 だが、計画は蔡夫人にあっさりと露見することになる。
 夜半、出立の準備をしているナマエの室に、その人は突如現れた。
「何処に行かれるのです?」
「蔡夫人……っ!」
 ナマエは悔しげに拳を握る。
 その時、梅林が怯えたように小さく悲鳴をあげた。夫人の背後には、屈強そうな男達が威嚇するように剣を構えていたからだ。
「劉琦殿の元にいかれるのですか? それともあの田舎武者のところ? させませんよ、貴女は生贄になってもらうのですから」
 蔡夫人は、勝ち誇った笑みを浮かべた。「行きなさい」、その夫人の言葉とともに男達が室に雪崩込む。瞬間、ナマエは梅林を庇うように抱いた。
 ――悲鳴が響き渡った。







「曹操が、荊州に迫っていると?」
 報せに、ざわりとその場が騒然となった。

「ついに来たか、曹操……」
 中央に座す人物、劉備は難しい顔をして呟いた。左右に立つ彼の義兄弟もまた、同様の表情を浮かべている。
 とうとう曹操が、大軍を率いて本格的に荊州討伐を開始したのだ。此度は曹操自身も参加し、その勢いは破竹の如く。諸官は、迫り来る恐怖を察知したように騒然となっていた。
 その中で誰よりも早く動いたのは、羽扇を許された男、諸葛亮。
「劉表殿に急ぎ使者を。――殿。至急、軍議を開きます」
 良く通る冷静な声は、その場の動揺を見事に押さえ込んだ。

 劉備は、諸葛亮の召集の元、集まった諸官とこれからの取るべき進路について話し合ったが、どれも一進一退だった。問題は、荊州が曹操に対してどう出るか、であったからだ。無論、劉表が安々と降伏するはずはないとは思っていたが、しかしこのところ劉表からの連絡が途絶え気味であったので、もしや何かあったのではと思ったのだ。劉表の元に遣わした使者が帰ってこないことには、始まらない。
 そして、それから二日と経たぬ日の午後。
「劉表殿から御使者殿が参りました!」
 その報せに、劉備は弾かれたように立ち上がる。待ちわびていたものが来たのだ、多少の興奮は隠しえない。
「そうか、此方にお通ししろ」
 しかし、嬉々として迎え入れた劉備にもたらされたのは、果たして待ちわびた報せではなかった。

「――降伏された、だと?」
 使者の第一声に、劉備は愕然となった。周りに控えていた武官も、ざわりとなる。
「はい、我が州は、曹操に全面的に降伏を申し出ました。残念ながら、貴方がたと手を組むことは出来ませぬ」
「それは、州牧の意志か?」
 問いに、使者は一層頭を深々と下げた。
「劉表様は先日お亡くなりになりました。今は、劉琮様が当主であらせられます」
「なんと! では劉琦殿は、どうなされた!?」
 思わず劉備は立ち上がり、声を荒げた。使者は泰然と、続ける。
「劉琦様は全てご承知の上でございます」
 劉備は、脱力したように椅子にどさりと座る。「何ということだ……」と呟き、頭を抑えた。まさかそんなことになっているとは。これで、選ぶべき道は随分と狭まってしまった。
「そなた等の言い分、あい分った。新当主は、この劉備とは手を組めぬとな。――しかし、我が弟の花嫁だけは渡してもらわねば」
 使者はそこで、はじめて顔をあげた。じっと劉備を見つめ、そして極めて冷静に返す。
「何のことでございましょう?」
 なんとまあ、と劉備は怒りを通り越して飽きれかえる思いだった。たかが使者ごときが、この劉備を出し抜こうと言うわけか。
「しらばくれる気か? ナマエ殿のことだ、かの君は我が弟関羽の元へと嫁がれることを生前劉表殿がお決めになった事を、そなたは知らなんだか!?」
「はて、聞いておりませぬな。しかしそれが仮に真としても、姫君は既にさる高貴な方へと嫁がれる身と決まったゆえ、差し出すわけにはいきませぬ」
 白々しく言い切った使者に、今度こそ劉備は怒りを隠せず立ち上がった。激昂のままに剣を抜いて使者へと向けると、彼は初めて動揺を顕わにした。
「見上げた根性よの。あくまでこの私にしらを切るか! もう良い、話しにならぬわ!」
 疾く去ね、と剣を薙ぐと、使者は慌てたように退出した。

「……荊州を落としましょうか?」
 と、それまで横で沈黙を守っていた諸葛亮が、静かに切り出した。今なら、荊州攻略は容易い。
「ならぬ」
 まさしく聞く耳もたず。主の答えを予想していた諸葛亮は微笑した。
「では、とるべき道は決まりましたね。このまま南下し、江東の孫権と手を結びましょう。堅実な策ではありませんが、この際仕方がありません。急ぎましょう、曹操の追っ手が迫っています」
 劉備は侍官に、皆を広間に集めるよう指示を出した。また劉備自らも広間へと向かい、諸葛亮がそれに倣おうとした時。
 軍師殿、と静かな声が、諸葛亮を呼び止めた。振り返ると、趙雲がこちらを見据えている。
「……劉表殿のご令嬢のことは?」
 諸葛亮は一瞬目を細めた。暫し何かを考え込むように羽扇を揺らし、
「――仕方がないでしょう」
 一言残し、諸葛亮は退出した。
「……」
 残された趙雲は、ぐっと奥歯を噛締めた。


 皆を広間に集めて、曹操の手から逃れるため、このまま南下することを告げた。荊州はもはや味方ではない、協力は得られぬ、と。それを聞いて、諸官は慌てて準備に走った。
 その準備に追われる中、諸葛亮を呼び止めたのは、趙雲を連れ立った天明であった。
「――軍師様」
「おや、なんでしょうか、姫」
 将を集めて逃亡の手順を説明していた諸葛亮は、天明の登場にはたと手を止めた。
「父から聞きました。ナマエ様のこと、見捨てられるの?」
 畳み掛けるように問うてきた天明に、諸葛亮は一瞬瞠目した。つと後ろに控える趙雲に目をやると、すいと目を逸らされた。この男は、劉備の家族の警護を任されていたはずだが、天明に引っ張られてこられたのだろう。少女に振り回される無表情の若武者に、くつりと一瞬笑みを零すと、諸葛亮は縋ってくる天明に、さも困ったかのように溜息を零した。
「姫、私とて、かの姫君のことは気になります。とはいえ、ご令嬢を連れ出すのには少々危険が伴う。それに、適任がいませんしねぇ……」
 ちらりと、わざとらしく趙雲を窺うと、彼はぴくりと反応して顔を顰めたようだった。
「誰か、いらっしゃらないのですか? 劉表様のご令嬢を助け出したいと言う、勇敢な士は」
 天明が、その場にいた武官に懇願した。
 だが、皆、困惑したようにざわめくだけで、誰も名乗りを挙げない。かの姫君を救い出すことは、それだけ危険なのだ。天明は、声を荒げた。
「我が父に仕えるものたちは、皆腑抜けばかりなのですか?」
 自分たちよりもか弱い少女に涙を浮かべられては、皆一様に難しい顔で押し黙り。
「――姫、私が」
 と、そこで静かに名乗りをあげたのは、傍らで成り行きを見守っていた趙雲であった。振り返った天明は、途端に表情を輝かせた。
「趙雲が?」
 見上げてくる期待に満ち溢れた瞳に、趙雲は頷く。
「姫がお許しくださるのなら、私が行きましょう」
 さらに瞳を輝かせた天明は、諸葛亮の許しを得るため彼の方へと振り返った。
「……良いでしょう」
 皆まで言わせず、諸葛亮は溜息をついて承諾した。本当ならばこんな非常時に、趙雲のような優秀な人材に抜けられると困るのだが。
「あまり時間をかけている暇はありません。姫君は、恐らく軟禁されている可能性があります。趙雲殿、手際よくお願いしますよ」
 諸葛亮がそう云うと、「承知」と趙雲は頷く。
「では、何人か部下を連れて……、趙雲殿?」
 言いかけ、諸葛亮は今にも退出しようとしている趙雲を呼び止めた。彼はすっと振り返り、
「―― 一人で十分です」
 短く一礼し、去っていった。

 諸葛亮は溜息をついた。まるで猪かなにかのように飛び出していったが、大丈夫なのだろうか。表情は至って冷静だったが、あれはかなり内心で焦っていたに違いない。結局、趙雲はナマエのことが気になってしょうがなかったのだろう。
 ちらりと劉備の姫君を窺うと、満足気に微笑んでいたので、諸葛亮は頭を抱えた。
「……謀りましたね、姫」
「あら、なんのこと?」
 白々しい科白に、諸葛亮は苦笑した。結局のところ、自分はこの姫のおかげで命拾いをしたのかもしれない。あのままナマエのことを見捨てれば、今度は君主親子の不興を買っていただろう。さらには、趙雲の怒りも。諸葛亮が「仕方ない」と切り捨てた時、趙雲に底知れぬ怒りを宿した瞳を向けられた時には、少しばかり肝を冷やした。
 しかし、あれだけの怒りを見せ付けておきながら、素直に助けに行くと言い出せない辺り、どこまでも忠義者というか、捻くれ者というか。
「さて、まずは趙雲殿の代わりを決めねば……、まったく、こんな時に、手痛い損失ですよ」







「ここからわたくしを出しなさい! 出して! 誰かいないの!?」
 どんどんと扉を叩いたが、表からの反応はなかった。いくら叩こうがびくともしない鋼鉄の扉を見つめ、ナマエは諦めたように溜息を付いた。喉がひりひりする、ずっと叫びっぱなしだったからだろうか。
「姫様、少し休まれてください。お体に障ります」
 梅林、とナマエは不安そうな顔の侍女の名を呼んだ。
「……一体外では何が起こっているのかしら」
 ぐっと唇を噛締め、扉を睨み付けた。

 訳も分らず此処に閉じ込められてから、幾日経ったか分らない。最初は、何故こんな仕打ちを受けるのか分らず、扉の向こうに叫んでばかりだったが、外からは反応らしい反応も返ってこないので、次第に諦めて大人しくすることが多くなった。話し相手は梅林一人、ことのほかナマエと仲が良かったせいで一緒に閉じ込められたのだろうと考えると、申し訳なかった。
 一体今、外はどうなっているのか。曹操の侵入はどうなったのだろう。兄は無事だろうか。劉琮は? 新当主はどちらがついたのだろうと考え、少なくとも兄ではないだろうと思った。だって、劉琦が当主になっていれば、こんな仕打ちを見逃す筈はないから。では、劉琮が、いや、正確には彼の後ろにいる、蔡瑁が指揮をしているのだろう。
 ナマエの頭に、傀儡という言葉が浮かんだ。幼い劉琮を傀儡の当主に仕立てあげるのは容易いであろう。そうであるならば、尚更劉琦に知らせねば。
 父の死のことは、あえて考えないようにした。考えれば、ナマエを絶望の淵に追いやってしまう。ナマエは努めて気丈に振る舞い、梅林を励ました。
 何度か脱出を試みようとは思った。しかし外との接触はほぼ断たれ、食事などの世話をしに来る者といえば、屈強そうな男達だけだったので、毎回失敗してばかりだった。窓の外を見てみれば、眩暈がするほど高い。
 ……飛び降りれる訳もない。
 ナマエは窓からの逃亡を諦め、梅林と代わる代わる扉の外を窺った。救いの手は、今日も現れる気配もない。

 そして、新月の夜。
「姫様、姫様……」
 何かに怯えるような梅林の声に、ナマエは起こされた。
「なに?」
「誰かが、この室に侵入しようとしているみたいなのです」
「なんですって」
 一気に眠気が吹き飛んだ。
 慌てて飛び起きると、がたがたと扉が揺れていた。ナマエが咄嗟に武器になりそうな物を掴んで構えると、がたんと音を立てて扉が開いた。同時に、飛び込んでくる一つの影。
「な、何者です、名を名乗りなさい!」
 気丈に振舞うと、影は躊躇うように一歩踏みこんだ。
「その声は、ナマエ殿か?」
 ナマエは思わず持っていた物を取り落とした。梅林が燭台を掲げると、明かりが影の顔を照らし出す。
「……趙雲殿!?」
 まさしく、その人であった。ナマエは、思いがけない人の登場に言葉を失った。
 ――まさか、これは夢ではないの? 思わず駆け寄り彼の頬に触れたが、消えなかった。
 趙雲はナマエの行動に面を食らったが、その手を振り払う事はしなかった。彼もまた、ナマエの頬を包んで微笑みを向ける。人目がなかったならば、きっと大胆にも抱き上げていたところだろう。それほど、ナマエの無事を確認してほっとしたのだ。
「ご無事で良かった。では、早速ですが行きましょう。そちらの侍女殿も。道中辛いでしょうが、ご容赦ください」
 ゆっくりしている暇はない。ナマエの頬から手を引いた趙雲は、奥で困ったような表情を浮かべていた梅林を促がした。その声に、ナマエもまたはっと我に帰る。
「行きましょう、って一体どこへ? 一体外では何が起こっているの?」
「そうか、ご存じないのも無理はない」
 趙雲は厳しい表情で、手短に説明した。
 劉琮が当主についた事、荊州が曹操に降伏した事、劉備は南に逃れる事、趙雲は天明の命でナマエを迎えに来た事。
「そんな……」
 ナマエは愕然となった。恐れていた予感が当たったのだ。自分は、曹操に捧げられるために軟禁されていたのだ。蔡夫人の言葉が耳に甦った。”生贄”と、彼女は言ったのだ。
「……急ぎましょう、あまり時間がない」
 趙雲がそっと外を窺い、ナマエを促がした。彼女は、蒼白になりながらも頷いた。


 人目をしのぎながら、何とか裏門から脱出することができた。此処にくるまで血を見ることになるかもしれないと覚悟していたが、予想に反してそのような事態にはならなかった。警護が甘いのか、それとも趙雲の実力か。恐らく後者なのであろう。遅まきながらも自分は今恋しい人に守られているのだと気付き、ナマエは不謹慎だとは思いながらも少しときめいた。
 二頭用意された馬のうち、一頭にナマエは梅林と一緒に乗った。裾が捲れ、太股が露になったが気にしている余裕はなく、趙雲も渋い表情を浮かべるだけで何も言わなかった。この時ばかりは、少し乗馬を嗜んでいて良かったと思う。拙いながらも手綱を操ると、馬はゆっくりと走り出した。趙雲が先を走り、誘導する。追手は、迫ってくる気配はなかった。
 暫らく走り、ようやく安全圏まで来ると、気が緩んだのか梅林が気を失った。落馬されてはたまらないと、慌てて馬を止める。梅林を趙雲に預けると、彼はしっかりと彼女の腰を支えた。
 梅林がぐったりと趙雲にもたれる光景に、ナマエは切なそうに眉を寄せた。梅林に嫉妬をしたのだ。こんな非常時にそんな事を思うなんて、場違いだとは思ったが、しかし簡単に抑えられるものではなかった。
「大丈夫ですか?」
 思い詰めた表情のナマエが気になったのか、趙雲はそっと声をかける。ナマエははっと顔をあげ、こくりと頷いた。ぼんやりしている場合ではない、ナマエが再び手綱を取ろうとした時。
「……ナマエ殿」
「はい?」
 静かに呼ばれ、ナマエは振り返る。趙雲は、どこか真剣な瞳でナマエを見つめていた。
「劉表殿から聞き及んでいるだろうか。あなたが、関羽殿の元に嫁ぐと」
 瞬く間にナマエの体が硬直した。この人に、その事を知られているだろうとは思っていた。思っていたが、此処でいきなり切り出されるとは思いもしなかった。
「はい」
 硬い声で頷くと、趙雲は真っ直ぐに視線を返す。
「どう思おいで?」
 え、とナマエは当惑した。どうしてそんな事を訊ねるのか。もとより父がそう決めたのならば、ナマエの気持など関係ない。それに従うしかないのだ。
 従うしかない、けれど。けれど。
「どう、とは……。関羽様は、立派な方でいらっしゃると思います」
 そうきっぱりと言い切りたかったが、生憎と語尾が震えた。
 ナマエは、趙雲と視線を合わせることは出来なかった。こんな事を言わせる趙雲が、今は憎い。彼は、ナマエの恋心を知っているはずなのに。それなのに、何故そんな酷い事を訊ねるのだろうか。
 嫌だと告げてしまえたら、どれほどすっきりするだろう。けれど、それはやはり出来なくて。
 どうしようもない惨めな気持ちになり、ナマエは完全に目を伏せ下を向いていた。だから、その時趙雲がどんな表情をしていたのか、気付かなかった。
「そうか」
 ナマエの耳に短い言葉が届く。
 その声が少し強張っている事に気付いてナマエは顔をあげたが、趙雲の表情は新月の闇に隠されてしまっていた。

 ナマエはため息をついた。
 手綱を握り、再び馬を走らせる。闇が、彼らの行方をくらませた。

 ――この思いも、新月の闇に紛れてしまえばいいのに。