Chapter.26-28
気がつけば、随分と長く湯を浴びていた。
ようやく浴室を出て部屋へ戻ると、ベッドの上ではユーリスがうつ伏せになり、静かな寝息を立てていた。
「……ユーリス?」
小さく呼びかけてみるが、返事はない。
そっと近づくと、彼は枕を抱きしめたまま深く眠っていた。その寝顔はあまりにも無防備で、あどけない。先ほどまで見せていた獣のような目つきが、まるで幻だったかのように思える。
――あんなふうになるまで追い詰めてしまったのは、きっと自分のせいだ。
胸がジリ、と痛んだ。
無意識に彼の頬へと手を伸ばしかけて――その指先は、空中で止まった。
「……何してんだ、私」
自嘲気味に呟き、手を引っ込める。
視線を落とすと、ベッドの足元に衣服が丁寧に畳まれていた。きっとユーリスが床に散らばっていたものを拾ってまとめてくれたのだろう。
音を立てぬよう手早く着替え、そっと扉へ向かう。鍵を外し、取っ手に手をかけたところで、ふと背後を振り返った。
少年はまだ夢の中。
その寝息に背を向け、ナマエは静かに部屋を後にした。
アリエルの酒場に戻ると、ちょうど城から帰ってきた仲間たちが一階に集まっていた。ジャッカルがナマエに気づき、声をかけてくる。
「よう、どこ行ってたんだ?」
「ちょっとね」
何気ないふりで返すと、ジャッカルはふうんと鼻を鳴らしただけで、それ以上は追及してこなかった。訝しんでいる様子もない。
「そうだ、ジャッカル。ちょっとそっちの部屋、入ってもいいか?」
「構わねぇけど……どうした?」
興味を引かれたのか、ジャッカルの目が細まる。
「忘れ物」
気づかないふりをして、ナマエは足早に二階へと向かった。ベッドに置きっぱなしにしていた、あの本と手紙を回収するために。
部屋に入ると、本は手つかずのままベッドの上に置かれていた。中を見られた形跡はない。ほっと胸を撫で下ろしながらそれを手に取り、しばし逡巡する。このまま自室に戻るべきか――だが、部屋に籠もればかえって勘繰られる気がして、結局そのまま一階へと戻った。
仲間たちと共に酒場でくつろいでいると、夕刻の気配が差し始めた頃、不意に扉が乱暴に開かれた。
風を巻き込んで現れたのは、息を弾ませたユーリスだった。
「おっ、誰かと思えばユーリスじゃねぇか。どうしたんだ? 慌てて」
ジャッカルの声に顔を上げると、少年と目が合った。彼の瞳には形容しがたい焦りが浮かんでいて、ナマエを認めた途端にそれは怒りに取って代わった。
明らかに、置き去りにされたことへの苛立ちだった。
「ナマエ、あんた――」
少年の口から非難の言葉が飛び出すより早く、ナマエは鋭い視線でそれを制した。余計な事は口にするな、という無言の圧力。
それを察してか、少年は戸惑ったように口ごもる。
妙な間が生まれた。
しかし仲間にそれを悟られる前に、ナマエはすっと席を立ち、二階の自室へと向かった。
「ナマエ!」
呼び止める声にも、振り返らない。
「……なんだぁ? お前ら、まだ喧嘩中か?」
部屋の扉を閉める際、セイレンの呆れた声が響いて、すぐにパタンと途切れた。
翌日、再び城から召集がかかった。
仲間たちと共に向かう道すがら、ユーリスは何も言わなかった。
ただ、何度か物言いたげな視線を送ってきたが、ナマエはそれに気づかないふりをした。
召集の目的は、物資の支給だったらしい。訓練場に集められた傭兵たちに、揃いの装備と武器が配られる。伯爵もなかなか太っ腹だが、既に自前の装備を持つ者が多く、実際に使われるかは怪しい。
用事を終えて一人酒場へ戻ろうとしたとき、回廊の壁にもたれて腕を組むタシャの姿が目に入った。誰かを待っているようだ。
その姿に、思わず足が止まる。逡巡は一瞬だった。
彼が顔を上げてこちらに気づく前にと、踵を返そうとした、が。
「ナマエ、待ってくれ。少し話がしたい」
背後からの声に、逃げ道は断たれた。
観念して振り返ると、タシャがこちらへ歩み寄ってくる。目が合って、すぐに視線を逸らした。口の中が、ひどく乾いている。
「……何か、用?」
三歩の距離を保ったまま、彼女は問いかける。
タシャはしばし言葉を選ぶように口を開きかけては閉じ、やがて静かに言った。
「用というほどでもないのだが……その、この間はすまなかった」
何に対する謝罪かは、すぐに理解した。
目を伏せて告げるその姿に、ナマエは思わず目を見開いた。
「いや……」
それ以上の言葉は続かなかった。頭の中が混乱していた。何を言えばいいのか分からない。ただ、早くこの場を離れたくて仕方がなかった。
なのに、足が地面に縫い付けられたように動かない。
口ごもる彼女を見て、タシャは首を傾げた。
「どうした。顔色があまり良くないようだが、どこか具合でも悪いのか?」
「別に……なんでもない」
そっけなく返す。
しかし、そんな上っ面の言葉で納得するような相手ではない。
「だが――」
「……寄るな!」
一歩踏み出そうとしたタシャを、思わず鋭く牽制した。驚いたように目を見開く彼に、ナマエはハッとし、自分の反応の激しさにさらに動揺した。
タシャに触れてほしくなかった。
昨日までの自分とあまりに違う今の姿を、彼に悟られてしまうのが怖かった。
「……ごめん。戦が近いと思うと、気が立ってて」
苦し紛れに口にした言い訳は、自分でも白々しく感じた。
だがタシャは、あっさりと頷いた。
「そうか。あまり気負うなよ」
その優しさが、かえって胸に刺さる。
納得してくれたように見えて、彼の目はまだ何かを探っていた。
気まずい沈黙が、数拍のあいだ二人の間に横たわる。
やがて、タシャが重たげな声で名を呼んだ。
「……ナマエ」
その響きに、思わず顔を上げる。
真剣な眼差しが、まっすぐにこちらを見つめていた。
「――私の勘違いならすまないが、もしこの前のことを怒っているのならば……」
ひゅ、と喉が鳴った。
その続きを聞いてはいけない。
そう直感して、ナマエは慌てて言葉を被せた。
「もうそれはいい! ……別に、別になんでもないんだ」
声が思った以上に大きくなってしまい、言い終えた瞬間、後悔が押し寄せた。視線を落とし、唇を噛む。
「……すまない」
タシャの戸惑いが滲む低い声に、ナマエはゆるゆると首を横に振った。
「謝らないでよ。あんたは、何も悪くない」
悪いのは、きっと――自分のほうだ。
そう思った瞬間、胸の奥がじわりと痛んだ。
逃げるように城を後にし、アリエルの酒場へと駆け込んだ。
キッチンで夕方の仕込みをしていたアリエルたちに声もかけず、まっすぐ二階へ向かった。
この頃、色んなものから逃げてばかりだなと自嘲しながら自室へと向かう。
自室の扉が、わずかに開いていた。
だが、疲れ切った頭はその違和感を拾いきれず、ナマエはぐったりとした足取りで扉を押し開けた。
その瞬間。
「……っ!?」
薄暗い室内から伸びてきた手が、彼女の腕を掴んだ。咄嗟に腰の剣に手を伸ばしかけて――その顔を見て、動きが止まる。
「ユーリス……?」
思わず名を呼ぶと、蒼の瞳が細められた。
召集後、姿を見かけなかったので、てっきり城の書架にでも籠もっているのだと思っていた。
どうやら先に酒場へ戻り、この部屋でナマエを待ち構えていたらしい。
「遅かったね。君の方が先に帰ったと思ったけど……どこですれ違ったのかな? それとも、どこかで道草食ってた?」
至近距離から覗き込まれる。
含みのある問いに、剣の柄にかけたままの手がびくりと震えた。
「それは……」
言いよどむ。
タシャと会っていたなどと、正直に言えるはずがない。本能が、それは危険だと告げていた。
だがナマエのその煮え切らない態度こそが、何があったのかを察するには十分だったのだろう。
それでもユーリスはあえて問い詰めることはせず、何も知らないふりをしたまま、彼女の曖昧な態度を責めるように顔を寄せてくる。
「答えないの? それとも、答えられない?」
ぎくりと、ナマエの表情が強張った。
気づかれているのだろうか、とひやりと背筋が冷えた時、乾いた声が鼓膜を打った。
「……まあ、どっちでもいいや」
投げやりに告げて、至近距離にあったユーリスの顔が、更に近づく。息を呑む暇はなかった。
噛み付くように押し付けられた唇は乾いていた。すぐに熱い舌が入り込んできて、咥内で暴れる。
驚いて硬直していたナマエはすぐに我に返り、乱暴な口付けから逃れるように顔を背けようとした。しかしそれを咎めるようにおとがいを掴まれる。ぐっと更に体が密着して、少年の体温がじかに伝わってきた。
冗談ではない。いつ仲間が戻ってくるか分からないのに、こんなことをするなんて。
焦ったナマエはユーリスの肩を掴み、距離を取ろうとした。
だが逆に手首を取られ、壁に叩きつけられるように押し戻される。背中に伝わる衝撃が、骨に響いた。
「っ……!」
思わず呻く。
ユーリスの瞳には、苛立ちの色が浮かんでいた。
「大人しくしてよ。昨日、君に置いてかれたこと……僕、怒ってるんだからね」
やはり、昨日のことを根に持っていたのだ。
当然だ。
ナマエは言葉を詰まらせ、気まずそうに視線を逸らした。
「……悪い。あの宿、落ち着かなくて」
「だからって、置いていかなくてもいいだろ」
責めるような口調に何も言い返せず、ただ俯く。
その様子にユーリスもふと険しい表情を緩め、目を伏せた。
「……怖かったんだ」
ぽつりと落とされた言葉に、ナマエは顔を上げる。
「目が覚めたとき、君が隣にいなかったから……全部、夢だったんじゃないかって――」
その声は、どこまでも素直で、どこまでも脆かった。
そして自己嫌悪に襲われれる。
自分の軽率な行動が、こんなにも彼を不安にさせていたなんて。
「ユーリス……」
何か言葉をかけたかった。
けれど、何も出てこない。
自分に嫌気がさして、どうしようもなかった。
だが次に顔を上げたユーリスの瞳には、なぜか悪戯っぽい光が宿っていた。
「――だから今日は、泣いても喚いても許してあげないから。覚悟しておいてよね」
挑発めいた笑みとともに告げられた言葉に、ナマエは瞬きをする。
意味を理解するまで、数拍要した。
そして理解した瞬間、頬が一気に熱を帯びる。
「ちょ、ちょっと待て! ま、またするのか!? き、昨日の今日だぞ!」
ナマエの手首を掴んだまま部屋の外へと向かおうとしていたユーリスは、振り返りざま、余裕のある笑みを寄こした。
「だったら何? まさか、また怖気づいてるの? どうせ一度やったんだし、二度でも三度でも同じだろ?」
簡単に言ってくれる。ナマエは言葉を失った。ぱくぱくと口を開けるばかりで、声が出ない。
「お、同じじゃない!」
ようやく絞り出した抗議も、「一緒だよ」と軽く流される。ユーリスは、すっかり余裕を失ったナマエの様子にくすくすと笑いながら、彼女の腕を引いた。
「ほら、早く来なよ。……それとも、ここでこのままする? 僕は別に構わないけど。君が仲間に知られたくなさそうだったから、我慢してたんだよ? 余計なお世話だった?」
「――っ!」
艶を帯びた笑みと、悪戯っぽい声音。その一言で、ナマエは完全に言葉を失った。
結局、彼の思惑に抗う術を持たず、ただその手に引かれるまま、歩き出すしかなかった。
ふたたびサルマンドルへと連れられて、部屋に入った途端まろぶようにベッドに沈む。
少年のポーカーフェイスは途端に崩れた。
中途半端に服を剥がれ、性急な愛撫の後に焦ったように押し入ってくる。愛撫が十分ではないせいで、昨日ほどではないが、じくじくと中が引き攣れるような痛みに襲われた。
けれど体が昨日の快楽を覚えていたのか、あるいはユーリスが一度の経験でコツを掴んだのか、その後にナマエを襲ったのは気を失うほどの激しい官能だった。
喉が嗄れるほど叫んで、鳴いて、耐えて。何度も意識は飛んだ。
「もう……ダメ。ほんと、むり……。き、昨日の今日で、こんなの、むりだからぁ……っ」
「まだダメ。まだ僕は満足してない」
「かんべん、して、よ……」
宣言通り、ユーリスはナマエの降参を受け入れなかった。初めてだった昨日も想像以上に激しかったが、それよりも一層容赦がない。
ナマエは息も絶え絶えにユーリスを受け入れ、とうとう声は嗄れた。
抵抗する力も残らないほど食い尽くされ、気がついたら朝だった。
目を覚ますと、視界いっぱいにユーリスの顔が飛び込んできた。
「……目が覚めた? 大丈夫?」
どうやらベッドの上で、向かい合うようにして眠っていたらしい。とはいえ、どうやら彼は先に目を覚まし、しばらく寝顔を眺めていたようだ。
全身が倦怠感に包まれていた。今が何時なのかも分からない。
ナマエはユーリスに尋ねようとしたが、喉の奥から出たのは、ひどく掠れた弱々しい声だった。眉をひそめる。完全に声が嗄れている。
それに気づいたユーリスが、ベッドサイドの水差しから水を注ぎ、そっと手渡してきた。
「はい、お水」
体を起こすのも一苦労だったが、なんとか頭を持ち上げて、それを受け取る。
ぬるい水だったが、ナマエにとっては極上の甘露にも等しかった。一気に呷ると、カラカラに乾いた喉が潤され、まるで生き返る心地だった。
「もう一杯いる?」
「ん……」
声は少し戻ったが、まだかすれている。もう一杯もらって、ばふりと再び枕に顔を埋めた。
体が鉛のように重く、動く気力も湧かない。
そんなナマエの様子にユーリスは苦笑しながら、そっと彼女の頭に手を置き、優しく髪を梳いた。
「大丈夫?」
「……に、見えるか?」
見えないね、とユーリスが笑った。体力の差なのか、夜更けまで飽く事なく行為に没頭していた少年はケロリとしている。末恐ろしい少年だ、とナマエは内心で毒づく。
「ユーリスは……平気なのか?」
「さすがに、ちょっと腰が痛いかも」
ざまあみろ、と負け惜しみのように呟く。
ふいにユーリスが耳元に唇を寄せてきた。
「君も、昨日……声、すごかったね。そんなに気持ちよかったんだ? でも、あれじゃさすがに下に聞こえてたかもね」
「……っ!」
明らかにからかい混じりの、意地の悪い一言だった。だが、馬鹿正直に反応して耳まで赤くなってしまった顔を、上げる事ができなかった。
確かにあられもなく叫んでいた気がする。だが声を抑える余裕など、どこにもなかったのだ。
そもそも、その余裕を容赦なく奪った張本人が言える台詞ではない気もする。
「誰のせいだよ……」
不機嫌さを隠さずに言うと、さすがにからかいすぎたと思ったのか、ユーリスが少しだけ申し訳なさそうに笑った。
「ごめん、怒らないでよ」
それでも不貞腐れたように枕に突っ伏して黙っていると、ナマエ、と微苦笑の混じった声が、柔らかく彼女の名を呼んだ。
「仕方ないだろ。君がすごく可愛くて……止められなかったんだから」
「ばっ……!」
気恥ずかしげに告げられたその言葉にぎょっとして、ナマエは弾かれたように顔を上げた。
そして、頬を赤らめて恥じらうユーリスと目が合う。
その瞬間、昨夜の記憶が走馬灯のように脳裏を駆け巡り、顔が沸騰しそうなほど熱くなった。
少年も同じことを思い出しているのだろう。うっそりとこちらを見つめるその瞳に、言葉を失う。
互いに無言のまま見つめ合い――、羞恥に耐えきれず、ナマエは再び枕に顔を埋めて悶絶した。
「だから、そういう恥ずかしいことは……口にするな……!」
ごめん、笑いを含んだ声が、どこか嬉しそうに響いた。
ふと足元に目をやると、ベッドマットに敷かれていたはずのシーツが、いつの間にか剥がれて足元で丸まっている。
ナマエは、マットの繊毛に指を滑らせながら、些細な疑問が浮かんで首を傾げた。昨日の行為でずれたのだろうか――いや、まさか。
「ねえ、これ……剥がしたの?」
さりげなく尋ねると、ユーリスはあっさりと答えた。
「シーツ? 濡れてて気持ち悪かったから、取っちゃった。……新しいの、頼んだ方がよかった?」
「……」
予想の斜め上をいく返答に、ナマエは固まった。またしても、自ら地雷を踏みにいった気分だった。
「……いや、いい」
赤くなった頬を手の甲でぐいと拭いながら、か細い声でそう答えた。
そろそろ朝食の時間だったが、疲労はまだ抜けきっていない。
毛布にくるまり、うつらうつらしていると、ユーリスがベッドから起き上がり何やら支度を始めた。まさか、もう帰り支度をはじめているのだろうか。
「ユーリス? もう帰るのか?」
少し焦って声を掛けると、振り返った少年が笑みを寄こした。
「いや、朝食もらってくるだけ。君はまだ寝てなよ。ついでにシーツも新しいの、もらってくるから」
どうやら、早とちりだったらしい。
少年の言葉に小さく頷きながら、彼女はユーリスの背に走るいくつもの赤い線の存在に気づいて、ぼんやりとそれを眺めた。
いや、ただの線じゃない。
――血だ。眠気が吹き飛んだ。
「ユーリス、背中に引っ掻き傷が……。野良猫にでも襲われたの、か――」
慌てて体を起こしてユーリスの背に手を伸ばしかけ、そこで正体に気づいてハッと固まった。
「え?」
上着を拾い上げていたユーリスがきょとんとした顔で振り返る。そしてナマエの勘違いに気づいて一瞬相好を崩した後、含みのある艶やかな笑みを浮かべた。
「覚えてないの? 昨日君がつけたんだろ」
ナマエが固まっている間に、ユーリスは優雅に上着に袖を通し、軽やかな足取りで部屋を出ていった。
戻ってきたユーリスの手には、朝食の乗ったプレートがあった。
紅茶にサンドイッチ、フルーツジュース、チーズに卵。二人で朝食をとり、なぜか治療を拒むユーリスをなだめながら背中の傷を手当てしたあと、ナマエはシャワーを浴びた。
浴室から出て、タオルを巻いたまま新しいシーツの上にごろりと横になる。さらりとしたリネンの感触が肌に心地よく、またしても瞼が重くなっていく。
できることなら、このまま眠ってしまいたい。けれど、そろそろ着替えてここを出る準備をしなければならない。
寝そべりながら、床に放られている服に手を伸ばしたそのとき、ふいに背中にそっと触れる気配がした。
「この痣――」
「な、なに?」
ビクリと肩を震わせて振り返ると、ユーリスがじっと背中を見つめていた。その表情には、どこか物憂げな色が差している。
「ここに、模様みたいな痣があるだろ」
「……背中に? 気づかなかった。そんな痣があったんだな」
「知らなかったの?」と、呆れたように顔を上げるユーリスに、ナマエは少しむっとした。
「背中なんて、自分じゃそうそう見る機会ないだろ」
「それもそうか」
はにかみながら、ユーリスは再び視線を背中へ戻す。あまり熱心に見られると、着替えにくい。ナマエは服を手にしたまま、仕方なくじっとしていた。
「なんか……エルザの手の紋章に似てる」
「へえ?」
意外な言葉に、思わず顔を上げたその瞬間――。
ユーリスが背中に顔を寄せ、そっと唇を押し当てた。
「なっ、何してんだ……!」
びくりと体が跳ねる。
くすぐったさと、ちくりとした微かな痛みが混じる感触。さらに肌に軽く歯を立てられ、思わず身を強張らせた。
「この痣、君がエルザのものみたいで……やだなって」
消えないかな、と呟きながら、爪先で軽く引っかくように痣の輪郭をなぞる。
子供じみた独占欲に、ナマエは呆れてため息をついた。
一度ならぬ二度も肌を重ねたせいだろうか。ユーリスの、ナマエに対する扱いに遠慮がなくなってきている気がする。
――この際だ。こういった不健全な行為はもうこれきりにしようと、今日こそユーリスにはっきりと言わなければ。この色欲に振り回される曖昧な関係が、このままいつまでもズルズルと続くのは絶対に良くない。
「ユーリス」
振り返りざま、彼の頬を両手で挟んでぎゅっと潰す。
ユーリスの顔が不機嫌そうに歪むが、アヒルのように突き出た唇では、いまいち迫力に欠ける。
「にゃにすんのさ」
「私はエルザの物でも、あんたの物でもないぞ」
その言葉に、ユーリスの瞳がわずかに見開かれた――その瞬間。
――ドオンッ!
唐突に、低く重たい爆音が響き、振動で窓がガタガタと揺れた。
「なっ、なに!?」
驚くユーリスをよそに、ナマエはベッドから飛び起き、窓辺へ駆け寄る。窓を開けて外を覗くと、空にはあのガーゴイル船が飛び交っていた。
「グルグ族……!」
隣に並んだユーリスが、驚愕の声を上げる。
再び爆音。
街のあちこちから、逃げ惑う市民の悲鳴が響いた。
「奇襲、か……」
「偵察されてたのかな」
急いで窓を閉め、支度へと取り掛かりながら、ナマエはユーリスの言葉に首を振った。
「でも、それにしては動きが早すぎる。グルグ大陸はまだ遠いし、こっちの移動ルートなんて、向こうに知られてるはずがない」
「じゃあ……こっちの動きを読まれてた?」
「どうやって」
靴紐を結んでいたユーリスが、手を止めて考え込む。
「……密通?」
その可能性は、否定できない。だが、もしそれが本当だとしても、あまり嬉しくない事実だ。
「まあ、考えられるな」
ため息をついて、ナマエはユーリスを促した。今は犯人が誰かなど、考える余裕はない。
「とにかく、急いで支度しよう。早く城に向かわなくちゃ」
カウンターの奥で縮こまっていた店主に支払いを済ませ、ナマエとユーリスは外へと飛び出した。すでに多くの市民が屋内へ避難したのか、通りには人影がほとんどない。グルグの兵の姿も見当たらないが、空からの爆撃音はなおも続いていた。
「街への被害は、あまりないみたいだね」
道なりに走りながら、ユーリスがわずかに安堵の色を滲ませる。だが、安心している暇はなかった。角を曲がると、ルリ城の姿が見えた。
城の上空には無数のグリフォンが飛び交い、城から立ち上る黒煙が青空を汚している。
「ナマエ、あれ見て」
ユーリスの声に、ナマエは頷いた。
「……城が襲撃されてる。急ごう」
城門前の広場には、城から脱出した貴族や騎士たちが混乱の中に立ち尽くしていた。
開け放たれた城門をくぐると、優美だったルリ城は見る影もなく、無残な爪痕が刻まれていた。
だが、奥へ進んでも敵の姿はほとんど見当たらない。あちこちにグルグ兵の死体が転がっていることから、襲撃はすでに収束しつつあるようだった。
途中、負傷したグルグ兵が襲いかかってきたが、それも一撃で退けた。
中庭に出ると、数人の騎士たちが集まっていた。その中には、地面に突っ伏して嗚咽を漏らす者、泣き叫ぶ者の姿もある。騒然とした雰囲気の中に、暗い蔭が落ちていた。
ただならぬ空気に、ナマエは本能的に何かが起きたと察した。
「何があったんだ」
近くで呆然と立ち尽くしていた騎士に声をかけると、彼は震える声で答えた。
「ト、トリスタ将軍が――」
その瞬間、軍事棟の扉が開いた。
反射的に顔を向けると、見知った人物が手を縛られ、騎士に連行されている。
「話を聞いてくれっ! 俺じゃない、絶対に――!」
「黙って足を動かせ重罪人が!」
「――絶対に俺は、トリスタ将軍を殺してなんかいないッ!」
叫んだのは、エルザだった。
「まさか……将軍が殺されたの?」
隣でユーリスが呟いた瞬間、ナマエは駆け出していた。
「エルザ!」
「ナマエ、ユーリス!」
エルザが二人に気づき、縋るような目でこちらを見た。
その姿に、ナマエの中で怒りが爆発する。
なぜエルザが、こんな扱いを受けているのか。
「エルザをどうする気だ!」
騎士に詰め寄ると、ユーリスが慌てて彼女を引き留めた。
「ナマエ!」
「なんだお前、まさかこいつを庇う気か? ならば同罪として、お前も連行するぞ!」
不遜な態度の騎士に、苛立ちはさらに燃え上がる。
「やれるもんなら……!」
「ナマエ、ちょっと落ち着いてよ」
ぐい、と少年に腕を引かれる。邪魔をするな、とユーリスの手を振り払おうとしたが、彼の横顔に宿る静かな怒りに気づき、ナマエは言葉を飲んで場を譲った。
ユーリスが一歩前に出る。
「あんたに一つ聞くけど、エルザがやったって証拠でもあるの? この前みたいに冤罪だったら、ただじゃ済まないよ」
「疑う余地はない。ジル様が、こやつが犯行に及んだところを目撃したのだ」
「ジル……!?」
振り返ると、そこにはジルがいた。中庭の奥から、こちらを見下ろすように立ち、楽しげに微笑んでいる。
「くそ、あいつ……!」
またしても、あの男が。今度こそ締め上げてやろうか、と悪態をついて踏み出しかけたナマエの足を止めたのは、エルザの声だった。
「ナマエ! あんなやつは今はどうでもいい! トリスタ将軍を手にかけた犯人が、まだこの周辺にいるはずだ。頼む――!」
「ぐずぐずするな! さっさと行け!」
騎士に押され、エルザは地下牢へと連行されていくと、その場に残されたナマエの隣で、ユーリスが口を開いた。
「とりあえず、クォークにこのことを知らせないと……。ナマエ?」
ユーリスの言葉は、彼女の耳には届いてなかった。ナマエがじっと見ていたのは、軍事棟への入り口だった。
今は立ち入り禁止となっているらしく、両脇に兵士が立っている。
彼女の耳には、エルザの言葉が繰り返し響いていた。
トリスタ殺しの犯人がまだ周辺をうろついているはずだ。なら、そいつはまだきっと――。
そのとき、軍事棟の扉が再び開き、奥から騎士が一人出てきた。
警備の目が一瞬だけ緩む。
その隙を逃さず、ナマエは駆け出した。
「ナマエ!?」
背後でユーリスの焦った声が響いたが、彼女は止まらなかった。
「おい、待て! 上はまだ立ち入り禁止だ!」
制止の声を背に、ナマエは奥へと駆け抜けた。ちょうど閉まりかけていたリフトの扉に滑り込み、間一髪で乗り込む。扉が閉まると同時に、リフトは自動的に動き出した。
行き先は、どうやら砲台の管制室らしい。
チン、と到着を告げるベルが鳴り、扉が開く。その瞬間、数人の騎士たちがどっと乗り込んできた。
「邪魔だ、どけ!」
「っと……!」
ナマエは慌ててリフトの外へ飛び出した。その傍らを、搬送板を担いだ兵士たちが横切っていく。
「そっと運べ! 慎重にな!」
搬送板の上には、人ほどの大きさの何かが布に包まれていた。布には鮮血が滲んでいて……。
「――後ろからひと突きだったそうだ」
茫然とリフトを見送っていたナマエの背後から、低く落ち着いた声が響いた。
振り返ると、そこには白騎士が佇んでいた。……いや、白銀の鎧は返り血に染まっており、今はその異名は似つかわしくないのかもしれない。彼の足元には、血の跡が広がっていた。
管制室の中央の天井付近には、不思議な形の球体が浮かんでいる。それが何であるのか分からなかったが、今は考える余裕もなかった。
「タシャ」と呼びかけようとして、言葉が喉で止まる。敬愛する師を失ったばかりの彼に、何を言えばいいのか分からなかった。
「心臓を的確に狙った、致命的な一撃だった」
タシャはナマエを見ず、背を向けたまま数歩進む。
「凶器は残されていなかった。犯人は、相当の手練だ」
「……グルグ族の仕業じゃないのか?」
「あのお方が、そこらのグルグ族ごときにやられるわけがない。ましてや、背中を許すなどあり得ない」
その言葉の端々に、トリスタへの深い敬意が滲んでいた。
「ザングルグが乗り込んだ形跡もない以上、これは――味方による……」
ギリ、と歯を噛みしめる音が聞こえた。
「裏切りだ」
シン、と沈黙が落ちる。裏切り、という言葉にナマエは訳もなく動揺し、それを誤魔化すように首を振った。
「エルザは――」
「分かっている。あの男が犯人であるはずがない」
言葉を遮るように、タシャが断言する。
その一言に、ナマエは少しだけ安堵した。
だが次の瞬間、タシャの肩が震えだしたのを見て、目の前の彼への配慮が足りなかった事に気づいて途端に後悔した。
「……あるわけが、ないッ!」
押し殺した声が、震えていた。
「お守りできなかった……」
後悔にまみれた響きだった。
「タシャ……っ」
ナマエはそれ以上居ても立っても居られず、背を向け続ける男へと駆け寄った。ぐいと腕を引くと、タシャが振り返る。
若草色の瞳に、涙は浮かんではいなかった。だが、険しく刻まれた眉間の皺が、彼の苦悶を物語っていた。
腕を引いたはいいものの、ナマエには相変わらず掛ける言葉など思いつかない。ただ、見上げることしかできなかった。
ふいに、タシャがその手を振り払う。
「……ぁ」
驚いて瞬きをする間に、彼は逃げるように視線を逸らし、再び背を向けて奥へと歩き出す。
拒絶されたことに、すぐには気づけなかった。
(なんで……)
ようやくそれを理解したとき、ナマエは茫然としたまま一歩踏み出した時。
じゃり、と靴裏が何かを踏みつける音がした。
「……?」
不思議に思って足元を見てみると、何かの破片を踏んでいた。
しゃがみ込んで拾い上げると、どこかで見覚えのある模様が刻まれていた。目にしたのは、つい最近だ。
「なんだ、これ……」
だが、一体どこで――?
「あ、」
正体を思い出す前に、残念ながら破片は砕けて粉々に散った。一緒に封じられていたのだろう濃い魔力が一瞬発現して、すぐに辺りに霧散した。
「……今のは?」
すぐ隣から声がして、ナマエは驚いて顔を上げた。いつの間にかタシャが隣に膝をつき、手元を覗き込んでいた。
思わず身を引いたそのとき。
奥のリフトが再び到着を告げるベルを鳴らした。扉が開き、そこに立っていたのはユーリスだった。
「ナマエ」
「……ユーリス」
彼はタシャの存在に気づき、わずかに眉をひそめたが、すぐにナマエへと視線を戻した。
「召集がかかった。傭兵は全員集合だって」
その後、集められた傭兵たちは、簡単な尋問を受けただけだった。
武器も一時的に回収されたが、その場で確認され、すぐに返却された。
おそらく、トリスタ殺害に使われた凶器を探すための形式的な手続きだったのだろうが、何もかもがおざなりだった。
すでにエルザが犯人と決めつけられているためだろう。
クォークの指示により、仲間たちはしばらくアリエルの酒場で待機することになった。
襲撃から二日後、トリスタ将軍の葬儀が執り行われた。参列したのは、クォークただ一人。他の仲間たちは、未だにエルザが犯人扱いされている状況を鑑み、参列を自粛した。
酒場には、重苦しい空気が漂っていた。誰もが口を閉ざし、ただ静かに時が過ぎるのを待っていた。
葬儀の間中、冷たい雨が降り続いていた。
刺すような冷たい雨だった。まるで天が偉大な将軍の死を悼んでいるようだ。
一人、宿を抜け出したナマエはけぶる雨の中、遠くから葬儀の列を見つめながら、ぼんやりと思った。
知り合いが死ぬのは妙な気分だった。つい数日前、言葉を交わしたばかりだと思ったのに。そう思うと、やりきれない思いが胸を支配する。
……参列の先頭に、白い影が見えた。
タシャだ。
あのとき、彼に手を振り払われたことが、いまだに胸の奥で小さな棘となって疼いていた。
今まで、彼に拒まれたことなど一度もなかった。なのにどうして、あの時タシャは自らナマエと距離を取ったのだろうという疑問が繰り返し湧き起こる。
(まさか、ユーリスとのことを……?)
だが、昨日の今日でそれを察するとは考えにくい。
きっと、敬愛する師を突然失った彼の心が、まだ追いついていなかったのだろう。
あのとき、彼にできたことは、ただ寄り添うことだけだった。けれど、ナマエはそれを躊躇った。今の自分にそんな資格があるのだろうかと、迷いが生じたのだ。
ナマエは、タシャの痛みを抱きしめることができなかった。そしてタシャもまた、それを望まなかった。
悲しいけれど、それが現実だった。
……そして、もうひとつ。
ナマエには、トリスタ暗殺の犯人に心当たりがあった。けれど、それを口にする勇気がなかった。
あの砕けた破片に刻まれていた複雑な模様を、どこで見たか思い出していたのだ。
あれは、数日前にクォークが怪しげな行商人から買っていた、あの剣の柄の装飾と同じだった。
葬儀から戻ったクォークは、エルザに面会してきたことを報告した。
「ひとまず無事だ。少し憔悴していたがな」
「クォーク、エルザのことどうすんだ?」
ジャッカルの問いに、クォークは不敵に笑った。葬儀帰りの男とは思えない表情だった。
「俺が何も考えてないとでも思ったか? そこらへんは任せておけ」
その頼もしげな言葉に、ジャッカルが苦笑する。
だが、ナマエはふと気づいた。
クォークだけが、トリスタの死に際して、どこか他人事のようだった。その違和感に気づいた者が、果たしてどれほどいただろうか。
翌晩、マナミアが酒場の扉を勢いよく開けて飛び込んできた。驚いて振り返った一同の視線の先に、信じがたい人物が立っていた。
「エルザ……!? それに、カナン……?」
どうやら、カナンの手引きでエルザが脱獄してきたらしい。追っ手を振り切ってここまで逃げてきたようで、二人とも息を切らしていた。
「まったく……大人しくしておけと言ったのに」
クォークが呆れたようにため息をつく。
「ごめんなさい。私が連れ出したの」
「カナンが? 意外とやるね、お姫様」
カナンのしおらしい謝罪に、ナマエは呆気に取られた。危険も顧みず、よくやるお姫様だ。
「だが、いつまでも隠れてはいられないぞ」
「……なぁ、もうあんな城、みんなで飛び出しちまおうぜ?」
セイレンが投げやりに言えば、クォークが信じられないとでも言いたげに声を荒げた。
「何を言ってるんだ! せっかくまともな身分になれたんだぞ?」
だが、仲間たちの表情は、どこか冷めていた。その空気に、クォークもようやく気づいたようだった。
「そりゃそうだけどよ……。でも今回の件で、あたしはあの城の連中には、ホトホト愛想が尽きたね。ついこないだまでエルザに媚びてた連中も、すぐにまた手のひら返しやがる」
「他の皆は、どう思ってるんだ?」
苛立ちを隠さずに問うクォークに、ジャッカルが言葉を濁す。
「まぁ、そうだな……。どっちもどっち、というか」
その空気を切るように、ナマエが口を開いた。
「水を差すようで悪いけど、今すぐ逃げ出すのは現実的じゃない。この島の中じゃ、隠れる場所も限られてるし……それに、今は海上を移動中だ。船を奪って逃げるのも、簡単じゃない」
その言葉に、エルザが頷いた。
「俺も、今はまだ逃げたくない。トリスタ将軍を殺した真犯人を、このままにしておけないし……それに、この力――異邦のものが何なのか、突き止めたい」
「私、将軍とそのことについて調べていましたの」
「へえ、古文書とにらめっこしてたのは、そういうこと」
マナミアの言葉に興味を引かれたユーリスが口を挟む。
セイレンが肩をすくめる。どうやら、状況は彼女に不利なようだった。観念したように、ため息をつく。
「分かったよ。だけど、犯人の心当たりはあんのか? このままだと、見つかってまた牢屋に逆戻りだぞ」
「――おそらく、犯人はジルだろう」
クォークが、まるであらかじめ用意された台詞のように淀みなく告げた。
「あいつはエルザに恨みを抱いていたし、トリスタ将軍のことも邪魔に思っていたはずだ」
その言葉に、ナマエは思わずクォークを振り返った。
彼の表情には、後ろめたさの欠片もなかった。
「だけど、どうやってそれを証明するのさ?」
当然の疑問に、クォークは落ち着いたまま頷いた。
「証拠が必要だ。まごうことのない、決定的な証拠が」
「ジルが犯人だったとして、それをどうやって見つけますの?」
マナミアの問いに、クォークはふっと笑った。
「まずは奴の部屋に潜入して、それを探そう」
潜入は、クォークとエルザの二人で行うらしい。
「……手伝おうか? 二人で大丈夫?」
ナマエの申し出に、クォークは口の端を吊り上げて首を振った。
「いらん。一時間もあれば片がつくだろう」
その自信は、一体どこから来るのか。
ナマエは、夜の街へと消えていく二人の背を見送りながら、ぼんやりとあの剣の柄のことを考えていた。
クォークの言ったとおり、結局のところジル・ランバルトがグルグ族と内通していたらしい。
潜入の結果、エルザの容疑は晴れ、代わりにジルが牢獄へと収監された。
エルザは再び救世主の座に復帰したというわけだ。それが昨日の、ほんの一時間の間で起こった出来事だ。
「随分と、用意周到なんだな」
ナマエは、酒場のカウンターでコーヒーを啜るクォークに向かって、静かに言った。
他の仲間たちは席を外しており、店内には二人きりだった。
クォークは一瞬だけ手を止め、「何のことだ」としらを切った。
「まったく都合のいい話だよね。伯爵はうるさい奴が消えて清々しただろうし、こっちはエルザの容疑が晴れて万々歳。おまけに、カナンの婚約も白紙になった」
そこまで言い切ると、さすがのクォークもカップを置き、ナマエを見た。鈍い金色の瞳に、わずかな警戒の色が宿っている。
エルザの話によれば、ジルの部屋には内通の証拠となる手紙と、血のついた剣が無造作に置かれていたという。そこへ、まるで仕組まれたようなタイミングで伯爵とジルが現れ、罪が明るみに出た――。
あまりにも出来すぎた筋書きだった。証拠の品は、おそらく伯爵の手の者が事前に用意したものだろう。ジルに罪を着せるために。
そして、それを伯爵に進言したのは、きっとクォークだ。
伯爵にとって、ジルはもう利用価値がない役目の終えた舞台役者だ。だってエルザという主役がいるのだから。
……そう思えば、彼も被害者なのだが。まあ、今までの行いの報い、と考えるべきか。彼とてまがりなりにも貴族なのだし、断首されるまでには至らないだろう。
だが、どうしても腑に落ちないことがあった。
「……何が言いたい?」
クォークが低く問う。
「クォーク。将軍の暗殺――伯爵の依頼だったのか?」
直球の問いに、クォークの表情が一瞬で変わった。目を見開き、周囲を落ち着きなく見渡す。そして、声を潜めて返した。
「……なぜ、俺に聞く」
「手品の剣の柄。破片が、現場に落ちてた」
その言葉に、クォークの金色の瞳が見開かれる。その奥に、うっすらと敵意が浮かんだのを、ナマエは見逃さなかった。
「あれ、魔導武器だったんだろ。一度きりしか使えないタイプの。証拠が残らないようにな」
クォークの額に、じわりと汗が滲む。彼は動揺を隠しきれず、ナマエに詰め寄った。
「……ナマエ。このことは――」
「他言無用、だろ。分かってる。誰にも言うつもりはない」
「……誓えるか?」
「うん」
迷いなく頷くと、クォークの瞳に宿っていた敵意が、ようやく引いた。肩から力が抜けるのが、目に見えて分かった。
……タシャのことを思えば、頷くのが後ろめたかったが、少なくともクォークの事情も知らずに糾弾することは出来なかった。彼はリーダーとして、あまりにも多くを背負っている。そしてナマエは、そんな彼に恩義を感じていた。たとえ後々真実を知って、クォークの行いが罪に問われるべきものだったとしても、今この瞬間、彼の味方でいることは、偽善ではないと信じた。
だが残念ながら、これはまだ本題ではない。胸の奥に、どうしても拭えない疑念が残っていた。
「――でも、一つだけ、分からないことがある」
静かに切り出すと、クォークが訝しげに顔を上げた。
「将軍が死んで、伯爵が得をする理由が理解できないんだ。城を破壊してまで、暗殺の機会を作るとは思えないし……そもそも、将軍を殺す必要が本当にあったのか?」
クォークの金色の瞳が、ふいに鈍くけぶった。そのまま、しばし沈黙が落ちる。
「……」
答える気はないのか。
そう思いかけたとき、彼がぽつりと口を開いた。
「……あの男は、伯爵が知ってほしくない“ルリ城の秘密”を探っていたらしい」
「秘密……?」
ナマエは息を呑んだ。
「それは――」
「それ以上は言えない。依頼に関わることだ」
釘を刺されてしまえば、それ以上は踏み込めない。ぐっと言葉を飲み込み、ナマエは黙って頷いた。
「分かった」
クォークは深くため息をつき、椅子の背にもたれた。その姿は、どこか急に老け込んだように見えた。
この男は、仲間たちのために、何度も危うい綱を渡ってきたのだろう。その代償が、少しずつ彼の中に積もっているのかもしれない。
余計なことだと思いながらも、ナマエは口を開いた。
「クォーク……深みに嵌らないように、気をつけて」
「……心配無用だ。お前も、これ以上余計な詮索はするなよ」
ナマエの心配は軽くあしらわれ、クォークは席を立った。その背を見送りながら、ナマエの胸に、ふと小さな疑問が浮かぶ。
――将軍の暗殺は、本当に伯爵の依頼だったのだろうか。
2026/2/21改稿