暁の皖・三
――三日、自己嫌悪に陥った。暗い、と梅林に嫌がられた。
――その又三日、勇気を振り絞って手紙を書いた。その数三回。
――またまた三日、一度も返事が帰ってこないことに落ち込んだ。
あれからの、ナマエの行動パターンである。
あの、ついうっかりなんかじゃ済まされない大失態をやらかし、すっかり硬直してしまったナマエを救ったのは兄の劉琦だった。救ったと言っても、同じく硬直する趙雲にナマエが何も弁明する間も与えずにさっさと城に連れて帰っただけなのだから、逃げ去ったという方が正しいのだろうか。
とにかく、連れて帰られたあとは問答無用で室に押し込められ、父には黙っていてやるから当分大人しくしていろと半脅迫紛いの台詞と常に付き纏う護衛数人を残して去っていった兄の存在を、今日日これほどまでに恨めしく思ったことは無い。素性を良く知りもしない、高々主騎ごとき身分の男に”好きです”などと口走ってしまった愚かな妹を、これ以上近寄らせまいとの目論見であったのだろうが、しかしナマエの心情としてはそんな場合ではなく、ひたすら室に閉じこもり自己嫌悪の日々であった。それがあれから三日。
そして、その又三日。
良くも悪くも、ナマエは立ち直りの早い娘であった。今までずっと寝台に突っ伏していたが、何を思ったか突然がばりと立ち上がり、そして彼女が手にしたのは筆と硯であった。
迂闊にも好きと云ってしまった、どうしようどうしよう、どうすれば、と考えても考えても出口の見えない迷宮に飽きてしまったと云えば本心だが、こうして臥せていても何の解決にもなりはしないのは明らかだ。故にナマエは決意した。
とにかく、一度会おうと。会って話をすれば、何らかの解決の糸口が見つかるかもしれない。
いや、兄の目が光っているから二人で会うのは中々難しいだろうが、文で自分の気持を伝えればあるいは、と思い立ったのだ。そうして筆を持ち、紙に向かい合った瞬間、……次は何を書けばいいのか大いに迷った。
(な、何を書けば……!?)
ただ一つの本心は、もう一度合いまみえたい、それだけだった。けれども、素直にそれを書き出せるほどナマエは無邪気ではない。劉表の娘としての自分か、それとも趙雲を好く自分か。どちらを取ればいいのだろう。前者であれば、あの大告白はなかった事にしてほしいと書くべきだろうし、後者であれば素直に気持を書けば良い。けれども前者を選べば嘘になるし、後者であれば慎みがなさ過ぎる。
と、墨の滴る筆を持ったまま、一人悶々とするナマエを救ったのは、意外にも梅林であった。
「ああ、もう、じれったい」
ええいとばかりに筆をひったくり、さらさらと一筆したためる。その文は、”貴方を想って、昼も夜も眠れません。どうかこの胸の苦しみから救ってくださいませ”。
「これ、なに……!?」
ナマエが絶句していると、梅林は「こんなものでしょう」と得意顔でそれを送り主へ届けようとする。
「ああっ、待ってよそれじゃ恥ずかしいわ!」ナマエは、真っ赤な顔で叫んだ。「それに私はちゃんと眠れますーっ!」
しかし梅林は、己の主の妨害を難なく交わし、しっかりと手紙を届けたのだった。
さらに、またまた三日。
梅林の前には、どんよりと沈みこむナマエの姿があった。返事が、返ってこない。あんな恥ずかしげな文を――いずれも梅林先生作だが――三度も出したのにも関わらず、相手からの返答は笑いたくなるほど何もなかった。
(やっぱり内容がいけなかったのかも……!)
しかし後悔先に立たず、しかも他人任せな部分が大いにあった故、それを口に出すことは出来なかった。梅林も責任を感じてか、妙に優しく接してくる。梅林のせいよ、などという理不尽な事は絶対に口にすまい。
そんな悲惨な日々を送った、十日目のことである。
――幸福の女神は、ナマエに微笑んだ。
「天明様が?」
その報せに、ナマエは耳を疑って聞き返した。
「はい、是非に姫様をと」
そう応える梅林の顔は、先日までの暗い表情とは打って変って明るい。その表情こそ、梅林の言ったことが嘘偽りのないものだと証明するものであり、ナマエは思わず喜びの声をあげた。
梅林によってもたらされた報せは、天明のところに遊びに来て欲しい、とのお誘いのそれであった。それを聞いた時、まず過ぎったのは――。
「もしかしたら、趙雲殿に会えるかもしれませんね」
ナマエは、梅林の言葉に嬉しそうに頷く。邪な理由ゆえに天明に申し訳なくはあったが、それでも期待を隠せはしない。未だ兄の目は油断なく光っていたが、それでも天明からの正当なお誘いである以上、邪魔は出来ないはずだから、堂々とそれを承諾した。
そして、あれよあれよという間に手筈は整えられ、ナマエは天明に対面したのだ。
――蒼穹に、カァン、と一際高い音が鳴り響いた。
客人である劉備達の住まいは、今現在、城の南側に位置するところにある。屈強な護衛二人を従えたナマエがそこの中庭を訪れた時、初めての光景が目に飛び込んできて甚く感激させられた。
それは、劉備に仕える将らが、互いに技を競い磨きあう鍛錬の風景。
目にも止まらぬ速さで打ち合う男達の真剣な表情、その流麗な動き、カン、カンと打ち合う音、威勢のよい掛け声、その全てが初体験であるナマエの五感に、直接刺激が流れ込んでくるような感覚に陥り、呆然と立ち尽くした。
そしてさらにナマエを驚かせたのが、中庭の片隅に立つ、鍛錬の光景を眺めている少女の存在だった。その正体は隠すべくもない、劉備の娘、天明である。自らも将兵と混ざり、なにやら隣にいる男の話に熱心に聞き入っている。
――と。
「ナマエ様!」
ぱっと此方を向いた天明が一行に気付き、軽やかな足取りでナマエの元へと走りよる。
その声につられて、中庭にいた将兵たちの視線がナマエに集中し、後方にいた護衛がその視線からナマエを隠すように前に進み出た。強面の男達に見詰められ、内心たじろいだが、それでも涼やかな顔は崩さない。
「すみません、みっともないところを」
「いいえ、そんなことありません。天明様が剣を習っている、というのは本当だったのですね」
その言葉に、天明ははにかんだ。その仕草が可愛らしくて、ナマエは微笑む。
「今日はお招きいただき、ありがとうございます」
ナマエがすっと一礼すると、簪の玉がしゃらりと涼しげな音を立てた。
「来てくださって嬉しいです、ナマエ様」
対する少女は、日向のような笑顔でナマエを迎えた。
「けれど、一体どこでお聞きになったの? 私が、剣を習っているなんて」
「それは――」
天明の問いにどきりとし、ナマエが答えに窮して視線をさ迷わせた時。
「……っ」
――いた。
一番会いたくて会いたくなかった、彼が。
ナマエは息を呑む。中庭の一角に佇み、静かにこちらを見つめている男は、紛れもない趙雲だった。その存在が、ナマエの理性を吹き消すのには、十分であった。
「趙雲殿」
その大きくも小さくもない声が、自分のそれであると気付くのに一拍かかった。天明がつられるように視線を巡らせ、彼を視界に映したとき。
――すっと一礼し、無情にも彼はナマエに背を向けた。
途端にナマエの表情が凍りつく。
去っていく背中を見詰め、ナマエは今なら何処までも沈んでいけるような気がした。無視されないだけましであったと思う余裕さえない、呼び止める気力も追っていく気力もなかったが、しかし劉表の娘として人から注目され続けた日々の賜であろうか、酷くショックを受けたナマエの様子は、周りからは少しぼんやりしているようにしか見えなかった。
「ナマエ様?」
しかし、天明は聡い娘であった。彼女の様子を訝しんだ天明は、しばしナマエと彼女の見詰める方向を交互に見遣った後、ぱちぱちと瞬き、「趙雲?」と小声で呟いて、そしてああ、と得心したように頷いた。
そして、未だ放心しているナマエを促がし、茶器が用意された東屋へと誘うと、いきなりずばりと核心を突いてきた。
「趙雲が気になるのですか?」
これにはナマエもぎょっとした。余りにも突然でしかも的確な言葉に声もないナマエの様子に、天明は己の予感が正しかったのだと確信し、にっこりと笑った。
「あの者を好いていらっしゃるのね。嬉しいわ。何か、私で力になれることがあるかしら?」
好奇心と親切心がない交ぜになった瞳で覗き込まれると、呆気に取られていたナマエは、実は目の前の少女こそが救い主になりうるかもしれぬと予感した。けれども、全て話してしまうのは気がひける。それにこの少女とて趙雲を好いているかもしれない――。
「ナマエ様と趙雲だったら、きっとお似合いだわ」
……などという、心配は無用であったようだ。
ややあって、ふぅと溜息を付いて肩の力を抜き、苦笑を浮かべた。
「……天明様にはお話しても良いかしら。実は先日――」
――私に任せて、と笑顔で言い切った天明と別れ、はや数日が経った。
ナマエは相変わらずの日々を過ごしている。あれから、変化はない。つまり、趙雲とは一切進展を見せてないのだ。
天明を信じてないわけではないが、こうも穏やかだと逆に気が焦ってしまう。しかし焦ってもナマエ一人ではどうにも出来ないわけで。
そんな悶々とした日々を送る事数日、それは突然やってきた。
「姫様、姫様?」
梅林の声がする。ぼんやりしていたナマエは、その声に顔をあげて「ここよ」と知らせる。
声を辿ってきた梅林は、己の主が珍しく化粧道具を手にしているのを見て目を瞬いたが、特に言及せず用件を伝える。
「ナマエ様、劉表様から言伝が届いておりますよ」
続いて鏡の中の自分を神妙な顔でじいっと見詰めていたナマエは、その言葉に、ぱ、と振り向いた。
「父上から?」
見上げた空は、曇り空だった。
朝の鍛錬を終えた趙雲は、一人静かに回廊を歩いていた。あまり良い天気とはいえない空を見上げ、本日の午後からの予定を考える。珍しく空っぽの予定に何をしようか、この国有数と言われる、膨大な知識が納められている府庫へと足を伸ばしてみようか。それとも城下へと繰り出そうかと思った瞬間、ふと無意識に浮かんだ美しい少女の面立ちに、胸に苦いものが過ぎり思わず顔を顰めた。むう、と腕を組んで、あっという間に趙雲の脳裏を占拠した劉表の娘の面影を追い払おうとするが、果たしてそれは上手くいかなかった。顔を顰めて何かを考え込むように、ひたすら無言で回廊を歩く趙雲の姿は、それは珍しいものだった。
しかし、そんな趙雲の物思いも、ある人の存在の前では一瞬にして消えてしまう。前方から此方に向かってくる人物に、趙雲ははっと我に返ってその人の元へと歩み寄った。
趙雲がすっと拱手する、その相手はまさしく彼の主、劉備である。
「趙雲。探したぞ」
屈託の無い笑みでそう己の君主に云われ、趙雲は目を白黒させた。
「私をですか? 殿自ら探されたとは、呼んで頂ければ直ぐにでも馳せ参じますのに。一体どうされましたか?」
うむ、と劉備は、にこりと笑う。その笑い方が、天明とそっくりだった。いや、天明の笑い方が、劉備に似ている、というのが正しいのであろう。
「すまんが趙雲、一つ頼まれ事をされてくれんか?」
「は、どのような?」
趙雲は、居住まいを正す。
「ああ、今日の午後なのだが、劉表殿に離宮に招かれておるのだ」
「殿お一人で?」
問うと、劉備は首を横に振った。
「いや、義弟と天明も一緒だ。あちらは、ご息女が一緒らしい」
ご息女――つまりナマエ。趙雲は、その存在が劉備の口から出た時、知らず呼吸が止まった。
劉備はそんな趙雲の反応にも気付かずに、にこりと続けた。
「そこで、だ。是非ともお前に、護衛としてついて来て貰いたい」
「は、あ。……――しかし何も私でなくとも……」
義弟、つまり関羽と張飛という、劉備軍屈指の武将がいるから問題ないのでは、と内心言いたそうな表情の趙雲に、劉備はしかし神妙な顔で首を横に振る。
「いや、それが、天明たっての願いなのだ。是非お前を、と」
趙雲は面を食らう。天明は確かに趙雲を頼りにしていたが、それにしてもそのような願いを口にした事は殆んど無い。珍しい事だったが故、断わりづらくもあり、返答に迷った。
「……。天明様の願いとあらば、断わるわけには参りませんね」
結局、渋々ながらも承知する。
「すまんな、頼むぞ」
ぽん、と趙雲の肩を叩き、劉備は意気揚揚と去っていった。
一人残された趙雲は、途端に頭を抱えたくなった。
(しかし、参ったな)
また、あの少女に会わなければいけないのだろうか。
危機感と苦手感と期待がない交ぜになった、複雑な気持が襲ってくる。己が果たしてあの少女に再び会いたいのか二度と会いたくないのか自分の心が分らなくなって、途方に暮れた。
唯一分っているのは――、決して惹かれてはいけない相手だということ。
「これでいいのか? 天明」
と、問うたのは、悶々と悩む趙雲の姿を遠くから窺う劉備である。その隣で同じく覗き見する少女は、父親に向かってにっこりと微笑んだ。
「上出来ですわ、お父様」
良く出来ましたと娘に褒められ、複雑な表情を浮かべる劉備は、ややあってまた部下の様子を窺うのであった。
カラカラと音を鳴らし、貴人を乗せた数台の車が静かに走る。
その周りを囲むように、屈強な男達が十数人、騎乗してゆっくりと走る車に合わせて進んでいた。前方を守る劉備の将の中には、関羽やら張飛やら、趙雲の姿があった。
車の中に一人静かに座していたナマエは、窓に幾重にもかけられた薄手の生地を、そっと捲って外を窺ってみた。本来それは貴人を下々の者の視線から隠すために掛けられたものであるにも関わらず、その好奇心もさることながら、趙雲の姿を目にしたい一心であるナマエが慎みも遠慮もなく捲ってしまったとしても、今この場に、はしたないだなんだと彼女にやかましく云う者はいない。
朝方の天気とは一転し、午後の空はどこまでも青く輝いていた。
空を見上げた。頭上で、揺れた玉がしゃらりとなる。色とりどりの玉が付く簪をつけた頭と衣を幾重にも重ねた体は、いつも以上に重く感じられた。髪もきつく結い上げられ、心なしか米神が痛むほどだった。
ナマエは今、まさしく華であった。
しかし、見掛けは、という言葉を添えねばなるまい。だって、ナマエはすっかり報われない恋する乙女になりきっていて、心なしか潤んだ瞳で地平線より手前のポツポツとした影を見つめている。
(ああもう、なんでこんなに遠くから見つめなくちゃならないのかしら)
御者を急かして、もっと彼に近付いてと言おうと思ったが、出来なかった。
「姫様、どうかなされましたか?」
顔を覗かせるナマエに気付いた護衛がこちらに近寄る前に、「何でもないわ」とさっと身を翻して車の奥へと引っ込んだ。
父は劉備相手に熱く語り合っているようだった。張飛は劉表の将とともに酒肴を楽しんでいるようだったし、関羽は天明を傍らに置きながら、同胞と静かに語り合っているようだった。
つまらない。ぐるりと様子を見回した、ナマエの感想である。離宮に着いた途端に趙雲の姿を見失い、後ろ髪をひかれながらも宮内へ入った。ささやかな宴が始まり、父に連れられ現れたナマエだったが、初めて目にした噂の華の美しさぶりにぶしつけな視線を送ってくる者も居た。涼やかな表情でそれを受けるナマエは、その玲瓏な美しさとは裏腹に、その実逃げ出したい思いで一杯だった。よもやこの場で、是非とも華を娶りたいなどという魂胆で、父に取り入ろうと企む輩が出てくるとは思わないが、しかし見知らぬ将が父に接近する度、ひやひやする。結果としてナマエは、終始硬い表情で父の周囲をじっと見張っていたのだった。
時折天明が視線を寄越す、その度に瞳がかち合って、にっこりと微笑まれた。その笑みに何も思わぬところがないわけではない、先日自分に任せてくれと云ったのにも関わらず趙雲は姿すら見せない、けれどこの場ではあまり期待しても無駄なのだろう。そう思いかけた時だった。
「劉表様、こちらにも、庭園はあるのですか?」
唐突な質問にもかかわらず、問われた相手は冷静に応えた。
「ああ、ありますぞ。今が丁度、見頃でしょう。宜しければご覧になりますかな?」
「はい、是非に。ナマエ様とご一緒したいのですが、構わないですか?」
己の名前が出てきてぱちりと瞬くと、父が頷いた。
「勿論だ」
危ないことはないと思うが、護衛をつけて差し上げよう、と劉表が云うと、天明はやんわりと辞退した。
「いえ、大丈夫ですわ。心強い護衛がちゃんと居ますもの」
微笑んだ天明がつと視線を巡らす。ナマエがつられて見てみると、開いた扉の向こうで鎧を着けた趙雲がすっと一礼している所だった。後ろに、もう一人、見知らぬ男がいた。恐らく護衛につくものだろう。
ナマエは、溢れてくる喜びを抑えながら、天明を見る。目が合って、微笑まれた。
「ナマエ、天明殿を、案内して差し上げよ」
はい、とナマエは夢心地で返答した。
だが、その心地も、すぐに醒めてしまう事になる。
広い背が前を歩いている。
ナマエはぼんやりと前を行く趙雲を見つめていた。その距離は、先程車に乗っていた時よりも断然近い。近い……筈だが。
「趙雲、趙雲、歩くのが少し早いわ」
「ああ、これは失礼しました」
「よほど急ぐ理由でもあるのかしら。それとも、趙雲も庭園を観るのが楽しみなのね?」
「天明様、あまりその堅物をからかいなさいますな」
もう一人の護衛が、趙雲に助け舟を出す。天明はくすくすと笑った。
趙雲との距離は、何故かまだ遠く感じられた。
庭園につき、半周ほどしたところで、一行は東屋へとたどり着いた。
天明は歩きつかれたのか、ふうと溜息をついて椅子に腰掛けた。
「少し疲れたので、私はちょっとここで休憩しますね」
「何か飲むものを用意させましょうか」
天明はナマエの申し出をやんわり断わると、逆ににっこりと微笑んだ。
「ナマエ様は、どうぞご遠慮なく散策してきてください。趙雲、この方の護衛をお願いね」
「天明様、……しかし私は」
すかさず趙雲は不満の色をあらわにしたので、ナマエはズキンと疼いた胸を抑えた。”ナマエの護衛などまっぴらだ”という趙雲の気持ちが直に耳に響いてくるように感じた。
涙が滲んできそうになったナマエは、しかし高すぎるプライドを死守するため、彼の言葉を最後まで言わせまいとして完璧に笑顔を取り繕う。
「いいえ天明様、ここはわたくしにとって勝手知ったる場所。私のほうこそ、お気遣いは無用にお願いいたしますわ」
ナマエはさっと踵を返す。慌てたのは趙雲だ。
「姫君? 姫君っ、あまり遠くには――」
行かれませんよう、との言葉は、既に遠くなった相手には届いていないようだった。
「ああ、くそ」
どうしてこうなるんだ。
小声で悪態をついて、趙雲はちらと己の主の娘を窺い、一礼をしてナマエを追った。
後ろから、「やった!」と歓喜の声が聞こえた様な気がした。気のせいだろうか、いや気のせいではない。
ざっと背後から音がして、びくりと振り返ったところに少し不機嫌そうな趙雲がいたことに、大分驚いた。足音が乱れていたから、慌ててナマエを追って来たのだろうか、そんなことを考えて、一人浮かれそうになる自分が浅ましく思えた。だって趙雲は、天明の命で仕方なくナマエの護衛をしなければいけないのだから。申し訳ないと思うのが筋なれど、嬉しいなどと思うのはもっての他、だろう。多分。
ようやっと念願叶って趙雲と会えたと思ったが、しかし今度は臆病心が邪魔をして声を掛ける事が出来なくなってしまったようだ。ひたすら無言で練り歩くも、なかなか話を切り出せない。
(……梅林がこんなことを知ったら、確実にカンカンになっているわね)
ふいに仲のよい侍女の事を思い出すと、すこしだけ胸の重みが軽くなった様な気がした。
ようやく決心して、歩みを止める。すっと深呼吸した。
「趙雲殿」
「……何でしょうか、姫君」
控えめな声が返ってくる。ナマエが思い切って向き合うと、趙雲は無表情な顔で立っていた。
「こうしてお話しするのは、久しぶりですね」
「その節は、どうも」
明らかに刺を感じる言い方にナマエは内心むっとしたが、堪えた。
「……手紙、読んでいただけました?」
「一体何のことでしょう」
これにはナマエも鼻白んだ。どころか、この人は己に悪意さえ持っているのではないかとさえ疑ってしまう。
「……。意地悪なんですね」
「……」
趙雲は、答えなかった。彼に視線をすっと外された事で、ナマエの疑惑は一層強いものとなってしまう。堪らず、悲しそうに眉宇を寄せた。
「それに、この前と違って、冷たいわ」
それは失礼しました、と趙雲の声はいたって事務的だった。
「姫君、お喋りがしたいのだったら、他の方々として頂きたい」
「ああ、待って! そんなことを云いたいのではないのです」
趙雲の機嫌を損ねてしまったと思ったナマエは、慌てて首を振って、そして息を吸った。伝えなければいけない事を伝えるために。
「この前は、ごめんなさい」
いきなりの謝罪に趙雲は息を呑んだが、必死なナマエはそれに気付かなかった。
「私、嬉しかったんです。普通の娘のように城下に出て、店をひやかしたり、その、男の方と一緒に街を歩いたり、……まるで、夢のようだったわ。あなたは夢を見せてくれたの」
自分の思いを伝えたくて、彼を見上げる。ナマエと目が合って、趙雲は少しうろたえたようだった。
だが、それでも尚二人の間に感じる壁に、ナマエはぐっと拳を握った。
「――貴方を好きだと言った事も、嘘ではないわ」
「ナマエ殿っ」
咎めるように鋭い声が飛ぶ。
だがナマエは怯んだ様子も見せずに、逆に瞠目し、嬉しそうに顔を綻ばせた。
「私の名前……、また呼んでくれて嬉しいです」
「――っ」
不意打ちを食らったように趙雲はぐっと息を呑んだ。さも幸せそうに笑うナマエの可憐さゆえか、知らず赤面した顔を誤魔化すように、表情に険を孕ませる。
「軽々しく”好き”だなどと、口にするものではありません。それに貴女は、勘違いをしておられるだけだ」
「勘違い? なんのこと?」
きょとん、とした表情で首をかしげたナマエに、何故か趙雲は苛立った。
平和な世界で幸せに笑っていられる少女、幸せそうに恋を語る少女。
あるはずがない、そんなおとぎ話のような――。
趙雲は、頭を振る。
「初めて親しくした男に好意を持ってあたり前です。それを、”恋”と勘違いしているのだ」
云うなり、趙雲は踵を返そうとする。ナマエは慌ててそれを追った。
「そんなことない! あ、ちょっと、待って! まだわたくしの話しは終ってないわ!」
踏み出した足はしかし何かを踏んだようで、びぃん、と何か突っ張ったような音がした。足がもつれ、体のバランスが崩れる。声にならない悲鳴をあげ、支えを欲したナマエの手は虚しく空を掴んだ。
あ、転ぶ、と妙に冷静に悟った瞬間。
――ドサ、と音がし、体に衝撃が走った。
だが、思ったよりも軽い衝撃に、ナマエはあれ? と思って硬く瞑った瞼をそっと開ける。
……趙雲の顔が、近い。心臓が、止まるかと思った。
あ、抱きとめてくれたのか、と気がつく前に、さっと体を離された。恥ずかしくなって、ありがとう、と小声でいうと。
「お気をつけ下さい」
硬い声が落ちる。
戻りましょう、と云って、彼は踵を返した。さっさと離れていく趙雲を、今度はナマエも引き止められなかった。
「……軽々しくなんか、ないのに」
ナマエは、寂しそうに呟く。踏みつけてしまった領巾が、汚れていた。
だって、仮にも天子の血を引く娘が、ただ一人の男を前にしてどうしていいか分らず、こんなにもうろたえてばかりいるのに。これが好きという感情でなければ、なんだというのだ。
『”恋”と勘違いしているのだ』
不意に耳に彼の声が甦り、ナマエはむかりとした。だれが、恋を何かと勘違いするものか。
――恋?
ああ、と溜息が漏れた。眩暈がする。
趙雲も、そう云ったではないか、恋だと。
――自分は、本気で、趙雲に恋してしまったのだ。