暁の皖・一




 ――これは、漢王朝が崩壊してより、群雄たちが大陸の覇を争いあった動乱の時代に出会った、とある姫君と若い武人との小さな恋のお話――。



 それは、宵が明けゆく暁の中で。
 皖の如く、空に煌くたった一つの光のように。
 ――光り輝く、情熱(あかつき)()





 ――荊州。
 時は黄巾の乱、漢が斃れ、乗じて様々な群雄が覇を得んと争いが絶えない戦乱の真っ只中であった。曹操が官渡にて袁紹を破り、名族袁家は遂に途絶えた。その後、天子を保護した曹操が一気に力をつけ、勢力を拡大していった。漢王朝末裔を名乗る劉備もまた、名もなき群雄の一人であった。それは全て、武で支配される世界――。
 しかしここ荊州は、現在は州牧である劉表によって統治され、世の争いごととも無縁な平和な日々が続いていた。それは一重に、若き頃は八俊の一人にまで数えられた優秀な統治者、劉表が中立の立場を保ってきたからだ。彼は、その名が表すとおり、天子の血に連なる者である。
 彼には、二人の息子と、そして一人の美しい娘がいた。その美貌は、まさに華と例えられるほど。幾多の位ある男がその華を手中にせんとしたが、劉表がそれを許可しなかった。そして、噂は噂を呼び――、その娘は劉の華と呼ばれるようになる。決して手に入れられぬ、”龍”の華。

 その、州都にて。
「……静かね」
 ポツリ、と、声が落ちた。
 それまで静寂を優しく抱擁していた部屋に、突如として音をもたらしたのは、この部屋の主であるナマエだ。
 ここ荊州の、現在一番の権力者である劉表の、至宝の位置にある娘。しかし金銀を身を纏うこともなく、顔には薄っすらと化粧、手にはいかにも重たそうな書物。纏う衣裳も、側に控えている侍女と大差はなかった。即ち、質素。一見しただけでは、一体どちらが主か分らない。
 だが、質素ながらも所々に施された繊細な模様の薄物が、それを纏う者の位を暗に示していた。その美しい薄物を纏う少女――ナマエは、しかしおよそ姫らしくなく大きく伸びをしてみせた。そして、盛大に溜息。手に持っていた、いかにも高価そうな書物を卓の上にやや乱雑に放り、ぽつりと一言。
「こうも退屈だと、どこかに逃げ出してしまいそうよ」
 その物騒な発言に眉を顰めたナマエ付きの侍女は、くるりと己の主を振り返ってお小言を口に上らせた。
ナマエ様、そのような言動はお控えください」
「あら、何故?」
 侍女の言葉に対し、ナマエは可笑しそうに微笑を浮かべた。そのナマエの笑みには、誰も彼もが警戒を簡単に解いてしまうような魅力を持っていた。しかし如何せん、長年の付き合いであるこの侍女には、その効果は期待できない。彼女は全く躊躇うことなく、ナマエを窘めにかかった。
「劉表様の姫君は、脱走がお得意だと噂されたら如何します?」
 要するにナマエの体面を気遣っての言葉なのだろう。然しナマエにとっては、体面など金銀宝玉の次に興味のない話題であった。
「劉表の娘は、じゃじゃ馬だと?」
 含み笑みを浮かべ、ナマエが小首を傾げる。
「それも良いわね、私への縁談が減って」
 くすくすと笑いながらそう云うナマエに対し、侍女がむっとして顔を顰めた。せっかく、主のことを心配しているのに。
ナマエ様」
 しかし、その幾分か刺の含んだ呼び声など気にならないように、ナマエはひらひらと手を泳がせた。
「いいじゃない、そんな体面など気にする殿方の所に嫁ぐのなんて、真っ平だわ」
「……まあ、それは、そうですけれど……」
 ナマエの云う事にも一理あったのだろう、侍女は不満そうな顔こそしたものの、それ以上口を開く事は無かった。
 ナマエは肩を竦め、再び書物を拾って目を落とした。その細い手にはおよそ似つかわしくない程重たそうなその書物は、韓非子だった。その昔、韓非が書いたという書物は、法律、刑罰をもって政治の基礎とせよと説いたもので、この時代の女人が読むような代物ではない。女人にとっては、学よりも器量の方がよほど大切な物であったが、ナマエに至っては全くの逆であった。この乱世を生き抜くためには、女人も学ねばならぬことは沢山ある、と。生き辛い世の中なのだ。ゆえに、ナマエは絹の薄物よりも書を好んだ。
 ……ナマエが勉学に入れ込む理由は何もこれだけではなく、他にもあったのだが。




 ――と、その時、俄かに外が騒がしくなった。ざわざわとしたざわめきが、風に乗って城の奥のナマエの部屋まで届いてくる。
 何事だろう、と書物から再び顔をあげることとなったナマエは、読書の時間を邪魔された事に少し不機嫌そうに眉を顰めた。一体なんだろう。また、父の来客かなにかだろうか。そう推測し、ナマエはふっとため息をつく。
 ナマエの父である劉表は文武ともに優れ、自らも儒学者であることは有名だった。ゆえに、よく父は同じ儒学者などの賓客を招いて議論に興じることを好んだ。いわゆる、サロンだ。ここを訪れてくる人の中には高尚な学者もいて、彼等の話を直に聞くことが出来る貴重な場でもあった。それは、学を修める者ならば誰しもが憧れる集いの場であった。
 ――だが、どちらにしても、ナマエにはあまり関係のないことだ。誰が来たって、ナマエがその場に呼ばれることもなし。ましてや、議論に参加できるなどもってのほかだ。それよりも、この騒音の方がナマエにとっては大問題だ。うるさすぎて、読書に集中できないではないか。
「……騒がしいですね」
 ナマエの心情を察した侍女は、袖で口元を隠しながら苦笑を浮かべた。ナマエは彼女の方を見て、小さく肩を竦める。
 見てまいりますね、と立ち上がった侍女は、やはりナマエには甘いらしい。上品な姿勢を崩す事なく、さっと部屋を出て行った。
 一人ぽつりと残されたナマエは、手持ち無沙汰に書を捲り、ふっと溜息をついて空を見上げた。
 ――いつの間にか、雲が出てきている。





「――劉表様が、賓客をお出迎えなさったようですわ」
 戻ってきた侍女の言葉に、ナマエは書から顔を挙げずに問うた。
「どなた?」
「劉備様と仰る方です」
 ぱちり、とナマエは瞬いた。思わず、顔を挙げる。
「劉備……、様?」
 その名は、城の奥の住人であるナマエにも心辺りがあった。何でも、この群雄割拠の時勢の中で近頃急速に力をつけている勢力の一つで、劉備自らは漢王朝末裔を名乗り、漢王朝復活を大志に掲げているとか。ナマエには、しかしそれがどうにも胡散臭く感じられてならない。だって、この世に”劉”の姓を持つ人間など、数えきれないほど沢山いる。ナマエの父である劉表もその一人だ。
 しかし。胡散臭く感じる一方で、だが興味もある。その劉備とやらが、一体どんな人物なのか。
 ――ならば会いに行けばよいではないか。丁度、この荊州を訪れていることだし。
(そうだわ、そうしましょう。――なんて良い考え!)
 そう思い立ち、ナマエは途端瞳を輝かせた。それに気付いた侍女が、嫌な予感に眉を顰める。
「姫様?」
 呼び掛けに応えるように、ナマエはすっくと立ち上がる。
「見に行きたいわ。その、劉備様をとやらを」
 果たして侍女の予感は当たった。ぎくり、と身を竦める。
「姫様、いけません」
 思い立ったら即行動、がナマエの行動パターンだ。蒼白となった侍女が、上機嫌そうに鼻歌を歌いつつ、すぐにも室を出て行こうとするナマエを止めに掛かるも、しかし既に己の主には制止の声すら届きそうになかった。
「お兄様には、黙っていてね」
 ナマエは好奇心たっぷりな表情で笑うと、軽い足取りで回廊に飛び出した。ふわり、とナマエが落とした沙羅が風に舞い、床に横たわった。




 ――さて、何処にいるのだろう、その劉備様とやらは。
 ナマエは見知った回廊を歩きながら、思考を巡らせた。今頃ならば、丁度広間で父と一緒にいるかもしれない。
 ナマエは身分上、普段他人の前に姿を現すことはないし、そして父もナマエがそうすることを嫌がった。家族でも何でもない男の前に姿を表すなど、はしたないと。ゆえに、会いに行くといっても直接劉備や父の前に姿を表すことは不可能。せいぜい、遠くからその姿を垣間見る程度であろう。父に、挨拶をせよと云われているのならば別だが。
 だが、その可能性はほぼ無いに等しい。だって、今までこの城に迎えたどの客人にも、ナマエは挨拶をするよう言われたことが無い。いつだって、父に紹介されるのはナマエの兄や弟の方だった。女人は家の中に――、別にそれが世の常識なのだろうから良いのだけれど、それでもナマエはそれが少しずるいと感じていた。
 ――私だって、父様の……。
 不意に胸に生じた不満を慌てて振り切るように、小さく頭を振った。父のナマエへの態度については、どうせ考えたって仕方のないことだ。ならば、思考が後ろ向きになるようなことを考えるよりも、目の前のことを考えよう、と。
(とりあえず、広間を覗いてみよう)
 ナマエは劉備の居場所を広間であると当たりをつけ、その方向へ向かった。だが、すぐに思いとどまったようにその足は止まった。広間だと、ここから少し距離がある。ここ荊州城は広い城ゆえ、ぐるぐると幾多の道を経ねば、目的の広間には着かない。広間までの”正規”の道を通っていたら、確実に日が暮れてしまう。……いや、それは流石に言いすぎか。
 ならばとナマエは、回廊の横を向いた。その視線の先には、緑溢れる庭園があった。
 この広い庭園を、突っ切ってしまう方が早い。広すぎて、不案内な人間が迷い込んだら確実に迷子になりそうな、この庭園を。

 がさりと音を立て、ナマエの足は迷いも無く庭園へと踏み出した。小さな頃から慣れ親しんだこの庭園は、ナマエにとってはなんら恐るるに足りるものではない。この広い庭園の中で、よく兄である劉琦と二人で隠れ鬼をしたりして遊んだものだ。それは、懐かしい大切な思い出。
 けれど、とナマエは兄の背の丈ほどもある樹に手をかけた。今は、もうそんなことをしたりはしなくなった。大好きな兄も、武芸や学問、父の補佐に忙しいらしく、そうそう会う事も無くなった。
 ――ナマエの父・劉表には、二人の良き片腕がいた。即ち、蔡瑁と張允だ。十数年前、ナマエと劉琦の母は病で亡くなり、その悲しみから逃れるように父はすぐに蔡瑁の姉・蔡氏を後妻に迎えた。そしてそれから数年後、弟・劉琮が生まれたのだ。以前はナマエと劉琦はたった二人きりの兄弟だったため、非常に仲が良く一緒にいることが多かった。しかし劉琮が生まれてから、……いや、あの蔡氏が父の横に並んだ時から、全ての歯車が少しずつずれてしまったのだ。兄はナマエから離れていき、そして父は――。
 空気は、こんなにも重苦しいものなのか。ナマエは、一度嘆息した。
 今、ナマエが触れている樹。この樹も、いつの間にかこんなに成長してしまっていたのだ。小さな頃は、己くらいの背丈だったのに。
 ナマエは、暫し感傷に浸っていた。それは、今や殆んど顔を合わすことも無くなった父や兄への思慕、そして寂しさからくるものだったかもしれない。
 その時。

 ――かさり。

 不意に前方から小さな音がして、ナマエは誘われるようにゆっくりと顔をあげた。
 そして、瞬いた。
 心も身体も無防備な状態のナマエの瞳に、鮮やかな色が飛び込んでくる。
 前方に、体格の良い背格好が。目が醒めるような、蒼い鎧――。
(誰……?)
 男の人だ――。
 この城で、ナマエと顔見知りの男なんて限られている。ゆえにナマエは、無意識の内にこう呼びかけた。
「――兄、様?」
 それは、なんともか細い声だった。己自身ですら不安になるほど。
 だが、その声は不明瞭な音となって男にも届いたらしい。
 ――ざ、と音がした。
 男がゆっくりと振り向いた瞬間、風が一瞬凪いだ。ただ、それだけのことだ。そこまでは、単なる日常の出来事に過ぎなかった。
 そう、そこまでは――。

 ナマエは、無意識に息を呑んだ。
 目の前の男は、兄ではなかった。見知らぬ男だ。
 ――だが、この目前の男の端整な容貌はどうだ。
 ナマエは、男の美しい切れ目の眼差しに、一瞬にして視線を絡めとられた。
 男は、樹の陰に隠れるようにして立っていたナマエの存在を認め、瞬きもせずに見詰めた。その鋭い警戒の視線に、今度は身体が縫い取られるような感覚を覚える。
 男は、ぼんやりと突っ立っているナマエを怪しんだらしい。眉を顰め、鋭い視線はそのままに問う。
「……誰だ?」
 低く、掠れるような声。
 目の前に立っている人の、この人の声だ。数拍遅れて、ナマエの思考はそう認知した。
 ――色気がある声、というのは、このようなものだろう、とナマエはその時はっきりと思った。
 掠られたのは、きっと鼓膜だけではない。背中がぞくりとするような声だったが、それは決して不快なものではなかった。同時に、どくん、と胸が大きく打たれる。
 もっと、聞きたい――。
 ナマエは、息が苦しくなるのを感じた。頬もなんだか熱を持ってきている。
(……なに?)
 大方、男性にこのような感情をもったのは初めてだったので、なんとも勝手が分らない。一体、どうしてしまったのだろう。
 ただ、思ったのは、もっと見ていたい――、声を聞きたい――、けれど、じっと見つめられると脱兎のように逃げ出してしまいたくなる。
 相反する思いは、ナマエに混乱を招いた。次に紡ぐ言葉すら、何も出てこない。
(どうしてしまったの、私は――)
 ナマエはうろたえ、頬を抑えて俯いた。掌に感じる頬は、燃えるように熱かった。きっと、真っ赤になっていることだろう。
 だが、悠長に恥ずかしがっている場合ではなかった。不意にがさりと音がして、はっとして顔をあげると、彼がこちらに向かってきているではないか。近付く端整な顔立ちに、ナマエは目を丸くした。
 ――彼が、近付いてくる。
 男が目の前に迫った瞬間、ナマエは居た堪れなくなるほど恥ずかしくなり、脱兎の如く逃げ出そうとした。だが。
「……っ!!」
 いきなり腕を掴み上げられ、ナマエは驚愕し息を呑んだ。大方このような乱暴な扱いを受けたことのないナマエであったが、恐怖感よりも先に熱がこみ上げ、ひどく困惑した。だが、男の表情は痛いほどに冷静。
「や……っ」
 捕まれた腕が、燃えるように熱い――。ざわざわと、腕から伝わった熱が全身を駆け巡ってくるようだった。
 これ以上は、堪らない。ナマエはぎゅっと目を瞑り、男から逃げ出すべく捕まれた腕をぐっと引いた。
 だが、びくともしない。逆に、ますます強く捕まれる始末。
 ナマエの態度に、男の表情が少し険の孕んだそれへと変わる。己が、男に間者として怪しまれているなぞ露ほども思わぬナマエは、その表情の変化に身体をびくりと震わせた。
 そして、ナマエを荊州城の主・劉表の娘であるなど露ほども思わぬこの男は、威圧するような低い声でナマエを問い詰めた。
「誰だと訊いている。答えろ、女」
 強い、まるで圧迫されるような口調。
(”女”……? 私のこと?)
「――あっ……」
 ――この私に向かって、なんていう暴言!
 途端、まるで弾ける様に、かあっ、とナマエの身体に火がついた。男の言葉に、天子の末族にして荊州牧・劉表の娘であるという自尊心が、一気に爆発したのだ。
 ナマエの身体が怒りと羞恥にふるふると震え出し、今度は男が戸惑う番だった。それまで小動物のようにおろおろとしていたナマエが、途端すっと背筋を伸ばし、強い眼差しを向けてきたからだ。剣を差した武人に臆する事もない、堂々とした態度。それは間違いなく、ナマエの高い自尊心がなしえる技だった。
「あ、あなたこそ――」
 ナマエは、凛とした眼差しできっと男を見据えた。
「……?」
「貴方こそ、何方ですか! このように女人をいきなり捕まえ、あまつさえもこのわたくしに対して名乗れと申すのですか! ……恥を知りなさい! 恥を!」
 半ば叫びのようなナマエの言葉に、男の表情が一変した。それまでの険しかった表情は消え、はっと息を呑んで瞠目した男は、数拍後、惑うように掴んでいた細腕をゆっくりと離した。
「……すまない」
 そして、なんとも短い謝罪。だが、予想に反してあっさりと謝られてしまえば、ナマエの怒りも行き所をなくす。如何にも困ったような表情の男に途端うっと言葉に詰まり、暫しナマエは男に投げかけるはずだった罵声をもごもごと口の中で噛み砕き、最後には、いいのよ、と小さく言っただけだった。
 その小さなナマエの言葉に、男は表情を柔らかくさせる。それを見て、ナマエは内心僅かに動揺する。殿方が、このような少女の言葉にころころ表情を変えるなんて。少し、可愛らしい。いや――、男性相手にそのように云ってしまうのは失礼か。
 男はすっと一歩引いて、姿勢を正した。
「あなたは、此処の女官殿か何かか?」
「え、ええ、まぁそんなところだわ」
 実に唐突な、どきりとするような質問に思わず声が上擦ってしまった。ナマエは高まる気持を落ち着かせるように、胸に手を当てた。危ない危ない。先程我を忘れて、この見ず知らずの男に危うく己の身分まで明かすところだったのだ。この城で、あのような振る舞いをする身分の女性は限られている。
「そうか……。それは、申し訳ない。勘違いをしてしまった」
 男が、不意に微笑した。その笑みが余りに魅力的で、ナマエは大いに動揺してしまった。ぶんぶんと、大袈裟に頭を振って男の謝罪を否定する。
「い、いいの! いいのよそれは。……それで、貴方は、――見たことない顔だけど……」
 ナマエの問いかけに、男が心持ち姿勢を伸ばした。
「――趙子龍。我が殿、劉備様の主騎を務めている」
 劉備――、という単語に反応し、ナマエは、あっと声を挙げた。
「劉備様の! 道理で、見ない顔だと思ったわ……」
「じゃあ私の事を知らないのも無理はないわよね」と、ナマエはぶつぶつと小声で続ける。その様子を、趙子龍――趙雲は暫らく黙して眺めていたのだか、ややあって遠慮げに問うた。
「……それで、あなたの名前を伺ってもいいだろうか?」
 名を訊ねられ、途端ナマエは「えっ?」と声を挙げて慌てふためいた。この人に、己の正体がばれるわけにはいかない、と咄嗟に思い浮かんだのはそれだけだった。仮にも華とも謳われた劉表の娘が、実はこのように部屋を抜け出し庭園に忍び込むほどのお転婆だなど。そんなことはナマエの自尊心が許さなかったし、何故だか目の前の彼にも知られたくなかった。
「わ、私の、……名前――、が知りたいの?」
「ああ。名前を知らなかったら、呼ぶ時に困るだろう?」
 おずおずと言えば、趙雲は至って真面目な表情で見詰めてくる。なのでナマエはとことん困った。この人は、はぐらかそうにも上手くははぐらかされてくれそうにはないだろう。だからといって名を偽るのは、少々気が引ける――。故にナマエは、稚拙な方法で彼を誤魔化すことにした。
「あの、わ……わたくし、私は……。――あ、ごめんなさいっ、私大事な用事があったんだわ! 失礼しますっ!」
 そう云うなり、ナマエは趙雲が口を開く隙も与えず逃げ出した。
「あ、ちょ、待っ……」
 趙雲は声をあげたが時遅し、ナマエの姿は既に見えなくなっていた。ぽかんとした表情で去っていった方を眺める。
「賑やかな娘だ……」
 ぽつりとそんな事を漏らしつつ、それでも暫しその場で名残惜しそうに立ち尽くし――。
「趙雲? そこにいるのか?」
 その時突如かかった声にはっとし、趙雲は表情を引き締めた。
「あ、はい。今参ります、――殿」
 ふっと溜め息をついて顔を挙げれば、次の瞬間には武人としての趙雲が其処にあった。きりりとした涼やかな瞳をめぐらせ、声の主の元に小走りで駆けていった。
 後に残るのは、さわさわと梢が立てるささやかな音ばかり。光溢れる緑は、全てを優しげに包み隠していた。



 それが二人の最初の出会い――。
 出会い方は決してロマンチックとは云い難い。だが、趙雲の存在はナマエにとって今までにない感情をもたらした。それは熱く、時として苦しささえ感じるというのに、それでも不思議と嫌な感じはなかった。
 趙雲、――趙子龍。劉備殿の若き主騎。
 切れ長の瞳、端整な横顔、艶やかな黒髪。脳裏に浮かんでは消えゆく映像。泡沫のように淡い記憶だったが、ナマエの胸を締め付けるには十分だった。
(素敵な人だった――兄様みたいに。……いいえ、それ以上かしら?)
「……ナマエ様? どうなさったのです? さっきからずっとぼんやりしていらっしゃって」
 部屋に帰ってきた時から心ここにあらずといった様子のナマエを心配したのか、侍女がそっと声をかけた。
「何でもないわ……」
 どこかまどろんだ様な表情でそう返答し、ナマエは夜空を見上げた。今宵は満天の星空だ。この空を、あの人もこの荊州城のどこかから眺めているだろうか。
(また、逢えるかしら……)
「……今夜は月が綺麗ね」
 空をぽっかりと切り取ったような美しい月の隣に、ぽつりと一つ、一層強く輝く星が浮かんでる。
 ――明星。
 その月にも負けぬ輝きは、まさにナマエに突如訪れた感情の眩しさに似ていて。その不思議な感情こそが”恋”なのだと分るまでには、――もう間もなく。