張将軍のとある午後の優雅な一時




 切っ掛けはごくごく些細な出来事だった。
 魏国、光禄勲直属羽林軍中郎将というご立派な肩書きを持つナマエは、実力主義の曹操の元で遺憾なく才を発揮し、ただ今出世街道驀進中の一人であった。
 そして、ナマエとかけて皆一様に『氷の中郎将』と説く程、その性格は極めて冷淡冷静である。公の場では、誰もナマエが声を荒げて言い合う場面など見たこともない。
 そんな、容姿端麗、才気溢れるナマエの、意外なところで露呈された弱点。
 それは――。



「ああぁ、今日もいい天気ですねぇ…」
 どこか気の抜けた、暢気な声が閑散な風景に突如ぽやりと浮かんだ。
 此処に、頭に花が咲いた男が一人いた。名を張コウ。
 成りは目をひん剥くほど煌びやかで派手の一言だが、罷り間違っても芸伎の一種ではない。(その前に女性でもないのだが)ここ魏国の将軍であって、この大陸でも指折り数えるほど有名な将である。(と、自分では思っている)
 そのど偉い将軍様が、何ゆえこんな真昼間っから人気の無い回廊をウロウロしているのかというと――。

「ああっ、ナマエどの~」
 回廊の向こうから姿を現した人物に、張コウはぱっと表情を明らめ、歌うように名を呼ぶ。
 対する人物は、こちらに向ってくる縦に余計にでかい巨体にびくっと一瞬怯んだものの、それが張コウであると分ると立ち止まる。彼女は賢明なので、決して逃げ出しはしなかった。(逃げれば執拗に追って来るので)
「張コウ殿」
「お久しぶりですね、ナマエ殿」
「…先程会ったばかりかと思いましたけど」
「ええ、ええ、私もナマエ殿に会いたくてたまりませんでしたよ」
「も、って何ですか。も、って」
 微妙にかみ合わない会話を交わしながら、張コウがナマエににじり寄る。ナマエも絶妙な間隔を維持しつつ、後ろに後退していった。
 何を隠そう、張コウがこんな人気の少ない回廊に居たのも、此処を通るであろうナマエの捕獲作戦を展開していたからだ。これまでに何度も何度も挑んで、しかし未だ捕まえた事の無い、彼にとってナマエは珍蝶中の珍蝶だ。
 ただ今32戦中0勝32敗。最初はちょっとした好奇心から始まったこの仁義なき戦いは、むしろ此処までくれば、彼も意地でやっているようなものだ。張コウは、いまやナマエゲットのために熱く燃え上がっていた。

 腕に竹簡を抱えているところを見ると、ナマエはただ今仕事中なのだろう。
 ナマエは立ちふさがる男に聞こえないよう舌打ちをした。毎度の事ながら仕事に邪魔な男だ。ナマエはこれでも仕事一筋人間なのだ。邪魔してくる人間に、容赦は無い。
 ナマエがそろりと張コウの横を通ろうとすれば、すすすっと、さりげなく身体を動かして邪魔をしてくる。ナマエは目を鋭く光らせた。
「…張コウ殿、特に用事がないのなら、私は仕事中ですので失礼します」
ナマエ殿、仕事よりもこの張儁艾とお茶など如何?」
「いいえ結構です」
「まぁそんな、遠慮しないで下さいな」
 にこにこにこにこ…。
 一方は満面の笑み、そしてもう一方は引き攣った笑み。言外の戦いが繰り広げられる。心なしか火花が散っているように見える。

 忙しいナマエとしてはこんな派手派手な万年常春男に付き合っている暇など無い。どうやってこの男を出し抜こうかと辺りを見渡す。
「あ、…」
「え?」
「司馬懿殿、如何なされましたかそんな所で」
 稚拙な手段だったが、張コウの好物そのニ・司馬懿の名前を出しにしてナマエは何とか切り抜けようとした。
「司馬懿どの?」
 張コウは見事に引っ掛かった。これが天下に知られる張コウ将軍で良いのかと思うほど、それはもうあっさりと。
 その一瞬を逃すはずが無い。ナマエは早足で張コウの横をすり抜けようとした。

 ――が。
「あ、ナマエ殿お待ちなさい」
「…っ!」
 目を瞠るほど素早く衣裳を摘まれ、既に駆け出していたナマエは、その遠心力に任せて身体がぐるんと転げそうになった。
 思いがけない出来事に張コウは目を真ん丸くさせたが、落ち着いたままナマエの身体の下に腕を差し出した。その隙の無い動きは、全くもって武官の動きそのもの。
 やはり腐っても武人だ。とん、と難なくナマエの身体を腕一本で受け止める。
 支えようと差し出した手が触れた先には、衣裳の構造上で剥き出しになったナマエの背中があった。ちなみに衣裳というのはあれである、エディット武将のあの一番露出度の高い衣裳。
 バランスを失ったナマエの身体は、張コウに支えられた事によって事なきを得る。しかし腕に抱えた大量の竹簡までは、完璧に無事という訳にはいかなかったようだ。数本、硬質な音を立ててバラバラと床に零れ落ちた。
「すみません」と反射的に謝ったナマエに、張コウは「いいえ」と微笑んだ。

 ほぼ反射的に差し伸べた手には下心もなにもある訳はないが、しかし絹のような肌の感触は正しく極上で、張コウは少しだけ名残惜しそうにゆっくりと手を離した。本音はもっと触っていたい、だったが、言ったら言ったで恐らく冷たい眼差しを向けられるであろうから、張コウは賢明にも無言を通した。
 手を除ける拍子に、すっと張コウの指先がナマエの肌を掠る。これは全くの偶然であった。
 途端、「っ!」と息を呑んで、ナマエは派手に硬直した。
 まるで雷にでも打たれたかのよう。その反応に、ビックリしたのは張コウだった。
ナマエ殿?」
 どこか具合が悪いのかと、張コウが派手に固まるナマエにいぶかしんでそっと腕に触れる。

 ――と、張コウに触れられたことを切っ掛けに、ナマエの硬直が溶けた。
「っっ、な、何でもありません、わっ」
 ナマエは熱い物に触れたかのように、慌ててバシバシと張コウの手を振りはらった。
 その仕草に、少しだけ傷ついたような顔をする張コウ。だがこのナマエのつれない態度はいつものこと、張コウの気分は少し下降したが地にめり込む事は無かった。
「相変わらずつれないお人…」
 だけどそこが良いのだ、と少々危ない考えに耽ながら、ほぅっとため息。首を微かに傾げ、どこか挑戦的に目をちらりと流してやるのも忘れない。
 だが相手が相手だ。張コウの流し目になど全く動じることもない。いやむしろサッパリ無視を決め込んで、其処らに落ちた竹簡を黙々と拾っている。
 ため息を付き、張コウは自らも落ちた竹簡を拾い始めた。

「…ありがとうございます、張コウ殿」
 拾った竹簡をナマエに手渡した張コウは、そこで、おや?と眉を微かに上げた。ナマエの顔がどことなく赤い。
 よもや先程の自分の流し目が効いたのか、と一瞬思うも、直ぐにその考えを否定する。
 とりあえず熱でもあるのかと思い、懲りずに額に伸ばしかけた手が、再度ぴしゃりと叩き落される。ナマエは他人に触れられるのを、何故か極端に嫌がるのだ。(ちなみに自分から触れるのは良いらしい)
「…触らないで下さい」
「酷いですね、私は熱でもあるのかと心配して…」
「触り方がいやらしいのです、張コウ殿は」
「いやらしい?」
 聞き捨てならない言葉だ、とばかりに、張コウはそそくさと立ち去ろうとするナマエの腰を捕まえた。
「お待ちなさいナマエ殿、誰がいやらしいですって?」
 拍子に、さっ、と衣裳の袖がナマエの背中を撫でる。
「ぅんっ」
(えっ?)
 突如ナマエの口から漏れた、聞き慣れない甘い声。張コウは途惑って、そっとあやすように背中に手を回した。
「ど、どうなさいました?」
「っ、な…何でも」
 見る見るうちにナマエの表情が艶を帯びる。見るとなにやら涙目になって、酷く険しく眉根を寄せている。
 その変化に途惑う張コウが、おろおろとしながらその様子を見詰めていた。

「な、何でもないのです。だから放っておいてくださいっ」
「しかし、具合が悪いんじゃないのですか?」
 と、背中にまわしていた手を肩へと移動させると、びくっとナマエの身体が跳ねた。
「ふぁっ…!」
 びくびく、と身体が震え、拍子に抱えていた竹簡が腕からバラバラと落ちる。きちんとナマエの足を避けて落ちたその竹簡の動きは、果たして偶然か否か。(ちなみに張コウは華麗なステップで避けた)
(これはもしや…)
 その明らかにおかしなナマエの反応と甘い声に、頭に浮かんだ考えに張コウは知らずぐっと汗ばんだ。
 この甘い声は、閨で女性が発するものと一緒だ。(と、彼としては思いたい所なのだ)
 とすればこの状況は、とてつもなくおいしいのではないか。
 いやいやおいしいのだ。おいしすぎる。これを逃しては(一応腐っても)男が廃る。
 据え膳食わぬは、ではないが、思いがけず飛び込んできた獲物は久々の大物。ここは一つおいしく頂いてしまうのが、道理ではないか。

ナマエどの、…もしかして…もの凄く感じやすい…とか?」
「んっ」
 耳元で囁くように問えば、ナマエはその吐息すらもくすぐったがる様に身を捩る。
 ナマエの口から答えは得られなかったが、何よりもその反応が”是”であるいうことを雄弁に語っていた。
(成る程…確かにこれだけ弱ければ、触れられるのを嫌がるのも無理は無いですね)
 妙に得心する張コウ。
 同時に、意外なところでナマエの弱点を発見し、相手の優位に立っていることに気が大きくなって、むくむくと悪戯心が湧いてくるのを感じた。
 それまでのおろおろとした表情はどこへやら、張コウはニヤリと意地悪げに口元をゆがめた。

「そう、知らなかったですね…。あのナマエ殿が、こんな所に弱点を隠し持っていたなんて」
 内心鼻の下を伸ばしながらのその台詞は、まるで悪名高い”御代官様”そのものである。良いではないか良いではないか、と御決まりの台詞を心の中で云いながら、表面ではあくまでも美貌の将軍の面を被る。
「張コウ殿、離して…」
 ナマエが、息を微かに乱しながら告げる。その妙に艶かしい表情に、張コウは思わず背筋がゾクゾクしてくるのを感じた。
 あの『氷の中郎将』が、潤んだ瞳で自分を見上げてくる日が来るとは。
 毎日毎日声を掛け、喩えつれない態度でも諦めることなく、ストーカーのようにこっそりと彼女の後を付いて行く先々に姿を現し(仕事は当然二の次)、美しい花が手に入れば彼女の室にそっと届け、挙句その送り主不明の花が不審がられて次の日には捨てられてもめげずに届け続けるという、その並々ならぬ苦労が報われた瞬間だった。
(ああっ、懲りずにストーキングを続けた甲斐がありましたね…!)
 三十路まであと一歩手前男張儁艾、ただ今思いがけず訪れた幸せを噛み締めている。

「は、離してくださいっ…!」
「やです」
 にっこり、と効果音がしそうな程満面の笑みを浮かべて、張コウが拒絶する。ナマエは、恨めしそうに男を見上げた。
「張コウ殿っ!…あっ、はぁっ…んんっ!」
 つつっと伝うように背中に指を這わせれば、いつもの冷静さはどこへやら、腰を抜かす勢いでナマエは張コウの腕にしがみ付いてきた。
「~~っ!」
 ナマエが頬を真っ赤に染めて、息を詰める。
 その様子に張コウはますます興奮し、冷静な仮面は脆くも崩れ去った。
(これは本当にすごい…)
 たかが指一本でここまで乱れてしまうのも、珍しい。
 ナマエが敏感すぎるのか、それとも張コウの指の動きが繊細すぎるのか。張コウとしては後者であって欲しい所であったが、恐らく前者なのであろう。
ナマエ殿、いい機会です。このまま私のものになってしまいなさい」
「…えっ!?」
 微妙に鼻息荒くそう言いきり、張コウは途端大胆にもナマエの肢体を探りに掛った。これほどであれば、もしや他も弱いところがあるかもしれない。
「あ、っちょ…まっ、張コウ殿!」
 鋭く刺す様な咎め声も、哀しいかな、鼻の下を伸ばし切った張コウにはまるで効果がなかった。

「ああ、美しいですよ…ナマエ殿…」
 張コウの一挙一動に身を捩って声をあげるナマエは、四半刻後にはぐったりとした様子で張コウの腕に身を預けていた。
 予想通り、弱いのは背中だけではなかった。耳、首から脇腹、太股に至るまで、全てが弱いのだ。
 張コウは微妙に腰が引けている少々間抜けな状態のまま、衣裳の隙間から手を侵入させたりなどして、ナマエの肌をさぐり続けた。ちなみにすっかり忘れ去られているが、人通りは少ないが此処は一応回廊。いつ誰に目撃されるか分らない、興奮度はバッチリだ。張コウご自慢の端整なお顔もにやけきって、今やすっかり見る影も無い。
(『氷の中郎将』も形無しですね…)
 くくくく、とどこか腹黒い笑みを浮かべる張コウ。一体どちらが形無しか。
「…っ、…っ!」
 ナマエは声を殺して、眉根を切なそうに寄せている。その様子は、普段のナマエからは全く想像できぬほど色めかしい。『氷の中郎将』などたいしたことは無い。所詮は女だ。
 張コウは自らも息をあげながら、うっとりとした表情でこう漏らした。

「可愛いお人…」

 この時点で、張コウは全く迂闊だった。
 このナマエが見た目の冷静さに反して、その実短気でおっそろしくプライドが高くて且つ男に何ぞ負けてたまるかという至極負けず嫌いな思考の持ち主で、その上こんな万年常春な男に「可愛い」などと言われようものなら即座に噛み付く性格である事を全くもって失念していたのだ。
「…何ですって?…」
 俄かに表情を硬くし、ぐっと牙を向いたナマエは、なけなしのプライドを総動員させた。
 がくがくになっていた膝に力を総結集させ、そして――。

 ごすっ。

「ぐはっ…!」
 ナマエの一撃が、モロに張コウの股間に入った。
 張コウは大事なところを抑えながら、その場に蹲った。哀れ張コウ、床に座り込み、脂汗をたっぷりとかきながらうんうん唸っている。
「…今度の戦は最前線に立たせてあげますので、覚悟しておきなさい」
 ナマエの殺気に溢れ切った声が、上から掛る。
 ちなみに言い忘れていたが、ナマエは一応軍師も兼任している。
 張コウは顔を上げ、こめかみに青筋の浮いたナマエのド迫力の笑みに内心悲鳴を上げた。
「ちょ、ちょっと待…ナマエ殿!これでは美しくありませんよ…!」
 焦らして焦らして、十分すぎるほど焦らして、最後にお預けを喰らった男の心境は計り知れない。
 張コウの嘆願を、ナマエがふんと小ばかにしたように鼻で笑う。やはり、『氷の中郎将』は健在だった。
 ナマエの逆襲は恐ろしい破壊力でもって、男の欲まみれの煩悩を粉々にしたのだ。
「では失礼しますわ」
 いつの間にやら、あれほど乱れていた表情はいつもの冷静なそれへと戻り、ナマエは氷点下の冷たい笑みを残して踵を返した。
ナマエどの~~っ」
 ああ哀れ、もしあそこで「可愛い」等といわなければ、今頃ナマエとしっぽり抱き合ってたに違いない。
 張コウは情けない声を振り絞り、遠ざかるナマエの名を呼んだ。

(…くっ、諦めませんよ!弱点が知れた今、優位なのは私!今度こそ落としてみせますよナマエ殿…!)

 く、くはははは、と妙な高笑いが回廊に虚しく木霊する。
 全くもって、懲りない男であった。


 ――こうして今日も、張儁艾の貴重な午後の時間は無駄に費やされていったのであった。