砂の城・後篇
6.裏切りと策略と
ある日、自室に戻った私の目に、何気なく卓に置かれている一通の書簡が飛び込んできた。一体誰からだろう、私は何気なくそれを広げて、硬直した。
『準備は委細抜かりなく整った。其が反覆の日は、まもなく』
養父からの、密書だった。
それからまもなく、また戦が始まった。今度の相手は、長きに渡って敵対してきた、私の養父が忠誠を誓っている国だった。蜀にとっては、この戦に勝てれば、念願の天下へと近付く大切な戦だった。
「今度の戦は、恐らく今まで以上に難しいものとなるだろう。皆、心してかかれ」
出立の折、馬超様がそう兵を鼓舞する。私は神妙に、その馬超様の後ろに控えていた。
「ナマエ」
呼ばう声に顔をつとあげると。
「頼みがある」
「……なんでございましょう」
「この戦が終わり、我が国が天下を取った後も、これからも共に歩んでくれるか」
馬超様は、その精悍な顔をくしゃりとさせながら言った。私は、それに言葉を失う。
愕然となりながら思った事は、私は、確かにこの方を欺く事に成功したのだということだった。そして同時に、思う。私は、既に戻れないところまでこの方に深く捕らわれているのだと――。
馬超様を裏切る日は、刻々と、近付いてきている。
また、夢を見た。
今度は、業火に焼かれて苦しむ夢だった。
火は、私を責めるように、じりじりと身を焦がしていく。怖くて怖くて、悲鳴をあげた。助けて、と。
怖い、助けて、――馬超様。
「ナマエ!」
ぐい、と誰かの手が私を引っ張り上げた。沼地から救い上げられるような感覚に、私ははっと大きく息を吸った。唐突に、悪夢から目を覚ます。
「将軍……?」
私は束の間茫然とし、覗き込んでくる人の名を茫然と口にした。喉がからからに渇いているせいか、声が掠れている。
その人は、うなずいたようだった。
「大丈夫か?」
その問いかけに、私は茫洋となりながらも頷いた。だが、微かに震える体を抑える事が出来ない。
何故、馬超様が私の天幕にいるのだろう。そう考えて、私は凝然となった。まさか、私が裏切り者だと発覚したためだろうか。しかし、その心配は皆無だった。馬超様は、私に心配げな瞳を寄越している。
馬超様率いる一軍は、丁度敵の一軍を破ってさらに進軍し、そこで陣を整えているところだった。今は宵で、殆んどの兵が休息を得ている時刻だ。そんな時刻に、この方が直々に訪れるなど。何かあったのだろうか。
「……どう、されましたか? 何か急用でも?」
そうではないが、と馬超様はゆるく首を振った。
と、ふいに馬超様が手を伸ばし、髪に触れる仕草に私は反射的にびくりとした。
「また、うなされていたようだが」
けれど、その後にもたらされたぬくもりは、悪夢の苦しみに凝り固まった私の心をするりと溶かしてくれるようだった。温かな人の手が、どこまでも心地よい。
「落ち着いたか?」
はい、と夢見心地で頷き、思わずうっとりとその手に身を委ねかけた時。
「うわ言で、俺の名を呼んでいたな」
「……え?」
ふいに告げられた言葉に、私は急速に何かが冷えていくような感覚に陥った。
「夢に俺でも出てきたのか?」
嬉しげに綻んだ馬超様の無邪気な表情が、ゆらりと歪んだ。
私は。
私の心は、哀しいほどにこの方を慕っていて。
私の体は、はるか遠くにある養父への忠誠により、この方を裏切らねばならなくて。
――もしかしたら、私は、この方をこの手で殺めねばならない日が来るのだろうか。
この人を、私が。考えて、ぞっとする。
逆に、この方が裏切り者を斬るかもしれないという考えは、この際一切思いつかなかった。ただ、浮かぶのは、馬超様の青白い死顔だけだった。逆にいえば、馬超様の死という可能性だけが、私に衝撃をもたらしたのだ。
そんな、嫌だ。耐えられない――。
「ナマエ?」
呼ばれ、私ははっと我を取り戻す。
馬超様の美しい瞳が、驚くほど近くにあって、私はわなないた。頬に手を添えられ、馬超様の瞳がさらに近付く。この方は何をするつもりなのだろうか。
「ナマエ」
口付けされる、と気付いた瞬間、私は反射的に馬超様の手を払った。何を、と愕然とすると、馬超様の少し傷ついたような顔がそこにあった。
「なぜ」
「嫌か」
「なぜ――」
「ナマエ?」
私は言葉を失って、怯えたように馬超様を凝視した。馬超様は、その私の様子がおかしいと感じたのか、少し焦ったように手を伸ばしてきた。
伸びてくる手を、私は振り払った。振り払わねばならなかった。
「触れないで、ください」
本当は、怖くて怖くて仕方が無いのに。その温もりが欲しくてしかたがないのに。
私は、ただひたすら目を瞑って、身を硬く閉じる。
「すまなかったな、それほどに嫌われていたとは夢にも思わなかった」
馬超様はそれ以上触れてくることはなく、静かに遠のいていった。けれど、熱い視線を丁度右頬あたりに感じ、私は思わず身を竦ませる。
「ナマエ」
天幕を出際、馬超様が背を向けながら、私の名を呼ばう。反射的に顔を上げ、私はその広い背を不安げに見る。
「――自分だけが独りであると思うな」
静かな、けれど力強い声が、私の胸を抉る。
私は、いつまでも茫然と去っていった背を見つめていた。
あの夜以来、馬超様は私を見かけても、以前のように親しげに声をかけてこようとはなさらなかった。戦の最中で、二人きりになるということはなかったのが幸いだった。遠慮されているのか、忌避されているのか分らないが、少なくとも私は己にこれでいいと言い聞かせていた。あと数日で、馬超様とは別れるのだから。このままの方が良いのだ。
再び養父からの密書がきた。書には、次の戦場で反覆するようにとの旨と、それについての詳細が事細かに書かれている。戦場で私が馬超様をおびき出し、そこを潜ませていた兵で一気に叩く。上官から部下としての信頼を大いに買っている私にとっては、造作も無いことだった。
けれど――。
気がつけば発作的に、私はあの宝剣を持って馬超様のもとへと駆けていた。
馬超様に目通りを、と申し入れて直ぐに、私は彼の天幕に招き入れられた。迎え入れた馬超様が、私の余りの取り乱しように、驚いていたようだった。
「どうした? 怖い顔をして」
「将軍」
私は何か言おうとして、絶句した。剣など持って、私は一体なにをしにここへ来たのか。
足元から崩れ落ちるような感覚が私を襲った。思わずふらりとよろけると、馬超様が焦ったように支えてくれる。実に数日振りの馬超様の温もりに、私の全身はかっとした。
「抱いて、ください」
「ナマエ」
馬超様の瞳が見開かれる。私は、馬超様に縋った。
「抱いて下さい。私を、馬超様の物にしてください!」
半ば、絶叫のように叫んだ。苦しくて苦しくて、早く救って欲しい、そんな一心で。
馬超様は束の間強張った表情で凝然と見下ろしていたが、ややあって無言で私の腕を掴んで引っ張っていった。直ぐに私の視界に簡素な寝台が映ると、俄かに恐ろしくなって足の動きが鈍る。立ち止まろうとしたけれど、馬超様の熱い手が思った以上に強く私の腕を掴んでいて、それは侭ならなかった。
少し乱暴に寝台に押し倒された、と思ったら、すぐに上から馬超様が覆い被さってきて唇を塞がれた。しばし、探るように口づけが施され、馬超様の手が私の体を弄るように動いていた。私は、ひたすら寝台の上で身を硬くして、怯えるようにぎゅっと目を瞑っていた。
このまま、馬超様の激情が私の心を貫けばいい。いっそ、壊されてしまってもいい。だから早く、全てを終らせて――。ぎゅっと、無意識に手の先にあたったあの宝剣の鞘を握り締めた時。
不意に温もりが遠のいて、不思議に思って目を開けると、馬超様は何かに酷く苛立っているようだった。
「抱けぬ」
「馬超様?」
離れていく馬超様に慌てて身を起こす。
「そのような悲愴な顔をした女を、抱けるものか」
馬超様は、厳しい表情で私を見下ろしていた。私は、その言葉にはっとする。
「俺に抱かれたいのなら、もっと幸せそうな顔をしてこい」
そう、いっそ馬超様のほうが苦しいのではと思えてしまうほど、苦悶の表情で言われた科白に、私は頭が真っ白になった。
そんなこと言わないでよ、幸せなんて。
だって。
だって、そんなもの。
そんなもの、知らない。
「も、申し訳、ありませんでした……っ」
私は咄嗟に溢れてくる涙を抑えながら、震える声で反射的に謝った。そして寝台の上から跳ね起き、一刻も早く天幕から飛び出した。
ナマエ、待て、と背後から馬超様の大声がぶつかったが、私はひたすら走った。闇雲に走って、陣の外まで飛び出したところで、私はとうとうくず折れた。大声で泣き喚きたい気分だった。けれどそれすらも押し殺し、私は密やかに嗚咽を零す。
私は一体、どうしたかったのだろうか。分らない、分らなかった。
ただ、怖かった、助けて欲しいと思った。唯一、私を救ってくれるのは紛れもなく馬超様で、そのことは私も良く分っていたようだった。けれど、それがどういう救いの方法であるのかまでは、私にも分らなかった。
私を抱いて油断した瞬間に、全ての苦悩の原因である馬超様を殺してしまうつもりだったのだろうか。それとも、抱かれて彼の物になって、ふらふらと揺れる私の心をしっかりと掴んで欲しかったのか。
分らない。
あるいは、と私は思う。このまま、激情のままになにもかもすべて馬超様に話してしまえれば。私は埋伏者で、貴方を裏切るために此処にあるのだと。そうして、全てを馬超様に委ねてしまいたかった。私を裏切り者と知って、馬超様がどうするか――。
私の命の行く先を、すべて彼に委ねてしまいたかった。
7.仇なす者
そうして、宵が明ける。
蜀軍は予期せぬ早朝からの襲撃を受け、混乱に陥っていた。それは馬超様率いる軍も然り、指揮系統が混乱をきたす中、馬超様は朝日に燦然と輝く金色の鎧を纏って、威風堂々とした様で兵を鼓舞した。
「急ぎ陣を整えろっ! 奴等に、脇腹を突かれるな!」
そう叫んで、馬超様は槍を片手に自ら馬で駆け、敵陣を切り裂いていく。私は、その後を必死について行った。
道すがら、狡猾な罠のようにそこかしこに伏兵が潜んでおり、私の行く手を阻んだ。弓兵の容赦のない攻撃は、一応内通者である私ですらも射殺さんとするような殺気に溢れて、私は内心怯んだ。そして、その隙のない伏兵の置き方はまさしく養父によるものだと次第に確信し、けれど内応者である私ですらも嬲り殺さんとするような罠の存在は養父から全く聞き及んでおらず、そのことが私の心に陰りを落とした。
私が反覆の計を実行するには、この何百の伏兵の攻撃を掻い潜らなければいけない。つまり、私がここで命を落とせば反覆の計は失敗に終わるのだ。けれど養父は狡猾な方だから、たとい私が此処で失敗したとしても、必ず次の手を考えているだろう。
そう、つまり、養父にとっては、私がこの弓兵らに射られて命を落としたとて、一向に構わないのだ。
養父にとって、私は。
――捨て駒――。
愕然とした私は、一瞬で目が醒める思いだった。
ああ、私は――。
幼い私が、決して得られない愛を求めてあの方を盲目的にお慕いした日々が走馬灯のように脳裏に駆け巡り、去っていく。大切に大切に掻き抱いていたものが、砂のようにさらさらと音を立てて流れ落ちた。
そうして手元に残ったものは――。
「行ってはいけない……」
私は茫然と、伏兵をなぎ倒し猛然と進んでいく馬超様の背を追い縋るように見つめた。馬超様が突き進むその先は、まさしく養父が最大の罠を張って彼を待ち受けている狭い谷間だった。その谷間は陣が伸びきるところを突く為、伏兵にはうってつけの場所であった。
いま、その場所に、馬超様は自らその場所に突き進もうとしている。
「その先に、行ってはいけない」
立ち尽くしていた私は、弾かれるように走り出した。ああ、なんて鈍い足なんだ、甲冑が重くて仕方が無い。私は無我夢中で、持っていた重い槍を躊躇いもなく捨ててひたすら走った。けれど、一向に馬超様との距離が縮まらない。もどかしい。
「お待ちください将軍! その先は行ってはいけない!!」
その、私の絶叫のような悲鳴が届いたのか、馬超様が驚いたように此方を振り返ったときだった。
――ざざ、と森が不気味に蠢き、ひゅん、と幾つもの弦音がいっせいに鳴った。
途端、篠つく幾つもの矢が両脇の森から飛来し、馬超様を襲った。
「なにッ!?」
はっとした馬超様は、次の瞬間馬から放り出されて地に叩き付けられた。既に彼の愛馬は何本もの矢に貫かれ、そして馬超様も幾つかの矢を受けたようだ。馬超様が地に伏して苦しそうに悶えているその光景に、私は蒼白となる。
「将軍!!」
慌てて駆け寄ろうとした時、私の目の前に一人の人物が立ちはだかった。
「あ……」
「ナマエ」
その人は、私を見てにやりと笑った。その冷たい笑みに、私の足は恐怖に動かなくなった。
「養父上……」
私にとって唯一絶対である人の呼び名を、震える声で口にする。と、その時。
「何をしているナマエ、武器を構えろ!」
罵声が聞こえてはっとすると、馬超様が何とか立ち上がってこちらを睨みつけるようにしている。私は、けれど凍りついたように動けなかった。養父は、馬超様を嘲るようにせせら笑った。
「愚かな。ナマエが私に武器を向けられるものか」
そうして、殊更馬超様に見せ付けるように、養父は震える私の肩を優しげに抱いた。反抗もせずにされるがままになっている私の様子に、馬超様は愕然としているようだった。
「ナマエ……!?」
くつくつ、と養父が笑う。
「其が忠誠は我とともに――、良くやった、ナマエ。褒めてやろう」
そうして養父は、いとも優しげに私に囁く。私はその囁きに、――背筋がぞっとした。
それは、私が待ち望んだ養父の褒め言葉であったはずだった。だが、ちっとも嬉しくない。逆に、嫌悪さえ感じるほどであった。今まで、こんな一言が欲しいために私はあんなにも苦心してきたのか。
こんな男のために、私はむざむざ大切な人を命の危険に晒したのか――。
猛烈な怒りがふいに込み上げ、私はわななく唇を噛んだ。それは、自分自身がための怒りであった。
「ナマエ、お前は……」
驚愕に見開かれている馬超様の視線が痛い。馬超様の目には、いま私は紛れもなく裏切り者として映っているだろう。あの口が次に開く時には、私を裏切り者と罵るだろうか。けれどそれも、致し方のないことだ。
そう、思ったとき。
「そうか、そうだったのだな」
ふっと、馬超様の表情が崩れた。
そうして、次の馬超様の言葉を、私は信じられない思いで受け止める事になる。
「……お前は、ずっと、一人で苦しんでいたのだな」
その響きは、どこか懺悔のようにも聞こえた。
「気づいてやれなくて、すまなかったな」
馬超様は少し苦しげに微笑み、槍を支えに一歩引き摺るように歩き出した。馬超様の瞳は、射抜くように唯私だけを見つめている。泉のような美しい瞳は、私を求めているようだった。
かっと全身が熱くなった。馬超様が、私を求めている――!
私は思わず駆け寄ろうとして、養父に腕を取られてその場に膝をついた。
「ナマエ」
呼ばれ、私は顔をあげた。数歩先に、腕を差し伸べる馬超様が居て。
「戻って来い、ナマエ」
馬超様の声が、瞳が、全てが力強く私を引寄せる。
「将、軍」
「俺の元に、戻って来い、ナマエ……!」
ああ、馬超様、貴方は。
貴方は、こんな愚かな私を、許してくださるのか。必要としてくださるのか。
刹那、私を苛んできた孤独は一瞬にして満たされ、胸が熱い何かで溢れた。
「愚かな」
けれど、傍らで発せられたどこまでも冷やかな声が私をはっと我に帰らせる。養父は、必死に私を取り戻さんとする馬超様を嘲るように見下ろした。
そして、養父の冷たい視線は私にも向けられる。
「殺せ、ナマエ」
ビク、とその科白に私の全身が一瞬震えた。養父は私の腰にあったあの宝剣を抜いて、おもむろに私の手に押し付ける。
「さあ、その宝剣で、あの愚かな男に止めを」
そうして促がされて私は一度馬超様に振り向いた。向けられた剣先に、馬超様が息を呑むのが分った。
「さあ、殺せ、ナマエ――!」
と、養父が狂気じみた叫びをあげ、私が反射的に剣を振り被った時。
ざ、と。
一瞬、全ての時間が止まった様な気がした。
「この、裏切り者、が……っ」
その、断末魔のような声は、養父の口から発せられたものだった。
私の剣は深々と、――養父の肩口を裂いていた。
養父が私を凝視している。その口が何かを言おうとしたが、瞬間私がまた剣を翻したので、叶わなかった。
「申し訳、ありません。ですが、私は――」
養父の耳元で懺悔のように呟いて、ぱっと身を離す。養父は、支えを失ったように後ろにゆっくりと倒れた。
頭を失った敵兵は、まるで蜘蛛の子を散らすようだった。私は、血に濡れた宝剣を打ち捨てた。
8.砂の城
敵兵が去っていく姿を一瞥し、私は慌てたように馬超様の元へと駆け寄った。その手前で躊躇いが生まれ、私は彼の前で膝をついて頭を垂れた。忘れてはいけない、私は彼を裏切ったのだ。
けれどそれは杞憂であった。すぐに馬超様から「いいから、早く手を貸せ」と言われて、私は慌てて肩を貸した。馬超様は満身創痍で矢傷が痛々しかったが、何故だかこの上なく嬉しそうだった。
「一度陣まで戻りましょう。この程度の傷で、倒れる錦馬超殿ではありませんよね?」
「あたり前だ」
ふんと鼻を鳴らし不遜げに笑った馬超様は、ふいに真摯な表情になって前を見据えた。
「ナマエ、この戦が終ったら――」
私は、誘われるように馬超様を見上げる。
「二人で、祝言をあげよう」
馬超様の優しげな瞳が、私を映している。身のうちがかっと熱くなった。
「幸せになるんだ」
「馬超、様」
「俺と一緒に……、――なれるだろう?」
無論、嫌とは言わせぬぞ、と馬超様は輝くような笑顔で言った。
「そうしたら、今度こそお前の幸せな顔を見せてくれるか?」
「馬超様……っ」
私は感極まって、顔をくしゃりとさせた。そして、何度も頷く。馬超様は微笑んで、私の頭を撫でてくれる。
ああ、こんな幸せなことが、あっていいのだろうか。私はふいに小さな不安に襲われた。
「もう、独りじゃないんだ」
けれど、どこまでも優しげな馬超様の声が不安を掻き消してくれた。
大丈夫、この人が、私を救ってくれる――。
気持が落ち着いたところで涙を拭い、私は馬超様を一先ず部下に頼んだ。馬超様の怪我の具合から、馬で移動したほうがいいと思ったのだ。この辺りであれば、先ほど逃げた数騎の馬がそこら辺にうろついているだろう。
「馬を引いてきますので、暫しお待ちください」
私はそう頭を下げて、適当に辺りを探した。そして直ぐに、近くの茂みに草を食んでいた馬を捕まえ、私は馬超様の元へと急ぎ戻った。
廃屋の近くで、馬超様たちは休憩を取ってるようだった。その姿を見つけて、私は足を急がせる。馬超様の方も、私に気付いたようだった。
だが、その距離、後十数歩といったところで、唐突に私の前に立ち塞がった男が居た。
「――!!」
その人は、肩口からばっさりと斬られているにもかかわらず、血を流しながらもしっかりとした足取りで地の上に立ち、血走った目で私を見ていた。
目が合って、にたり、とその男の口が歪み、私は慄然とした。
「あ……」
「ナマエ」
この男から逃げなければ、本能が煩いくらいに警鐘を鳴らしていたが、しかし頑として体は言う事を聞いてくれなかった。
「何処へ行く? 可愛い娘、ナマエよ」
「養父、上」
そうして、彼が手に持つ血まみれの剣を差し向けられた途端、私は凍りついたようにその場から動けなくなった。男がぎっと狂気じみた目を見開き、剣を振り被る。迫り来る凶器、それは、あの時、養父から授けられた宝剣だった。
「裏切り者は、斬首に値すべし――!」
――わが国に仇なすものは、全てこの宝剣が裁いてくれよう――。
いつかの、養父の言葉が私を支配する。
動けない。
あの剣からは、逃れられない――。
「ナマエっ!? 逃げろ、ナマエ――!!」
馬超様の声が、どこか遠くから聞こえた瞬間。
衝撃が体を走った。私は一瞬、意識が遠のいた。
胸が、苦しい。
「……ナマエっ!」
私は、気がつけば倒れ伏していたらしい。誰かに抱きかかえられてふと目を開け、何が起こったのかと首をあげて、ようやっと全てを理解した。
傍らで養父が物言わぬ塊になって転がっていた。恐らく私を抱える人に槍で一突きにされて絶命したことだろう。そしてその人は、いま酷く蒼白な表情となって私を見下ろしている――。
丁度、私の心の臓のあたりに、深々と剣が突き刺さっていた。弱々しい呼吸に合わせて上下するそれは、あの宝剣だ。
ああ、やはり。
私は、最後まで養父から逃げ切る事は出来なかったのか。剣は急所を深々と刺していて、最早痛みすら感じない。これじゃあ、もう、無理だろうな。幾多もの死を見てきた私だからこそ、分るその傷の深さ。
「ナマエ」
呼ぶ声につと視線を動かすと、馬超様が今にも倒れそうなくらい真っ青な顔をして私を見下ろしている。どうしてこんなに近くに馬超様がいらっしゃるのか、私はふと首を傾げた。
ああ、そうか。私は今、馬超様の腕の中にいるのだ。あたたかな腕の中に。
なんていう、心地の良さだろう。私は、うっとりと目を細めた。
「……たすからない?」
「ナマエ」
「馬超さま」
ああ、なんて顔をするのですか。気にしないで下さい、そう言いたかったが、喉の奥から溢れ出してきた血のせいで叶わなかった。
せめて、微笑んでみる。馬超様が望んだ、幸せな顔を浮かべられたら、喜んでくれるだろうか。
必死の思いで口角を持ち上げると、馬超様の目が愕然と見開かれ、ついで全身が震え出したようだった。
ああ、私は、この人を、哀しませてしまっている。おねがい、そんな顔しないでください。
「ナマエ、今、助けてやるから。やるから、な?」
だから、待ってくれ、と言った馬超様の瞳から、とうとう涙が溢れ出してきた。それはまるで慈雨のように、ぽつぽつと私の顔に伝い落ちる。温かな、雨だった。乾いた私の心は、その雨に癒されいく。
「……ナマエっ!」
震える声が、どうにも愛しい。私は、まどろむように微笑んだ。
「あなたが、すき」
瞬間、馬超様の瞳に怯えが走ったが、私にはそれを見ることが出来なかった。ああもう、体が重くて、瞼の一つすら動かせない。ごめんなさい、と一言馬超様に謝りたかったのに。
愚かな私を、許してください。貴方にあれほど愛されておきながら、私は少しもそれに返すことが出来なかった。
「待て……、待てナマエッ!」
馬超様と、私は、声にならぬ声で呼びかけた。私の幸せを望んでくれた、愛しい方。
馬超様、いま、私――。
――私、とっても幸せです――。
「ナマエ――――!!」
さらさらと、寄せては返す波が、砂を浚っていく。
心地のよい波に抱かれて、ただ流されるままに漂いながら。
――私は、想う。
たゆたう波間で、ただ一人。
――私は、想う。
穏かに目を瞑って、嵐のように過ぎ去った生を。
この、短い生の中で、貴方と出会えたことだけが、たった一つの奇跡であったと。
貴方に出会えたことだけが、私の幸福であったと。
私は、夢を見る。
私は、儚い夢を見る。
波間に浚われ、脆くも崩れる、砂の城。
もし、次に貴方に出会える日が来るのだとしたら。
今度こそ、
あなたのとなりで、ほほえんでいたい――。